ゲーム
翌朝、由一は5時半に目を覚まし、パソコンに向かった。佳苗とのメールのやり取りを始めて今日で2週間になるが、由一は最近これがだんだんと好きになり始めていた。最初の頃は暗号の面倒さと佳苗からの返事の爽やかさに、少しうんざりしていたのだが、ここ3,4回ほどの会話では、由一も思わず笑ってしまうことが多くなってきていた。佳苗のユーモアレベルが徐々に高くなってきていたのだ。これは由一の予想通り、有益な関係を築くことに成功したと言えるだろう。お笑い理論についても奇妙な進展があった。「ボケ」と「ツッコミ」以外にも名前をつけて定義したことは、思ったよりも効果があった。今まで勘だけを頼りに組み立てていたものを、理屈的に発展させていけるようになったのだ。これは大きな進歩だった。結果的に定義を確定できたワラ技は以下の18個。まず基本技として、「ワープ」「外し」「不意打ち」「言い換え」「繰り返し」「強調」「重ね」「未知との遭遇」「知らぬが仏」の9個。応用技として「特徴」「スケール操作」「逆」「ボケとツッコミ」「チェケラッチョ」「間隔」の6個。上級技能技として「擬態」「逮捕(暴挙)」「極度」の3個。他にも沢山の候補があったが、これらの組み合わせであったり、類似点が多いなどの理由により、可能な限り削除してコンパクトにまとめることにした。笑いを生むセオリーも完成させることができた。まず、なんの変哲もない普通の状況を思い浮かべる。以下はその例である。おばさんの訪問、起立礼着席の流れ、部長とトイレで遭遇、校長のゴルフコンペ、コンビニの前の不良の群れ、郵便配達と印鑑、クーラーの故障、三者連続三振、などなど。これ等は無限に作成することが可能であり、誰にでもできる簡単な想像作業である。それを一つ想定し、そこに18の定義の中から適当に選んだ3〜4個の技法を当てはめ、笑えると判断できたものを選別し、それをいくつか繋げて1〜∞連鎖の笑い話を作成するのである。しかしどちらにしても、笑いに関するセンスは必要だった。最低限、何が面白いのかを選べなければ、いくらなんでも人を笑わせるのは不可能なのだ。残念ながら、ユーモア要素選別理論については、由一にも皆目見当がつかなかった。あくまでもセンスのある人においてのユーモア作成理論なのである。人が何故笑うのか、その根本的理由が解明されれば話は別だが、現状それは不可能だった。
【起きてる?】
5時50分。少し早かったが、由一はパソコンにそう打ち込んでみた。すると嬉しいことに、返事はすぐに返ってきた。
【いま起きたとこ。今日は何について話す?】
【何でもいいよ】
【じゃあ、しばらく普通の雑談する?】
【いいよ。ウォーミングアップだな】
【明後日からテストよね。勉強はどうなの】
【さあ。いつも通りだけど。俺は平均70点くらいだと思うよ。君は平均100点くらいだろ?】
【まあね。でも、由一君は勉強に本気じゃないしね。私は限界ギリギリだけど】
【市長でも目指してるのか?】
【まだ進路は決めてないけど。市長は無いと思う】
【じゃあ、弁護士】
【なれればいいけどね】
由一は、本当に全く無意味な雑談をしているなぁ、と思った。しかし同時に、これもそれほど悪いものではないなと、しみじみ思っている自分にも気が付いた。こんな早朝から同じクラスの女子と会話をするなんて、一ヶ月前の由一から見れば、ほとんど奇跡に近い状態だった。それが今、現実に平然と起こっているのである。このギャップ感が、由一を無意識のうちに楽しませているのだった。
【じゃあ、そろそろ君を笑わせるよ。床の準備はいいかい?】
由一の言葉に、佳苗は少しぎくりとした。佳苗は由一との会話で、今までに計4回、ベッドの上を転げ回った記録があった。特に二度目のローリング時には、勢い余ってベッドから落ち、気が付くと床の上を3メートルも転がっていた。当然のことながら、佳苗は素でとぼけることにした。
【床の準備? 意味わかんないけど、笑わせてくれるのなら何でもいいわ。準備OKよ】
佳苗はそう打ち、一応床の上に尖った物がないかどうかだけ確認した。そして、ベッドの隅に瑠璃の幸せそうな寝顔を発見して、少しドキリとした。ここ5分間ほど、さっきまで一緒に寝ていた瑠璃の存在を完全に忘れていたのだ。しかし、これではベッドの上で転がることはできそうにない。佳苗は仕方なく、クッションと枕を集めて床の上に並べた。
由一は両手の指をパキパキと鳴らし、昨晩バスタブに浸かりながら考えた笑い話を流れるような速さで一気に打った。
【『痛い』という言葉の持つもう一つの意味は、とても一言では言い表せない。この言葉は基本的に、Aさんの心理的苦痛をAさん自身が気付く前に、第三者が先に(あるいは同時に)認知してしまう不幸な場合に限り発動する強力な心理描写である。第三者が先に気付いてしまった場合は、そのままAさんに気付かれないようにそっとしておけば、大惨事に至ることはない。しかし問題は同時に気付いてしまった場合(自ら話し、話し終わったと同時に相手の表情を見て気付くケースが多い)である。これは二人で無理やり笑う余裕があればまだ良いが、そうでない場合、非常に精神的に修羅場となる。まずは死の沈黙がじんわりと広がる。その後、誰かが咳払いをする。この手の問題には慰めの言葉が全く存在しない場合が多いので、不用意な発言は禁物である。突然立ち上がって二人で社交ダンスを踊りながら何もかも忘れるのが最高の形ではあるが、並の神経で普通それはムリである。ここでは死の沈黙の間に、さり気なくボケておくことが簡単で最良かと思われる。手に持っているものをポトリと床に落としたり、一時的に記憶喪失になったフリをしたり、「よっ」と言って側転をしたり。次に有効なのは、痛みが走った瞬間に、間髪入れず別なトラブルを引き起こし、強制的に話題を変える方法である。お茶を肘に当ててこぼしたり、くしゃみを連発したり、いきなり転んだり、用事を思い出したり、突然の頭痛に襲われたり・・・・(後略)】
文章を打ち終わったとき、由一は奇妙な異変に気が付いた。どうしたことか、ぜんぜん笑いが込み上げてこないのだ。昨日はこのネタによって、由一は危うくバスタブの中で溺れてしまうところだった。思いついた直後には、確かにそれほど面白く感じたのだ。しかし、翌朝になってみると、まるで大した事のない、単なる「痛み」の解説文に思えてくるのだった。完成した文章を2回読み返してみても全く笑うことができず、由一はシラけた気分のままだった。なぜ昨日はあんなにも馬鹿みたいに面白く感じたのだろうか。お風呂に入っていたから・・つまり心拍数が高いと笑いやすいのだろうか? 由一は疑問に思いながらも、これ以上佳苗を待たす訳にもいかず、仕方なくエンターキーを押した。
「そう来たか」
佳苗はシリアスにそう呟き、クッションの上に飛び込んだ。
最近の佳苗は少し変だった。由一の繰り出す文章全てが、いや、もうそれどころか由一の存在そのものが佳苗の笑いのツボとなりつつあったのだ。2日前の夕食時にも、佳苗は危うく何も知らない両親の目の前で大爆笑してしまうところだった。原因はMHK放送局のとあるアナウンサーの声が、由一と瓜二つだったということだ。佳苗は味噌汁をすすりながら、どこかで聞いたことのある声だなと思って、何気なくニュースを聴いていた。口に含んだ味噌汁が喉を通過しかけたとき、佳苗の脳裏に突然コマイヌとシャボン玉がパッと浮かび、「和尚さんの家から木魚が飛んでくる可能性も完全には否定できないだろう?」という台詞が、由一の後頭部めがけて木魚をボレーキックする和尚さんのイメージと共に、アナウンサーの声と重なって炸裂した。佳苗は目を見開き、ぎりぎり鼻からの逆噴射は防いだものの、味噌汁の一筋が水鉄砲のような勢いで佳苗の唇の端から発射され、隣で夕刊を読みながら食事中だった物静かな父、義之(48歳、現役プログラマー)の湯呑みの中にジャストミートした。義之はその時、眼鏡が曇っていたので気付かなかったが、佳苗はそれから冷や汗をかきながら食事を続けた。アナウンサーはその後15分以上にわたって延々と喋り続け、佳苗を冗談抜きで真剣に苦しめた。
「あっはっは、あー苦しい・・・あら?」
30秒ほど笑い続けてふと顔を上げると、瑠璃が不安そうな表情で、床の上の佳苗をベッドの上からじっと見下ろしていた。
「何? 何が起きたの? ・・大丈夫?」
佳苗は驚いて飛び起きた。いつもは寝起きの悪いはずの瑠璃(足を持って床の上を引きずり回してもなかなか起きない)が、今日は完全にシャキッと目覚めていた。まるでエクソシストを見るような目で佳苗を見つめている。それもそのはずだ。瑠璃にとっての佳苗とは、子供の頃からずっと、明るくて、それでいて上品でクールで爽やかな才女だったのだ。こんな床の上で理由も無くのたうちまわれる汚れキャラではないはずなのだ。
「なんでもないわ。ちょっと、両足を同時につっちゃって。もう直ったわ。あは」
佳苗はそう言って、醜態をさらしてしまった恥ずかしさをなるべく考えないようにしながら、ストンと椅子の上に座りなおした。瑠璃はまだ不安そうな目で佳苗を見つめている。
「リアクション、おかしくない? ・・普通、足つって笑うかな?」
「えええ、もちろんよ。私は笑うわ。ほら、すごい痛みのときって、笑うしかないでしょ?」
「ふうん。まあいいけど。今何時?」
「6時ちょうどよ。起きる?」
「うん。シャワー使うよ?」
「いいよ。また、出しっぱなしにしないでね」
「ふぁーい」
瑠璃は目をこすりながら部屋を出て行った。
佳苗はドキドキしながら、瑠璃が部屋から完全に遠ざかるのを待った。・・2階の廊下を歩く音・・階段を降りていく音・・水が流れる音に続いてトイレのドアが開く音・・「うおわっ」佳苗の父、義之の驚きの声・・「あ、おはようございます」瑠璃の冷静な声・・そう言えば瑠璃は下着で寝ていた。(ちなみに瑠璃はFカップだった)・・さらに一階の廊下を歩く音・・洗面所のドアが開く音・・お風呂のドアが開いた音。佳苗はホッとため息をつき、ディスプレイに【まあまあね】と打った。
佳苗からの返事を見、由一はやはり、あまり露骨に笑わせようとしてはいけないのだと、少し反省した。すっかり忘れていたが、佳苗は「さりげなさ」に対して弱いのだ。がんばって本丸に向けて大砲を撃ち込むよりも、風上から焼き鳥の煙か何かで燻し出すほうが断然効果的なのだ。
【笑い話にしては少し内容が複雑すぎたかな。これじゃあ笑えないか。まだまだ俺の表現力も未熟だな。今の文に対して何か改良点とかあるかな?】
佳苗は考えた。これは非常に難しい質問だった。今の佳苗は極端な話、由一が目の前を通過するだけで面白く感じてしまうのだ。まずはこの先入観をどうにかすることから始めなければならなかった。佳苗は全身系を集中し、由一を客観的に見れるよう思考を切り替えた。・・・通由一、16歳、クラスメイト、知性的、読書家、容姿なかなか、身長175程度、黒髪、コンタクトレンズ、埃アレルギー・・・この調子だ。つまり余計な感傷を一時的に切り捨てればよいのだ。佳苗は先ほどの文章をもう一度読み直し、感情を一切込めずに理性的に分析してみることにした。しかし、笑ってしまった文章に対してダメ出しをするというのは、やはり骨が折れる作業だった。
【そうね。あえて言うなら、これは文章にすべきではないと思う。イメージで、あるいは映像で、最低でも身振り手振りでリズム良く伝えないと、面白さは半減すると思うわ。人の感情的な表情や仕草ってすごく複雑だから、想像だけでは限度があるのよね。由一君レベルならはっきり見えるんだろうけど、私にはできないわ】
これによって、佳苗は由一を前にしても笑わないでいられる思考法の開発に成功した。これで由一が普通にしている限りは、例え二人で向かい合って食事をしていようが、ひとまず安心だった。
【要するにジャンルの選択ミスか。そう言われてみればそうだな。よく気付いたなあ。前から思ってたけど、君って頭良いんだな】
由一はそう言っていきなり佳苗を褒めた。佳苗の頬に少し赤みが射した。
【ありがと。じゃあこのあたりで、ランダムハゲでもする?】
ランダムハゲとは、由一が3日前に考案した会話ゲームの名称である。これは基礎概念として「特徴」「ワープ」「冷静」「強調」「チェケラッチョ」の5つを複合的に駆使し、「職業」を題材として、上級技能技である「極度」を発生させるのが目的の、イメージ系の遊びである。つまり一言で言うと、職種と職場を入れ替え、そこから上質の笑いを生み出すのである。これは少しでも想像力があれば楽しめる、お手軽な遊びだった。例えば、バスケット選手の能力を(法廷)にナビゲートしたとすると、まずは静粛な法廷を思い浮かべてみる。そこに響くドリブルの音。そこでおもむろに、背広にネクタイでビシッとキメた弁護士がボールに『異議あり』とマジックでスラスラ書き、書類に目を通している裁判長の頭に向かって、綺麗な弧を描くスリーポイントシュートを放ったり、永遠に黙秘を続けるいまいましい被告の脳天に、背後からそっと忍び寄って、力の限りダンクシュートをかましたりするところを、自由に想像するのである。由一は少し考え、返事を打った。
【いいよ。じゃあ、ハスラー、歯科医、みなまで読むか】
佳苗は読んだ瞬間に吹き出してしまった。大体どういうものか100%想像できたのだ。おそらく患者の虫歯を2メートルのキューで突いて飛ばすのだろう。狙いを定めている格好が大げさなのにもかかわらず、コン、と意外に地味な感じで虫歯は取れるのだ。ツッコミ所満載のイメージが、佳苗の脳裏を駆け巡った。
【みなまで結構】
面白かった場合には、これにてこの話題は終了となる。提案文の意図が分かりにくい場合や笑えなかった場合のみ、「ハゲ?」と答え、詳しい説明を要求するのである。由一と佳苗はゲームを続けた。
【和尚さん、ドラマー、みなまで読むか】
【みなまで結構】
【野球の監督、オーケストラの指揮者、みなまで読むか】
【みなまで結構】
【波のトンネルをくぐりぬけているサーファー、電話オペレーター、みなまで読むか】
【みなまで結構】
【鎧兜、パンダの着ぐるみ、みなまで読むか】
【みなまで結構】
【バタフライナイフアクション、メガネ、皆まで読むか?】
【みなまで結構】
【ホッピング、餅つき、みなまで読むか】
【みなまで結構】
【枕、焼け石、みなまで読むか】
【ハゲ?】
【焼け石に枕カバーをかぶせて、お坊さんの布団の上にそっと置いておく図。OK?】
【イエッサー】
【ウエディングケーキ、だるま落とし、みなまで読むか】
【みなまで結構】
【セラピスト、受験生、みなまで読むか】
【みなまで結構】
【青少年コーラス団、暴走族、みなまで読むか】
【みなまで結構】
【シンクロナイズドスイミング、釣り堀、みなまで読むか】
【みなまで結構】
【流鏑馬、新聞配達、みなまで読むか】
【みなまで結構】
【体操のお兄さん、組長、みなまで読むか】
【みなまで結構】
【野球のボール、リンゴ、みなまで読むか】
【ハゲ?】
【野球のボールを内緒でリンゴに変えておく。バッターが打った瞬間、粉々に拡散して、後ろのキャッチャーと審判に降り注ぐ。OK?】
【イエッサー】
【卒業式の最後に全員で天高く放り投げる帽子、メガネ、みなまで読むか】
【みなまで結構】
【卒業式の最後に全員で天高く放り投げる帽子、入れ歯、みなまで読むか】
【みなまで結構】
【卒業式の最後に全員で天高く放り投げる帽子、カツラ、みなまで読むか】
佳苗は笑いが止まらなかった。今でもう2分以上も連続で笑い続けている。これは新記録だった。明日は顎と腹筋が筋肉痛になるだろう。テスト前日ということで、明日のチャットはまた今度に回してもらおうと、佳苗はベッドの上を転がりながらそう思った。
由一のほうは、ランダムハゲでの会話を繰り返すうちに、自分で考えた【みなまで〜?】の掛け声が、徐々に不快になってきていた。はっきり言って、これは必要なかっただろう。いちいちうるさいし、面倒だし、何より耳につく。ハゲ?とかイエッサーという返事も、癇に障るものがあった。だったら最初からするなと言われそうだが、仕方が無かった。だってあのときはテンションが高かったのだから。
【そろそろ掛け声はやめよう。この形式的なやり取りもね。それに詳細な状況説明文を作るほうが面白いかもしれない。表現力の訓練にもなるし。代わりに採点するのはどうかな? 100点満点で】
【わかった。いいよ。じゃあ、次は私が提案分を書くね】
【ああ。別に韻を踏まなくていいから、ごく普通の文章で頼むよ。まあ明らかにイメージできるものは、数式か何かで表現してもいいけど】
佳苗は昨日、瑠璃に物理を教えながら思いついたネタを使うことにした。はたして由一は笑ってくれるのだろうかと、少し心配しながら。
【天気予報、フィギア】
「おっと」
佳苗はデリートキーを押した。普通の文章で書くのだった。
佳苗はしばらく考え、どうやら、これは前よりも難易度が少々上がったようだと思った。ユーモアセンスに加え、文章力、演出力等も問われてくるのだ。佳苗は何度か訂正しながら文を打ち、約3分後、ドキドキしながらエンターキーを押した。
【特殊な天気予報を紹介します。まず、スケートリンクの上に日本地図が描かれていて、それを真上から撮影している。そこに背広を着たフィギュアスケートの選手が一人滑ってきて、それが予報士なんだけど、それが沖縄から北海道まで、順番に滑って行くの。くもりの地域では一回転ジャンプ。雨の地域では2回転ジャンプ。寒冷前線とかは、4人くらいが横に手を繋いで並んで滑っていく。台風のときには五人くらいで暴れまわる。もちろん、解説しながら飛びます。回ります。リズム良くね】
由一は佳苗の文章を見てニヤリとした。これをゼロから創ったのだとしたら、まあ上出来な方なのだろう。由一はこのランダムハゲの文章を考えるときは、職業マニアの両親の部屋から拝借してきた「世界職業大図鑑・・・古今東西、全世界の職業とその苦労を網羅する汗と涙の感動巨編」(厚さ8センチ、重量3キロ、定価10万円、全8巻)をペラペラめくりながら参考にしていたのだ。いくら由一でも、ありとあらゆる職業を頭の中で組み替えながら、同時に選別することはできなかった。しかもチャット中ともなれば、30秒以内に返信しなければならないのだ。あのキテレツ大百科を使って事前に組み合わせを考えておかなければ、そんな芸当はとても不可能だった。
【まあまあだね。30点かな。ちなみに俺を笑わせるには、最低80点以上は必要だよ】
由一からの返事を見て、佳苗は顔から火が出そうになった。満員の球場でホームランを予告しておきながら、間違えて振り逃げをしてしまった気分だった。しかし由一にこう言われた後で、もう一度自分の文章を見てみると、不思議なことに、さほど面白くない文章だということがはっきりとわかった。同時に、佳苗は悟った。ギャグを思いついた喜びで、少し自分の作品を過大評価していたのだ。これからはもう少し冷静に客観的に完成文を見直さなければならない。佳苗は右手を強く握り、窓から空を見上げた(少し曇っていた)。そう、これは真剣な一種のスポーツなのだ。自己満足だけではなく、結果を出さなければならないのだ。たとえ不様に思いっきり転んだとしても、恥ずかしがっている場合ではないのだ。佳苗は当分の間、自分のユーモアセンスを磨くことに専念しようと決心した。
【やっぱり、人を笑わせるって難しいね。しばらく由一君の技術を見ててもいいかな?】
佳苗からの返事を見、由一は佳苗の思考をだいたい推測した。そして、何となく適切だと思える提案をすることにした。
【君との会話では、何回か笑わされたことがあるんだけどな。4回くらい。もしかして、俺がいつ笑ったのか知りたくないかな?】
佳苗は驚いた。そして反射的に、一回目のチャットのときに作ったピエール物語を思い出した。あれは実を言うと、佳苗の渾身の力作だったのだ。佳苗はあの文章を作るのに、夜中に一人で2時間も考え続けていた。
【うん。ぜひ聞きたい】
【例えば、君が中学1年のときに田中瑠璃と一緒にしたっていう、合格発表掲示板めぐりの旅とか、君が定義してまとめてくれた基本悪戯技7編「入れ替え」「移動」「接着」「混合」「統一」「半永久的ミクロの攻撃」「消失」とか、他には君の返事が滑稽だったり、真面目に考えているところが妙に面白く感じたこともある。君は頭がいいから、その気になれば、きっと最高の天然キャラになれると思うよ】
天然キャラ・・
佳苗は体当たりで笑いを取ろうとしている将来の自分を想像し、思わず身震いした。佳苗は別に、華やかで非建設的な芸能人のような職業を目指している訳ではないのだ。もっと日常的な、例えばビジネスや友達との会話のときなどに、アクセントとなるウィットのセンスが欲しいだけだったのだ。しかも、その内容は極めて知的で、クールなものが理想だった。
【知的な天然キャラってムリかな?】
佳苗は苦笑いをしながら無理な注文をしてみた。しかし由一はしばらく考え、佳苗が思わず感心するほどの良いアドバイスを打ち返した。
【天然ってのは一言でいうと、笑わせるつもりじゃないのに笑わせてしまう、そういう不思議な性質を持つ人々を指す言葉だ。つまり、この条件に当てはめると、知的な天然キャラと言えるのは、「笑いに対して無関心を装いながら、知性的な発言で相手を笑いに陥れる技術に長けた人」ということだから、用意するのはポーカーフェイスと、たったの一言でターゲットを笑わせるユーモアセンス、頭の回転に、ある程度の社会的地位、クールな体型と顔つき(別に無くても可)、コミュニケーション力だ。まあ、君ならなれるんじゃないかな】
これを見て佳苗は感激した。これこそ、佳苗が漠然と目指していた未来の自分の具体的な姿だったのだ。
【これよ、まさにこれ。私はこれになるの。心の中で爆笑しながらポーカーフェイスっていうのが最高なのよ。じゃあ、笑いを我慢する訓練も必要になるよね? 私って、ほんの少し笑い上戸な方なんだけど、ポーカーフェイスって、どうやって習得するのか知らない?】
由一は考えてみたが、さっぱり分からなかった。
【さあ。知らない。誰か全く笑わない人にインタビューしてみたら?】
【そんな都合のいい人いないでしょ】
【まあね。でも、ヒントは必ずどこかに転がっているから、気長に探せば?】
由一からの返事を見たとき、佳苗は一階の方から、今朝2度目となる父の叫び声を聞いた。十中八九、瑠璃が裸でリビングを横切り、廊下を歩いて佳苗の部屋に向かっているのだ。しばらくして階段を裸足で上る音が聞こえてき、佳苗は本日最速のスピードでキーボードを叩き、チャットを終わらせることにした。
【そうね。今度、ネットで調べてみる。じゃあ、今日はもう終わりにする?】
佳苗にそう言われ、由一は時計を見た。もう6時50分だった。そろそろ潮時だ。
【そうだな。じゃあ、また】
【それから、明日はテスト前日だから、また今度に回さない?】
【いいよ、別に】
【じゃ、またね】
二人はパソコンを切り、急いで支度をし、学校へ急いだ。
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