覚醒
放課後の図書室で一人、佳苗は今まで見ていた分厚い広辞苑を閉じ、たったいま暗記した文章を小さな声で繰り返した。
「仲間・・共に事をする人。同じ仕事をする人。また、その集まり」
一息ついてから、佳苗は確信した。このようなものは真の意味ではない、と。
「・・不十分にもほどがあるわね」
佳苗は本を元の場所に戻しながら、『仲間』について考えてみることにした。佳苗には沢山の友達がいた。アドレス帳には常に100人以上の名前がある。誕生日には、みんなでパーティーもする。喧嘩はしても、本当に嫌いになったりはしない。しかし、その中の80%の関係は、高校卒業と同時に終わるのだろう。5年後、10年後、幼馴染の瑠璃とは、あるいは一生の友達になれるのかもしれない。でも、エミ、恭子、哀・・彼女たちとは、将来の共通点などほとんど無い。途切れてしまう可能性のほうが、遥かに高いだろう・・。アドレス帳から名前が消えることは無いかもしれないが、果たして、連絡は続くのだろうか? ・・いや、たぶん、続かない。小学校の頃の親友・・番号は知っているけれど、もう5年はかけていない。それどころか、今まで思い返すことさえ無かった。
「由一君とは切れない。共同作業が続く限り・・。切りたくない。・・ううん、続けてみせる。ずーっと・・」
佳苗がそう呟いた瞬間、図書室のドアが開き、一人の猫背の生徒が欠伸をしながら入ってきて、佳苗の前に座った。
「あー、腕がしびれた。あの生活指導のヒマ人どもめ。塾の学生証くらい偽造しておけばよかったよ」
由一は今から6日前の放課後、喫茶店で知恵の輪を解きながら佳苗を待っている間に、検挙率5%未満の生活指導に見事に捕まり、それから5日間かけて、たった今ようやく古典の教科書全てを写し終えたところだった。
「で、なんだっけ? ・・ああ、次の・・17個目の修正する言葉を選ぶんだっけ。決まった?」
由一は右手を振り回しながらそう言って、佳苗を見た。
「うん、一応。・・『仲間』なんてどうかな?」
「仲間?」
「そう」
「ふーん。・・辞書には何て?」
佳苗はさっきの広辞苑の内容を繰り返した。
「そうか。この上なく抽象的だな。じゃあ、具体化修正か。・・すぐに終わりそうだな。もちろん、エビの仲間とか、ハ虫類の仲間とかってのは、今は関係ないよな? だよね。OK」
由一はそう言って空中を見つめた。これは由一が考えに入ったサインである。佳苗は背中の窓から射す夕日の中、ゆっくりと流れる時間に身を任せながら、
由一の出す答えを待った。しばらくして由一の視線のピントが元に戻った。
「まず、一時性仲間と永続性仲間とに分けられる。仲間と呼べる条件は、効率的に考えて、同じ目的を持っていること、共に協力すること、お互いに認め合って信頼し合うことの以上3つ。一時的か永続的かは、掲げる目標次第だ。一番重要なのはこの『共通目的』だな。目的がその仲間の絆も質も価値も全てを決めてしまう。まあ、目的が仲間を集めて、目的が仲間同士の関係を決定して、目的が行動を統一するんだから、当然だけどね。友達が欲しいという目的、目的を探すという目的、金を稼ぐという目的、犯罪を隠すという目的、色々あるけどね」
「じゃあ私達は仲間と言える?」
「ああ」
「じゃあ、二人を繋げているのはどんな目的なの?」
「うーん、なんだろうな・・・最初は暇つぶしから始まって、今はなんか、ロープレのパーティーみたいな感じだけど、とりあえず、言葉の修正に対して二人とも興味があるからじゃないのかな。そして、他にこんな事に興味を示す奴がいないってコトもね。重要な要素だと思うよ」
「なるほど・・・」佳苗は頷いた。
由一の目は、「それがどうかしたの?」と言っていた。
「・・・ドラマの中以外では、恋人同士には期限なんて付けられない。今から2ヶ月間付き合おうとか、99%、上手くいきっこない。でも、仲間はそうじゃない。来年の3月まで一緒に行動しよう。ミッション完了まで一緒にいよう・・・全然OKだ。理性的な関係だからだ。いや、正確には・・理性を保つから、か。理性が揺らぐような行動を取らないということが暗黙の了解なんだ。何か異論ある?」
「無い」
佳苗は笑顔できっぱりと言った。
「恋人同士には出来ない事も、ついでにやっちゃう?」
半分笑顔を残したまま、佳苗は目をそらし、さり気なくサラッと言った。
「仲間でいる期限のこと? ああ、別にいいけど。・・じゃあ・・君が決めなよ。俺は何でも良いから。一昨日までにする?」
佳苗は心の中でガッツポーズをした。
「じゃあ、私たちのどちらかが死ぬまでは?」
「別にいいけど。・・何年くらいかな? 平均ではあと60年か。でも、女性の方が長生きだから・・まあ、俺には関係ないか」
由一が喋っている間に、佳苗はテーブルを横切り、由一の隣まで歩いた。
「なに?」
由一が頬杖をついたまま顔を横に向けて聞いた瞬間、佳苗は由一に抱きついて押し倒してしまった。由一は心臓が止まるかと思うほど驚き、声を殺しながら慌てて言った。
「理性的な思考と行動が仲間の条件だって2秒前にそう言っただろ?」
由一と佳苗の他に図書室に残っていたのは、一年の太った男子と、3年の分厚いメガネをかけた女子だけだったが、幸いにも、二人とも全く気付かない様子で本を読み続けていた。
「ここまでが私の理性なの」
抱きついたまま、佳苗が言った。
「・・へえ。悪いけど、俺には、成り得ない状況の一つなんだけど」
由一は声が裏返らないように注意しながら言った。
「じゃあどこまでならいいの?」
「さあ、まあ、手を繋いで歩いたらアウトだろ?」
「じゃあ、今まででもう既にギリギリだったんだ?」
「ああ、そうだね。・・だから、早くどかないと・・えーと、早くどけ!」
佳苗は腕を解き、由一を引っ張り起こした。
「お次は、感情系シャイ克服理論に挑戦するってのはどうかな? 協力するけど?」
佳苗は真面目な微笑を浮かべて言った。
由一は言葉の意味をしばらく考え、「どういたしまして」と答え、真っ赤な顔のままパチンと指を鳴らした。
「なに? 今のパチンは。誰を呼んだの?」
佳苗も指を鳴らしながら聞いた。
「これを、『突然話を切り変える合図』にしよう。その直前の出来事は全てリセットって意味だ。全て忘れる。全て消去。わかった?」
由一はそう言って、もう一度指を鳴らした。
「明日チャットで、積分の応用問題を教えてくれないかな? 分からないところがあるんだけど」
由一は完全に別人みたいな声を出して、そう言った。
「いいよ」
「ありがとう。じゃあ、そろそろ帰ろうか」
「そうね」
図書室を出たところで、佳苗は振り返って由一を見つめた。
「由一君」
「何?」
「これからもよろしく」
佳苗は最高の笑顔でそう言って、由一の半開きの唇の上に、自分の唇を重ね合わせた。そして、面食らって硬直している由一の目の前でパチッっと指を鳴らし、走って逃げていった。
由一はしばし呆気に取られてしまっていた。しかし、その5秒後、言いようのない笑みが浮かんできて、由一は廊下の窓のサッシに腕を付きながら、こみ上げる笑いの衝動を押さえ込んだ。先ほど由一に数学の教科書を写させていた生活指導教官のT先生が通りかかり、窓にうずくまっている由一を不審な目で見ながら声をかけた。
「おい、どうした?」
「あ、はい。大丈夫です。夕日が眩しくて・・」
「・・そうか。それならOKだ」
「はい」
由一はそう言って深呼吸をした。T先生は含み笑いをしながら歩き去った。
「ふう・・」
しばらくして、階段を降り切った佳苗が窓の下に出てきた。由一は一瞬、大声で呼び止めようとしたが、すぐに思い直し、ポケットから携帯を取り出して佳苗の番号を押した。
「もしもし」
2階の窓の傍にいる由一を見上げながら、佳苗が応答した。
「ずっと仲間でいるっていう、さっきの話だけど・・」
由一は佳苗を見つめながら言った。
「よろしく」
由一は真剣な口調で言った。
「ぷっ」
佳苗は噴出した。
「何がおかしいの?」
「いえ。なんでもない」
佳苗はそう言って、うれしそうな笑みを浮かべた。
「じゃ、また明日ね」
佳苗はそう言って携帯を閉じ、オレンジ色に染まり始めたグラウンドの向こうに歩いていった。
佳苗が今どんな気持ちでいるのか、何を考えての行動だったのか、真面目な恋愛ドラマを見ていて眠ってしまうタイプの由一には、想像すらつかなかった。しかし。
「・・・」
小さくなっていく佳苗の後姿を見送りながら、由一は携帯を閉じ、指で下唇をなぞった。
約4.5秒のファーストキスだった。しかし、そんな事は別にどうでも良かった。
由一は中学生のころからずっと、頭の中にひとつのクエスチョンマークを抱えながら、今まで生きてきていた。それは、自分がなぜ、一体何のために生きているのかという疑問だった。誰でも一度は考える疑問だったが、由一の場合は回数が少し多くて、3時間に1度くらいのペースで考え続けていた。生命理論や効率理論も、いわばその副産物として、ここから生まれてきていた。自分の存在の理由を見つけるために、マイペースに手がかりを探し続けた結果が、沢山の『理論』だったのだ。
ほんの一瞬、頭の中のクエスチョンが氷解する音が聞こえたような気がした。
窓を閉めながら、由一は自然と笑顔になっていた。こんなにいい気分になれたのは生まれて初めてのことだった。
直後、由一の頭の中で何かがはじけた。
「・・・あ、そうか・・・」
由一はなぜ人間が笑うのか、突然思い知った気がした。さっき佳苗にキスされている間、由一の頭はほとんど機能停止の状態であった。よく考えてみれば、笑っている間も同じように、脳は正常に働くことが出来ない。爆笑しながら行列式を解ける人間がいるだろうか? そうなのだ。笑いとは、あまりにもの短時間に大量の情報を受け取ってしまった脳みそが、情報を処理しきるまでの間に行う自衛的反射反応なのだ。肺を痙攣させて脳を刺激し、目からは涙を出して視覚デバイスを塞ぎ、大声を出して笑うことによって、聴覚からの情報流入を防ぐ。その間に脳は情報を処理し、オーバーヒートを防ぐのだ。
「ユーリカ・・・!」
由一はこの瞬間が好きだった。世界中で自分一人だけしか知らない真理への到達。背筋がぞくっとするこのひと時。まだまだ荒削りな仮説だということは百も承知だったが、当たらずとも遠からず。この情報には間違いなく価値がある。
「佳苗!」
由一は全速力で佳苗を追いかけ、校門を出たところでそう叫んだ。
「なに?」
佳苗は驚いて振り返った。振り返ったのは佳苗だけではない。下校途中の数十名が一斉に振り返った。それほどの大声だったのだ。
「わかったんだよ! 人間がなぜ笑うのか」
1分前のロマンスはどこへやら。佳苗は一瞬、方頬をひきつらせた。傍から見れば完全に気違いの言動である。まずは駆け寄ってきた由一の両肩に手を乗せ、なだめることが先決だった。質問云々はその後である。
「わかった。落ち着いて。なぜなの?」
「ヒントは笑うときの人の行動にある」
由一はそう言って辺りを見回した。どうやら周囲50メートル以内に笑っている人間がいないかどうか探しているらしい。しかし周りには、唖然としながら一歩遠巻きに佳苗と由一を眺める部活帰りの生徒や近所の住民の姿などしかなかった。由一は気を取り直して話し続けた。「大笑いするとどうなる?」
佳苗はしばらく考えた。
「・・・笑い声を上げて、笑顔になって、楽しくなって、息苦しくなって、涙が出る。・・たまに転がる」
佳苗は周囲の視線が恥ずかしかった。頬をやや紅潮させながら、佳苗はそう答えた。
「笑い声は耳からの情報遮断のため、涙は視界からの情報遮断のため、笑いの発作は脳みそを物理的に揺らす行動で、笑顔になるのは一時的に戦闘不能になる自分をそのあいだ守ってくれと言う周囲へのアプローチ、または一時的戦争権放棄の表明だ」
由一は無邪気な笑顔のまま話し続けた。それはいつかの夜、佳苗が心を射抜かれたあの笑顔だった。本当に楽しそうな、全てのしがらみを一蹴するような。
「笑いが場を和ます原因に、この『一時的に戦闘不能になる』ことが大いに関連していると思われる。周囲の仲間はその間、彼を守らなければならなくなり、結果として仲間意識の再認識に繋がることになる。また、ある集団のリーダー格が笑うということは、『リーダーは笑っても良いと判断した』すなわち『リーダーは一時的に戦闘解除を許した、あるいはリーダーは一時的に戦争権を放棄した』ということにつながると考えられる。これも場を和ます笑いの効能を成立に導く要因と仮定できる」
由一はそこで口を閉じ、もう一度辺りを見回した。何人か、見たことのある顔があった。賢そうな奴、部活で疲れてる奴、変な目で見てくる奴、美形、不細工、教師、興味ありそうな感じの奴、おっさん、おばさん、小学生、警官、他校の女子高生、エトセトラ・・・次の瞬間には、皆、何事も無かったかのように歩き出していた。雑踏の中、佳苗だけが由一の目の前にいた。
「凡人には理解できないらしい」
由一はそう言って小さく微笑んだ。
佳苗は自分もその凡人のうちの一人であると思いながら、それでも脳みそをフル回転させ、少しでも理解しようと努めた。
「明日から変な噂されるかも」
返す言葉が見つからないので、佳苗はとりあえずそう呟いた。
「別に。コーラをシェイクする程度の被害さ」
由一はケロっとしている。さっきまでとは何かが違うと佳苗には感じられた。
「脳の仕組みから分かりやすく説明しよう」
由一は歩きながら話した。
「TVを見ながら同時に三角関数が解けるかい?」
「無理よ」
「じゃあ、音楽を聴きながら車の運転はできるか?」
「出来るでしょう。みんなしているもの」
「このように脳みそには同時実行できる事とそうでない事がある」
佳苗は首をかしげた。そんなことは言われなくてもわかる。
「それで?」
「では、同時実行できないにもかかわらず、何らかの要因によって二つ以上の同時実行不可命令が脳みそに強制的にインプットされたら、どうなる?」
「混乱するでしょうね・・・」
「その混乱を解決するためには、果たしてどうすればいいのか?」
由一は諭すように言った。
佳苗は先ほどの由一の言葉を思い出した。
「・・・まず、これ以上、何らかの命令が入らないように一時的に脳を外界からシャットアウトし、何らかの衝撃でもって脳を物理的に揺らして、同時実行不可能問題・・・おそらく脳内で電気信号として保存されているそれを強制的に融解させ、その間、外的から身を守るために、周囲の仲間に対して守護依頼、あるいは戦闘放棄意思表示を送る。それが笑顔だとして・・・だから一人で笑うやつは不気味なのか・・・誰も守ってくれないにも関わらずメッセージを送る矛盾・・・」
佳苗は背筋がぞくりとした。なんという分析力だ。
「情報シャットアウトに用いる『笑い声』と『涙』。脳を揺らす『肺の痙攣』。保身のための『笑顔』。・・・ある集団の中のリーダー格が笑うことによる『場の和み』・・・全てつじつまが合う・・・こんなことって・・・すごい・・・あなた、一体なにもの?」
佳苗は驚愕の表情で由一を見た。
「付け加えると、笑いによる筋肉の収縮は、攻撃能力を一時的に失うことによって必然的に生じる、外敵から身を守るための防御対策だ。笑いすぎて地面に転がったり片ひざをついたりするのは、姿勢を低くしてなるべく発見されないようにするためだ。このことから、人が笑い始めたのは草原に進出してからだと推測できる。笑い男はブッシュマンだったんだ」
しばらく沈黙が続いた。佳苗は由一の話の理解に神経の大部分を使っていた。由一は佳苗を横目で見ながら、彼女の反応を待った。
数分後、二人はバス停にさしかかった。
「最後に一つだけ、抜けていることがあるんだ」
由一がベンチに座りながらそう言った。
「笑うと何故楽しい気分になるのか・・・この証明のこと?」佳苗は立ったまま、左手で髪をかきあげながら言った。
「あなたの理論が正しいとすれば、笑いは脳を外界からシャットダウンする。そして笑っている間には理性は正常には働かない・・・」
「分かりやすく言うと、笑いは脳(理性)を停止させる」
由一が補完した。佳苗は頷いた。
つまり、脳を停止させたら、楽しい気分になった。これはどういうことなのか。単純な足し引き算である。
「人生は苦痛そのもの・・・?」
佳苗が呟くように言った。悲観的な言い方だった。由一はすぐに訂正した。
「苦痛は生存率を上昇させるための一機能だ。つまり、脳は固体の生存率を可能な限り上げるために、常にプレッシャー状態にあるということだ。そしてこれはあらゆる情報から見て真であるから、逆説的に最後の問題は証明された。笑いはプレッシャーからの一時的逃避という要素も含んでいる。これにて全ての条件は満たされた。分析完了だな」
「・・・・・」
「・・・何か言えば?」
由一は佳苗を見上げながらそう言った。
佳苗はどうして自分がこんなにも由一に惹かれるのか、その理由が今はじめて分かったような気がした。由一は何かを超越しているのだ。だから魅力的なのだ。その何かが一体何なのかは、私にはまだわからないけれど。今度一緒に、コマイヌの上に座ってみようかしら。望み薄だが何か分かるかもしれない。
「チーム名取、結成5分後に早くも大発見だね」
「君のおかげだよ」
由一はそう言っていたずらっぽく微笑んだ。
「さて、次は何をしよっか?」
ベンチの上で伸びをしながら由一は天を見上げた。
「由一君にとって、この世は謎だらけなのね」
佳苗は腕組みしながらそう言った。由一は佳苗を見つめながら頷いた。
「ああ。わくわくするね」
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