奈良の変
吉野山はいい天気だった。観光客は少なく、駅前のだだっ広い道には一台の車さえ走っていない。時折、地元の人達がぽつぽつと歩いているのが見えるだけだった。蝉の大合唱の下、地図を見ながら薄暗い山道を300メートルほど登ると、ロープウェイがあった。お金を払って乗り込むと、佳苗と由一の貸しきり状態のまま、ボックスは動き出した。このロープウェイは箱の下に車輪の無い型で、目も眩むような高さの空中を前後に揺れながらゆっくりと登っていった。窓から覗いて見ると、数十メートル下にはうっそうとした緑の森が広がっていた。春にはこの森一面がピンク色に染まるのだろう。なるほど。流石に日本一というだけはありそうだと、由一は思った。
「ワーオ。最高ね」
佳苗は座席に膝を付いて座り、窓に両手を当てながら景色に見入っていた。
電車を降りたときにも思ったが、本当に綺麗な空気だった。由一は毎月どこかの森に30分ほど机ごと瞬間移動できたらいいのになと思いながら、ロープウェイに揺られていた。それから5分ほどで楽しい空中散歩は終了し、箱はコンクリートの上を滑りながらゆっくりと停止した。佳苗はこのまま2,3周しようと言ったが、ドアを開けてくれた係員のお爺さんに断られ、しぶしぶ箱から降りた。
ロープウェイの着いた所は山頂ではなかった。箱を降りると、すぐ目の前に階段が設置されていて、その先にも長い緩やかな坂道が続いていた。この辺りの山は低く連なっており、山頂と呼べる地点を特定するのは難しそうだった。云わば山の密集地帯なのだが、逆に一つだけ、恐ろしく深い谷があった。旅館の人が言うには、その谷底に祭られている神様『脳天さん』は隠れスポットとして有名で、世界遺産として登録されている吉野の名所「蔵王堂」よりも、こちらの方を真の目的として参拝しに来る客が意外に多いそうなのだった。そんなことには全く興味無しの由一には何のことだかサッパリだったが、佳苗は部屋に荷物を置くなり、仲居さんから借りたその脳天さんまでの地図を片手に、落差500メートルの谷底へ探検しに行こうと言って由一の部屋に押し入り、嫌がる由一を引っ張りながら、意気揚々と坂道を下って行った。
「大丈夫よ。死にはしないわ」
乾いた感じのする大きく見事な神社屋敷をいくつか素通りして、何の変哲も無い坂道を下ると、しばらくして大きな鳥居が目の前に現れた。さらに下ると、地面はアスファルトから土の小道へと変わり、目も眩むような数の古い石段の群れが現れた。由一には、今にも全て崩れ落ちていきそうに見えた。
「行きましょ」
佳苗は後先考えずに行動するタイプだなと、由一はこの時初めて悟った。250段も降りた頃、階段の上で一組の老夫婦とすれ違った。由一と佳苗がお辞儀をすると、老婆の方が「あと半分やね」と、笑顔で額の汗を拭きながらそう言った。由一は今来た道を見上げながら帰りの道のりを想像し、明日は寝たきり状態になるだろうと覚悟を決めた。全部で4,5百段もの石段を降りた時、ようやく下へ向かう階段は視界から消えて無くなった。
谷底では、あちらこちらから水の流れる音が聞こえてきていた。四方八方にお地蔵様が立っていて、由一と佳苗は面食らいながらしばらくの間、周りの風景に見入っていた。ざっと見ただけでも、傘地蔵の10倍はいるだろう。その全てが装飾されており、綺麗な湧き水を見下ろすように静かに佇んでいるのだった。階段の左手には古い食堂のような休息所があり、二人はそこで丸い椅子に座って一休みした。その後、線香の香りをくぐりながら建物の奥へと向かうと、今度はさらに沢山のお地蔵様が横一列に並びながら、細長い中庭を見下ろしていた。その他にも大小様々な仏様が祭られており、全てを参り終わった頃には優に2時間が経過していて、由一は数百段の階段を下りてきたことなど、迂闊にもすっかり忘れてしまっていた程だった。
夕方になって旅館に戻った頃には、由一は完全に放心状態だった。入水自殺と間違えられそうな動作で風呂につかり、這いずりながら部屋に戻って夕食を食べると、まだまだ元気な佳苗が隣の部屋から笑顔でやって来て、さっそくユーモア補助理論の総まとめを始めようと言った。
「・・俺は寝ながらするよ。なぜか足が張ってるから」
由一はそう言ってエアーマットの上に倒れ込んだ。佳苗は持ってきたノートを開き、さっそく今までの確認をし始めた。
「現時点で確定しているワラ技は以下の50個。比較的チェケラッチョ、大被害チェケラッチョ、全キャラ統一欠陥保持強調、ほにゃららほにゃらら(以下省略)で、最後に一般論化侮辱。・・さてと。ここまではどうする? 確定しとく?」
「そうね」
由一はふくらはぎを揉みながら頷いた。
「では、いよいよこれから、この50個の定義を使って、最低でも『ランダムハゲ』以上の威力を持った『爆笑系マル秘戦法』を開発していこうと思います。まずは・・・」
佳苗が笑顔でそう言うか言わないかの内に、由一が鞄の中から20枚程度のレポート用紙の束を取り出して、佳苗の膝の前にポンと放り投げた。
「何これ?」
佳苗は拾い上げながら訊ねた。
「実はもう一人で作ってきたんだ。昨日までの5日間が暇だったから」
佳苗は予想外の出来事に少し面食らったが、由一の性格(物事の効率を極限まで高めようとする)を把握しきれていなかった自分のミスだったと思い、嫌味なセリフは「お見事!」の一言だけにとどめ、さっそくレポート用紙をめくり、読み上げていった。
「えーと、・・・目次。目次まであるんだ? ・・第一章、ナポレオンの隣で。第二章、側面アナリシス。第三章、フランダースの負け犬。第四章、アグネス・・・ん? 何?」
佳苗が1ページ目を途中まで読んだときだった。由一が手を上げて、シャラップのジェスチャーをした。
「あのさー、正直言って、もう飽きたよ。そろそろ違うことしないか?」
由一はそう言って起き上がり、足首をねじり始めた。
佳苗は目を瞬いた。
「もう飽きたって、・・え? ・・やめちゃうの? もうあと一歩で完成するのに?」
由一は深く頷いた。
「うん。もうそろそろどうでもいいよ。ユーモアなんて。そのノートも君にあげるよ。そのつもりで書いてきたんだ。今までは君に合わせてきたけど、これ以上は無理だ。どうしてもユーモア理論を極めたいなら、あとは他の誰かとすればいい。もっとお笑いに興味のある・・そんな奴とね。掃いて捨てるほどいるだろう」
由一は無表情のままサラッとそう言ったが、佳苗は数秒間息が止まってしまうほどのショックを受けた。
「もしかして私って、あつかましかったかな?」
しばらくして佳苗は恐る恐るそう言った。しかし由一は首をかしげた。
「いや。君ほど性格の良い奴は今まで見たこと無いけど。特に女子の中では。俺、バレンタインデーにカレーのルー貰ったことあるもん。死ぬかと思ったね。あの時は」
佳苗はホッとため息をついた。
「じゃあ、単純に・・このテーマに飽きたってこと?」
「うん、そう」
しばらく沈黙が流れた。
「まあ、よくある事よね」
ようやく佳苗はそう言う事ができた。
「考えるだけじゃ、意味無いしね」
由一はそう言って佳苗を見つめた。
「うん・・」
佳苗は赤くなって頷いたが、何の意味がどのように無いのかについては分からなかった。
「自分で行動もせずに何かをしようなんて奴は、駄目だと思う」
「そうだよねー・・」
佳苗は再び、ごもっともですと頷いたが、すぐに眉をひそめた。
「え? でも、由一君この前、ユーモア理論を完成させて、誰かをテレビに送り込むとか言ってなかった?」
「ああ、言ったよ。実験は必要だからね。万人に通用すると決まった訳じゃないし、もしかしたら俺たち二人だけにしか通用しないのかもしれないし。でも、実験の手段と実行の委託は別だろ?」
「・・・・」
佳苗は真剣に考え、ようやく由一の言いたいことが何となくだが分かってきた。
「もしかして、由一君、他に何かやりたいこと見つけた? で、ひょっとして、私に手伝って欲しいとか?」
佳苗はニッコリしてそう言ったが、由一は恥ずかしそうに横を向いた。
「いや、別に一人でもできるけど」
佳苗は由一を睨みつけた。
「うそ。君に手伝ってもらいたいよ」
「で、何するの?」
佳苗はワクワクしながら訊ねた。
「えーと、まあ、一言で言うと、『言葉の修正』・・いや、改良かな」
「言葉の修正?」
「そう」
由一は座り直しながら、今度はさっきまでの猫背が嘘のように、生き生きとした表情で話し始めた。
「言葉が確立したのは数千年以上も昔だ。天動説が信じられていた幼稚な数百年前よりもさらに大昔のことだ。その頃から今まで正しいと思われ続けてきている、実は間違った概念の言葉ってのが、結構あるんじゃないかって思うんだ。この間、生命理論っていうあっさりしたスカスカの理論見せただろ? 科学の発展していなかった、原子や電子やウイルスみたいな概念すらなかった時代に、『生命』『非生命』という曖昧な概念の完全区別がなされた。・・それからずーっとその考えが正しいと信じられてきている。学校でも、そう教えられて刷り込まれている。素直な子供たちは心の底から信じ込んでしまう。俺みたいな変態は別としてね。まあ、先入観だから仕方ないけどね。これが便利な言葉のリスクさ。他にももっと沢山あると思う。そいつらを探さないかって話さ。きっと面白い発見があると思う。アインシュタインだって、時間と空間という安直な概念に違和感を感じたことで、相対性理論を発見したんだから。・・どう思う?」
由一は最後のほうで、自分が興奮し過ぎであることに気付き、声のトーンを下げた。佳苗は下唇を触りながら、由一の言った事をしばらく考えた。
「言葉の修正・・よく思いつくね? こんな事・・。さすがね」
今まで佳苗は由一に対しては感心しっぱなしだったが、ここでもまた改めて今まで以上に感心するしかなかった。そして、完成間近(と思われる)のユーモア理論をあっさりと捨て去ったことに納得することができた。由一はあわよくば、アインシュタインを超えるつもりでいるのだ。
「だって、どう考えてもおかしいだろ? 海の沖には滝があって、そこから全ての海水は落ちていって、下のほうで口から火を吹いている大きな蛇がその海水を蒸発させて雲にしているなんて仮説が真剣に信じられていたアホみたいな時代に、ほとんどの言葉の定義は既に完成していて、それが今まで続いているんだぜ? まともな、真理に近い概念の方が少ないだろうと見てかかっても良いくらいさ」
「わかった。で、・・言葉の修正って、何から始めればいいのかな? 修正する必要の無い言葉だってあるよね?」
「ああ。当たり前だろ? 実際、修正できる言葉の方が圧倒的に少ないよ。まず、こいつらを見つけ出さないといけない」
「うん。そうよね。・・でも言葉って一体何個あるのか知ってるの? 広辞苑2000ページ、1ページに付き50語載ってるとして、ざっと10万語よ? 一日100個ずつ見ていっても、探すだけで3年はかかるわ」
由一はエアーマットから降り、這い這いで座布団の上に移動して、テーブル越しに佳苗と向き合った。
「君、ほんとにIQ150もあるのか? まず、修正可能な言葉の性質から考えて形容詞は有り得ないだろ? 接続詞や副詞も有り得ない。考えられるのは動詞と名詞だけだ。そして名詞だけど、コップとか、スプーンとか、田中君とか、総理大臣とか、明らかに修正の仕様の無いものがほとんどで、それらの共通点は『目に見える』と言うことだ。つまり、目に見えない、具体的にイメージ化できない言葉に修正する余地があるってことだ。たぶん多くても数百か、せいぜい数千だろ。たぶん、200〜300個くらいさ」
「・・・あ、そっか。なるほど」
「それに、全部見ていくわけじゃない。目に見えない抽象的な概念名詞を見つけて、それを分析して、何か新しいことを発見して、そこから何らかの行動に移せればそれで終わりさ。そのミッションが終わるまでは言葉の修正なんて、適当に気が向いたときにすればいいんだ。大切なのは行動を中心に物事を考える姿勢だから。何度も言うけど、考えるだけじゃ意味無いんだ」
「分かった。じゃ、行動しましょ。とりあえず、その抽象名詞を何個か集めて・・ま、話はそこからよね」
「また、前みたいに交替に言っていこうか。詰まったら罰ゲームね」
「いいよ。じゃ、私からね」
佳苗はしばらく考えた後、「自然」と言い、ノートにそう記した。
「神」
「季節」
「青春」
「言葉」
「スピード」
「音」
「幽霊」
「時間」
「空間」
「熱」
「気体」
「怒り」
「悲しみ」
「嫉妬」
「愛情」
「て言うかさ、感情的な名詞は全部目に見えないよね?」佳苗が眉をひそめて言った。「恐ろしく多いよ?」
「そうだな。・・じゃあ、感情名詞は感情名詞で一つにカウントするか。暇があれば一つずつ分析していくって事で。今で何個?」
佳苗はノートに書いた単語を数え、「11個ね。」と答えた。
「この中で修正できるかもしれないのは・・自然、青春、・・・時間、空間、感情名詞、の5つか。まあ、最初だから一つずつ慎重に分析していくけどね。このランダムに選んだ11個の中に何個あるかで、修正可能語の総数が大体分かる。たとえば抽象概念名詞が全部で2000個あるとして、そのうちの30%が修正可能だとすると600個だ」
「で、何からやる?」
「まずは実験的に、簡単なものからだから、この中で一番分析しやすいのはどれか考える。・・どれだろう?」
由一と佳苗はしばらくノートと睨めっこをした。
「『青春』じゃないかしら。比較的新しい言葉っぽいけど、この中じゃ一番身近だし、抽象的だし。どう?」
しばらくして、佳苗がそう言って由一を見た。由一は頷いた。
「そうだな。まあ行動に繋がりそうでは無いけど、練習には最適かもな。じゃ、さっそく調査だ。まず、この言葉の発生した時期と場所と、この言葉を作った奴の性別、年齢、職業、趣味、好みまで、ありとあらゆる事を調査しよう。まあ、大体想像付くけどね。おそらく50歳以上の白髪の詩人か何かだろ。それに、最初から『青春』っていう言葉では無かったかもしれない。言葉は継承過程で何もかも変化するから。もしかしたらもともと一つの言葉だったものが二つに分裂したとか、そういう可能性も含めて調べよう」
佳苗は由一の話を聞くうちに、自分たちは思ったよりもかなり難しい課題にチャレンジしているのかもしれないと思った。
「・・分かった。できるだけ調べてみるわ。でも、無理だったらどうする?」
佳苗が聞くと、由一はしばらく考えてから答えた。
「無理なら、仕方ない。消去法を使って想定していくしかない。例えば、青春って言葉を作れる人間は、最低でも『青春』を経験したことのある奴じゃないと無理だから、30歳以上である、みたいにね」
「ふんふん。なるほど。・・でも、かなり大変ね。面白そうだけど」
「ああ。この世に楽な事なんか無いよ。知ってるかい? キュリー夫妻って8年間もかけて、8tの鉄鉱石の中から0.1gの塩化ラジウムを探し続けたんだ。放射線で体中ボロボロになりながらもね。信じられないだろ?」
「ほんと? へーえ。やっぱりすごいね。ノーベル賞だっけ?」
「うん。でも、すごいと言えば、君もモーツアルトと同じ知能指数なんだけど。モーツアルトは2歳か3歳かでピアノを弾いて、5歳で作曲したんだ。で、世界一の音楽家になった。でも君は? ・・ただの優等生だ。この『すごい』の差は何かな?」
由一の突然のこの言い方に、佳苗は少しムカッとするものを感じた。
「でも、モーツアルトだって今の時代に生まれてたら、売れない作曲家で終わってたかもしれないわ。500年前の人と比べないでよ。何が言いたいの?」
佳苗が見つめると、由一は目をそらしながら言った。
「モーツアルトもキュリー夫人も、自分のやりたいことに全力で突き進んだってことだよ。興味こそ全てさ。勉強なんか・・まあ、知識の伝承は義務だから仕方ないけど、一日6時間も7時間も必死になってする必要ないよ。主席を取るより、自分の興味と特性を調べたほうが遥かに効果的だ」
「・・突然の忠告ありがとう」
佳苗は少し照れながらそう言った。
「私の興味ねえ。何だろ? ・・笑うのが好き。話すのも好き。・・・でも、由一君みたいな分析力ははっきり言って無いわ。暗記と計算は得意だけど、そんなのはコンピュータの方が圧倒的に高性能だしね。・・まあ、ゆっくり探すわ。まだまだ時間はあるし」
佳苗がそう言うと、由一は首を傾げて難色を示した。
「意外と早いよ? 時間なんて。みんな気が付けば二十歳さ。で、すぐに還暦だ」
しばらく沈黙が流れた。
30秒後、佳苗がくすくす笑い出した。由一もつられてニヤッとした。
「さあ、青春について調べるんだったよね。さっさと行きましょ。ロビーにパソコンがあったはず」
「うん。青春・・か。英語でもあるのかな?」
「私が全部2秒で調べてあげるわ。検索テクなら誰にも負けないから。全部調べるのに30分以内でできるかどうか賭ける?」
「いいよ。ムリに5000円」
「絶対払ってよ? 前みたいに釣堀の優待券とかやめてね? このまえ瑠璃と行ったら駐車場になってたんだけど」
20分後、結局由一の財布から5000円札が一枚飛んでいくはめになった。佳苗はまず、デスクトップ上のアイコンを全て消去し、検索以外のプログラムを一時的に全て停止させて、インターネットエクスプローラーを同時に4つも開き、マウスにはほとんど触れもせずにキーボード操作のみで検索を行った。由一自身、こんな方法があったのかと、目からうろこが落ちまくった20分間だった。
「一応、世界中のデータの中の青春に関する90%以上の情報を集めたわ。プリントアウトすれば100枚くらいね。とりあえず、これ持って部屋に戻ろっか?」
「ああ。そうだな。・・君、明日からトップ企業の社長秘書になれるよ。もう学校行く必要ないと思うけど」
由一は驚きながらそう言った。
「私は学校好きだもん。秘書なんて嫌よ。もっとクリエイティブな仕事がいいわ。あ、由一君の秘書ならいいけどね」
佳苗はそう言って印刷ボタンを押し、その間にデスクトップを元通りに復元していった。
「じゃ、行きましょ」
部屋に戻ると、佳苗はプリントアウトした用紙を部屋の畳の上いっぱいに並べ始めた。流石に100枚ともなれば壮観だった。
「じゃ、私はテレビからこっちを見ていくから、由一君はそっち側半分をお願い」
佳苗はそう言ってさっそく四つん這いになり、一枚ずつ見ていった。重要な書類の選別作業だった。ついでに、キーポイントとなる部分にはマーカーで印をつけていくのだ。
「サインペンは使うなよ。畳を全て裏返すハメになる」
一時間後、102枚のレポート用紙は、31欠片の紙の束となった。部屋に備え付けられていた小さなゴミ箱は、切り取った紙片で山盛りになった。
「でもさ、今ふと思ったんだけど、言葉の調査なんて、言語学者とかがとっくの昔にやってるんじゃないかな?」
重要な紙片をノートに貼り付けながら、佳苗がぽつりと言った。由一はマーキングした部分をもう一度よく見直しながら、「前提が違うから」と、答えた。
「もう少し詳しく答えられないの?」
「だから、俺たちは『青春』と言う言葉の定義の精度自体を端から疑ってかかるんだ。そこが常識的な学者とは完全に違う。こんな非常識極まりない発想は、過去の偉人達の業績を敬愛して已まない学者達には絶対に有り得ない。例えば、『正義』の存在は疑っても、『正義という言葉の定義の正確さ』を疑う奴はいないだろ? 俺達はそこを徹底的に疑い倒すんだ。中世なら火炙りモノだけどね」
「・・なるほど。そういえばさ、今思ったんだけど、昔は天動説が信じられていたんだよね? じゃあ、『地球』って言葉はいつ生まれたんだろ? それまでは何て呼んでたんだろ?」
「まあ、最低でもコペルニクス以降だろ。外国じゃ『アース』って呼んで、意味は大地だろ? 今でもアースって言ってるから、意味がそのまま添加されただけみたいだな。今は別にどうでもいい」
しばらくして一冊のノートが出来上がった。
「何か分かった? まだ言わないでね。私も分析に挑戦したいから」
数十分後、由一は全ての情報を読み終え、畳の上に寝ながら背伸びをした。残念ながら、あまり大した発見は見られなかった。結局、誰が作った言葉なのかはどこにも書かれておらず、中国のとある伝説に語源があるだとか、元々は物語の題名だったとか、確たる証拠の無いあやふやな物ばかりだったのだ。どうやら青春という言葉は、長い時間をかけて自然と社会に定着した概念のようであった。由一は考え直すことにした。
「これじゃあ無理だな・・分析の仕様が無い。せっかく調べてもらって悪いけど、情報からの抽出は不可能だ。よって数学的に考えよう。まず、『青春』というものが存在すると仮定すると、条件は「若さ」と「精神的な未熟さ」を兼ね備えたAさんと、青春的な概念を知っている精神的に成熟したBさんの、2者の存在がまず挙げられる。Aさんが何らかの行動をすることも必須条件だ。・・つまり・・青春と言うのは・・自慢的な表現では有り得ないから・・限りある若くて元気な時間を大切にしろ、というBからAに対する助言であり・・基本的にはこれがそれか・・。そういえば、青春の『青』には儚いって言う意味があるって、さっきどこかに書いてあったな。つまり、青春=人生において最も儚く最も大切な春・・・春と言うのは、相対的なものだ。老人から見てエネルギッシュって事。若者同士にそこまでの差は無い。だから・・結論は・・未熟さが消えつつある、感受性の強い一時をさす言葉だから、極めて適切な言葉で、欠陥は無い。・・むしろ足らないのは、青春以外の時期の名称だ。なぜ青年期だけ『青春』なんて称号が付いているんだって事・・他は一体何なんだって話だ。逆説的に考えると、やはり青春が特別だからという事になる。わざわざ命名した所に意味がある。つまり美化されているということだ。感受性が強いって事と、思い出は美しいって事と、隣の芝生は青いって事が重なり合ってね。それと、青春=春と固定されているのもまずいな。両親の離婚とか、事故とか、運悪く不幸と重なった者にとっては、『青春』なんて嫌味以外の何でもない。だから『私の青春を返せ』などという無意味な考えが発生する。・・人生のピークは人それぞれ違う。暗黒の青年期を過ごして大成する人もいれば、最高の青年期を過ごして20年後にリストラされてる可哀想な人もいる。青春という定義の欠陥は、固定している点と、美化しすぎている点だ。この欠点には目を瞑る必要があるが、辞書にはそんな警告は書かれていない。とまあ、こういう訳だ。以上、分析終わり。今日はこれでもう終わろう。疲れたよ」
由一は長々とそう語り、お茶を飲んでもう一度伸びをした。佳苗は慌てた。由一は初め、独り言のように空中を見つめながらブツブツと呟いていたくせに、最後にいきなり佳苗に向かって「とまあ、こういう訳だ」と言って微笑み、まるで佳苗が全て理解しているような気でいるのだから。
「ちょっと待って。早すぎるよ。簡潔に言うと、何がどうなの?」
由一はしばらく考えにふけった。
「つまりこういう事だ」
由一はそう言って、ノートにペンで何やら書き始めた。
『主な青春・・・哀春、奇春、絶春、美春、勉春、孤春、楽春、薬春、病春、喪春、暗春、熱春、性春、暴春、夢春、恋春、酒春・・・』
「・・何これ?」
佳苗が由一の横から盗み読みながらそう言った。口元が震えている。
「き、奇春って何よ!喪春? 薬春って、あはははははっ・・ははははははっ」
一瞬、佳苗は由一の視界から消え、机の端から再び現れたかと思うと、そのまま2メートルほど部屋の中を転がり抜けて行った。驚いたのは由一だった。目の前であの優等生が床で転がりまくっている?
「おーい、頭、大丈夫? 埃立つんだけど・・」
10秒後、由一の言葉に佳苗ははっと我に返り、0.2秒で元の位置に戻った。顔が真っ赤だった。
「ふう。ま、なかなかね」
佳苗は短い髪と浴衣を両手で忙しく整えながら、冷静な口調でそう言った。
「何が?」
「説明してくれない?」佳苗は由一の目の前にノートを突き出し、強引に話を元に戻そうとした。
「な、何なの? この奇春とか、も、喪春とか。・・く、くふふふふっ」
しかし駄目だった。佳苗はノートに覆いかぶさるようにして再び笑い出した。
由一は無視して解説を始めた。
「奇春っていうのは、まあ俺みたいな奴の青年期を指す言葉だ。ちょっぴり変わってる、ほんの少しユニークな青春さ。哀春っていうのは、失恋したり、友達や恋人と運命の別れをしたりで、物悲しい青春を過ごした悲劇チックなヒロインに送られる言葉だ。喪春は14〜20歳までの間に家族の誰かが逝った人にピッタリの言葉で、薬春は麻薬に溺れて死の青春を送った奴に捧げる言葉。孤春はよくある孤独な青春。暗春は暗〜い青春。熱春は金六先生みたいな人と遭遇した心温まる青春で、病春は病室のベッドから窓の外を眺めて余命を指折り数えながら過ごす青春。恋春は恋焦がれる三角関係に悶えて萌える青春で、絶春は例えば芸人デビューとか、テニスで世界中を股にかけるような、他と比べて超越的で憎たらしい青春で、暴春は少年院を出たり入ったり、酒春は酒に溺れる青春。・・あれ? ロクなの無いね。・・まあ、他にももっとあるけど、とにかく色々な青春時代があるってことを強調してるんだよ。人と同じ必要は無いんだよってね。青春って言葉オンリーだと、みんな同じみたいなありえない錯覚が生まれるだろ? そんな先入観を解除するための分類さ。おわかり?」
「ちょ、ちょっと待っててね?」
真面目に解説されて面白さが倍増してしまった佳苗は、口とお腹を押さえながら立ち上がり、震えながら部屋から出て行った。10分後、佳苗は何事もなかったかのように、例のメガネをかけながら帰ってきた。しかし、全身汗びっしょりだった。
「良い考えだと思うわ。さすがね」
「君って、意外と笑い上戸だったんだね。知らなかったよ」
「何のことかしら。それより、けっこう良い改善だったと思うわ。確かに青春なんて人それぞれよね。恋愛しようが、理論作ろうが、歌手デビューしようが、勉強しようが遊び呆けようがねー。違ってて当然ですね」
佳苗はそう言って、指で眼鏡を上げた。
「これが言葉の改良修正さ。こんなふうに改善していくんだ。で、君には・・」
由一が言いかけたその時、佳苗がメガネを外して、右手を由一の口の前に突き出した。由一が驚いてのけぞると、佳苗が真剣な顔で言った。
「君、じゃなくて、そろそろ名前で呼んでくれない?」
突然のことで、由一は少し焦った。そんなことか、と、軽く思い直そうとしたが、いざ言おうとすると、なかなか照れくさいものがあった。
「か・・・あー・・・・なえ?」
「聞こえないわよ」
佳苗は再びメガネをかけていた。
「分かったよ。・・・佳苗には調査をしてほしい。言葉のね。・・成立背景とか、継承による変異とか。分析は例の如く俺がするから」
「分かった。由一君」
佳苗は笑顔でそう言った。由一はやはり照れくさかった。
「なんで、たった二文字違うだけでこんな妙な感じになるんだろうな。やっぱり言葉って・・」
由一は頭をかきながら言った。
佳苗は首を横に振った。
「原因は言葉じゃないわ。私って、実は少し活発な性格なのよね。・・昔は、探偵とかに憧れてたし。今までちょっぴりネコかぶってたけど、さっき大笑いしちゃったし、もういいわって思ったの。だから違和感があるんだと思うわ」
佳苗はそう言いながら胡坐に座りなおした。
「別にネコをかぶるのは効率的に見ても悪いことじゃないけど・・・まあいいや。で、なんだっけ?」
「青春理論ね」
「ああそうそう」
由一はノートを広げ、「奇春、喪春」などの続きに今までのキーポイントを書いていった。
「もう目が覚めたよ。続きを進めよう。・・・青春という言葉の欠陥点は、単種的な先入観を含んでいる点と、若干美化されている点だ。これら二つを修正して、新たな言葉を再定義する。どんな定義にすればいいのか、今から考える」
「・・ふんふん。わかったわ。・・・えっと・・・難しいね」
佳苗はそう言ってニコッとした。何をどう定義すればいいのか、全く分からなかったのだ。
「難しいって事は不可能に近似的という事だ。基本的な解答不可能条件は、情報の欠如、探索範囲の広すぎ、物理的な条件、時間的な制約、回答者がスカタン・・・以上の5つ。今のこの場合は探索範囲の広すぎが原因だから、範囲を狭める必要があるな。つまり条件の数を極限まで絞って、その条件同士の共通点から答えを導けばいいんだ」
「・・・・うん」
佳苗は一応、頷いておいた。とりあえず頷いていればいいのだ。
「発展途上、非永久的、多種類、初経験が多い・・・。条件数を極限に少なくすると、『青春』に必要な条件はこれだけだ。つまり・・・これだと、何歳でも、たとえ50歳でも青春と同じ体験を何らかの形ですることができる、という事になる。だから・・『青春』ではなく・・・青感・・・いや、わざわざ名前を変える必要は無いのか? ・・・アースみたく、意味を添加するだけでいいのか・・。だな」
「・・結局、そういう事なの?」
「うん。青春は人それぞれ多種多様で、ほとんどの人間は14〜25歳くらいの時期に発生する。そして、少しオーバーに思い返される傾向がある。定義可能なのはここまでだ。あとは一人一人が自分でどんな青春を過ごすか決め、あるいは決められ、空白の定義部分を埋めていくことになる。16歳の俺には分からないけど、もしかしたら、成長するに従ってその定義は無条件に収束しいって、ある一つの共通概念に到達するのかもしれない。でも、それが青春だとすると、それは大人になるまで分からないってことになる。・・でも、それはおそらく有り得ない。もしも有り得るとすれば、それは人の個性が成長と共に薄れていくってことだ。その場合、『青春』なんて概念は、少なくとも若者にとっては何の価値も無い、かえって邪魔で有害なものになると考えていい。つまり、単なる老人の戯言であり、無視して差し支えないって事だ」
「・・松尾芭蕉もビックリね」
佳苗は呆れながらそう言った。
「つまり、まとめると・・」佳苗が続けて言った。「青春っていうのはまず前提として、奇春とか哀春とか孤春とか沢山種類があって、周りの環境と自分の適性を考慮した上で自分がどの青春に進むべきか決定して、その路線で努力して成長していくってこと? 」
「まあ、そうなんじゃないの? 詳しくは知らないけどね。だって、愛こそが青春とか、努力こそが青春だとか、青春は孤独なものさ、とか、イチイチうるさいだろ? そんなの人によって違うだろうし。だから、こういう幅広な定義にしとけばいいんじゃないかって思うんだけど」
「ふんふん・・。なるほどなるほど。で、青春って名前を変更する必要は無い、多種類的な先入観を添加するだけ・・合理的ね」
「もともと青春という言葉には、僕がさっき並べ立てたような絶望的で悲惨な意味合いも含まれていたと思うんだよね。そうじゃなきゃ『青』なんて修飾が入ってるわけないんだから。それが、ここ数十年のハッピーエンド型ドラマや漫画のあまりの多さによって、いつの間にやら、青春はただ明るくて楽しいみたいなイメージが定着したんじゃないのかな。最初からそうだったら、命名の際にピンクか薔薇色を使ってたはずだから。そしてそんな楽しいはずの時期に奇行に走る奴はみんな精神病の疑いアリだってね。まったく酷いもんさ」
佳苗はようやく納得することができた。
「ま、青春なんてどうでもいいよ。言葉の修正だけど、大体こんなふうにして進めるんだ。目標は、今まで誰も考えたことの無い何かを修正して、行動に移す価値のあるものを見つけて実行すること・・。どうかな。一緒にするかい?」
由一はそう言って佳苗を見つめた。佳苗は由一を見つめ返し、頷いた。
「じゃ、これで正式に私たちはパートナーってことね」
佳苗は笑顔で言った。
「まあ、そうかな」
由一は照れながら横を向いて言った。
「じゃ、パートナーとして、一言だけ言わせてくれない?」
佳苗は爽やかな笑顔のままそう言った。
「なに?」
「時々、休み時間中に、教室で折り紙を折るのは、もうやめて」
由一は目をそらし、苦笑いした。そして信じられないくらい堂々とした様で、手元にあった湯飲みをまるでワイングラスのように持ち上げた。
「ブルーな春に乾杯」
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