コール * 01
俺が最初に目にしたのは多分、光じゃなかったんだ。
「お疲れでーす」
「おー、お疲れぇ」
家に帰ることが、悪いことのように思えてならない。叔父さんも叔母さんもよくしてくれる。やさしくてやさしくて、ときどきその目が痛い。
やさしさは光に似ていると思う。その中には多分、愛情だとかとにかく慈しむようなものが溢れるほどにつまっていて、それを向けてもらえることはこれ以上ない幸せなんだ。
だけど、俺が一番最初に目にしたのは光じゃなかったんだ。だから、痛くなる。胸の奥の方がぎゅっと、喉を締め付けて離さない。心はどこにあるんだろう。
もしかしたらあの日、死んでしまったのかもしれない。
「よ、家出少年」
家に居づらくなった俺は、高校に入ってすぐに始めた駅前のファーストフード店のバイトでギリギリの時間まで働くことにした。
夜の十時、バイトに入るのは六時からで、それまでの時間やバイトのない日は友達と遊んだり、一日や短期のバイトをしてみたり、図書室で勉強したり、たまにそこにある蔵書をあさって読むふけったり、とにかく家にいる時間を一秒でも減らしたかった。休日は朝から晩まで粘って、確実に週三で入ってる。
「家出なんてしてないだろ、人聞き悪い」
「いーや、お前のは家出だね」
バイトが終わって、事務所に下がる。俺がバイトしてる店は二階建てになっていて、事務所は二階の奥の扉の向こう側にひっそりとあった。ドアを開けると、今日は店にいないはずの男がいて少しだけ驚く。
「何やってんだよ、彰太」
俺が不審に思ってそう訊ねると、彰太は「べっつにー」といって目を逸らした。そしてそのまま会話に戻っていく。
とても広いとはいえない事務所、奥の部屋では社員の人がカタカタとパソコンに向かい仕事をしていた。
低い丸い形をしたガラステーブルの周りに、おそらくこれから店に入るんだろう、ユニフォームを着た男子大学生と年齢不詳の男、それに制服姿の彰太が座っていた。
会話はなかなか盛り上がっているらしい。誰か、多分大学生とフリーターの男二人で吸っていたのだろう、使い古されて焼き痕だとか灰がこびり付いたシルバーの灰皿には、山のように吸殻が積み上げられていた。
「あー、八巻来たんだったらそろそろ行くかなぁ。山さん、行きましょー」
「……あと一本、」
「あ、じゃあ俺も」
そういってどこからか煙草を取り出し、銜える。カチ、火がついた。すぐに紫煙が揺らぐ。室内の空気はこもって白くなっていた。
俺は特にいうこともなく、とりあえず着替えようと思ってフィッティングルームに向かう。楽しそうにしゃべる大学生の声だけがやけに大きく聞こえてきた。
簡単に着替えを済ませ、フロアに戻った。そこには既に二人の姿はなく、彰太が何かの歌を口ずさんでいた。
青リンゴの匂いがするワックスでふわふわと空気を含ませた彰太の髪は、見た目を裏切らずにやわらかい。どうせならワックスなんてつけないでいた方がずっといいと思うけれど、そうでもしないと髪の毛が細い彰太は髪が薄く見えるらしい。気の毒なもんだ。
何もいわずに彰太の向かい側に腰を下ろした。焼ける煙草の匂いがした。
「なあ」
「なんだよ」
「……会ったよ、さっき」
彰太はテーブルの上をじっと見つめている。その先はおそらく、灰皿だ。沈んでいるのかと表情を窺うが、何かを考え込んでいるようにも見えて、とりあえず話の先を促すことにした。
「誰に?」
俺がそういうと、彰太は目を合わせてきた。逆に俺を窺うような視線、それはじっと睨みつけているようにも見えた。
そして彰太ははっきりといった。
「八巻」
「は?」
いったい何をいい出すんだと間抜けな声が出た。八巻は俺のことだったからだ。会ってるのは当り前じゃないか。頭でもおかしくなったのかといいそうになったが、彰太の口の方が先に動いた。
「八巻咲、会ったよ」
久しぶりに、他人の口からその名前を聞いたと思った。心臓が跳ねる、視線が逸らせない。気がついたら右手が拳を作っていて、じわりと手の平が湿っていくような気がした。
「……は?」
本当に間抜けなことに、俺はそういうことしかできなかった。言葉と言葉で思考がぐちゃぐちゃになって、先へ進めない。形を作らない。
彰太はテーブルに右肘をつき、手の甲に顎をのせる。そうして少しだけ俺の方に身を乗り出して、じっと視線を寄こして逸らさなかった。
「すげー似てんのな。一瞬、お前が来たのかと思った」
「ちょ……待って、なんでっ」
どこで会ったんだ、聞こうとして喉が引きつった。唇がうまく動かない。もどかしすぎてどうにかなりそうな気がした。
彰太はそんな俺の反応を見て、少しだけ驚いたように目を見開いたが、それもすぐに元に戻る。
「なんか、合コン? それに来てて……つーかお前がいってた幼馴染みって祥吾のことだろ? 俺、今クラス一緒」
彰太は何を考えているかよくわからない表情を浮かべる。怒っているのか、感心しているのか、彰太は俺の顔を見るとため息をついた。
「お前、いつまで逃げてんの?」
言葉を失う、わからなくなった。逃げといった彰太の声が、頭のどこか深いところで何度も何度も響く。
「……咲は」
もう昔みたいには戻れないんだ。それでも名前を呼んだら、それだけで胸がいっぱいになった。
「咲、には、祥吾がいる。それで、いいんだ。俺は……」
きっと、俺は咲を傷つける。咲もわかってる、離れることしか選べなかったんだ、二人で選んだんだ。
それでも電車でたった三駅のこの地にいる俺はとことんバカで、アイツの言葉を借りるならお人好しってやつなのかもしれないし、都合がいいだけなのかもしれない。だけど俺の、俺達のために泣いてくれるようなヤツの頼みを聞かないほど、冷たい人間にはなりきれなかったってだけだ。
咲にはずっと会ってない、連絡もしてない、俺がどこにいるのかも咲は知らないんだ。ただ祥吾とは、月に一回のペースで会う。それも多分、咲は知らない。
連絡をしたらいつでも会える位置に、経済的な面、保護者がどうしても必要な立場のあのときの俺の年齢、それを考えたら結局こんな近い所しかいけなかった。
それでも高校は、今の家から一時間かけた遠い場所を選んだ。咲の学校は祥吾から聞いて、絶対に会うことはないだろう、といわれた。
本当は、もっと遠くへ行きたかった。偶然にだって会えないような地へ、誰も俺を知らない場所へ、それでもあの日を思い出すとどうしても、それをいい出せない自分がいた。
未だに俺は、いろんなことに怯えている。
「俺は、イヤなんだ。咲を見てると……壊したくなる」
咲のせいじゃないのに、俺がただ弱いだけなのに、愛してるのに、殺したくなる。目の前にするとどうしても嫌悪感と苛立ちと憎しみがわき上がって、自分が止められなくなりそうで。
「いっそ、壊しちゃえば?」
「……勝手なこというな」
俺はそういって彰太を睨みつけた。彰太はそんな俺の視線を一瞥すると、どこか呆れたような表情をした。
「なんかー、難しいな、お前らって」
そういってくしゃりと表情を崩す。それから俺と目を合わせて、気の抜ける笑顔をかました。
「お前もそうだけどさ、八巻咲も、一回も笑わなかった。ホント、そっくりだよ」
俺が最初に目にしたのは多分、光じゃなかったんだ。
「俺……笑ってなかった?」
彰太の言葉はまったく俺の知らなかったことをいった。笑ってないなんて、初めていわれた言葉だった。俺が半信半疑になって訊ねると、彰太は仕方ないなとでもいうように目を細めて、苦笑いを浮かべる。
「愛想笑いくらい覚えなさい」
咲に代われるものなんて、ここにはない。この世界も、きっとどの世界にも、咲以外にはないんだ。
俺が最初に目にしたのはきっと、咲だった。まだ名前もないそのときに、俺は咲を見た。きっと咲も、俺を見たんだ。光だって咲の代わりにはなれない。
たとえこの宇宙から光が消えても、俺達には残るものがある。形を映せなくても、触れれば輪郭はあるんだ。
俺は、笑えなくなったのか。
そう思うとおかしくて、はは、と音がこぼれた。涙が喉に落ちていくのを感じた。
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