君に会うために
畳と木の家具の匂いが漂う和室。目の前の立派な鏡台は、死んじゃったおばあちゃんが使っていたものらしい。今その鏡の中に映っているのは、小麦色の肌にシンプルなセーラー服を身にまとった少女。……まぁつまり私なんだけど。
「こんなもんでいいかな」
鏡を見ながら胸元の赤いリボンを整える。最後にもう一度全体をチェックして小さくうなずくと、鏡を背にしてふすまを開けた。
「おお」
隣の部屋で将棋しながら待っていたおじいちゃんとお父さんから歓声が上がる。
二人を前にして、私はちょっとしたファッションショー気分で、くるりと一回転し、斜めを向いて右手は後ろ頭、左手は腰というグラビアまがいのポーズをとる。二人とも喜んでくれる。わざわざ家から制服を持ってきた甲斐があったというものだ。……奥の台所から顔を見せているお母さんはあきれ顔だけど。
「つばさちゃんも中学生か。大きくなったものだなー」
「ですよねー。ボクも会社は朝早いから、なかなか制服姿は見られないんですよねー」
なんてお父さん。ちょっと鼻の下が伸びているのはどうかと思う。今度制服姿でお酌でもしたら、携帯電話買ってくれるかな?
それはさておき、私は壁時計にちらりと目をやって言う。
「私、ちょっと散歩にいってくるね」
「その格好で行くの?」
お母さんが眉をひそめる。
「うん」
「家にいるのも退屈だろうし、散歩ぐらいいいじゃないか。まぁこの辺も変わってないけどなぁ」
とおじいちゃん。
「そうですねー。道路を挟んだお向かいに青い屋根の家が建ったくらいですかねー」
「いや、あの家は去年からあったんじゃなかったかな……」
大人たちの言葉をしり目に私は玄関に向かって立ったまま靴を履く。革靴じゃなくて普通の運動靴。中学校でも同じ格好だ。
そんな私の元にお母さんが寄ってきて、声をかけた。
「お金持ってる? 暑いんだから水分補給には気を付けること。暗くなる前に帰ってくるのよ」
「はーい」
適当に返事をして玄関を開ける。真夏のもわっとした熱気が全身を包み込んだ。
田舎のおじいちゃんの家の周りはほとんどが畑である。青っぽい作物が植えられていたり、何もなくって茶色い土が見えたり、白いビニールがかぶさったりと様々。お向かいさんを含め所々に家が見える程度で、あとは畑、それに車がほとんど通らない幅の大きな道路、空き地ばっかりで見事に真っ平ら。太陽を遮るものは何もない。腕を振りまわし、容赦ない日差しに負けるもんかと気合を入れて歩き出す。乾いた畑とその土に覆われたアスファルトの道路。まるで砂漠の中を歩いているみたい。建物がじゃましているけれど、はるか先には地平線っぽいものが見える。けれど不思議なもので、二十分ほど歩いて駅前に近づいてくると平らな地面は少なって建物が目立ってくる。と言っても廃れた感じで、シャッターのしまったお店や、誰も住んでいなさそうな空のビルばっかり。私の目的地はそんなビルの一つだった。
「良かった。変わってない」
見上げるのは、目の前にある六階立てのビル。一階は食品スーパーが入っていたみたいで古い看板がつけっぱなしだけど、中身は空っぽ。立ち入り禁止のロープが張ってあっても、ガラスが外されていて出入りは簡単だ。
とはいえ一応立ち入り禁止。駅から近くそれなりに人が歩いている。見慣れない制服姿の私を不審げに見つめる人もいる。私は誰もいなくなったときを見計らって、素早くロープを乗り越えてビルの中に入った。錆と埃のにおいが鼻を突く。懐かしくって思わず頬がゆるんだ。
上に登る階段はシャッターが降りていて入れない。非常階段の扉も同じ。けれど去年、このビルを探検していた私は秘密の入り口を見つけたのだ。入って右側の奥。柱に隠れて表からは見えない位置に、男女共有の小さなトイレがある。そこには人一人通れる位の小さな窓がついていて、開けることができる。
私は砂埃で動きの悪い窓を力を入れて開けると、窓枠にお腹を乗せながら窓の外に出る。制服が汚れちゃったけど仕方ない。
窓の外はビルの裏手。表通りからは入ることも見ることもできない、すぐ隣の建物に囲まれた小さな空間である。そこをビルに沿って歩いていくと、ビルの外側に付けられて中から入れなかった非常階段がある。手すりの柵の下から足を伸ばして、メッキのはがれた階段を運動靴でコンコン叩いて強度の確認。うん。大丈夫そうだ。
私はビルの入り口と同じように張られている立ち入り禁止のロープがまたいで階段を登る。柵の目は細かいので、外から私の姿が見えることはない。ときおり吹き抜ける強い風に、涼しー、と和みつつ、ゆっくり登ってゆく。一階のスーパーみたいに他の階もお店とかが入っていたみたいで、普通のマンションに比べ、一つ一つの階の間が長い。階段の外に見える景色がどんどん変わっていくけど、あえて見ないようにする。サラダに付いているミニトマトと一緒。好きなものは最後まで取っておくのだ。景色を見ないよう下を向きながら階段を登り終え、ようやく屋上にたどり着く。――太陽の日差しを体中に浴びながら、私は顔をあげた。
「わぁ……」
一年前にも見たけれど、全然飽きない、何度もいつまでも見ていたい絶景が広がっていた。広大な平野には田畑とまばらな住宅がどこまでも広がって、平野の真ん中に所々見える林に囲まれた小高い丘が模様みたい。背の高いビルもマンションもない町で、ここは一番高い場所だ。強い風が制服をばたばたさせると、鳥になって空を自由に飛んでるみたいな感覚になる。フェンスの金網越しの光景も気にならない。このビルの屋上から見る景色は、遊園地の観覧車から見るものより、ずっと好き。
けれど私がここに来た理由はこの景色を見るだけじゃない。
「……よしっ」
気持ちを奮い立たせるため軽くこぶしを握って屋上を歩き出す。右手に広がる空への入り口の反対側には、さび付いた貯水塔が乗っかった屋上への通常の出入り口がある。もちろん鍵はかかって出入りできない。目的はその貯水塔の裏側だ。不安と期待を胸に秘め、角をまがった私の目に飛び込んできたのは、去年と変わらぬオレンジ色のビニールテントだった。
「秘密基地、まだあった……」
西日を避けるように置かれたテントにゆっくり歩みよると、ごぞごぞとテントの布地が動いて中から人が出てきた。
「耕一郎!」
「久しぶり。まさか君にまた会えるとはね」
テントから出てきたのは、私と同じくらいの年齢の少年だった。ちょっと長めのさらっとした髪にライトブラウンのフレームの眼鏡。その容姿も、一年ぶりの再会だというのに驚いた様子も見せずに余裕な笑みを浮かべているところも、まったく変わっていなかった。
少年の名前は川端耕一郎。学年は私のいっこ上。彼と出会ったのも一年前のこの場所だった。
◇◇
毎年お盆の時期になると、三日くらいお母さんのお父さんの家、つまりおじいちゃんの家に家族で泊まりに行く。自宅からは遠い田舎にあるので、夏休み中くらいしか行けない。お正月は逆におじいちゃんがうちに来る。おばあちゃんは私が物心つくころに死んじゃったから、ここにはおじいちゃんが一人住んでいる。お父さんもおじいちゃんもあんまり外出しないので、毎年家でのんびり過ごすんだけど、子供の私は、周りに同い年の友達もいなくて退屈だったりする。
「ねぇねぇ、帰り、一人で帰ってもいい?」
私がまだ小学生だった去年のこと。お母さんと二人で夕食の買い物に駅前まで行ったときのことである。
暇を持て余した私はちょっとした冒険をしたくて、心配するお母さんを強引に説得して一人で帰ってみた。もちろんまっすぐ帰っては面白くないのでわざと横道にそれながら歩いていたら、一階が空っぽのビルを見つけた。好奇心で忍び込んで探検してたら外にある非常階段を見つけ、屋上にまでたどり着いた。
「おおっ。すごい」
私は目の前に広がる景色に目を奪われ、時間を忘れて突っ立っていた。どれくらい見てたんだろう。ふと背後に気配を感じて振り返ると、後ろに同い年くらいの男の子が立っていた。
「あっ――」
見つめあうと、男の子はいったん視線をそらして、私が何かを言おうとする前に口を開いた。
「……何でこんなところにいるんだ?」
どこか非難するような口調。私はむっとしながら答えた。
「別にいいじゃん。そっちこそ何でここにいるの?」
「それは……ここは、僕の秘密基地だから」
その一言でむっとした気持ちはどこかに吹き飛び、私は目を輝かせた。――秘密基地?
「すごーい。それ、本当っ? 何があるの」
「……何もない」
「えー、なにそれー。つまんないっ」
私がぶーたれると、男の子はぽつりと言った。
「明日の三時、またここに来られる?」
「え、なんで?」
「それまでには君の期待する秘密基地を完成させてみせるから」
「本当に? うん。分かった、明日の三時だねっ」
まだこっちにいるし、どこに出かけるとも聞いていない。たぶんまた家で高校野球を見るか、おじいちゃんが趣味でやっている畑のお手伝いをするくらいだと思う。秘密基地が本当にできるかどうかはあんまり信じてなかったけれど、家にいるより楽しそうで、どこかわくわくしていた。
翌日。ちょっと散歩に行ってくると家を出て、約束どおりの時間に昨日のビルに向かった。おじいちゃんたちには、ビルのことも男の子のことも話していない。秘密基地は大人たちに内緒なのだ。
「待ってたよ。どうぞ」
屋上にたどり着くと、昨日の男の子が余裕げに待っていた。
「わぁぁ。すごい」
彼の背後にはオレンジ色のビニールテントが置かれていた。ただのビニールテントだったけど、灰色の屋上と青い空にオレンジ色が目立って、ものすごく新鮮に映った。
「ねっ、入っていい?」
「ああ。いいよ」
私は靴を脱ぎ捨てはしゃぎながら中に飛び込んだ。
中には漫画本が数冊。それにクーラーボックスに入ったペットボトル飲料が二本あった。むわっと蒸した空気とビニールの匂いも、普通じゃない感じがして秘密基地っぽかった。
男の子が後から入ってくる。テントは思ったより大きくて、二人で入っても狭くない。
「そういえば、まだ自己紹介してなかったよね。私は重信つばさ。六年生」
「僕は川端耕一郎。中一だよ」
「へぇ耕一郎って言うんだ。耕一郎って部活何やってるの?」
「……年上なんだけど呼び捨て? まぁいいけど。……って私?」
こういう反応には慣れている。髪の毛短いし、名字も名前も中途半端だし。
「悪かったね。女の子らしくなくって。確かに可愛い服着ないし日焼けで真っ黒だけど、来年は中学生だもん。制服着たら女の子っぽくなってるよ、きっと」
「あはは。それは是非見てみたいものだね」
笑われてしまった。くそーっ。いつか本当に制服着てきて、見返してやる。
「……まぁ早くて来年の夏になっちゃうけど」
「え?」
私の呟きが耕一郎に聞こえたみたい。私は、おじいちゃんの家に泊まりに来ていて本当はもっと遠くに住んでいること、毎年夏休みの時期にこっちに来ていることを伝えた。
「そっか」
驚いた様子はなかったけれど、どこか残念そうだった。確かに一年は長い。せっかく仲良くなれそうだったのに。意識したら、私までさびしい気持ちになっちゃった。
「一年後。それまで秘密基地あるかな……」
「大丈夫だよ。このビルは前からこのまんまだし、大人たちに見つからない限り、秘密基地はここにあるよ」
「うん」
その後私たちは秘密基地の中で、漫画読んだりお喋りしたりした。特別なことをしているわけじゃないのに、すごく楽しかった。
やがて日が暮れ始め別れの時間を迎えた。
「耕一郎、じゃあねっ」
「じゃあ」
来年また会う約束はしなかった。約束しなくても会える、そんな予感があったから。
◇◇
その予感は当たった。だってこうして私と耕一郎は思い出の秘密基地で再会できたんだから。
「ねぇねぇどう? 去年言ってた私の制服姿だよ。見違えたでしょ」
「まぁ馬子にも衣装って感じだね」
「えへへ」
耕一郎に褒められてしまった。柄にもなく照れてしまう。耕一郎がぼそっと「いや……てないから」って呟いたけど、よく聞こえなかった。
私は照れ隠しのため耕一郎の脇をすり抜け、テントに向かう。
「さてと……秘密基地の中はどうなってるかな」
「驚くよ」
耕一郎の言葉を背にテントを開ける。
「……えーと」
中にあったのは、なぜか古ぼけたコタツだった。
「秘密基地といったら、コタツだろう。物置にあった古くて使ってないのを持ってきたんだ」
振り返って見ると耕一郎はどこか誇らしげ。それをいうなら、コタツの中の秘密基地、じゃないかな? ご丁寧にふかふかな毛布まで完備している。見るからに冬の風物詩。これでミカンが乗っかっていれば完璧なのに。ただテントの真ん中にどーんと置かれたコタツは思ったより似合っていた。狭苦しいけど、耕一郎の言うように、なんとなく秘密基地っぽい。見るからに暑苦しいけれど、押してはいけない非常ボタンがあったら押したくなるのが私の性格なのだ。恐る恐るコタツの中に足を入れてみる。
「おおっ」
日光にさえぎられているからか思ったよりは涼しい。けれど毛布は蒸し暑くて、汗でべた付いて……
「だぁぁ。やっぱむり」
私はコタツから抜け出し基地を飛び出た。強い日差しがまぶしくて暑いけれど、風を浴びられるこっちの方がずっと気持ちいい。風を求めて、屋上のフェンスに身体を預ける。フェンスびっくりするほど熱かったけれど、にじむ汗が温度を下げてくれる。
「あんまり外にいると日焼けするよ」
コタツに入った私の反応を笑いながら、耕一郎が寄ってくる。
確かにこの屋上はこのあたりで一番空に近い場所。地上にいるより心なしか日差しは強く感じる。
「あはは。大丈夫。もう手遅れだって。部活で十分焼けてるし」
私は振り返ってセーラー服から伸びる腕を見せ、焦げ茶に染まった頬を指さす。制服着ていても、小麦色の肌は去年と変わっていない。
「部活って、テニス部?」
「なんで分かったの? 言ったっけ?」
「日焼けしているということは屋外の部活。あとは君の立ち振る舞いから想像してね」
「おお。すごいすごいっ」
耕一郎は呆れ顔でいった。
「……感心されてもな。ごめん。タネを明かせばさっきアンスコが見えただけ。中学じゃチアリーディングとか凝ったものはなさそうだし」
「あ、見えた? さっきから風が強いしねー」
私はスカートを捲り上げてみせた。耕一郎が顔をそらす。さっき見たのに、変なの。
顔をそらした耕一郎の視線の先を追うと、絵の具をこぼしたかのような青空が広がっていた。
「ねぇ耕一郎、空はどうして青いの?」
「もともと太陽の光は何色も混ざっているんだ。その光が空気に当たって見える色が変わっているだけ。虹は七色だし、夕焼けは赤いだろう」
「へぇ。そうなんだ。じゃあ、雲が浮かんでいるのは?」
「それは……」
私は普段は気にもしないことを次々と質問した。耕一郎のすらすらとした答えを聞くのが楽しかった。私たちはそのまま風を浴びながらお喋りしたり、テントに戻ってコタツの上に腰掛けながら漫画を読んだり、また景色を眺めたりして、気づくと空が徐々に色を変え始めてきた。もうすぐ日が暮れてしまう。
「さてと、そろそろ帰るね」
「うん。そうだね」
「耕一郎は帰らないの?」
「僕はもう少しここにいるよ」
「そう」
一緒に帰りながらもう少しお喋りしたかったけれど仕方ない。そういえば、耕一郎の家ってどこにあるのだろう。まぁ耕一郎も私がどこから来ているのか知らないんだけどね。
私は真っ黒へと変わる前の透き通った透明な空を見上げた。ちらほらと気の早い星たちが光り始めている。
「ここから見る夜景って綺麗かな」
「真っ暗だよ。田舎の夜景なんてそんなもん」
耕一郎が笑う。
「けど夜空はとっても綺麗な気がする」
私がそう呟くと、耕一郎はちょっと顔をしかめた。
「夜中ここに出入りするのは感心しないな。もともと廃墟のビルに女の子が出入りしていることだって危険なのに」
「言ってみただけだって。それじゃね」
私は笑って風の吹きぬける外階段を駆け下りた。
◇◇
あたしは彼の言葉を思い出していた。背後に感じる見知らぬ男の気配。やっぱり夜は危険だった。振り返りたくても怖くてできない。振り切るため、自然と小走りになる。それが失敗だった。
感づかれたと知った男が突然走り寄ってきた。腕をつかまれ羽交い締めにされる。とっさのことで声が出ない。それでも何とか声を上げようとしたら、右手で口をふさがれた。
「んっ――んーっっ!」
声にならない悲鳴。暴れるけれど逃れられない。背後の男に右手で口をふさいだまま押さえつけられる。男の左手が前に回され、豊満な胸を鷲掴みにされる。
「い、いやっ」
薄々分かってはいたけれど、改めて自分が何をされようとしているのか思い知らされ血の気が引く。
「やだっ、止めてっ」
男に無理やり押し倒された。倒されたとき頭を打って悶絶していると、制服をつかまれ強引に引き裂かれた。薄い布地に覆われただけのたわわな果実が男の眼前に晒される。男の腕があたしの身体に伸びる。あたしはぎゅっと唇をかみ締めて、瞳を閉じた。
「……おい」
「何だい? 今いいとこなんだけど」
私は無言で耕一郎が読んでいる雑誌を取り上げた。耕一郎は悪びれた様子もなく笑う。
「秘密基地って言ったら、エロ本だよね」
「まったく縁起でもないもの読みやがって……」
「まぁ豊満という点で君とは違うけどね」
「やかましっ」
普段は胸なんてないほう楽って思っているのに、耕一郎に言われると、なんかむかつく。
「別に胸が大きけりゃ良いってもんじゃないもん。ほら、よく言うじゃない。肩こるって。それに胸の大きい女の子は馬鹿だとも言われてるし」
「けれど君は成績も悪いだろう」
「……どうして分かるの?」
「馬鹿と何とやらは高いところが好きってね」
きょとんとする私に、耕一郎がしれっと言う。
よく分からないけど、なんとなく馬鹿にされた気がする。
「何とやらって、どういう意味だっ?」
「いや、突っ込みどころそこじゃないから」
耕一郎は苦しげにおなかを抱えて笑っている。やっぱり馬鹿にされたみたいだ。
でも、まいっか。耕一郎が笑ってくれるなら、馬鹿でもいいかもしれない。
今日もコタツが堂々と真ん中においてある。私と耕一郎はコタツの上で互いに背中をくっつけるようにして座った。背中越しに耕一郎が言った。
「今日も来たんだね」
「うん。今日までこっちにいるから」
「そう」
「うん。耕一郎もいたんだ」
「僕もいつもここにいるから」
「そうなんだ。私、明日帰るから、明日は多分これないと思う」
「そう」
「うん」
なんとなく会話がとまる。
「ね、ねぇ耕一郎って、携帯電話持ってる?」
私はつい口から飛び出た言葉にびっくりして、耕一郎の背から離れた。振り向くと、耕一郎は首を横に振った。
「ううん。まだ持ってないよ。そろそろ最新機種が出るのを待って買ってもらうつもりだけど。それが?」
私はぱたぱたと顔の前で手を振る。
「そっか。いや私も持ってなくって、耕一郎はどうかなって。ひどいよね。友達じゃ小学生のときから持ってる子もいるのに、うちは高校生になるまで駄目だって、お母さんが」
「まぁ家の事情は人それぞれ違うからね」
なーんだ。持っていないんだ。うん。それじゃ仕方ないな。ま、今年もちゃんと会えたんだし、きっと大丈夫だよね。
「携帯がどうかしたの?」
「ううん。なんでもない」
私はうつむきながら、ぽつりと呟いた。
「……ねぇ耕一郎、来年も秘密基地、あるよね?」
「大人たちに見つからなければね」
去年と同じセリフだった。それに気付いて私が顔を上げて笑みを浮かべると、耕一郎もおんなじように笑った。
今日も耕一郎は残ると言うので、私は一人で廃ビルから出た。昨日帰りが遅くなってお母さんに怒られたから、今日は早めに秘密基地を出なくちゃいけなかった。
次に来られるのはまた来年。私は廃ビルをしっかりと目に焼き付けて歩き出した。少し先に、ぽつんと置かれた自転車が目に入った。自転車があればもう少しゆっくりできたんだろうけど、さすがに勝手に乗って帰ることは出来ない。
「おお、つばさちゃんじゃないか」
名前を呼ばれて驚いて振り返る。声の主は自転車に乗ったおじいちゃんだった。買い物帰りなのだろうか。自転車の前かごに私の好きなジュースのおっきなペットボトルが二本見えた。お父さんとお母さんの姿はない。自転車は一台しかないので二人は家にいるのだろう。
「一人で出かけるようになってどこで遊んでいるのかと思ってたが、このビルだったのか」
おじいちゃんは自転車を止めると、頭上を見上げた。
「あのっ、この事、お母さんたちには……」
大人たちに知られたら、秘密基地がなくなっちゃう。それに耕一郎の言葉じゃないけれど、女の子が一人廃墟のビルを出入りしていたら、怒られて外出禁止にされてしまうかもしれない。
おじいちゃんがぽんと私の頭を叩いた。
「言わんよ。ただあんまり感心しないな。もう古くなっているし、以前転落事故のあったビルだからなぁ」
「え?」
「もうかなり前になるかな。つばさちゃんと同じくらいの年頃の少年がこのビルの屋上から転落してね。事故か自殺か結局分からなかったのだが。このビルも、それが原因ってわけではないだろうけど、後を追うように店が閉まっていって、こうなったのさ」
「おじいちゃん。その人の名前ってわかる?」
ビルの屋上の少年。不意に耕一郎のことが頭に浮かんだ。
「さぁ、そこまではなぁ」
おじいちゃんは教えてくれなかったけど、私の頭の中にもやもやとしたものが残った。
翌日。私は秘密基地に向かっていた。いつも実家に帰る日は渋滞に巻き込まれないため早めに出発するんだけど、無理を言って時間をもらった。不審がる両親におじいちゃんが「友達ができたみたいだよ」と言ってくれたので、割とすんなり出ることができた。
空は今にも雨が降りそうなほど真っ暗。じめじめというより、鍾乳洞に入ったときに感じるひんやりとした空気が肌に触れる。いつもこっちに来ているときの空は青一面だったのに、珍しい。
私が秘密基地に向かっているのは、空を覆う雲のようなもやもやを晴らすため。
あのビルの屋上でしか耕一郎と会っていない。耕一郎があのビルから出るところも見ていない。いつも私を帰そうとする。夜中にあそこに行こうとする私を止めたのは、夜になると何か問題があるから?
いつもの様に窓枠を乗り越え、非常階段から秘密基地へと向かうと、耕一郎はいつものようにそこにいた。昨日もおとといも去年も……
「やぁ。今日も来たんだ。帰るんじゃなかったっけ?」
どこか口調に慌てた感じが含まれているような気がする。
「ねぇ、昔ここから転落して死んじゃった少年の話って知ってる?」
耕一郎は驚いた様子を見せる。私は続ける。
「ねぇなんで耕一郎はいつもここにいるの? 私がここに来るといつも耕一郎がいる。今日だって来るって言ってないのに会えた。もしかしてずっとここにいるんじゃない? 耕一郎って実は……」
「そうか。知ってしまったんだね」
ゆらりと身体を揺らしながら耕一郎が私に迫る。
「……僕がもうこの世の人間でないということに」
思わず後ずさった私の背中にがんっと衝撃が走る。屋上のフェンスだった。逃げ道はない。
耕一郎が手を伸ばし、私の腕を掴んだ。
「いやっ。離してっ」
「馬鹿っ。危ないだろっ」
振り払おうと暴れる私の身体を耕一郎が強引に抱きしめる。って……あれ、幽霊って触れるんだっけ?
私は抵抗を止め、きょとんと耕一郎の顔を見る。気づくと彼は笑っていた。
「まさか少年という共通点だけで、僕を幽霊扱いするなんて。いくらなんでも単純すぎだって。もう、本当に君は面白いね」
「で、でも初めて会ったときと、あんまり変わってないし」
「成長遅くて悪かったね」
不機嫌そうな表情で、耕一郎が乱暴に私を解放した。実は気にしているのだろうか。
耕一郎から解放された私の身体に冷たい風が当たる。そして今更ながらに、さっきまで耕一郎に抱かれていたことに気づき、耕一郎の体温を思い出す。幽霊とは違う確かに生きた身体。ちょっと汗で湿っていて厚くて大きな手。背はそんなに大きくないのに、思ってた以上にがっしりしていて……、あれ、なんだか急にどきどきしてきた。
「大体、服だって昨日と違うし、漫画のページをめくってジュースを飲んでいるのを君も見ているはずなのに……聞いてる?」
「あ、うん」
耕一郎の声に我に返った。
「でもここで転落事件があったなんて知らなかった。僕もずっとこの町に住んでいるわけじゃないからね」
「え、そうだったんだ」
それは初耳だった。
「それより平気なの? 今日帰るんじゃなかったっけ」
耕一郎に指摘され思い出す。やばっ。ここからおじいちゃん家に帰るだけでも三十分近くかかるんだ。あまり時間がない。
「それじゃ、そろそろ行くね」
「うん」
耕一郎がうなずく。
「またねー」
私は手を振って階段を下りた。次会えるのは一年先だというのにどたばたした別れ。階段を降りながら思う。耕一郎は気づいたかな。
去年は「じゃあね」だったのが「またね」に変わったことに。
◇◇
「おお。つばさちゃんか。真っ白で一瞬誰だか分らなかったよ」
「えへへ」
季節はめぐって、また灼熱の太陽が幅を利かせる夏を迎えた。今年もまた私たち一家はいつもと同じ時期におじいちゃんの家にやって来た。中学二年生となった私は、ようやく日焼け止めを使うようになっていた。男の子みたいだった髪の毛も少し伸ばし始めた。
今年はお父さんが会社から帰ってきてから出発したので、こっちに着くころには夜になっていた。
「明日、たまには一日かけて久しぶりに四人でどこか出かけましょうか?」
おじいちゃんと四人、遅めの夕食をとっているときお父さんがおじいちゃんに言った。
「わしは別にかまわんが、つばさちゃんはどうなのかな?」
おじいちゃんが意味ありげな視線を私に送る。私は即答した。
「ごめん。私、別の用事があるから」
お父さんががっかりして、おじいちゃんが笑う。心の中でお父さんごめんなさい、と謝りつつ、私はテーブルに並べられたサラダのプチトマトを真っ先に摘んで口に入れた。
翌朝、朝食を済ませた私はめったに着ないワンピースに着替え、おじいちゃんの家を出た。「友達」のことはお母さんも知っているので、特に追及されなかった。
今年の夏も暑い。まぶしい日差しに左手をかざす。腕にも日焼け止めがばっちり塗ってあるので大丈夫。右手にはちょっと前に買ってもらった携帯電話がある。別にお父さんに制服姿でお酌したわけじゃないけど、お母さんではなくお父さんから先に攻略して買ってもらったのは事実。折畳み式のコンパクトな携帯電話を持っているだけで、去年よりずっと大人になった気分だった。
両手を後ろで組み、わくわくしながら畑に囲まれた道を歩く。足が軽くて強い日差しも気にならない。けれど、しばらく歩いたときだった。
あれ……なんかオカシイ。どこか違和感あって、そして気づいた。そうだ、あのビル、秘密基地のある背の高いビルが見えないんだっ。
私は思わず走り出して――足を止める。落ち着け。気のせいかもしれないし、ほかの建物ができて見えないだけかもしれない。うん。きっとそうだ。そうに違いない。そう自分に言い聞かせて、私は逆にゆっくりと歩みだした。歩幅は短く、なるべく上を見ないで道路を眺めながら歩く。太陽の光を背に受けた自分の影がふわふわ動く。歩いても歩いてもまとわりついてくる日差しが私を不安にさせる。そしてビルの前――いや、ビルがあった所にたどり着いた。
「……そんな」
古ぼけた鉄筋コンクリートの塊は跡形もなく消え去って、地面の土が露出していた。思ったより小さな空き地の真ん中に、「売地」とかかれた木でできた看板が立てられていた。
それだけ。
秘密基地のオレンジ色のテントはどこにも見当たらない。耕一郎の姿もどこにも見当たらない。
もしかして場所を間違えたのかもしれない。そう思って周辺を回ったけれど、ここで間違いないようだ。私は同じ場所に戻ってきて立ちすくんだ。もしかしたら耕一郎が来るかもしれない。そう思って、日差しが照りつける中ずっと立ち続けた。
暑さで頭がくらくらしてきた。このまま突っ立ってたら倒れてしまうかもしれない。なのに耕一郎は来ない。当たり前だ。だって耕一郎は秘密基地にいるのだから。秘密基地がなければ、耕一郎に会えない。
なんで耕一郎の連絡先を聞いておかなかったんだろう。一年前の私を呪う。携帯電話がなくても家の電話番号だって良かったのに。どこに住んでいるかだって、正確な場所なんていらない。せめてどの辺に家があるのかぐらいは聞いておけば良かった。
履き慣れないスカートのポケットに入った携帯電話が重く感じる。
去年約束も何もしていなかったのに会えたから、きっと今年も大丈夫だと楽観視してた。聞いてしまったら、逆に会えなくなってしまうかもしれない。そんな思いも心の片隅にあったのかもしれない。
不意に声をかけられた。
「君、どうしたの?」
私のことを「君」と呼ぶのは耕一郎くらい。でも今のニュアンスは違う。振り返ると警察の人が立っていた。ずっとこの場所にいた私を不審に思って誰かが通報したのかもしれない。
「あ、な、何でもないですっ」
それだけ言うと、私は警官に背を向けて走り出した。
「あ、ちょっと待って」
後ろから声をかけられたけど怖くて全力で走った。何も悪いことしていないのに。角を曲がって、曲がって、走って、警官が追ってきていないことは気づいていたけれど走り続けて……息が苦しくなって、ようやく私は足を止めた。真夏に走ったため、あっという間に汗があふれてきた。視界がにじむ。きっと汗が目に入ったんだ。そうに違いない。
ハンカチで乱暴に顔をぬぐう。さっぱりした。視界も回復する。けどすぐにまたぼやけてきた。私はようやくそこで汗とは違うものが瞳からあふれてきていることを知った。
家に帰った私は、泣きはらした顔は誤魔化せず、お母さんに何があったのか、何度も聞かれた。私は何も答えなかった。事実を自分の口から語りたくなかったから。お父さんは私の様子に何も気づいていないみたいだった。……それはそれでちょっとどうかと思うけど、今は有難かった。もしかすると、あえて気にしないふりをしてくれているのかもしれない――ってそれはないか。
おじいちゃんにだけ事情を打ち明けた。お母さんには言えなかったけど、おじいちゃんは私があのビルに出入りしていたことも今は更地になっているのも知っているから、少しだけ話し易かった。おじいちゃんは黙って私の話を聞いてくれて、お母さんには自分からうまく説明しておく、と言ってくれた。
おじいちゃんのおかげでようやく解放された私は、ふと時計を見た。まだお昼前だった。今日一日は、やけに長く感じた。
翌朝。朝食を食べ終えた私は、お父さんと並んでぼんやりとテレビを見ていた。家の中はクーラーが効いていて涼しい。秘密基地よりずっと快適で心地よい。今日も明日もずっと家の中にいよう。そうぼんやり考えていると、視界の隅でおじいちゃんがちょいちょいと私を手招きした。私は立ち上がっておじいちゃんの元に向かう。
「どうしたの?」
「今朝、新聞を取ろうとしたら、こんな手紙が入っていたんだよ」
おじいちゃんが手渡してくれたのは普通の官製はがき。宛名には重信つばさ様と私の名前。けれど住所は書いてなく切手も貼っていない。差出人の名前もない。裏返してみる。
「秘密基地移転のお知らせ……拝啓、残暑の厳しい今日この頃……」
最後まで読まなかった。私はがばっと顔を上げる。
「おじいちゃん、自転車貸してっ!」
「おうっ。行ってこい」
おじいちゃんはにやっと笑って親指を立てた。
私は部屋着のまま外に出て、おじいちゃんの自転車に飛び乗った。身長が同じくらいだから乗りやすい。今まで歩いていた道をすっと自転車で通り過ぎるのが不思議に感じる。私は左ひじをハンドルに乗っけたまま、右手に持つはがきに目をやった。
拝啓
残暑の厳しい今日この頃いかがお過ごしでしょうか。
このたび、秘密基地は下記へと転居しました。
お近くにお寄りの際は、ぜひ足を運んでください。お待ち致しております。
敬具
几帳面な文字の下に書かれた地図に目をやる。そして私は来た道を引き返した。
「道、間違えたっ」
いつもとは反対方向に自転車を走らせる。何度も道に迷いながらたどり着いたのは、ビルの屋上から何度か見えていた小高い森に囲まれた丘の一つだった。
「ここ……?」
自転車を止め、息を整える。畑やビルでは聞こえなかったセミや虫の声が耳を突き破るんじゃないかと思うほどうるさい。止まったせいで噴き出した汗を乱暴に袖でぬぐい、風で乱れた髪を整える。家を飛び出したのでハンカチも櫛も手鏡も持ってこなかった。
私はすぅっと息を吐いて、木と木の隙間の獣道のようなところに足を踏み入れた。公有地のため立ち入り禁止、と書かれていたけれどそんなの関係ない。不安と期待の入り混じった気持ちのまま、朝露にぬれた地面を踏み締めるように進む。そして少し木が開けたところに、見慣れた青いテントが目に入った。そして一人の少年の姿。
「耕一郎っ」
返事はなかった。近寄ると耕一郎は近く木に寄りかかるようにして突っ立っていた。彼の首には輪になったロープが巻かれていて、そのロープは寄りかかっている木の枝に結ばれていた。
「――――っっ」
声も出なかった。セミの鳴き声だけが辺りに響く。
私は震える足で彼の元に近づき――そのまま横を通り過ぎてビニールテントの基地に入った。
「ふー」
靴を脱ぎ両足を放り出して伸ばし一服する。今になって自転車を全力でこいだつけが回ってきた。明日は筋肉痛かもしれない。今日のお風呂はゆっくり入ろう。うん。そんなことを考えながら、テントの中に用意されていたペットボトル飲料を口に付ける。乾いたのどと身体に水分が行き渡ってゆく。うーん、生き返る。
しばらく現実を忘れてテントの上部を見つめていると、首に縄をつけたまま耕一郎がテントに入ってきた。よく見るとお腹に包丁が刺さっていた。
「暑いねー」
私は顔だけ振り返って言った。
「うん」
彼がうなずく。
「秘密基地って言ったら死体だよね」
先に言ってやった。
「うん」
耕一郎の不満気な顔を見て、ついに私は噴き出してしまった。
「……笑われるとは予想外だった」
耕一郎は憮然顔だったけど私が笑っているうちに、頬を緩めた。そんな彼に向けて、心の中で言ってやった。
馬鹿っ。本当はすごく心配したんだからっ。こっちの心臓が本当にとまっちゃうんじゃないかってくらい驚いたんだから。
なんて女の子っぽい可愛いことは口にできないけどね。
代わりに私は手にした「移転のお知らせ」を、隣に座った耕一郎に見せる。
「どうして私の家……じゃないけど、おじいちゃんの家が分かったの?」
耕一郎だから。何となくそれでも納得しちゃいそうだけど、知りたかった。それだけじゃない。知りたいこと――話したいことがいっぱいある。
「向かいに住んでるから」
「え?」
意味が分からず聞き返してしまう。それって……
「もしかして、青い瓦の家? 道路を挟んだ向かいにある」
耕一郎がうなずいた。
「なにそれっ。すぐ隣に住んでたのっ」
「……まぁね」
耕一郎は照れるように頭に手をやって話し出した。
◇◇
それは二年前にさかのぼる。
彼の一家は、耕一郎が小学校を卒業とするとともにこちらに移り住んできた。両親が脱サラして農業を始めたのだ。中学に入学して友達も出来たけれど、みな離れたところに住んでいた。一番近くにある向かいの家には、老人男性が一人で住んでいるだけだった。
そうして迎えた夏休みのある日。その家に見慣れない自動車が止まっていた。そして自分と同年代の子供を見かけた。つまり私だ。
「まぁ最初は男だと思ったんだけどね」
「……そうだったね」
だから去年はわざわざセーラー服着てきたんだ。そうそう、昨日だってちゃんと女の子っぽい服装していたのに。今日は飛び出してきたから可愛げもなんもない格好だ。ちょっと残念。
「別に同じくらいの子が隣に来たからって、挨拶するつもりはなかったんだ。向こうだって戸惑うだろうしね」
だが一つの偶然が起こった。耕一郎が駅前の本屋で涼み目的の立ち読みをしているとき、たまたまスーパーから出てきた私を見つけたのだ。一人で家に帰るとお母さんに告げて探検している私を。
耕一郎は不自然にあたりをきょろきょろ見回している私を見て、道に迷ったのではないかと思い、そっと後を追った。そして秘密基地があったビルに入り込む私を見かけたという。私はてっきり耕一郎が先客だったと思ったけれど何てことない。屋上からの景色に見とれているうちに、耕一郎があとから登ってきて私を見ていたんだ。
「まぁなんていうか、君を付けてきたことを知られるのが恥ずかしくて、つい秘密基地だって言っちゃったんだ」
「けど予想外に私が食らいついた、と」
「そう」
耕一郎が笑い、私もつられて笑顔になる。
私を帰した後、耕一郎は有言実行。家にあった使っていないテントを持ち出して、本当に秘密基地を作ってしまったのだ。
そして私が実家に帰るとテントは片付けた。翌年の夏、私が夏休みに帰省するのは知っている。いつ来るかは分からないけれど、見慣れない車が向かいの家に止まっていれば、それが私たちだと推測出来る。そうしたら秘密基地を作って待っているだけ。私が家から出るのを見てから耕一郎が家を出ても、基地までは徒歩で三十分くらいかかる道のり。自転車なら私とすれ違わないよう畑を迂回しても余裕で先回りできた。
耕一郎がぽりぽりと頬を掻く。
「去年の三日目は焦ったよ。帰るって言っていたのに秘密基地に向かったから。その前の日のうちに片付けていた秘密基地を慌てて作り直したんだ」
「ああ、あの幽霊騒動の……」
耕一郎がどこか慌てた様子だったのは、このためだったんだ。いつも私を先に帰していたのは、一緒に帰って今更お向かいに住んでいることを知られたくなかったから。わざと別の道を歩くのは暑くて疲れるし、乗ってきた自転車で先に帰るのも、向かいの家にある自転車と同じだ、と特定されることを警戒したためらしい。なんとも用心深いことである。
私がこの町を去り、季節がめぐって、冬に差し掛かったころ、ずっと手付かずだったビルの解体工事が決まった。そして年明けにはすっかり更地となってしまったという。
残念だけど仕方ない。受験生となった耕一郎はそう思った。もう中学三年。いいかげん秘密基地から卒業しなくてはならない。そして夏休みを受験勉強に費やしている中、私たち一家がおじいちゃんの家にやって来た。
「正直自分が秘密基地のことをそう考えていたから、君ももうあそこには行かないんだろうと思い込んでいたんだ。けれど僕の家から、午前中の早い時間から真っ先に一人家を出た君が見えた。気になって少し経ってからあそこに行ってみると、もう何もないところにずっと立ちすくんでいる君がいた」
「み、見てたんだ……」
恥ずかしさのあまり体温が上がった気がする。
耕一郎は大急ぎで家に戻った。そして物置にしまったテントを引っ張り出して、昨日の午後を使って、この場所に秘密基地を「移転」させた。
「でもわざわざそんなことしなくても……」
私はあきれ返ってしまった。更地の前で突っ立っている私に声をかけることもできたし、おじいちゃんの家にいる私を訪ねることもできたのに。お向かいだし。
「だって君は秘密基地がなくなってショックを受けていたんだろう。この町に来るといつも秘密基地に訪れていたし」
「……え?」
さも当然のような口調だった。
耕一郎はちょっと勘違いしてる。確かに秘密基地には来ていたけれど、その目的はそこに行けば耕一郎に会えるからであって。
でも……私はテントを見回し、ちらりと耕一郎を覗き見る。
耕一郎は、私がビルの跡地の前で立ちすくんでいてから一日かからないで、秘密基地を作って、秘密基地ライフを楽しむためにジョークグッズを使って死体役までしてくれた。
それは私のためなんだよね? いまはそれだけで、充分。
「耕一郎、背が伸びたね」
今更だけど、私は耕一郎を見つめて言った。初めて会ったときは同じくらいだったのに、今はまるで私が縮んだみたいだ。
「成長期だからね。……君も変ったね。昨日見たときは一瞬誰だか分からなかったよ」
「でしょ。いつも真っ黒だったもんね。えへへ。この歳になってようやく日焼け止めを塗ることを覚えました――あ」
「どうしたの?」
「慌てて飛び出してきたから、日焼け止め塗るの忘れちゃった」
「今日も日差しが強いからすぐ赤くなっちゃうよ」
「うん。だったらもう少しここにいる」
大きく身体を伸ばしてテントの大の字になると、私の手が耕一郎に軽く触れてしまった。二年たって私たちは成長した。テントが小さく感じる。
セミの鳴き声が相変わらずうるさい。耕一郎と話したいことがいっぱいあったのに、何を話していいのか戸惑ってしまう。
どうしよう。……うーん。よしっ。決めた。
私は身を起き上がらせ、なるべく自然な感じで言った。
「あっそうだ。そういえば耕一郎、去年携帯電話買ってもらうって言っていたよね?」
「うん」
うなずいて耕一郎が取りだしたのは、私が持つような折り畳みのじゃなくて平べったくって、指で画面を押すやつだった。
「それって、電話もできるんだよね」
「うん」
「実は私も携帯電話買ってもらったんだ」
大きく深呼吸。
「――せっかくだから、電話番号の交換しない?」
「いいよ」
――やったっ!
私はズボンのポケットに手を突っ込んで――思い出した。
「……あ、携帯電話、家に置きっぱなしだった」
耕一郎の遠慮ない笑い声が秘密基地に響き渡った。




