〆S35 罪と罰
耳に障る衣擦れの音。その音がどこから来るものなのか、容易に想像はついた。広場に溢れた黒衣の群。それは異常な光景だった。数で言えば、噴水広場で見た数の比じゃない。その群のほとんど今ある一点に視線を集中させていた。
「従順なる諸君、剋目せよ」
降りしきる雨の中、高台の上の黒衣の男は声高らかにそう告げた。
「神はこう告げておられる」
高台の男の後ろには、鉄錠で手を繋がれた幾人もの人々の姿が見られた。そして、その脇には、さっき見たあの得体の知れない大きな器具。高く伸びた二本の棒の間に取り付けられた鈍い刃、そしてその下には鉄版に首を固定されもがいている男の姿があった。
「これは粛清である。罪人の不浄なる魂は、死を以って穢れ無き魂へと浄化される。罪人の死を以って汝達もまた気づくであろう。この者が犯したその罪の深さを、そして神の偉大なる御心を」
猿轡を嵌められているのか、鉄板に首を固定されている男の金切り声が、十数メートル離れたここまで伝わってきた。
「さあ祈るがいい。神の前に祈るがいい」
黒衣の司祭がそう告げると、一斉に黒衣の従者達が祈りの合唱を上げる。そこは狂気で溢れていた。秩序という名の歯車が完全に狂った世界。司祭の合図と共に、頭上に掲げられていた刃がゆっくりと動き、そして鈍い金属音と共に刃が真下へ落とされる。
「ぎゃぅ……!」
言葉にならない男の悲鳴。強張った男の身体がぴくぴくと痙攣する傍らでは、切り落された首が鮮血を撒き散らしながら転がっていた。その光景を前に、僕らは何もする事ができないまま、ただただその狂行を見つめていた。傍観者と非難されるのは構わなかった。助ける気持ちが無かったわけじゃない。ただ、悪夢のようなその光景を前に動けなかった。
赤い鮮血が広場に広がると、すぐに次の犠牲者が拷問台に縛られる。再び上がる血飛沫。その光景が幾度となく繰り返され、そして、また次の犠牲者が拷問台に掛けられた。動きの取れなくなったその子はしきりに顔を上げて何かを訴えかけていた。見れば僕らよりも幼く見える少女だった。女子供でも容赦しない、その姿勢からいかにこの黒衣の連中が狂ってるか理解するのは容易だった。止めたくても止められない。目を伏せたくても伏せられない。ただどうしようもない葛藤が湧き起こる中、目の前の惨劇に釘付けにされていた。
「血の粛清を」
黒衣の司祭の言葉と共に再び凶刃が動きを見せたその時だった。
「やめろ!!!」
自分でも思ってもみない行動に、僕は即座に自分の犯した過ちに気づいた。黒衣の無感情な視線が一斉に寄せられる中、完全な静寂が辺りを包んだ。
「馬鹿野朗!逃げるぞマウス!!」
フェザの怒声が聞こえた。逃げなきゃいけないのは分かっていた。だけど足が竦んでしまって咄嗟に僕はその場から動けなかった。司祭の手招きで黒衣の従者達が静かに迫ってくる中、僕の思考は完全に崩壊して行く。
「うあぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
叫び声と共に、僕は何を思ったのか従者の群れに向かって突進した。
黒衣の従者達の間を強引に払い除けるように、一直線に走り抜ける。そして僕は司祭横の拷問器具に取り付けられている彼女の元へと滑り込んだ。予想通り彼女の口には猿轡が嵌められていた。猿轡を外す前に、まずはこの首を拘束している鉄板をどうにかしないと。
両脇を固定している鉄の重りを蹴り飛ばし外すと、力任せに鉄版を引き上げる。そのまま拘束されていた彼女の身体を引き起こし立たせた頃には、僕の周りは完全に黒衣の従者達に囲まれていた。今ゆっくりと伸びてくる従者達の白い手。
「待て……」
黒衣の司祭がそれを諌めた。何が目的なのか、じわじわと嬲り殺す気なのか。正直、僕はそんな事はどうでも良い程の激しい感情に囚われていた。怒りでも恐怖でも無い、極限に追い詰められた人間が覚えるその感情は言葉では言い表せない一種の高揚感に似た感覚。
この感情を覚えるのはこれが初めてじゃない。そして、この感情になった時から、僕は身体の中に湧き起こるある異変に気づいた。右腕に感じる奇妙な違和感。その違和感をぶちまけるように、僕は大声で再び叫び声を上げた。
「あぁぁぁぁぁぁ!!!」
閃光と共に、僕はその場に立ち尽くしていた。こんな時だけ、僕の右手に宿る奇妙な力。その炎は僕の右腕を包み込むように赤々と燃え上がっていた。右手を纏う炎を見て、従者達が揃って後退りを始める。
「近づいたら殺す」
それは僕の言葉だった。右手の炎で瞬時に、拘束されていた彼女の両手を解放する。足元に転がっている犠牲者達の首を見て、僕の紅炎はよりその輝きを強めた。
だが身を退けている従者達の中で一人だけ、一歩前へ進み寄ってくる影があった。
「童子よ。そう憤りたつな」
そう言って司祭はまた一歩近づいてきた。その表情は依然黒衣の影に隠れて見えない。
「近づいたら殺すって言っただろ」
僕は、右手の炎を男に向けて牽制する。しかし、司祭の歩みは緩まない。
それを見て僕の中で、何かが切れた。ただの牽制で振りかざしていた右手を力任せに司祭に向かって突きつけた。そのまま胸倉を掴み自分の方へと引き寄せる。
掴んだ先からマントは勢い良く燃え上がり、目の前に一瞬の火柱が立ち昇る。けれども掴んだその黒衣に重心は感じられない。同時に、背筋に走った悪寒に、慌てて一歩身を引く。見るとそいつは黒衣を脱ぎ捨て、不敵な眼差しと共にその姿を僕に現していた。白髪の老人。口元から伸びた白髭を歪ませながら老人は見開いた眼でこちらを凝視していた。術装から見て、こいつもアリスと同じようになんらかの術を使うのかもしれない。なら近づくのは危険か?
だけども今の僕にとってそんな思考の働きはどうでも良かった。
「殺してやる」
それが本心から出たものなのか、本当にそれができるのか、自分の本意を探る事などもはや出来やしない。今出来る事は、どうしようもないこの現状からいかに自分の身を守りきるか、それだけだ。冷静に思考を働かせようとすればする程、自分がしでかした事がいかにとんでもない事か突きつけられる。
「炎の具象者か。なかなかの熱度だが、まだ不安定と見える」
老人の言葉に僕は腕を振り翳した。
「だったらなんだ?それでもお前を焼き殺すくらいはできる」
僕の言葉に老人は不敵な笑みを崩さない。その表情はならばやって見せよ、そう物語っていた。
「あんまり僕を舐めるなよ」
今すぐにでも殺してやりたいところだけど、このままじゃ戦えない。僕は後ろを振り向き震えている少女の方を見やった。
少女は涙で崩れた表情で僕を見上げると、どうしていいのか行き所のない表情を見せた。それはこんな僕自身に対しても恐怖を抱いていたのかもしれない。そう考えるとやり場の無い感情が込み上げてきた。
僕はなるべく落ち着いた優しい声で少女に小声で話しかける。
―ここは僕がなんとかするから、今のうちに向こう側へ走って逃げるんだ―
少女は僕に話し掛けられると一瞬ビクッと身体を震わせたが、やがてコクリと頷いた。震える身体を引きずり少女は、よたよたと転びそうになりながらそれでも懸命に走って通りの方へと消えて行った。
「さて、これで心おきなくやれるか?」
司祭の言葉に僕は再び切れる寸前だった。わざと逃がさせたっていうのか、こいつは?さっきまで処刑台にかけて殺そうとしていたくせに、こいつは人の命をなんとも思っちゃいない。
「お前はクズだ。人の命をなんとも思っちゃいない!」
僕の言葉に司祭はさもおかしそうに笑い声を漏らした。
「ならば我を殺すか。ならば貴様も我々と同じ穴の狢よ。大義名分は違えど、人を殺すか」
そんな男の挑発的な言葉を軽く流せるほど僕は冷静じゃなかった。
「それがどうした。クズに命なんかあるもんか!」
感情に身を流し、老人との僅か2メートル程の距離を一気に詰め寄り、老人の胸元目掛けて右手を突き出す。突き出した腕に対して老人は自分の腕を惜しげも無く突き出してきた。
反射的に僕の手が衣服を纏っていない生身の老人の左手首を掴む。ジュゥという音と共に、皮膚の焼け焦げた臭いが即座に漂う。躊躇いが無いと言ったら嘘になる。けれども僕は掴んだ相手の手を離さなかった。
「どうした、私を殺すのだろう」
そう言って老人はすっと右腕を僕に向かって伸ばしてきた。咄嗟に掴んでいた手を離し、老人と距離をとる。老人の左手首の肉は焼け爛れ、中からは骨が覗いていた。
「次は殺す」
僕の言葉に老人は動揺を見せなかった。顔色一つ変えず患部を右手でなぞりながら可笑しそうに口を開いた。
「次は殺すか。まだ迷いがあると見える」
老人の指摘に心が揺れる。僕が迷ってるだって?当たり前だ。いくら相手がどんなにクソだって、人間なんだ。人を躊躇いもなく殺せるもんか。
「僕を挑発するな!」
老人は笑みは嘲笑へと変わる。
「可愛いものよ。殺すのは惜しいが、その罪は重い。残念だが、貴様の血を持って粛清するに他あるまいて」
老人の両の手がぱっと交錯し、印を結ぶ。
「させるか!」
老人に掴みかかるよりも早く、老人の印は完成していた。
「デ・ヴェイユ(闇手の拘束)」
老人の印言と共に黒い手首たちが突然空中に現れ、僕の身体を締め付けるように拘束した。
完全に老人だと思って油断していたのか、いや今までのアリスの詠唱に時間がかかっていたことから、術には時間がかかるものだと先入観があった。まさかこんな即興性のある術があるなんて思っていなかった。怒りに任せて力を込めても、もはやもう遅い。僕の身体は完全に捕捉されていた。
「処刑台へ」
老人の合図と共に従者達が一斉に動き始める。従者達の搦め手に捕縛が拘束へと変わる。このままじゃ殺される。ふと転がっている犠牲者達の首と目が合った。
そこで、僕は初めて自らの死を意識した。ここで僕は死ぬのか?右手の炎は拘束されてから既に消えていた。黒衣の従者達に身体を羽交い絞めにされ、後ろに手を組まされ鉄錠を嵌められる。そして僕は処刑台へと誘導されていた。
「クソ、放せ!」
処刑台に転がされ首に鉄板が嵌められる。冷たい金属の感触。具現化されてゆく死の形に、僕はここで初めて恐怖を感じた。
死を意識してから数秒間、目の前には地獄が広がっていた。
あまりの恐怖に目を瞑る。そこには漆黒の闇が広がっていた。聞こえてくるのは老人の声、だけども何を言っているのかはわからない。老人は何やら大声で叫んでいた。おそらく、この老人の声が止んだ時が、僕の最後になる。いつ落とされるかわからない凶刃。それは一秒後の事かもしれない。
「血の粛清を」
そして、老人の声が止んだ。
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