〆S20 不浄なる魂
■PHASE1■
異様な空気感。
「なんだ今の声」とフェザが立ち上がった。
青褪めたアルバートの表情。その表情は完全に怯えきっていた。
「悪夢が乗り移ったかのように、とおっしゃいましたけど、満更嘘でも無いようですね」
アリスは手に古びたコンパスのような物を持って言った。
「アリス、それは……?」
「ナイトメアの位置を教えてくれる道具よ。ナイトメアが近くに居るとこの針が示すの」
アリスがテーブルに手を伸ばす。アリスの手の中のコンパスは、位置を定めずぐるぐると回転していた。
「これって」
「二階へ上がるわよ。失礼します」
そう言ってアリスが立ち上がった。
「私はどうしたら」
「危険ですから、アルバートさんはこちらでお待ち下さい」
アリスの言葉にアルバートさんは頷くのを確認すると、僕らは部屋を飛び出した。部屋を飛び出した僕らは暗い廊下を早足で抜けると、玄関の螺旋階段に足をかけた。
耳に障る無邪気な笑い声は依然尽きない。
「なんだよこの笑い声。普通じゃねぇぞ」
フェザの言うとおり、確かに、あの笑い声が聞こえた瞬間から取り巻く空気感が一瞬にして変わった。何というか、頭の中がどうにかなってしまいそうなこの感覚。思いきり叫び声を上げて地面でのたうち回りたくなる。そんな感覚だった。
二階へ上がる。朧気だった笑い声の輪郭がはっきりと伝わってきた。
――きゃはは――
耳を塞ぎたい衝動に駆られながらも、手すりのついた通路を玄関を見下ろしながら通り抜ける。突き当たった通路は左奥へと折れ曲がっていた。細く伸びた通路には幾つかの扉。
「あそこね」
暗闇の奥に見える赤褐色の扉。アリスは迷う事無くそこを指していった。扉を見た瞬間に、何か嫌な感じがした。そんな気持ちとは裏腹に歩む足が早まる。笑い声が大きくなった。無言の歩みの先で、アリスが扉に差し掛かる。
「開けるわよ」
扉に掛けられる手。そして、そのままノックされる事もなく扉は開かれた。
開いていく扉の先に映っていた光景。その光景を目に入れた瞬間、アリスが大声で叫んだ。
「見ないで!」
視界に飛び込んできたその光景に思わず目を伏せる。
笑い声が止んだ。同時に耳を劈くような叫び声が上がる。
「部屋から出てって!」
何かが倒れるような音。
何が起こっているのか。飛び込んできた映像は余りにも強烈だった。
部屋の中央の照明から吊るされた一本のロープ。何の衣服も纏っていない少女はそこで揺ら揺らと揺れていた。
「きゃはは!」
少女は笑っていた。
アリスが部屋へ踏み込んだ途端、少女の笑い声は止み、耳を劈くような叫び声に変わった。倒れた踏み台。無邪気な嘲笑から明らかな苦悶の声へと変わる。吊るされたロープを大きく前後左右に揺さぶり、手足をばたばたさせながら暴れるその姿に僕は目を伏せた。
走り寄るアリスの足音に視界を部屋に戻すと、そこには地面でぐったりと倒れている少女の姿があった。天井には切れたロープとその付近にしっかりと刺さった投短剣が。部屋の入り口で固まった僕らの前で、アリスはベッドシーツをひっくり返し少女に向って被せた。
少女は瞳を閉じたままピクリとも動かなかった。アリスが脈をとりかろうじて生きている事は確認出来た。
「何がどうなってんだよ」
「この子、取り憑かれてるわ」
アリスはそう言って少女を床に寝かせた。そして、腰につけていた折りたたみ式の燭台を組み、部屋の中央に法陣を描き始める。等間隔に並べられた五つの燭台に灯る炎。五星法陣だ。これを見るのはこれで二度目か。あの時は投蝋で法陣を描いてたけど、今日は燭台を使うのか。アリスがゆっくり指先で空に印を刻むと、それに呼応して燭台の炎が強く舞い上がる。
「Dhia Olzorb Amyzia……」
アリスの印言に反応するように、少女の身体が痙攣する。
「魂浄化か」
魂浄化?
「Bazell Ifroado Vlatea……」
少女から漏れる苦悶の声。同時に何か黒い蒸気が少女の身体から立ち昇り始めた。
「何だ」
苦しむ少女。口を大きく開き、嗚咽を漏らし始める。
「Ante」
アリスのその言葉と共に、炎が大きく燃え上がった。同時に黒い蒸気が一気に彼女の身体から噴出し舞い上がる。
蒸気は空に漂い一つの形を為していく。それは大きな人の顔のようにも見えた。
「出たわね。不浄なる魂」
「ハウンド?」
アリスはハウンドと呼んだ黒い蒸気に向って手を翳した。法陣の中で、ハウンドは苦しそうな表情や不気味な笑い顔を形作り、上下に大きくその表情を変化させた。
「こいつが取り憑いてた元凶か」
本棚や箪笥はカタカタと小刻みに揺れ、さっきから耳障りな小さな破裂音のような音が頻発していた。法陣に縛られたハウンドの必死の抵抗なのか。アリスは法陣に向って静かに手を向けた。
「これで終わりよ」
両手で印を結び蒸気に向って構えるアリス。
「Replicant」
アリスの印言と同時に、炎がハウンドに向って収縮する。
次の瞬間、僕は思わず声を上げた。
「うわっ!」
まるで爆発したかのように、視界全体を覆う程の、炎の広がり。
それは一瞬の事だった。一瞬のうちに炎は部屋全体を覆うかと思うほど広がり、そしてあっという間にその輝きは消滅した。
残ったのは、炎の消えた燭台と、部屋の中央で横たわる少女の姿だけだった。
すやすやと安らかな寝息を立てる少女。ハウンドの影はもはやどこにも見当たらなかった。
「終わったの」
僕の問いにアリスは無言で頷いた。
「フィアラ!」
その時、突然背後から声が聞こえてきた。僕の肩を押し退けて前に出たその後姿はアルバートさんのものだった。
「娘は、娘は!?」
いてもたってもいられなかったんだろう。酷く慌てた様子のアルバートさんにアリスは優しい声で言った。
「もう娘さんは大丈夫ですよ。安心なさって下さい」
「本当に……本当に、おお神よ」
アルバートさんはそう言うと、フィアラと呼んだ娘さんを抱きしめながら泣き崩れた。
「良かった、本当に良かった」
フィアラさんの首に残った紅く滲んだ縄跡を見つめながら、アルバートさんは何度も僕らに礼を言った。
「ありがとうございます。ありがとうございます!……本当にありがとうございました!」
これが、退魔なのか。礼を言われながらも僕は複雑だった。またしても僕は何も出来なかった。
「あれ……パパ?」
目を覚ましたフィアラさんの声はとても穏やかなものだった。
「フィアラ……」
「私どうして……?」
衣服を纏っていない自分の様子にフィアラさんは虚ろな表情で問い掛けた。
「長い悪夢を見ていたんだよ。だがそれももう終わりだ」
父親の言葉にフィアラさんは不思議そうな表情をしていたが、再び瞳を閉じて眠りに落ちた。
「今はゆっくり休ませてあげて下さい。魂浄化で大分体力を消耗していますから」
アリスの言葉に父親は再び頭を下げた。
「私達は応接間で日の出まで休ませて頂きます。何かあったら御声を掛けて下さい」
そう言って、アリスは僕達に部屋を出るように促してきた。
ここからは親子の時間、僕らが邪魔をしては悪い。そういう事だろう。
■PHASE2■
応接間のソファーで眠りにつこうとしていたその時、アリスがふと口を開いた。
「あの時、ナイフを投げたのあなたよね」
アリスに視線にフェザは背中を向けたまま何も答えなかった。
「あなたのあの判断が無ければ、あの子は死んでた」
寝てしまったのか、フェザは答える事は無かった。
その姿にアリスも向かいのソファーで横になる。一方的な会話はそこで途切れた。
あの天井に刺さってたあのナイフ、あれはフェザが?
薄れ行く意識の中で、そんな会話を耳に、僕は深い眠りについた。
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