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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

螺鈿の筑

作者: 管原叶乃

王に婚約を破棄された小国の姫。

代わりに姫は王の軍師の元に嫁ぐことになる。

古代中国の覇者、軍師たちを元にした時代小説。

「そなたとの婚約を破棄する」


玉座から王が吐き捨てるように言葉を発した。

若く美しい王は、その美しさにふさわしく武に優れ覇気にあふれている。

やがて乱れに乱れたこの大陸を統一し、その頂点に立つ日も遠くはないだろう。

皆がそう言って王を称え、畏れている。


王の腕には仰ぎ見るも美しいひとりの貴婦人が抱えられている。

輝き流れる黒髪、透き通るほどに白い肌、花も及ばぬほどに芳しく麗しい唇。

儚げでありながら優美な気品にあふれた貴婦人の美貌を見ながら、彼女は思った。


―――ああ、私の居場所はないのだ、と―――




彼女の実家はある小国の王族だった。

だが相次ぐ戦乱の中で武を持たない彼女の家は強い隣国につながりと保護を求めたのだ。

その贄が彼女だった。


戦乱の世では、女子供は手駒のひとつでしかない。

彼女もそれは重々理解しているし、そのことを恨みに思ったこともない。

そうしなければ乱世の中で家が生き残ることなどできないからだ。

しかし王の家は、今では大陸の中で何者も及ばないほどの強さを誇り、他者の助けを必要としなくなった。

王と彼女の婚約を整えた王の叔父が、暗殺されたことも転機のひとつだろう。

さらに王は唯一無二の愛しい女を得た。

貴婦人の前では王も剣を置いてくつろぎ、時には行軍の中にも彼女を伴うほど、その寵愛は深いと言う。―――――


「お言葉の通りに」


彼女は顔を下げたまま、ひたすらに深く礼をして言った。

そう言うしか彼女には他に選択肢はない。


それだけのことで全てが終わった。

王は貴婦人を抱いたまま、彼女の存在そのものがなかったかのように一度も振り返らず、玉座の奥へと消えた。

彼女はそこからすぐに動かず、石のようになってうずくまっていた。


「姫よ」


不意に声がかけられる。

彼女は肩を大きく震わせた。


「面をあげられよ」


彼女はゆっくりと顔を上げた。

目の前には一人の男が立っていた。

腰まである白髪、顔の右半分に大きな傷のある男の表情は、傷のせいでゆがんで見える。

見るものによっては醜いとも取れる容貌だろう。

顔には傷以外にも細かな皺が無数に刻まれ、彼の生きてきたこれまでの歳月を思わせた。

男は彼女を怜悧な瞳で、品定めするかのように眺めた。


「私は王の軍師で、名をウルス=サハリ。

姫よ、我が君の命により、あなたは今日より私の元に嫁すことになっている。

以後、ご了承なされよ」


黙って男の顔を見つめていた彼女は、しばらくしてから深く頭を下げ、言った。


「私はサイの王の一の娘、メイ=リンと申します。

よろしくお願い申し上げます」





王に嫁すはずだった彼女は、代わりに王の軍師の元に嫁すことになった。


短く抑揚のない言葉の他には何の説明もなく、彼女はそのまま馬車に乗り、ウルス=サハリと名乗った男の屋敷へ向かうことになった。

屋敷は王城に近く、非常に立派なものだったが、調度品は少なく質素なものだった。

屋敷の使用人たちも長く仕えているのであろう老僕を筆頭に、ごく少人数、最低限しかいない。

そして屋敷の主人はウルスただ一人であった。


彼女は国から用意してきた赤い結婚衣装をまとい、あわただしく結婚式が行われた。

式といっても屋敷の中に急ごしらえで設えられた祭壇の前で祝詞を上げ、酒を飲むだけのものである。

本来その後にあるべき宴も省かれた。

慎ましい食事を夫と二人、沈黙の中で済ませる。


夜がふけて寝所にやってきた男は、寝台に腰掛ける彼女を無表情でうち眺めた。

そしてやはり無表情のまま、言葉もかけることなく彼女の体を寝台の上に押し倒した。

男は探るように、観察するように、終始無言だった。

しかし最後に、彼は不意に―――独り言だったのだろう―――小さく、低くつぶやいた。

それはあまりに低く、音にもならぬほどに小さな声だった。


「………哀れな………」


「いいえ」


はっきりとした彼女の声が言った。

計るように向けられた男の無表情なまなざしを受けて、彼女は小さくともはっきりとした声で重ねて言った。


「いいえ。――――――」







ウルス=サハリはめったに屋敷に戻らなかった。

食事も睡眠も、ほとんどを王城で取る。

そして王の出陣の時には必ず彼も従軍した。



数週間、留守にしていたウルス=サハリは久方ぶりに屋敷へ戻り、その変わりようを無言でうち眺めた。

屋敷は隅々まで掃除が行き届き、野の花が品よく飾られている上に、香料の芳香が漂っている。


「勝手に調度を動かしましたこと、お許しください」


彼はしばらく無言で彼女を眺めていたが、やはり抑揚のない調子で無表情に言った。


「この屋敷の女主人はお前だ。

好きにしろ」


彼女は深く頭を下げることで謝意を示した。


屋敷はさらに少しずつ様相を変えていった。

茶の葉や果物のなる木が植えられるようになった。

庭に植えられた茶葉はごくありふれた種類のものだったが、彼女が淹れるそれは見事なまでに美味だった。

この時代、茶は高い格式のひとつであり、古から伝えられる品位であり、文化だった。

大切な客人をもてなす際の格式は、この茶でのもてなしで決まるといっていい。

彼女はそれを夫ひとりのためだけに用意するようになった。


ごくまれに屋敷に戻るとき、ウルス=サハリは必ず一人になる。

奥の部屋にひとりで入り、長い時を思索にふけるのだ。

彼女はただ静かに彼が部屋に入る前に茶を用意し、庭で取れる果物や、それから作った菓子を用意した。


それにある時から(ちく)の音が加わった。


はじめ、彼はその音に気がつかなかった。

昼過ぎに部屋の中に入り、気がついた時には日が落ちようとしている頃だったのだ。


奥の部屋から出たウルス=サハリは、彼女が庭の柳の木の下で、静かに筑を打っているのを見た。

日頃よりも長く彼女を眺めていたウルスは、日頃よりも無表情に彼女に問うた。


「それはお前が故国から持ってきた筑か」


彼女は筑から離れ、慎ましく頭を下げた。


「はい。………お耳汚しでございました」


彼はいつものように品定めをするように彼女を眺め、彼女から視線をはずし、静かにその場を去った。




数年が瞬く間に経った。

王の出陣の頻度はさらに増し、ウルス=サハリの屋敷に戻る頻度はそれに比例して減った。

元々無口だったウルス=サハリの口数はますます少なくなっていく。

しかし彼は屋敷に戻ると、必ず彼女と共に沈黙の中で食事を取った。

そして必ず奥の部屋に入り、茶を口にして筑の音に耳を傾けた。



そんなある冬の寒い日。



数ヶ月ぶりに屋敷に戻ったウルス=サハリは一言も言葉を発しなかった。

彼を彼女はしばらくじっと見つめた。

そして意を決したように彼の前に頭をたれ、懇願した。


「旦那様、どうかお願い致します。

すぐに床に入り、お休みくださいませ」


ウルス=サハリは黙って彼女を見つめ、冷たく無機質な声で言い放った。


「何をもってそのようなことを言う?」

「旦那様の呼吸の音がいつもよりも違って聞こえます。お体の具合がお悪いのではありませんか?」

「…………」

「お願いです。すぐにお休みくださいませ。どうか、どうかお願い致します」


ウルス=サハリは無言で裾を払うと、そのまま黙って寝所に向かっていった。

胸に手をあてて息をつく彼女に、老僕が頭を下げて謝意を述べた。


「ありがとうございます、奥様。

旦那様は私どもがお休みくださいと申し上げても、決して休もうとされる方ではありません。お若い頃からずっと働きづめのお方ですから」

「…………」


その夜からウルス=サハリは熱を出した。

高い熱ではなかったが、顔色は悪く、倦怠感が酷い。彼女は懸命に看病をした。

薬湯を煎じ、こまめに汗をぬぐう。濡れた布を定期的に代え、着物を変える。

使用人たちが彼女自身に休むようにすすめても、彼女は彼のそばから離れようとしなかった。


二日たって、ウルス=サハリの熱はほぼ平熱に戻った。

医師の見立てでは疲れがたまっていることが原因だということだった。

夜半、寝室に二人だけになった後、寝台に横になっていたウルス=サハリが不意に言った。


「……なぜだ?」


彼女は彼の問いの意味が分からずに困惑した。


「なぜ……とは」

「…………」


ウルス=サハリは天井を見上げたまま、常よりも幾分かすれた声で続けた。


「私はいい夫ではあるまい」


彼女は少し黙って彼を見つめた後、ゆっくりと首を横にふった。


「いいえ」


はじめの夜のように、はっきりとした声で繰り返し言った。


「いいえ」

「私はこの年になるまで血で血を洗う陰謀と権力闘争の中で生きてきた。

故に嘘や隠し事は容易く見破ることができる。浅ましいことに」


ウルス=サハリはやはり天井を見上げたまま、続ける。

彼が彼女の目を見ずに話すのははじめてのことだった。


「それ故にお前が嘘を言っていないことが私には分かる。

そしてそれ故になおのこと分からないのだ。お前が何故そんなことを言うのか」

「旦那様。私は旦那様に限ってのことですが、嘘をおっしゃっているのか、そうでないかが分かります」


彼女は顔を伏せ、耐えるように目を閉じた。

そして少しの沈黙の後、意を決したように言った。


「旦那様は分かっておいでです。私が旦那様に隠し事をしていることを。

そしてその隠し事が何であるのかも、分かっておいでです」





古に聖王あり。


聖王はあらゆる文化に通じ、その高い徳で世を治めた。

ことに農業に通じ、茶と酒、香料を生み出し、音楽によって祭祀を執り行ったという――――


「私の一族は遥か古の聖王の血筋に連なるもの。この身には聖王の血が流れております」


聖王の王朝が途絶え、長い戦乱の世が始まった。

戦乱は何百年もの長きにわたり、その中で聖王の血筋は失われたと言われている。


「ですが聖王の末子は生き延び、密かに落ち延びていたのです。螺鈿の筑と共に」

「お前のあの筑だな」


ウルス=サハリはふと遠くを見るような目をしてつぶやいた。


「そして茶。香料。あの曲。……」

「私が旦那様に差し上げられるものは、それくらいでした」


ウルス=サハリは彼女の顔に目をやり、静かに首を横に振った。


「あれはそれ位などというものではない。物の価値はある場合にはその形以上のものとなる場合がある。そしてお前の場合はその最も顕著な例だ。今の世では―――なるほど、確かに毒ではあろうな。権力を持たぬ権威などというものは」

「そのために長い間、その事実は一族の秘とされてきたのです。

本当なら」


彼女はここで、打ちひしがれたように顔を伏せた。


「王との婚姻が無事に成った暁には、この事実を王にお伝えするはずでした」


彼女の一族は王に賭けたのだ。

一族の未来を。そしてそれに敗れた。


「王は苛烈なお方。一度でも王に敵対し、謀った者たちは決して許されないと伺っております。

武器を捨て降伏した者たちも、老若男女、全て生き埋めにされ殺されたと聞きました。

先に滅ぼされた皇帝の一族も、白い布を掲げて降伏したのち、乳児に至るまで八つ裂きにされたと聞きます。

皇帝の宝物庫を守ろうとした者たちも、ことごとく火あぶりにされたと」


この言葉に、ウルス=サハリは無言で目を閉じた。


「そのために王に秘密を持っていたと知られれば、私たちの一族もただでは済むまいと覚悟はしていました。

秘密はどれほど秘していても、必ずどこかから漏れるものです。

現に名のある賢者の方々には、私たち一族のことが漏れ伝わっていると伺っています。

そう………旦那様。例えばあなたのような方に」

「私は賢者などではない」

「あなたが賢者でなくして誰が賢者と言えましょう?

ウルス=サハリを得れば、その者すなわち大陸の覇者である。あなたのご高名は以前から伺っておりました。

あなたは私たち一族の噂をご存知だったのでしょう?


王との婚姻が破れたとき、私たち一族の命運は尽きたと思いました。

王の保護を得られなければ、どの道小国は攻め滅ぼされる以外に道はありません。

そして他国に攻め滅ぼされずとも、ご自分から言い出されたこととはいえ、王が破れた婚約を恥と思わぬはずもない。

あの日、本当は私は故国への帰りの馬車の中で、命を奪われるはずだったのではありませんか?――――」

「聡い娘だ」


ウルス=サハリは静かに目を開き、静かな声で言う。


「我が君が黙ってお前を国に帰すようなら、私がお前を殺そうとも思った」

「はい」

「恨んでいるか」

「どうして恨めましょう。現に私は生きてここにいるではありませんか」

「惜しい、と思ったからに過ぎない」


ウルス=サハリは再び無表情に戻って言った。

いや、これまでよりもさらに抑揚のない、平坦な声で言った。


「お前という人間が惜しいと思ったのではない。

お前の血の持つ権威、受け継がれている技を惜しいと思ったのだ。

使える、と」

「はい」

「この大陸には我が君の他にもうひとり、皇帝となれる力をもった者がいる。

我が君は覇者であり、豎子だが、その者は粗野であり、王者だ。

王道を歩む者は何より恐ろしい。その者にお前の血の権威が渡っては面倒だと思った。

それだけのことだ」

「旦那様。……やはり私を娶るとお決めになられたのは、王の命ではなくあなたご自身のご意思によるものなのですね」

「――――馬鹿な娘だ」


ウルス=サハリは一瞬、虚を突かれたかのように黙り、その顔にはっきりと表情をあらわした。

それは明らかに苦しみ―――そして悲しみ、それ以上の何かだった。


「本当に―――なんと、馬鹿な娘なのだ」

「旦那様」


彼女は彼の手を取った。


「旦那様。あなたは居場所がないと思った私に居場所を与えてくださいました。

嫁いできたあの日、あなたが私を労わってくださったあの時から、私は確かにあなたの妻です。

あの時のあなたの目は、今のあなたとそっくり同じ目をなさっておいででした。

あなたのその目を見たあの時から、私は確かにあなたの妻です」


彼女の瞳に涙があふれ、頬を雫が伝い落ちた。


「あなたと過ごす時間は言葉がなくとも、私にとってはとても幸福な時間でした。

哀れにお思いですか?ご迷惑にお思いですか?

私は―――他の誰より、あなたを恋しく思っているのです」

「…………ああ」


ウルス=サハリは己の手を上げ、その節くれだった指、皺の一筋一筋を見た。


「老いたものだ。あるいは飽いたのだろうか。

老いらくの恋は底が知れぬというが、私は敵の王に傾国を与える鬼にはなれないらしい。


……メイ=リン。―――おいで」


ウルス=サハリは彼女の名前を呼び、彼女の体を抱き寄せた。


「私はお前を連れて行く。

私とあの豎子との縁はもう、とうに切れている。

私の言葉があの豎子に届かなくなってから、随分と久しいのだ。

王者が大陸を統べれば、お前の一族の末も案じることはなかろう。


思索を妨げぬのが真の筑の奥義だと言う。

この老いぼれに捕まったのが運のつきとあきらめて、またお前の筑を聞かせておくれ。………」






彼の覇者は戦えば必ず勝ち、負けを知らなかった。

しかし情けを知らず、やがて周囲は皆敵ばかりとなる。

王者に率いられた軍勢の中で覇者はそれを悟り、常に側から離さなかった愛する美女を己が手で刺し殺したとも、美女自身が覇者から奪った剣で自ら命を絶ったとも言われる。

覇者は愛馬にまたがり敵陣の只中に飛び込んだが、やがて四方から迫る敵の刃に体を切り刻まれた。

大陸は王者の手により一国となり、数百年の平和を迎える。



また覇者には父とも敬われ、その覇業を助けた老軍師があったが、彼は覇者と袂を分かった後、体にできた腫れ物のために命を落とした。

しかし生きのびたとの伝説もある。

平和になった世で商人となり、莫大な富を築き、傍らには一人の美女の姿が常にあったという。

筑=秦で広く使われた竹製の胴に弦を張った打弦楽器。


豎子=小僧


敵の王に傾国を与える=越王勾践に仕えた謀臣范蠡が仇国の呉王夫差に彼好みに育て上げた美女、西施を送って堕落させた故事から。呉の滅亡後、范蠡は西施を連れて大商人になったという伝説がある。



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