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鬼(心の隙間)
作:勝 ひろし


昭和四十一年東京オリンピックが終わって早二年が過ぎようとしていた。
世間は三十年代からの高度成長の波に乗ってひたすら走り続けて来たのだが、この年は証券不況に見回れ景気は冷え込んでいた。
山口弘と菊地誠は中学時代から親友だった。大学は別れ別れになったが、山口は理工学部で菊地は経済学部へ進んだ。
学生時代も時々会っては親交を深めていた。
いつしか二人は就職の時期を迎えていた。
二人は久しぶりに情報交換しようと新宿で会って一杯やろうということになった。
中卒は金の卵と言われて引張だこだったが、
二人は団塊の世代で就職希望者も多く、その上不況と重なり就職難だった。
二人共一流大学では無かったし、文系の菊池にはより厳しかった。
菊地が「なかなか就職先が見つからないんだ」と言うと山口が「俺もだよ。でも大洋電器を受けて見る積りなんだ」と言うのだった。
すると菊地が「えっ、実は俺もなんだ。たいして大きな会社じゃないけど取って貰えればそれでもいい方だからな」と言った。
二人はびっくりした表情で顔を見合わせた。
数日後二人は大洋電器の面接会場で顔を合わせた。二人の元に採用通知が届いたのはそれから数日後だった。二人は電話で喜び合った。
四月に入って入社式で二人は並んで席に着いた。
新入社員は大卒、高卒合わせて二十五人で男子十八人、女子七人だった。
大洋電器は家庭用電器製品を製造している中堅企業で開発力には定評が有り将来を有望視されている会社だった。
本社は東京京橋に小さいながら自社ビルを構えていた。工場は千葉と埼玉に有ったが将来の拡張に備えてどちらも広い敷地を確保していた。
全社員五百五十人の規模だった。
菊地は本社総務部へ、山口は千葉工場内の研究開発室にそれぞれ配属された。共に初任給は二万八千円。
それから暫く二人は会う暇が無かった。
入社四年目に二人は人事異動で再び出会うことになった。
二人の勤務先は埼玉工場の音響機器事業部だった。
二人は久しぶりに一杯やりながら近況を話し合おうと銀座で落ち合う約束をした。
入社以来同じ会社にいながら勤務先が異なりしかも総務と開発では接点が無く、職場と仕事に慣れるのとそれぞれの同僚との付き合いで忙しく、いつのまにか時間が経ってしまっていた。山口は会社と社員寮の行き来で毎日が終わっていた。
いつしか二人は親友からライバルになっていた。特にその意識は菊地の方が強かった。
二人は一生懸命働いた。三年後二人共部下を持つ係長になっていた。更に三年後菊池は山口よりも一足先に課長になった。山口は心から菊地の昇進を喜んだ。しかし山口は自らのアイディアである新製品開発の事で頭が一杯で昇進に興味は無かった。
二人の給与やボーナスには差が付いていた。
菊地はついに山口を抜いた、と心の中で自分を誉めた。
二年後山口は部下の三つ年下の木村真一と二人で取り組んで来たコンパクトカセットレコーダーが社内で認められ、組織は数倍の規模になり開発は急ピッチで進められた。
発売された製品は斬新さとユニークさが受け
て空前の大ヒット商品となり会社に莫大な利益をもたらした。
その後の大洋電器の大発展の礎になったのである。山口と木村の二人は功績を認められ社長賞を受賞した。山口の年間給与の合計は定年迄の間五倍に、木村は二倍へと前代未聞の大昇給が約束された。定期昇給は規定通りプラスとされた。時同じくして山口は課長に昇進した。
しかし最初から良き協力者だった部下の木村に対する山口の配慮から、二人の増額分は同額となった。
そうは言っても山口は木村より三年先輩であり、且つ役職手当も加算される為、支給額は当然多い筈だった。
それでも山口に対する待遇は他の社員は勿論課長より多く部長に近かった。
それは会社に莫大な利益をもたらしたばかりで無く、当然全社員にも還元された利益は大きかったので社内で二人は大持てだった。
菊地は一人「負けた」と思った。これで山口の年間給与は楽に菊地の倍以上になる筈だった。菊地は込み上げてくるひがみ心を押さえることが出来なかった。
菊地は事業部の給与計算を担当していた。
山口の給与も当然知っていた。山口と木村の給与の増額分は同額であり、木村も年上の自分の倍以上になった。でも木村に対しては何故だか許せた。
菊地は山口に対するどうする事も出来ない気持から、山口の給与の一部を木村の給与に上積みして給与袋に入れることを思い付いた。
給与明細書は人目に付かない様に書直した。山口の給与三十五万円の内十万円を木村の分
に上積みしたのだ。
税金その他を差し引いた手取りは菊地を若上回った程度の金額にしたかった。
一方の木村は新妻と二人暮らしでその妻も働いているので、木村の三十五万円近い年不相応な給与を得た事は、木村夫婦に取っては夢の様だった。木村は山口に感謝した。
しかしこのカラクリは知らなかった。
その後、木村は閑静な住宅地に一戸建ての新築住宅を購入し、車も新車に買い替えた。
服も靴もいつも新しかった。会社の中でいつも羨ましがられると共に同じ技術屋仲間の憧れの的だった。木村はその一方で真面目に研究開発に取り組み、自らをおごらず腰も低かったので好感を持たれていた。
山口の生活は妻と子供二人と彼の両親と同居の為彼と父親の二人で働いてはいたが木村程の生活は出来なかった。
確かに社長賞を受賞する前に比べたら大変な違いだがそれ以前が苦し過ぎたのだった。
やっと世間並みか幾らか上の普通の家庭になれたのだった。この事は山口家にとってはいくら感謝してもしきれなかった。
ある日帰り時に山口は部長の増田と同じエレベーターに乗り合わせた。社長賞を受賞してから既に五年が経っていた。益々研究開発に熱心な山口はそれなりに昇給はしていたが、物価も上がっていたので生活実態は差程の変化はなく、相変わらず普通の生活環境だった。
部長の増田が「山口君一杯どうだね」と周り
に気使いながな山口を誘った。
「申し訳有りません他に都合が有りまして」と山口は丁寧に断った。確か二年ほど前にもそう言って断っていた。部長の増田はそれ以来誘わなかったのだが何故かいぶかしく思えた。
自分と大差無い給与を取っている筈の社内でも有名な山口が高価そうでも無い背広を着て、靴も鞄も古びていた。噂ではかなり古い年式の車にも乗っているとの噂だった。
増田の頭をふと何かが過った。
翌日山口は増田から部長室に呼ばれた。
山口は昨晩の無礼を謝った。部長の増田は物静かでは有るが切れる男だ。
増田は単刀直入に聞いた「君は今幾ら給料を貰っているのかね。私から見ても決して苦しいとは思えないんだが。他の課長の倍以上は取っている筈だしな。良かったら給与明細を見せてくれないか」山口は突然の増田の問いに困惑しながら答えた。「家内に袋ごと渡しておりますので今は」増田は再び「奥さんに電話してくれないか」そう言って机の上の電話を使う様に促した。「はい」と言って山口は受話器を取り自宅のダイヤルを回した。
妻の良子の声がした。山口は早口に給与明細書を出して来る様に告げた。暫く沈黙が続いた。再び良子の声がしたので「増田部長とお話してくれ」山口はそう言うと受話器を増田に手渡した。
「奥さんですか。あなたのご主人にはいつも感謝していますよ」と増田は優しく語り掛け
た。「とんでも御座いません、此方の方こそいつも大変お世話になりまして有難うござい
ます」と良子は丁寧に応答した。
「ところで奥さん、今月の給与明細を見てくれませんか。支給額はいくらになっていますか」増田の問いかけに良子は途惑った様子で答えた。「十八万四千三百二十五円です」増田はメモ用紙に数字を書いた。続けて「夏のボーナスはわかりますか」と増田はメモの数次を見ながら良子に問い掛けた。
「はい四十五万四千円です」良子の応答は
そのまま数字となってメモ書きされた。
「そうですか有難う」改めてご主人から話があると思いますが」と言って増田は複雑な表情で受話器を置いた。机の引出しには前持って総務部長の中島から菊地に内緒で受取っていた山口と木村の給与とボーナスの明細書の写しが入っていた。
「山口君後でもう一度来てもらうけど取り敢えず席に戻ってくれ給え」増田はやりきれな
い顔で山口を見送った。山口も困惑し切った表情で会釈をして部長室を出て行った。
増田は木村を呼んだ。
「木村君、いつも頑張ってくれて有難う。我々も期待してますよ」心中は複雑だが、にこやかに声を掛けた。直立不動で恐縮した木村は「有難う御座います。頑張ります」と答えた。「ところで木村君、君は給与明細書をとって有るかね」増田の問いに、木村は怪訝そうな顔をして「はい、自分の分と給与明細書を抜いて妻に渡していますから」と答えた。「それじゃ今持っているかね」「はい、鞄の中に有る筈ですので取って参ります」「ボーナスの明細書も有るかな」「有ると思います」「ちょと失礼致します」と増田との遣り取りが済むと木村は部長室を出て行った。
暫くして戻って来た木村は二枚の明細書を増田に手渡した。
給与明細書の支給額は三十五万五千円、ボーナスは百五十万二千円となっている。
当然五年前とは異なるがそれにしても明らか
に山口の減らされた分が木村に上積みされていた。「有難う、取り敢えず仕事に戻ってく
れ給え」と増田は山口と同様の仕種をした。
増田は窓の外を見詰めながら呟いた。「誰が、どうして、こんなことを」増田は部長になってからずうっと、総務部長から預かった部下の給与袋に当然ながら手を付けたことは無いし、一覧表にも毎回目を通していた訳でも無く、只ご苦労さんでしたと言って手渡すだけの時が多かった。しばらく考えた後増田には直ぐ解った。「何故菊地君が、そうか二人は同期だったな」増田の行動は速かった。
増田は部所違いの菊池を部長室に呼んだ。
「菊地君、君にちょっと聞きたいことが有ってね」と穏やかないつもの調子で話掛けた。
突然の増田からの呼び出しに菊地はビクッとした。増田は山口の上司で有るからだ。
菊地は「もしかして」と心の動揺を押さえるのに精一杯だった。
増田は静かに続けた。「山口君と木村君の給
与の件なんだが」そこまで増田が言った時、菊池は「すいません、私がバカでした。山口とは中学校の頃から親友でした。縁あって就職した会社も一緒でした。その後私の方が三年も早く課長になれて鼻が高かった。でも、彼が社長賞を受賞し給与もいきなり倍以上になってしまった。私は悔しくてたまりませんでした。私が課長になった時、彼は喜んでくれました。でも私は彼の成功を心からは喜べなかったんです。給与が自分より多くて、しかも倍以上ではとてもたまりませんでした。自分で取るわけにはいかないから、木村君なら目立たないと思って木村君の方へ移したのです。最初の内はそうすることで気持が収まったのですが、段々日が経つにつれて、早く元に戻さなければと思いながら、今日迄来てしまいました」菊地は泣きながら増田に謝った。
増田は菊地が哀れに思えた。
その時改めて人事の難しさを知った増田だった。
菊地が部長室を出た後、増田は密かに菊地の上司で総務部長の中島を内線電話で自室に来てくれる様に頼んだ。同時に山口と木村も呼んだ。増田は三人に事の全てを話した。三人は唖然とした。この五年間で山口から木村に移った金額は一千万円を超えていた。
暫く部屋の中には重苦しい空気が漂った。
最初に口を切ったのは山口だった。「菊地を許してあげて下さい」続いて、木村がどうして良いのかわからない様な口調で「山口さん僕」山口は「木村君は何も悪くないよ」と木村の肩を叩いた。
総務部長の中島は監督の甘さを三人に頭を下げて謝った。同時に菊地の処遇に心の中で苦しんでいた。部長室の扉をノックして菊池が入って来た。手には白い封筒を持っていた。
床に手をついて泣きながら皆に謝った。
「申し訳ありませんでした。山口許してくれ」立ち上がった菊池は封筒を総務部長の中島に渡し、会釈をして部屋を出ようとした。
「待ち給え」と増田が呼び止めた。菊地は立ち止まった。封筒の中身は辞表であることは誰にも推測出来た。
中島に封筒を渡す様に手を出して、その封筒を受取りながら増田は静かに語り掛けた。「菊地君、山口君の気持ちが分からんかね。これは私が預かる。後で中島部長から話が有ると思うが早まってはいかんよ」と穏やかな増田が語気を強めて菊池を見ながらたしなめる様に言った。
菊地が出て行った後、山口が口を開いた。「何も無かった事にして下さい。お願いします」と深深と頭を下げて二人の部長に懇願した。木村が続けた。「山口さん毎月今迄の分お返しします」
増田は中島の目をじっと見ながら静かに話し掛けた。「中島部長、菊地君はそれとなく人事に話を通して千葉工場へ、どうですか。大ごとにする事は反って皆の為にも、会社の為にもならない。どうですか」「そうですね」と中島も静かに答えた。
増田と中島は事業部長室に行き相澤事業部長に委細を報告した。相澤は唇を硬く閉じてうなずいた。了解の意味であった。
次の日相澤は工場長の松井に事の全てを話し
た後、本社に向かった。数時間後、相澤は本社社長室のソファーに社長の水野と向かい合って座っていた。報告を受けた水野は自分を戒める様に呟いた。「社長である私は一体何をしていたんだ。相澤君、物事は始めは輪郭がはつきりしてても時間が経つとぼやけて来る。つまりマンネリだよ。会社が大きくなるとなおさらだ。菊地君がその事を教えてくれた。常に我々と全社員が今に甘んじる事無く自分を向上させて行かないと、大企業と言えども競争に勝てない時代が必ず来る。特に管理職たるものはまず自からを制御出来なくてはならない。君の様な冷静な判断が下せる能力とこれからは時には冷酷さも必要になる。内と外に鬼がいては企業は生き残れない。時代が代わって、色々な仕組が変わっても、人の心は変え難い。誉める時も叱る時も、回りに配慮しなくてはならないのも確かだが、これからの時代は増田君の様な甘いやり方では駄目だ。責任をはっきりさせねば、温情や馴れ合いは企業にとって時として邪魔になる」相澤はうなずいた。
二代目の水野にとって先代社長の父親から事業を引き継いだ時は従業員は二百五十人だっ
た。菊地や山口が入社した当時は五百五十人だった。あれから十五年、そして五年前山口らが開発した製品がきっかけとなり、ブランドも広く知れ渡り会社の社会的信用も高まった。優秀な人材も集まって来ていた。正に高度成長の良い波に乗っていた。現在五千人近い社員を抱えていた。
二つの工場は既に拡張の余地が無く、第三の工場を建設中で十五年前の十倍以上の規模になっていた。しかし、十年、二十年先を人は考えられるだろうか。
発展と裏腹に衰退か滅亡が待っている。
水野は僅か二十数年で大企業の仲間入りが出来たこの時代に生まれ会えたことに感謝する一方で頭の中を不安が過って行った
新本社の社長室から外を見下ろしながら、水野は、菊地の気持も理解出来る様な気がする弱さを、自分の中にも感じていた。
我に帰った時、もう相澤は部屋にはいなかった。
企業にとって馴れ合いや温情を水野は鬼と呼んだ。














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