乱れ髪(友雅編)山吹(ヒノエ編)
【乱れ髪・友雅】
おや、これは珍しいと友雅は目を瞠った。
あかねの寝所から、伽羅の香りが漂ってくる。それも焚いたばかりではない、仄かに香る残り香だ。
御簾越しに声を掛けると、中から情けない神子の声が返ってきた。
「入るよ、あかね」
「友雅さん……」
大きな瞳に涙を浮かべて、こちらをじっと見上げるあかねの可愛さに、年甲斐もなく胸を躍らせる。
「その髪はまた……えらく乱れているねえ。いったいどこの殿方の仕業なのだろう? 私としては、少々、いやかなり気になるところではあるのだが……」
もちろん、あかねがそのようなことをする女性だとは露ほども思っていないが、反応を見るのが楽しくて、ついからかってしまう。
案の定、あかねの瞳は見る間に赤くなっていく。潤んだ双眸がまた堪らない。
「違います〜。面倒で、髪が濡れたまま寝ちゃったら、こうなっていたんです〜」
雛鳥が顔を覗かせそうなほど、あかねの髪は悲惨な状況であるのに、それすらも可愛らしく思えるのだから、友雅もかなりの重症である。
吹き出しそうになるのを堪え、それが尚更あかねの涙を誘うのだが、友雅はとりあえず絡まった髪を解こうと手を伸ばした。
「これはまた……なかなか強情だね」
腰を据え、丁寧に優しく解いていく。
時折、ぽつんと雫が落ちる音がするのは、あかねの涙なのだろう。
「友雅さんに、こんなことをしてもらうなんて……」
そう呟きながら神子の瞳から、雫がぽつぽつと落ちていく。好いた男にしてもらうようなことじゃないと、恥ずかしいのだろう。
それでも友雅の指は楽しそうに彼女の髪を解いていく。
伽羅が香る、薄茶の髪が少しずつ解れていく様を、友雅は目を細めて眺めている。
「こんなことだからこそ……私だけがやりたいと思うのだがね。他の誰にも触れさせたくはないと思っているのに、あかねは違うのかい?」
ほら、終わったよと少女の肩に手を掛ける。
「わ、わたしは……」
少女は頬を赤らめて、何かを言い淀んでいる。
友雅の顔が脂下がる。
「それとも、きみは───乱されたいと思っているのかな?」
あかねの肩がぴくんと跳ねる。
解けたばかりの柔らかな髪に鼻先を埋め、友雅は含んだように小さく笑った。
「私も思っているよ。きみの髪を乱すのは───いつでも私ひとりだけなのだということを」
奥ゆかしい伽羅の匂いとは裏腹に、この男の色香だけはいつもと同じだった。
華やかで、艶めかしくて。
それでいて雄雄しい。
少女は自分の髪をひと房摘み、唇を尖らせた。
「友雅さんが乱すのは、髪だけじゃありませんから」
「ああ、知っているよ。きみの心も乱すのだろう?」
少女は更に頬を膨らませた。
「きみも存外に鈍いね。心を乱すのは何も私ばかりではないのだよ? あかね。きみも私の心を掻き乱す、罪な女性であるということを認識しておきなさい」
友雅の長い指が神子である少女の髪へと滑り込む。
乱れるのは何も、髪と心ばかりではないのだよ───。
友雅は意味深な笑みを浮かべ、あかねの白い項に口づけを落とした。
【山吹・ヒノエ】
ドキドキが止まらない。
顔が火照っているのは、私たちの結婚を祝う宴の席にいたからなんだけど。たぶん、ヒノエくんと交わした杯のお酒がかなりの原因だとは思う。
でもね、お酒でも飲まないと私はきっとダメ……。ヒノエくんはいつもと同じで余裕たっぷりで……。だけど私は、その、は、は、は……じめて……なわけだし。
まだやることがあるから先に行ってて───そうヒノエくんに言われて、ここ、寝所まで来たはいいけど。どうすりゃ、いいのよ。
身体は隅々まで洗ったから、ぜんぜん問題なし! 朔がくれた匂い袋を胸元に忍ばせていたら香りが移って、とってもいい匂いがするし。
準備万端いつでもOK! さあ来い、ヒノエ!
なんて調子付けようとしたけど、胸のドキドキは治らない。それどころか、時間が経つにつれて酷くなっていく。一人きりっていうのが却ってよくないのかもしれない。
それにしても……遅い。
確かにヒノエくんは熊野水軍の頭領だし、その御大将の結婚式ともなれば祝いの席が大きくなるのも頷けるけど。でも───早く傍に来て欲しいって思うのは我がままなのかな?
今からこんなんじゃあ、頭領の奥さんはやっていけないのかな?
高台にあるこの屋敷には、潮風が抜けるように吹き上げてくる。外にある篝火の火が、パチパチと爆ぜて夜空に舞い上がっていく様が、とてもキレイだった。
窓から下を見下ろしてみる。賑やかな笑い声が闇の中を縫って聞こえた。まだまだ宴は終わりそうにないみたい。
きっと抜け出せないでいるヒノエくんも困っているのかな、と小さな溜息を吐く。
ざわめきを遠くに聞きながら、壁に縋って腰を下ろした。着物の裾から投げ出した足が顔を覗かせる。
──行儀が悪いですよ、先輩。
譲くんの声が脳裏をよぎり、苦笑しながら裾を直した。
譲くんはひとりで帰ってしまった。私はヒノエくんとともにここに残ることを決意した。譲くんはもちろん、向こうの世界の皆には二度と逢えない。この世界には私一人だけ。
ヒノエくんがいるから寂しくはないと思ったの。ヒノエくんとずっと一緒にいたいと思ったから残ったの。
ヒノエくんが───。
人の気配を感じて目が覚めた。
あのまま眠り込んでしまった私は、気がつくと寝台に寝かされていた。
いったい誰が?
身体を起こして目を凝らしたら、蝋燭の明かりに照らされたヒノエくんがひとりで杯を煽っていた。
「ヒノエくん?」
「やあ、姫君。お目覚めかい?」
「あの……ここまで運んでくれたのって、ヒノエくん?」
「あたりまえだろ? 大事な花嫁、ほかのどんなヤツに触らせるっていうんだよ」
楽しそうに杯を空けながら笑う。
大事な花嫁───胸がときめいた。
そうだ。今夜はヒノエくんの花嫁として初めての夜なんだ。
思い出したとたんに緊張し始める。ついでに心臓のドキドキも再発した。
杯が床に置かれて、身体が飛び跳ねた。こっちへヒノエくんが来る。そう思うと、身体までが緊張で震え出した。
けれどヒノエくんは腰を浮かすことは無く、置いた杯に酒をなみなみと注いだだけだった。
「今夜はなにもしないよ、姫君」
溢れそうな杯を口元へ運び、
「俺の代わりに今夜はそいつを愛でてやってよ」
視線を横にずらし、何かの合図をする。促されるようにその視線の先を追うと、一輪の花が枕元に置かれてあった。
ぽうっと浮かぶように黄色い花が、枝ごとそこにある。
「今夜はその花がお前を染めるけど。明日は覚悟しておいてよ。───次は俺がお前を染めるから」
子守唄のように───なあ望美? と私の名前を囁きながら、ヒノエくんは臆面も無くそう言って酒を煽る。
言われた意味を理解できないほど、子供じゃない。
わかってはいるけど、面と向かって言われると……対処に困る。ただ、うんと頷くのが今夜の私の精一杯。
「本当はさ」
ヒノエくんの声が少し揺らめいた気がした。いつもの強引さが形を潜めたみたい。
乱れた着物の裾から、乱暴に投げ出している足をゆっくりと組みかえる。その向こうで、篝火がまた爆ぜた。
「少しでもお前に触れたりしたら、きっと俺は抑えられなくなるから───。俺の恋の炎がお前を一瞬で灰にしちまう気がして……怖いのさ。だから、もう少し───俺の熱が治まるまで待っててくれよ。焦がすのはお前の心だけで十分なんだ。だって───身体は───だろ?」
杯の中から覗かせるヒノエくんの瞳が笑った。
そう。
この世界で私はひとりきり。
ヒノエくんを選んだ私はひとりきりだけど、彼の想いは私をいつも奮い立たせて燃やしてくれる。
寂しい───なんて言ったらきっと傷つく。大嫌いって言われるよりも傷つくと思うから。
「私だけが灰になるなんて決めつけないで、ヒノエくん」
だってこんなに焦がれているのに。
「灰になるのはふたり一緒だよ?」
「さすがは俺の花嫁だ。宣戦布告ときたぜ」
それなら抑える必要もないってことだ───。
ヒノエくんがゆっくりと立ち上がる。私は両手を広げてそれを───待つ。私を染めるはずだった黄色い花が、潮風に吹かれて床へと落ちる。
さざめく潮騒と海の男のざわめきが、ずっと遠くに聞こえた気がした……。
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