薬師の囁きほか2編(弁慶編)
高熱と痛みで虚ろな頭を撫でてくる大きな手。
優しく、そっと前髪を梳いてくれるその人の深い溜息も聞こえてくる。
ごめんなさい、と謝りたくて唇を開いたら、冷たい指先が宛がわれて話すことを許してくれなかった。
「今、薬湯を差し上げますからね」
首の後ろに手を当て、私が辛くならない程度の高さを測りながら持ち上げる。
僅かに開けた瞼の隙間から、紗がかかった世界が見えた。
素焼きの湯飲みに口をつけた弁慶さんを、ぼんやりと眺める。その向こうではぐるぐると天井が回っていた。
ことん、と湯飲みが床に置かれた音がして、意識をもう一度弁慶さんへと向けた。
あれ……弁慶さんが近づいてくる……?
ようやくそのわけを理解した頃には、触れ合った弁慶さんの口から薬湯が流し込まれていて、恥ずかしいのと苦いのとで回る天井のスピードが2倍速になった。
「これで良くなるはずです」
去り際に弁慶さんが囁く。
良くなる前に心臓が止まります……と訴えてみた。
弁慶さんの目が細くなり、さっきまで触れ合っていた唇が溜息にも似た笑みを零した。
「そんなこと……僕がさせません。それに……まだ無茶を続けると言うのなら……」
ふっくらとした感触もまだ生々しく残っているその唇が、今度は甘く囁く。
「君を縛っておく方法を考えなくてはいけませんね」
反論することも抵抗することも出来ずに、私はただ黙って上がっていく熱を感じていた。薬師のあなたが熱を上げさせてどうするの、と言いたいけれど。
優しく頬を撫でる弁慶さんの傍は居心地が良くて、文句を言うのは止めにした。口移しで飲まされた薬が効いてきたのか、だんだん眠くなる。弁慶さんが額をこつんとぶつけてきた。
沈みかけた意識が捉えた弁慶さんの囁き。
「あまり心配させないでくださいね」
……はい。
<<花色衣>>
「戦の最中なのに……いいんですか? 宴なんかやっていて」
賑やかな一群から少し離れた場所で、ひとり杯を傾けている弁慶さんに声をかけた。
「いいんですよ。戦ばかりだから……こうやって息抜きしないと神経が持ちませんからね」
「九郎さん、すっごく怒ってましたね」
言いながら、弁慶さんの横へ腰を下ろす。
「ああ。九郎は頭が堅すぎるんですよ。もう少し柔軟な考えを持つようになれば……いいんですけど」
その優しげな微笑に、五条大橋での出来事が思い出された。京の惨状に胸を痛め、苦悩していた彼の後ろ姿。今、私たちがやっていることは弁慶さんの痛みを和らげているのかな? 聞いてみたいけれど、怖い。変わらない笑顔で、きっと私に気を使う。
「どうしたんですか? 急に黙り込んで」
「え? いえ、べつに……」
「そうですか」
え?
わざとなのか、偶然なのか。投げ出していた指先に、弁慶さんのそれが重なる。
その指先は弄ぶように私の爪をなぞり始めた。
「べ、弁慶さん!」
「はい」
「ゆ、ゆ、指がっ」
「はい。きみの指先が殊更心地よくて、つい。……いけませんか?」
「いけない……というか。その……あまり心臓によくないかな……?」
「心の臓が痛むのですか? それは大変です。急いで薬を調合しましょう」
そう言って弁慶さんが立ち上がるのを、とっさに引き止めてしまった。どうしよう、と今更思ってもしようがないのに。掴んだ袖口をぎゅっと握り締めた。
「そんな顔をして……まるで僕が意地悪をしているみたいじゃないですか。僕がなにかしましたか?」
楽しげな声音が頭上から降ってくる。私は、してませんと短く答えることしかできない。
「僕がきみの指に触れたのがよくなかったのでしょうか? 嫌い……ですか?」
「え! な、なにがでしょうか」
口調が移ってしまった。
「僕のこと」
えええええ? 合わさった視線を離すことができない私は、泣きそうな気持ちで弁慶さんをみつめ返していた。
嫌いなわけない。そう言おうとしたら。
「きみは答えることはできない。なぜなら……その唇を……これから……僕が塞ぐのですから」
深く囁くような声と、柔らかい笑顔が近づいてきて……。
宴の賑やかさも、楽の雅やかな音色も痺れた私の頭には入ってこなくなった。
<<秋の秘よ>>
「どうしたんですか?」
後ろに目でもあるのか。熊野からの書簡に目を通していた弁慶が、笑みを含みながら背後へと声をかけた。
「べ、べつに」
慌てて答えたのは望美だった。下を向いている薬師を驚かせようと忍んで入ってきたのに、すんなり気づかれてしまったことが悔しくてしようがない。
「きみは皆と出かけなかったのですね」
「……うん。まあ」
書簡を閉じ、振り返った先の少女の沈んだ表情に、弁慶の顔もまたつられて曇る。
「平家との戦も休戦状態で、確か……」
山だか川原だかに、休息がてら散策に行くと言っていなかっただろうか。提案したのは景時だった。
話を続けてもらいたくてわざと言葉を切ったのに、少女はなにも答えない。
はらりと庭の植木の葉が舞い落ちた。静かな時間だけが流れていく。
「きみは」
弁慶は立ち上がりながら話し始めた。
「いつも僕を困らせる」
戦場では男達と変わらぬ働きをする神子の華奢な肩がふいに揺れた。
弁慶が伸ばした指先から逃れる為に。
「甘えたいときには景時殿の下へ……楽しくありたいときにはヒノエの下へと訪れる。ですが僕の下へ来るときは……悲しみを癒して欲しいときだけ」
「……」
「ああ。気に病まないでくれませんか。気にしているのはきみが僕の下へ訪れる理由ではないのですから。きみの傷が深くなる前に……いいえ。いっそ、傷ついたりする前に……その盾となりたいのにそれを叶えることができない自分自身に腹を立てているのです」
「弁慶さんは悪くなんか……ないんです。ただ」
「言わないで」
弁慶の指先が望美の唇を押さえ、噤ませた。
秋風が入り込む小さな庵。
「きみが僕との時間を作ってくれた。ただ……それだけ……そういうことにしておきましょう」
にこりと薬師が微笑む。その顔はただ一人にしか見せない秘密のもの。
「先ほど僕が言ったことは忘れてください。意地悪されたのだと……そう思っていてくださってかまいませんよ」
「忘れたりなんかしません! 弁慶さんは……弁慶さんは……!」
泣きそうになるのを堪える少女の、噛み締めた紅葉色の唇。
衣擦れの音共に近づく、心に響く声。
「今はまだ秘密に」
額に寄せてくる温かな掌が、大きな安心をくれることを望美は知っている。
「その続きは僕の口から言わせてくださいね」
固く噤んだままの少女の唇がやわやわと開いていく。こくんと頷いたのは……了承の証。
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