赤い月(泰明編)
雲がかかった夜空からは一筋の月明かりもなく、泰明が歩く道はとても暗かった。
とはいえ、泰明にとってそれはなんの問題もないことで、最近富に使うことの多くなったこの道はさしたる明かりがなくとも充分歩けた。
星の一族───。
師の命よりも深く関わることになった一族───そして八葉という役目。
そこでふと泰明の足が止まる。
「神子」
口からついて出たのは、現在の泰明が仕える者。
道具として我を使えと言ったはずが、彼女はそれを拒んだ。
何がそんなに楽しいのか、よく笑う少女だった。
脳裏に、先ほどの藤姫の館での夕餉の様が浮かぶ。藤姫の横で笑いながら箸を運ぶ神子に、傍らから何やら声をかける友雅がいた。
みっともなく着崩した友雅を見る神子の顔はいつも赤らんでいて、どうにも解せないざわつきが胸を襲う。
それは、館を離れた今も変わらなかった。
道標となる星のない夜。
心細いなどと思ったことはないが、理解のできない感情に振り回されている今は、心許無いと思うのだ。
ざわざわと木々が枝を揺らす。人外のものがこちらの様子を窺っている気もする。
このような落ち着きのない状態で怨霊と出会えば、刺し違えてしまうやもしれぬ。
下草を踏みしめて飛び出してきたのは、一匹の野うさぎだった。
怨霊と獣を思い違うなど、有り得ない。そんな簡単なことすらできなくなったのかと、泰明は唇を噛んだ。
自分を照らしてくれる明かりがない。頭に浮かぶのは神子の顔ばかりだ。友雅の隣で笑む神子を、時を忘れてみつめていたことを思い出す。神子の仄かに赤く染まった頬に友雅の指が触れていた。
ちりっと胸が痛む。
仲睦まじく互いを見つめ合う二人の姿を思い出しただけで、鼻腔の奥につんとした痛みが走る。このように心を乱すなど、陰陽師として───いや八葉としての自覚に欠けているとしか言いようがない。
やはり、この暗闇のどこかに怨霊共が潜み、この首を掻き切らんと虎視眈々と狙っている証拠ではあるまいか。
せめて月が出てくれればと空を見上げた。雲間からうっすらと明かりが差し込んでくる。
「ああ。月が出る」
安堵にも似た溜息と共に呟いた。
先が見通せない暗い闇に一人でいるのは堪らない。ゆっくりと月が顔を出す。
──赤い月。
黒い雲が晴れたとき、現れたのは赤い月だった。まるで私の心を鏡で映したような暗い赤色。
罪に塗れた罪人の血のような、赤い月が私を見下ろしている。この心の平安を乱す神子を恨めしく思う。その感情が今宵の月となって現れたのだろう。
それこそが罪であるのだと、私に知らしめるために……。
どうして神子。あなたは友雅にばかり笑むのだ。
どうして神子。あなたは友雅にばかりその御身を触れさせるのだ。
どうして神子。あなたは友雅にだけ触れるのだ。
どうして神子。あなたは────。
道具のように使えと言ったのは私だ。だが神子はそれを拒んだ。
私を道具ではないと言うのなら、神子。では私はなんなのだ。私の生が罪であるのなら、この胸のざわめきもまた罪なのか。
──赤い月。
私を見下ろすこの月の色こそが真実だとでも言うように、いっさいの星星を闇に隠したのか。
私を照らす明かりはないのだろうか。
「神子」
あなたの眩さの欠片を欲しても、その所有者はきっと友雅なのだろうから手には入るまい。もとより望むべくもない。
「問題ない」
いつもの口癖を呟いた。その唇の横をなにかが掠めていく。雨でも降ったのだろうか。雫が一粒、私の頬を滑り落ちた。
見上げた赤い月が、なぜだかぼやけて霞む。雫がまた一粒────落ちた。
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