synesthesia─共感覚─
文中で表現される「共感覚」については、あくまでも物語上のものであって、実際の「感じ方」を正確に記述したものではありません。この物語はフィクションであるという事を踏まえたうえで、先へお進み下さい。
優音が初めてピアノに触れたのは、四歳の頃でした。
ピアノはとても不思議な楽器です。だって黒と白の鍵盤を押すだけで、色んな音が出るのですから。
最初に、優音は人差し指で、一つずつ順番に押してみました。そのうちに二つの音を鳴らすと、もっと楽しい事に気付きました。音に色が加わるのです。
音は組み合わせによってきれいな色、楽しい色、悲しい色、不機嫌な色と、その表情を変えていきます。そしてそのうちに優音は、総ての音にも一つずつ色があることに気付きました。
(何て不思議なんだろう?)
優音が曲を弾くと、ピアノからたくさんの色彩が溢れ出ます。それはあとからあとから湧き出て来るので、彼女は楽しくて毎日弾いていました。そのお陰で、彼女はとてもピアノが上手になりました。
彼女が九歳になったとき、小さな事件が起こりました。
ある日、ピアノの先生に音の色の話をしたら、先生はビックリしてこう言ったのです。
「優音ちゃん、ピアノから色は出ないのよ? 音に色が着いてるなんて、先生見たことも聞いたこともないわ」
「でも、私には見えるの。先生、本当なの」
幾ら彼女が懸命に説明しても、先生はまともに聞いてくれません。しまいには子供の他愛ない冗談で、片付けられてしまいました。
「どうして、信じてくれないの?」
その帰り道。彼女は泣きながら、近くの公園のブランコに座っていました。
今日初めて、皆は音の「色」が見えない事を知りました。今まで皆も見えているのだと思っていたから、自分だけが変わっている気がしてショックでした。
自分の言うことを信じてくれない先生が嫌いになりました。自分に色を見せるピアノが嘘つきなんだとも思いました。
他の人には見えないものが見える自分が、疎ましく感じました。
(見えなきゃ良かった、見えてはいけないんだ……だって皆と、同じじゃないから)
涙は止まりません。
こんな変わった力を何でくれたのかと、お父さんとお母さんと、神様を恨みました。
暫くそうして泣いていると、近くに誰かがいるのに気が付きました。
「何で、泣いてんの?」
声がして顔を上げると、話したことは無いけれど、何度か見たことのある男の子が立っています。同じピアノ教室に通っていて、時々レッスンの時に見掛けた子でした。その子がときどき上げる笑い声が、彼女にとっては「橙色」だったので、良く覚えていたのです。
男の子は近付いて隣のブランコに座ると、黙って漕ぎ出しました。
振りが大きくなる度に、隣のブランコが軋んだ音で歌います。その音と、男の子を囲む風景が、彼女の好きなボロディンの曲の色と、良く似ていました。
「……ボロディンの、橙色」
「え?」
彼女は慌てて口を押さえました。訳の分からないことを言う子だと思われてしまったら、恥ずかしいからです。
男の子は少し不思議そうに目をくりくりさせ、そのうちに、垂れた目尻を更に下げて「橙色で」笑いました。
「ラの音は、クリームソーダ」
「え?」
「レは塩、ミは大福、ファはスパゲティナポリタン、ソはピーナッツ!」
男の子はそう言った途端、勢いの付いたブランコからトン、と飛び降りると振り返りました。
「ゆうねは、桃のゼリーとバニラアイスの味」
「どうして、私の名前、知ってるの?」
「だって美味しかったし」
「美味しい?」
名前が美味しいなんて、変な事を言う子だと思いました。でも、同時に彼女はどきどきしました。
もしかしたら、この男の子は自分と同じかも知れない。この子も、音を「感じる」のかもしれない――彼女がそれを確かめたくてじっと見つめると、男の子は少し恥ずかしげにニカリ、と笑いました。
「オレには分かるよ、だって、音には味があるんだもん」
「味?」
「そ、誰も信じてくれないけど、オレにはあるんだ」
そう言って笑った男の子は、橙色に染まって見えます。その中に少しだけ赤が混じっているのは、彼が恥ずかしがっているからでしょうか。そう思うと何だか可笑しくて、嬉しくて、優音もついクスリと笑いました。やがてクスクス笑いが大笑いになる頃には、彼女の涙もすっかり止まっていました。
優音は男の子とたくさん話しました。音の色の事、曲の色の事、そして男の子の笑い声が「ラ」の色である事。
男の子もたくさん話してくれました。お腹の空いている時にピアノを弾くと、更に空腹になる事、「ド」は一番好きなチョコレートの味がする事、そして彼の名は「ひびき」だと言う事。
「響?」
「うん。うちの父さんも母さんも、音楽が好きだから。子供も好きになったら良いなって、思ったんだって」
「ふうん、良い名前だね。ひびき……赤と黄色と、藍色。そう、夕焼けと一緒だ!」
「夕焼け? それがオレの名前の色なんだ…優音ってすごいなあ!」
「響こそ、味がするなんてすごいじゃん! だって、いつでもおかしの味がするって事でしょ?」
「ふふーん、羨ましいだろ? いっつもドばっか弾いてるぜ」
チョコレート大好き! とニッコリ笑う響の顔を見て、もう優音は色が見えることを、嫌だと思わなくなっていました。皆に分かって貰わなくても良いのだと言う事に気付いたのです。
響と友達になれたから。
色の話がしたくなったら、これからは彼に話せば良いのです。
気付けば夕陽は斜めに落ちて、どこからかドヴォルザークの「家路」が聞こえます。この曲が流れ出したら、子供はもう家へ帰らねばなりません。
「じゃ、来週またここでな!」
「うん! レッスンの後でね」
そう約束して、二人は別れてそれぞれ家に帰りました。
それから毎週、ピアノのレッスンの帰りに、優音は響と遊びました。
響は隣の小学校に通っていて、レッスンが無ければ、中々会う機会がありません。だから優音はレッスンを早く終わらせるために、一生懸命ピアノを練習しました。そして、どちらが早く「今習っている曲」を終わらせられるか、響と競争しました。また、お互いに新しい曲を貰うと、何色の曲だったとか、あの曲はすき焼き味だとか、公園で一つ一つ報告し合いました。
二人に共通する感覚で進められる会話は、端から見れば恐ろしくチンプンカンプンでしたが、二人にはちゃんと通じていました。お互いが分かるなら、他の人に分からなくても構わないのです。
二人にしか判らない、二人だけが共有する感覚。それはいつしか細い絆となり、二人の間で育ち始めました。
二人はピアノや感覚の話の他にも、たくさん話しました。
ある時優音が、自分の六つ年上の兄さんが音大を目指している事を話すと、響は眼を輝かせて言いました。
「オレも音大、行きたい。んで、たくさん弾いて、ピアニストになるんだ」
「え―、ドばっかり弾いてるくせに? チョコレートばっかりじゃ、ピアニストは無理だよ。チョコレート屋さんになったら?」
「うるさいな、好きなんだもん、文句あっかよ」
「別にぃ。虫歯になっても私は知らないし」
「ちゃんと歯磨きしてるぞ、オレ。優音みたいに、歯医者さんで泣いたりしねえもん」
「泣かないもん! それ、一年生の時だもん、バカっ」
時には喧嘩もするけれど、他の話になると二人ともケロリと忘れて、また笑い出します。大人の言葉で表すなら「ウマが合う」とでも言うのでしょう。
優音はやがて響を、本当に自分を理解してくれる「親友」だと思い始めました。毎週のレッスン毎に、響と会うのがとても楽しみでした。しかし、その楽しみは長くは続きませんでした。
ある日響は、急に遠くへ行く事になりました。
「お父さんが、テンキンするんだって。だから、引っ越ししなきゃならないんだ」
「え? 何処に行くの?」
そう問うと、西にある大きな街の名が返って来ました。優音もその街については知っていましたが、何処にあるかまではわかりません。
響は笑って、遠くに見える富士山を指差しました。
「あの山の向こうの、ちょっと離れたところなんだって」
「じゃあ、山を越えたら見える?」
「うん。そう母さんが言ってた」
「じゃあ私でも行ける?」
「多分、もう少し大きくなったら。オレも、中学生くらいになったら一人で来れると思う。だから、また会おう」
「うん。必ずだよ?」
「うん! 必ずな」
拙い約束が、どれほどの効力を持つのかは判りません。でも二人は真剣に指切りをし、響は新しい住所を、優音はおうちの電話番号を交換しました。
「絶対、帰って来るから。帰って来て、優音とおんなじ音大入って、ピアニストになるから」
響はいつになく真剣にそう言った後、ニカリと笑って優音に手を振り、帰って行きました。その笑顔がいつもの橙色に染まったのを見て、優音もたくさん手を振り返しました。
そうして響はこの街から、引っ越しして行きました。
それから優音は毎日、響に逢いたいと思いました。でも遠く離れた親友から、中々連絡は来ませんでした。
日を追うごとに思い出すのは、響のことばかりです。ピアノを弾くたびに、そしてレッスンで新しい曲をもらう度に、響なら何と感じるのだろうと考えました。
響から渡された新しい住所に、何回か手紙を書きました。でもいつも「宛先不明」の判子が押されて戻ってきます。住所が間違っているようですが、正しいそれは、優音には分かりません。向こうからも、未だに電話は来ませんでした。
しばらくして、優音がピアノ教室を変えた後。レッスンの帰りに遠回りをして、あの公園に寄りました。もしかしたら、テンキンが終わって響が戻って来ているかも知れないと思ったのです。けれど大人の都合はそう簡単には行かないようで、いつ寄っても響は居ませんでした。
「……響の、バカ。嘘つき。字、汚なすぎ」
優音がブランコを揺らしながら悪口を言ってみても、誰も居ない隣からは、何も返って来ません。
どうする事も出来ないまま半年経ち一年経ち、いつしか優音は響に会うことをあきらめ始めました。そしてそれから自分の目に映る「色」の話をするのも止めました。
響以外に、もう本当の友達は出来ないと思ったのです。
更に、優音が中学生になった春の事。二人で遊んだ公園は取り壊され、新しく区民会館が建てられました。それを知った優音は、絆を結んだ場所を失った事によって、響の帰る場所も無くなった気がしました。
きっと、もう、帰って来ないのだ――そう思うと、尚更響に会いたくなります。
会いたい、でも、会えない。ぐるぐる回る終わりのない気持ちがどうしようもなくて、優音はついに響との思い出を、忘却と言う名前が付いた記憶の引出しに、仕舞いこみました。
一方で優音は「音に色が見える」事について、自分なりに調べました。それは「共感覚」と言うとても珍しい症状のようですが、難解な専門用語で綴られた本をいくら読んでも、用語を知らない優音にはあまり判りません。ただどうやら病気ではないらしく、放って置いても体に問題は無いようなので、それ以上調べるのを止めました。
音に色が見えることを隠し、普通のふりをして日々を暮らす事は、語り合う楽しみを知った優音にはとても切ない事でした。けれど、音楽は彼女の味方でした。ピアノを通じて触れるそれは、変わらずに美しい色を見せて、優音の心にいつも響くのでした。
──時間は、時として人の心を癒す最良の手段となります。
そして、音楽も然り。
感性に訴える良い音楽は、深い孤独をゆっくりと癒し、心を豊かにしてくれるのです。
今日もピアノは綺麗な色を溢れさせています。
あれから九年経ち、優音は家から一番近い音楽大学の、ピアノ科へ入学しました。
兄の母校であり、著名な音楽家を幾人か輩出している、由緒ある大学です。日々の講義や課題、練習は大変ですが、大好きな音楽の中で過せる事は、優音にとって幸せです。
普通の大学に比べ個性の強い学友が多い中で、優音は決して目立つ存在ではありません。けれど明るい性格や小柄な容姿が好かれるようで、友達はたくさん出来ました。
でも、心から笑い合える親友は、未だに見つかりません。
最近は担当教授からの影響もあって、よくショパンを弾いています。藤色のなかにピンクや黄色や蒼が降りしきる彼の楽曲は、優音にとって好きな色ばかりで、赤や黒の原色に塗り固められたベートーベンより弾きやすく感じます。
ある日の夕方、優音は予約した練習室で、独りピアノを弾いていました。ふと気付くと窓から夕陽が射し込み、ショパンの藤色に混ざって輝いています。その色合いに何かを思いだしそうな気がして、優音は鍵盤を奏でる指を止めました。
(何だろう……ラの、色?)
優音はゆっくりと、人差し指で鍵盤を押しました。白鍵はゆっくり沈んで、澄んだ橙色を揺らします。その向うに、懐かしい公園とブランコが浮かびました。
同じ音をもう一つ鳴らすと、今度は夕陽が見えました。うっすらと頭の中を、ボロディンの曲が流れます。そうして何度目か揺らした時に、後ろから唐突に声が響きました。
「ラは……クリームソーダ」
「──え?」
一瞬優音には、何の事が分かりませんでした。何故ならそんな事を話したのは、もう九年も前でしたから。それに、その話をした子とは声が違います。響いてきたのは少し掠れた、男の人の声でした。
(でも…もしかしたら)
諦めて、しまいこんだ筈の淡い期待が、優音の胸を過ります。彼女は思いきって、その子と別れて以来、口に出したことのない言葉を言いました。
「ドは、チョコレート味……」
背後から足音が近付いて来ます。優音はそちらをゆっくりと振り向きました。
「ああ、やっぱり! 白桃ゼリーとバニラアイスだ」
「それって、まさか……」
「覚えてた? 俺だって、判ってくれた?」
「……誰?」
「ガクッ! え、判んないの、マジに判んないの? 俺だよ、俺!」
「……さあ」
「お前、本気で忘れちゃったのか? 俺の事……ハ、ハハハ」
そこには随分背が伸びて男らしくなった響が、少し困った顔で立っていました。髪を茶色く染め、流行りの服を着た彼に、可愛いかった子供の頃の面影はありません。でも、力無く洩らす笑い声は、変わらず橙色に見えました。
優音は嬉しくなって、思わず呟きました。
「夕焼けの、色」
「あっ、やっぱり覚えてんだろ! もー、思いっきりビビったぜ。存在消去されてたら、どうしようって」
「……響」
──この時ほど、彼女が神様に感謝したことはありません。
優音は勢い良く立ち上がりました。そして三歩駆け寄って彼の胸ぐらを掴むと、大声で叫びました。
「響の嘘つき! 全然帰って来ないし、しかもくれた住所違うし! 何回も手紙書いたのに、戻って来てばっかだったんだよ?」
「なっ、お前だってくれた電話番号、間違って書いただろ! お陰で何回も他所ん家にイタ電しちまったんだからな」
「もう、ちゃんと書いたよ。良く見なさいよ、このマヌケっ」
「うっさい、ミミズ文字!」
「大体、響の字って汚なすぎ。ピアノばっか弾いてないで、ペン習字とかやれば?」
「その言葉、そっくりそのまま返してやるからな。つうか、もう大人なんだから、携帯の番号は正しく教えろよな」
「何、その言い方! 響こそ、今度はちゃんと住所書いてよね、オトナなんでしょ?」
一頻り言い合った後、黙り込んだ二人は、どちら共無く笑い出しました。優音は目尻に滲んだ涙をそっと拭うと、響に微笑みました。
「やっと、会えたね」
「ああ、俺、ちゃんと言った事、守っただろ?」
「うん」
「お前もここに来ると思ってたんだ。そうしたら、本当に入学式の時に見掛けた気がして……でも、ここ結構人数いるだろ、見付からねえの何のって」
「探してたの?」
「当たり前だろ?」
頭をポリリと掻きながら、こちらを見詰めた瞳はくりくりして、あの頃と変わりません。優音は自分より背の高い響を見上げて言いました。
「ねえ響、たくさん話したい事あるんだ」
「ああ、俺も。でも取り敢えずは、あの曲弾かねえ?」
「あの曲って、すき焼き? それとも、チョコレートの曲?」
「勿論、オレンジのチョコレートだろ!」
「え―? 響ってまだ、チョコレート大好きなんだ」
「うるさい、悪いかよ?」
「ハイハイ、ほら、座ってよ。私がパート1、響はパート2ね」
「おう、じゃ、最初からな」
「うん!」
再会した二人は一台のピアノの前に並んで座ると、昔のように楽しげに笑いました。
夕暮れの中、練習室から流れて来るのは、たくさんの色彩とチョコレートスイーツの味。けれどそれを見て味わえるのは、特別な絆に結ばれた、二人だけの秘密なのです。
<了>
ex.music
Noctune from "String Quartet No.2"(Borodin)
「共感覚」…(音や文字等の)ある刺激に対し、通常感じる感覚と共に色や味等の異なる感覚を感じられる特殊な知覚現象を指す。レオナルド・ダ・ヴィンチ、ルイ・アームストロング、スティービー・ワンダーなどもそうではないかと推測されている。(wikipediaより抜粋)
後書き。
発作的に音楽ネタを上げてしまいました。
反省はしているが、後悔はしていない(笑)