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1000文字小説 作者:折坂勇生
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8・世界でいちばん短い小説を書いた作家の物語


「あ」

 読者諸君、これはかの有名な作家であられる桃白寛太郎が六十九歳の誕生日を迎えて、死の寸前に書かれた最後の小説である。私はこの題名すら存在しない、ただ一文字だけの小説とも言えぬ異様な文章を拝見した時、氏の脳内には、この先にどんな我々の空想や哲学を凌駕する途方のない物語が広がっていたのかと想像を巡らしたものだが、どうやら違うらしい。これだけで、完成された一つの小説であると知った時には大変に驚いた。
 諸君は「あ」と書かれただけの代物がなぜ小説として成立されているのか不思議に思われるに違いない。誰しも感じる疑問なのは承知している。これには想像を絶する、深い理由がある事を知っておいて貰いたい。
 桃白寛太郎は今や知名なき作家であるが、嘗ては文豪の大御所であられ、絶頂期には幾多の新聞小説には氏の小説が連載されているのが常であった。しかしある日を境に、どこの新聞からも、彼の小説は一切掲載されなくなった。突然の事で訝しげに思った読者が多いと思われる。事情を知りたくも、新聞社は沈黙を通してしまった。嫌われたからではない、氏に配慮してのことだった。
 桃白氏は仕事場に向かう途中に自動車事故に遭われた。命は無事だったが、氏の気持ちを考えると、死んだ方が幸福だったかも知れない。何しろ頭を強く打った影響で、言語障害に陥り、文字を一切書けなくなったからだ。
 医者からはブローカ失語症と診断された。脳に入ってきた情報を、理解し、解釈することは可能だが、それを言語にしたり、起筆することが不可能という小説家にとって死の宣告を受けたに等しい障害である。彼の空想豊かな脳細胞は、様々な奇抜なアイデアが広がっているのに、一文字も書く事ができなくなってしまったのだ。
 桃白氏、そして愛読者にとって悲劇的な事故である。
 氏の責任でなくとも、書けない小説家は職を失い、地位も知名度も失った。はじめは出版社の人たちも元気づけていたが、治る見込みがないと知れば、一人一人と遠ざっていった。今や、稀に過去の著作が復刊されるぐらいで、それも売れることはなく、直ぐに書店から消えてしまう。
 桃白寛太郎は世間から忘れ去られた。
 絶望のどん底の桃白氏は、一人散歩から帰ってきた後に、鏡の前に立ち、剃刀で首を切った。そして喉から迸る自らの血を使い、鏡に「あ」と文字を書いたのだ。言語障害を超越し、一世一代の小説を書き上げた桃白氏の死に顔は満足げだったという。

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