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1000文字小説 作者:折坂勇生
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69・なんてことない一つのエピソード


 モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない。
 小林秀雄のフレーズが浮かんできた。モーツァルトを聴き馴染むにつれ感じることがある。それは、モーツァルトの音楽は愉しさに満ちあふれている。しかし、その愉しさの中には、いつも悲しみが潜んでいるということだ。
 生命には必ず死がつきまとっている。やがて死ぬという事実による絶望を、音楽の愉しさによって、忘れてしまおうではないか。私には、モーツァルトがそう語っているように聞こえるのだった。
 喫茶店で休んでいたら、そんな妙な事を考えてしまった。これも、この店が悪いのだ。マスターの趣味なのか、モーツァルトの音楽ばかりが流れてきている。今は、クラリネット5重奏曲イ長調がBGMになっていた。耳に付くほどの音量ではないものの、モーツァルトが好きな私にとっては、マンデリンコーヒー飲みながら、その愁いのあるメロディを静かに聴き入っていた。
 セリフ覚えの確認のために持ってきた台本も、テーブルの上に放置したままで、手を触れることができずにいる。
「あの」
 ウェイトレスが声を掛けてきた。セミロングの髪の毛を軽く茶に染めた、幼顔をした丸っこい女の子だった。手元にはメモ帳とボールペンを持っていて、周囲を気にしながらも、緊張気味に私を見つめている。何が目的なのかは、想像するまでもない。
 いつものことだ。
「サインが欲しいのかな?」
「はい、お願いできますか?」
「構わないよ。名前は?」
 私はメモ帳を受け取って、本名でない芸名を書き込んだ。半年前ならあり得ないことだったが、ドラマの主役を張ってからは、サインをねだられる機会が頻繁に増えた。
 サインをしたメモ帳を返すと、ウェイトレスはサインを見て頷くだけで礼の言葉はなかった。
 人から貰ったら「ありがとう」の一言ぐらい言うのが常識だろと思うが、驚いたことに、そういう事は良くあることだ。それでも慣れることはないし、あげなければ良かった、と落胆を覚える。
「おかわり頼むよ」
「有料になりますけど、よろしいでしょうか」
「かまわない」
 たかだかコーヒー一杯分だ。たいした額じゃない。
「あの……えっと……」
「まだなにか?」
「ドラマ、あの、がんばってください」
 ウェイトレスは去り際に、恥ずかしそうに言ってきた。
「ああ。ありがとう」
 彼女は軽くおじぎをしてから、カウンターの方に歩いていった。
 悪くない気分だ。
 私は目を瞑って、モーツァルトのメロディに耳を傾けた。
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