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1000文字小説 作者:折坂勇生
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41・バイロイトの第九


 嗚呼。なんという奇跡。なんという歓喜。これほどの僥倖を味わえる瞬間が今だ嘗てあったであろうか。
 私は1951年7月29日のバイロイト祝祭劇場のコンサートホールの観衆として足を踏み入れていた。ナチス政権が崩壊を迎えて、終戦後初めてのバイロイト音楽祭の再開を記念されて行われた演奏会のプログラムが、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮、バイロイト祝祭管弦楽団&合唱団によるベートーヴェン交響曲第九『合唱』である。この日の演奏を録音した音源が、百年以上もの年月が経とうともこれを凌駕する名演は存在しないほどの歴史的名盤となったのだ。
 桁外れな歴史を誇るクラシック音楽界の中でも空前絶後な奇跡的名盤であるバイロイトの第九を、未来人の私が生演奏で聞くことができる奇跡は神すらも予想しえなかったであろう。
 乱脈で理不尽だらけの人生に煩悶していた私が、意味不明な悩みに気を狂わせながらWEB上の世界に戯れていた最中、突如流れてきた第九のアダージョが頭の中に響き渡った。この世とは思えぬ美しくも悲しい旋律に人間の生き様とかいうバカげた空想に悶えるのも忘れてしまい、第四楽章の圧倒的な迫力に、脳味噌を手榴弾で破壊されたかの衝撃が走った。
 一世紀前の音質の悪いモノラル録音だ。ネットで拾える音源では、音が悪くて満足できなかった。有難い事に、バイロイトの第九を愛する世界各国の人々が、音の優れた録音を求めて彷徨っている。彼等のためにノイズが除去され、音の輪郭を鮮明にしたリマスタリングのCD、それ以上もの高音質データが収録できる大容量ディスクが数多く発売されている。同じ演奏にも関わらず、一枚一枚、どれも違った音色を楽しませてくれるので、私は買いあさることになってしまった。しかしどれもモノラルであり、細部がクリアだろうと納得できる代物ではなかった。
 満足するにはあの日の演奏を聴くしかない。
 そんなわけで私はタイムスリップしたのだ。どうやって1951年のバイロイトに来れたかは私の名前が野比のび太だと聞けば納得いくであろう。
 フルトヴェングラーが歩いてきて、盛大な拍手が彼を迎える。マエストロは指揮台に上がって、タクトをオーケストラに向けた。
 もうすぐだ。奇跡的演奏が今、まさに私の目の前で行われようとしている。
 嗚呼。なんという奇跡。なんという歓喜――。

 終演後。
 演奏の始まる間際にショック死した身元不明の東洋系の老人が発見されたという。

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