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1000文字小説 作者:折坂勇生
18/82

18・三十年前の面影


 しん、とした図書館。
 退職を迎えるも、仕事一筋だった私はこれといってやりたいことがない。家でごろ寝をしていたら、女房に「粗大ゴミのほうが動いてないだけマシだわ」と言われてしまった。
 しょうがないので、暇を潰しに図書館にやってきたのだ。学生の頃以来だから、30年振りといったところだろう。
 古びた本の匂いが懐かしかった。
 ドストエフスキー、トルストイ、ゴーリキー、ツルゲーネフ、ゴーゴリなどロシア文学を好んでいたものだ。それらは図書館の全集で読んでいた。
 しかし、今となってはどんな話かすら記憶にない。『戦争と平和』はナポレオン戦争に翻弄された人々の物語なのは知っているが、それぐらいだ。あの長編を読んで何を得たのか、若い頃の私に聞いてみたくなってくる。
 時間はたっぷりある。昔に返ってロシア文学を読もうと決めた。そうしたら若き日の私を、思い出すかもしれない。
 トルストイ全集の一巻を手にしようとした際に、私の横を通ろうとした男が、よろめいて、肩にぶつかってきた。
「すいません。足が弱いものですんで」
 失礼な奴だと彼を見る。薄くなった白髪に、皺がかなり寄っている。
 しかし、若い頃の面影があった。
「しばさんか?」
「え? はぁ、しばと申しますけど」
 やはりだ。
 大学時代の友人だった。二人で文学を語り合ったことがある。普段はしばさんと呼んでいたが、芝山滋という名だった。
「懐かしいな、私だよ」
 私は名前を告げる。
「ああ、あなたは……」
 と笑顔を見せてくれた。
 三十年振りの再会だった。
 ファミレスで、私たちはビールを呑みながら談話した。彼は「はい、はい」と言うだけだったが、そのうち意気投合していき、仕事の事、家族の事、そして文学の話に入ると、お互いに昔のことを思い出してきて熱が入っていった。
「すみません。長いこと話してやっと気付きました。どうやら人違いされたようです」
 2時間ほどしたとき、彼は突然にそう言った。
「キミはしばくんだろ? 芝山滋くんじゃないのか?」
「いえ。私はしばですけど、司馬武男と申します。物覚えが悪いものですから、会ったことある人かと思いまして、つい、知り合いと答えてしまいました」
 似ているだけの別人だった。
「しかし、間違えられたとはいえ、話が大いに盛り上がりましたなぁ」
 私が唖然とするなか彼は笑った。
 こちらも同じく笑い返した。
 そして、何事もなかったように話を続けた。
 気の合う友人が出来たのだ。私は人違いに感謝した。
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