第四章 『浸食』−Dead flow−2
CASE2 新藤海
歪む空間。ひしゃげた壺の中を彷徨っているような、どこまでも得体の知れない感覚。存在という空虚な幻影には、記憶の残滓さえ知覚させる優しさもなく、空っぽの器から覗く世界はまるで、見たこともないカタチをしている。
ここではない遠く、あるいは最も近い場所で囁く声。それはずっと俺を、俺というモノを否定し続ける。
お前は在るべきモノではないと。
生命の灯火を己によって吹き消せと。
抗う力も、願う想いも。
時間という残酷な奔流が奪い去っていく。
真紅の世界と、漆黒の世界。
二つが交わる異界の門は、魔獣の顎のようにその大きな口腔を覗かせている。
負けない、負けたくないというその願いは。
果たして、どれ程の刹那さをもって、砕け散るのだろうか。
―――永遠よ、俺に時間をくれ。
いつかはお前に食われてやる。
未練も、後悔も、悔恨も、絶望も。
衝動も、執念も、幻想も、願望も。
身体も、心も……存在でさえも、お前にくれてやる。
だから。
どうか今は―――セカイに決別を叩きつけるだけの、時間を。
「あれはどういうことだ? あんたの力とやらで、邪魔は入らないんじゃなかったのか!?」
電話とはいえ、ようやく身柄を捕まえることができたその男に対し、この三週間で溜まりに溜まった不満をぶちまける。遠慮や躊躇など必要ない。もちろんそれは相手の不備が原因であるからだし、それ以上にお互いがそういったものの束縛を嫌う存在同士であることを俺達は知っているからだ。
『すでに伝えた筈だ。魔術師としての訓練を積んでおらぬとはいえ、鳴神の直系が持つ潜在魔力、そしてかの娘が持つ回路。それらの影響により期待通りの効果を得る保証はしないと』
電話越しに聞く声には淀みも動揺もない。俺の鋭い詰問にも淡々と答えるのみ。目の前にいるわけでもないのに、仮面のように変化のない顔をした壮年の男がそこに立っているような気がした。
頭を振ってその嫌な残像を取り払う。落ち着け。飲まれたら負けだ。
何せ相手は―――闇を食うほどの術師なのだから。
「……そうかよ。それにしたって早すぎた。せっかく鳴上の直系と勝負ができるところだったのに」
あの結界を施した時点で誰かがあの剣道場に入ってくることなど考えもしなかったし、あるいは他の誰かならまだいい。気絶でもさせておけば勝負の邪魔にはならない。だがよりにもよって。
まさかそれが―――あの月城だなんて、どうして予想できるだろう。
『焦りは行動と共に持ち歩くには危険な代物だ。何かを成したければ地道な行程を経るのが最上の手段』
「で、四百年も五百年も待てばいいのか? はっ、下らないね。俺は早く決着をつけたいんだよ。あんたの事情なんて知ったこっちゃない。言い訳もいらない」
『口の利き方に注意するがいい。貴様は私と対等ではない。貴様に私の理を授けたのは利害が一致したからに過ぎない』
「なら俺の利になるようにしてもらいたいもんだな。……まあいい。鳴上恭司の連絡先はわかったからな。どうせ決着はもうすぐつける。……もうすぐにな」
『ふむ。健闘を期待しておこう』
その言葉を最後に、男は電話を切った。
……心にもないことを。
奴が俺に期待? そんなことは有り得ない。あるとするなら、それは道具としての有用性のみだ。
そもそもあの男はヒトをゴミか何かだと思っているフシがある。外法なんてものを修めた大層な御仁から比べればそれは確かにヒトは矮小な存在だろう。自らを御することもできず、知識を正しく使うこともできず、力を行使する境界を見定められない。ヒトである俺自身がそう思うのだから、あの男がヒトを見下すことは特に非難しない。
が、俺を見下すことは、許さない。
今は利害が一致するからあえてその手に乗ってやっているだけだ。何か余計な真似をすれば即排除してやるつもりでいる。在らざる世界の理を使うと言ったところで、その発動前に斬り伏せてしまえばいいだけの話なのだから。
外法使いだろうと何であろうと、俺のプライドを汚すことだけはあってはならないのだ。
そう、あってはならない。
しかし、世界が定めた禁則と言ってもいいほどの、絶対的である俺のプライドに傷をつけた者が……二人いる。
月城七瀬と―――鳴上恭司。
許すわけにはいかなかった。
真紅の夢を打ち破り、空想じみた観念を崩壊させるために。
俺が……俺で在るために。
俺は、去年聖蘭学園に転校してきた。いわゆる親の都合というヤツで、俺の意志なんか入り込む余地もなく、というか主張する時間さえなく、突然に決まったことだった。
まあそれ自体は気にすることでもなかった。引越しや顔合わせの際の自己紹介等、諸々の作業は面倒だが、特に前の高校に未練があったわけでもない。新しい高校に行くようになったらなったで、変わり映えのしない日常が再開するだけなのだから。
―――そう、思っていた。
あの日あの時、屋上に佇む、月城の姿を見るまでは。
その時俺が何を思ったのかはよく思い出せない。体中の血が滾るような錯覚を覚え、おおよそ考えられないような速さの鼓動を感じていたのは確かなのだが。
あの女がそこで何を思い、何をしていたのかさえ分からない。
ふと吹く風に舞う髪を押さえる仕草。何かを置き去りにしているような、しかし決して弱いわけではない瞳。憂いを強く帯びた表情。
冷静になった今でも、俺には霞がかった世界のように曖昧で、実体のない好奇としか思えない。果たして、何かがきっかけだったのだろう。
ただ一度すれ違うように視線を交わしただけの、邂逅。
何かのスイッチを入れてしまったような、そんな気がした。
―――気がつけばそれ以来、彼女を目で追うようになっていた。
俺が転入したクラスは月城がいるクラスではなかったが、廊下でその姿を見かける度に幸運な気がした。その声を聞く度に心の底に震えが走った。
これは、好奇心というものだろうか? 否。それは最初だけだ。ではこの掴みどころのない懊悩は、どこから生まれてくるのか。
こんな高揚は、人生で初めてだった。
幼い頃から鳴上の家をいつか潰すという呪詛を植えつけられてきた俺は、それ自体に意味を感じることはなかったものの、やはり血筋からか、剣を振るう以外のことに関心を持つことはなかった。人との馴れ合いも、自分の立場を不利にしないようにするためだけに作り上げた玩具の城に過ぎなかった。例えロクに力もない連中が束になったところで俺の敵ではないが、戦うだけが生きる術じゃない。ことあるごとに剣を振り回してなどいれば、すぐに俺は精神病院にでも閉じ込められることになっただろう。
そんな俺が味わった不思議な気持ちの昂りは、当初俺を焦らせるばかりだった。
何にも動じない精神と肉体を培ってきたはずの俺が、ただ一人、ただの女を見るだけで冷静でなくなるなど、あってはならないことだったからだ。
その感情の正体も理解できない。そうやって自分を制御も支配もできていない自分の未熟さも理解できない。
ただ一つ思うのは、月城が常日頃浮かべている表情―――どこか全てを諦めているような、そしてそれを受け入れているような、危うい線の上を歩いているその憂いの仮面―――が、俺と似ているような気がする。
剣を取れ、技を磨け、まだ見ぬ敵を倒せ。
そう言われ続け、盲目的にそれに従う道以外を選択できなかった俺と。
それが何かは知らないが、他の何かを選択し得なかったらしい月城。
境遇としては、もはや同じなのではないか。
とは言え、俺はこの生き方自体には特別不満を感じたことはない。剣を振るうのは嫌いではなかったし、日に日に上達していく自分を見るのは快感でさえあった。
逆に月城は、表情が示す通り、それを選びたかったわけではなく、そうでない世界を欲している。
両者にある隔たり。似て非なる到達点。
認められた者と、そうでなかった者。
つまりそれは―――俺が月城の上に在る証明に他ならない。
上に立つ者が、下に在る者を支配する。これは摂理であり、誰にも曲げられず続いてきた究極の法則。
だとすれば……月城は俺のモノになるのがふさわしい。
それに気づいたのはいつだったか。
しかしその閃きは俺の中の確固たる真実として定着した。
だから言った。
『俺のモノになれ』と。
もちろんそんな直接的な物言いを、あの月城が認めるはずはない。あの傲慢な女は、そう簡単に人に屈するということをしないだろうとは、すでに理解していた。
ならば妥協点を探るしかない。月城もそれを望んでいたはずだし、そうなることが当然なのだから、要は物の言い方一つということだ。モノ扱いが嫌ならば、世間一般で言う、一つの主従の形態を提示すればいい。
つまり、恋人という都合のいい体裁。
俺がそんなふざけた関係を望むわけではない。俺が上で月城が下。この関係は人生の縮図と共に絶対であり、覆ることはない。ただ月城という女のプライドを満足させるための言わば仮初めの肩書きだ。
ここまでの妥協。ここまでの理解。ここまでの寛容。
月城が俺を拒む理由など、ないはずだった。
しかし―――俺の予想し得なかった結末がそこに待っていた。
月城が俺に向かって吐き捨てた言葉。全てを射抜くような速度を以って、俺を貫いた拒絶。
『遠慮するわ。貴方になんて興味ないもの』
アナタニナンテキョウミナイ。
一瞬、何を言われたのかわからなかった。
アナタニナンテキョウミナイ。
絶対にして揺るがない上下の階級のはずだった。
アナタニナンテキョウミナイ―――
有り得ない。何かの間違いだ。
そう思うしかなかった。
俺の中で何かが大きな音を立てて崩れ去るような虚脱感と共に、巨大な喪失感を味わった。
歪んでいく世界。
カタチを失う世界。
俺は一体、どうして生きているのだったか。
元凶は何なのか。
元凶は……
―――鳴上、恭司。
最初にその名を耳にしたのは、暇潰し程度に入部した剣道部で、練習という退屈な時間を過ごしていた時のことだった。
『先輩にさ、凄い人がいたんだよ』
今でも名前を覚えてさえいないその部員が、自分のことのように頬を上気させて語っていた。
飛び出した言葉は、全戦無敗。
高校剣道界―――もしかすればそれ以上の世界で―――最強の剣使いと呼ばれた男。
その男の名が、鳴上恭司といった。
無敗という、それ自体には特別な感慨はない。たかが高校生がお遊びでやるような部活だ。少し気が向けば、俺にも達成は容易だろう。
ただその鳴上という苗字が耳に届いた瞬間、俺の核がざわめくような刺激を感じた。胎動、と言ってもいいだろう。その名は、容易く俺の理性を突破する。
昔からことあるごとに両親が、親戚が、呪詛のように吐き続けていた言葉が喚起されるのだ。
『いつか、鳴上を潰せ』
遥か昔の先祖とやらが鳴上によって壊滅させられたことをいまだ根に持ち、一族でバカみたいに復讐を企み続けている滑稽さ。そしてそれに気づかない愚かさ。全てに反吐が出る。
昔は昔、今は今。鳴上だの、新藤だのと、俺には全く興味のないことだ。
だが奴が強いというのならば……俺が倒してみせるという、ただそれだけの、意地のようなものなのだ。
決して、親達の言いなりになるわけじゃない。
それが俺のプライドを汚すようなものであるのなら、徹底的に排除する。
そう、俺が最も強い。
そのことを実証することさえできれば。
月城が俺を無視するなんていうことは、なくなる―――
そうだとも。
月城が興味を持つのは、こんな小さな男じゃない。
鳴上恭司とやらを倒し、最強の剣士の名を手に入れる。
それくらいでなければ相応しくないと、あの思い上がった女はそう思っているのだ。
上等だ。
あえてその思惑に乗ってやろう。下らない試練を与えたつもりのその傲慢さを、全て支配してやろう。
俺が最強であることを示し、そして。
俺の傍らにお前を、添えるのだ―――
「何なんだい? わざわざ携帯の番号を調べて突然呼び出して、しかもこんなものを持って来いなんて。今僕は……それほど人に構っている余裕なんてないんだけど」
回想を断ち切るのは、その鳴上恭司の声。以前のような善人面とは程遠い、明確な敵意の篭った口調だ。
一体何が奴の仮面を外してしまったのかは知らない。だが、好戦的になっているというのなら好都合だ。
「続きをしようってだけさ。どちらが強いのか……今度こそそれを決めるんだよ」
「……君はまだ、そんなことに拘っているのかい?」
「そんなこと、だと?」
こいつもまた、俺なんて眼中にないとでも言うのか。俺という存在に意味はないと、その定着を否定するのか。
―――アナタニナンテ、
うるさい黙れ! 囁きかけるな! 思い出させるな! お前は黙って俺に傅いていればいい! お前は俺の、
キョウミナイ―――
俺の恋人になっていれば、それでいいんだよ!!
「……つまりお前は、どちらが強いかなんてどうでもいいってことか? 剣士を名乗るくせに、売られたケンカは買えないと?」
頭に残る鈍痛を堪えながら、それを表に出さないようにして答える。
今は、そんなことに気をとられている場合ではない。
「別に決着をつけるのは構わないけどね。……ただ今は気分が乗らないだけだよ」
「はっ、気分が乗らない、ね。もう負ける言い訳を始めるとはな」
「負ける言い訳? ―――勘違いをするのはよくないと思うね」
すぅ、と鳴上の目が細くなっていく。
結局流れてしまった剣道場での戦い、お互いを斬り伏せようと地を蹴った、まさにあの時の目。
そしてそれが、奴が戦闘態勢に入ったことを示す合図だった。
鳴上は浅く腰を落とすポーズ。手には俺が持ってくるように指定しておいた、奴の得物―――即ち、剣。弓形に反っているが、和製の刀というわけでもなく、どちらかと言えば長さこそ違えど三日月刀のような印象を受ける。その柄を握り締める奴の手には、余計な力は全く入っていない。
俺もまた刀を握り、やや斜め上段気味に構える。幼い頃から叩き込まれた教えのせいか、すでに半ば無意識にこの構えをとった。
「こんな気分で人と戦ったら……殺してしまいそうだって、そう言ったんだ」
普段とは明らかに違う、威圧の為の、低く押し殺した声だった。
……ゾクゾクする。
思わず自分の刀を握る手に力が入る。
新藤の家が何代もかけて鍛え上げたという無銘の業物。それを確かな依り処にして、戦いに身を任せる下準備とする。この瞬間が、堪らなく好きだった。
背筋を駆ける電撃のような快感は、かつて味わったことがないほどに俺を昂らせていく。
「いい顔だ。是非実行してもらいたいもんだな。もちろん……できるなら、の話だが」
「やってみせるさ。僕がその気になれば、君なんて数のうちに入らない」
言ってくれる。
だが……そうでなければ、面白くない。
「見たところなかなかの業物だが……代わりに何かが憑いているようだな」
先程から気になっていた異様な気配。その根源は鳴上そのものよりも、奴の手中から放たれている。
奴の剣は、どす黒く、禍々しい気を放っていた。絡みつくように鳴上へと手を伸ばすその気配は、鳴上よりも鋭い殺意と怨念を振りまいているように思えた。
鳴上が突然好戦的になった理由……あの剣にあるのか?
「答える必要があるのかい?」
不敵な笑みを浮かべ、鳴上は空気を邪悪に染めていく。
……魔剣、か。
「……まあ、いいさ。ソレがどんな曰く付きのモノであったとしても、ここには俺とお前しかいないからな。何の問題もない」
言って周囲を見渡す。
七月末日の、相変わらずも衰えるということを知らない晴天の空。その下に広がる戦いの舞台は、学園の屋上。
今回は前のように余計な茶々が入らないよう、ここを選んだ。あのいけ好かない外法使いの忠告通り再び、そして念入りに結界も張ってある。今日は登校日だったが、かったるい教師どものありがたいお話も午前中で終わっている。時は学生にとって楽しい楽しい夏休みへと返り咲いた今や、他の誰かが学校の屋上なんかに来るほうがおかしい。
つまり……どちらかが死ぬまで戦い続けられる、ということだ。
それは甘美な誘いに違いない。
命を削りあって戦う、本当の剣術を味わえる。しかも相手は最強と謳われたあの鳴上。至極ついでに言えば、浅からぬ因縁をもつ血筋の直系。
これほど楽しいものはない。これほど昂るものはない。
「御託はもういいか。どうやらお前も俺を殺したくてうずうずしているしているようだからな」
鳴上は何も言わず、しかし愉快げに口の端だけを歪めてみせた。
―――さあ、戦おう。
世界に俺という存在を、認めさせるために。
刀を抜いてからは、もう頭では自分の身体をどう動かしているのか分からなかった。
確かに聞こえるのは、互いに放つ剣撃が重なる甲高い音と、自分でもこんな声が出せるのかと疑うくらいにバカデカい叫び声。
その瞬間は、世界に二人の人間しか存在していないかのようだった。
鳴上の魔剣も、俺の刀も、一体どういう構造をしているのか、実力伯仲の剣士による鍔迫り合いにも刃毀れ一つすることなく、己の攻撃力を保ったまま、一心不乱に血を啜ろうともがいているようだ。
銀弧が空を薙ぎ、鋼を打ち、地を駆ける。鮮やかな光を反射しながら空気に浮かぶ残滓と、一秒と同じ地に止まらない足捌き。それはさながら死の舞踏に溺れる剣の奴隷。
学校の屋上などという、さして広くもないフィールドをしっかりと踏みしめ、大地を蹴り、自らが積み上げてきた力をぶつける。
正直に言おう―――この時間が終わらなければいいと思った。
元々剣士として育てられてきたのだ。最強を自負するだけの鍛錬も積んだ。その自分と互角の相手とこうして斬り結んでいる。これが幸福でなくて、なんだというのか。
冥利に尽きる、とはこういうことだ。
今も必死の思いで鳴上の死角を攻め立てようと四苦八苦している俺。
それをすんでの見切りで避け、逆にその体勢を利用して斬りかかってくる鳴上。
その表情は、実に愉しげだった。
……そうか。お前も、この時間を楽しいと思っているのか。
感覚の共有は、即ち世界の共有である。強固なようでいてその実脆い現実という名の世界。その中にあって、まるで現実とは似て非なる虚構じみた世界。それは写し絵のように存在は薄っぺらなのかもしれないが、しかし俺にとっては―――否、俺と鳴上にとっては、唯一無二の、己を体現できる空間に違いなかった。
切っ先はいまだ奴を捉えない。
自分の技を見切られて嬉しい剣士などいない。だがどこか安堵しているのも事実。相反する矛盾したこの感覚は、狂おしいまでに甘美で、麻薬のような中毒性を備えていた。
鳴上恭司。
お前という存在は気に入らない。月城に近づこうとしたことも、お前が鳴上の姓の下に在ることも。
だが―――敬意を払ってやろうじゃないか。
お前は確かに、最強と呼ばれるに相応しい剣士だ。
だからこそ……俺が斃してやる。
それが、俺がここに在る理由なのだから。
我知らず緩み始める口元も、この際どうでもいい。
破、という掛け声とともに振り下ろした刀も、あと一歩というところで弾かれた。追撃か距離をとるか悩み、鳴上の構えを見て後者を選択した。戦いの最中で学んだことだ。ああして剣を袈裟向きに持った時はカウンターを狙っている。
ここにきて開始からしばらく続きっぱなしだった応酬は一旦鳴りを潜め、今は互いを牽制するようにして足を捌く。コンクリートの感触を靴越しに受け止めながら、次の攻め手、さらに次の攻め手を考える。奴はどう動くか。詰め将棋のように決まりきった攻略法は存在しない、実戦という舞台の、命という王の取り合い。
湧き上がる歓喜をどうにか宥めながらふと見やれば、抜き身の剣を持ったままの鳴上が、突然その笑みを深くした。
怪訝に見やる俺に対し鳴上は、思いがけない台詞を言い放つ。
「ま、こんなものだろうね」
「……何が言いたい?」
奴の浮かべている表情を一言で簡潔に表現できる言葉がある。
―――余裕。
そう、奴は四肢から緊張を解き、構えを取ることさえも止め、自然体になっていた。何も警戒していない、けれど驕ってもいない。次に何が起ころうとも対処しきってみせるとでも言いたげな、その顔。
動揺するな、という方が無理な相談だった。
バカな。そんな状態でいられるハズはない。現に俺は今息を切らせている。動悸もしている。当然だ。極限まで自分を物質化し、刀と一体になって奴に食らいついていたのだ。ザコ相手に戦うのならまだしも、ここまで実力が拮抗していれば身体の方が勝手に悲鳴を上げる。
そしてそれは、奴も同じであるハズだった。
―――なのに。
「君程度ではこんな戦いしかできない、とそう言ったのさ。―――退屈だよね?」
言葉の後半は奴の剣に向かって語られている。正気の沙汰ではない。剣や刀を手の延長とするのは剣士としてごく当たり前のことだが、腹話術の人形とはワケが違う。恐らくアレは魔剣の類だろうが、子供でもあるまいし、鳴上ほどの男がそんなチャチな幻術に飲まれるとも思えない。よほど人格を揺さぶるようなことがあったのか、そうでなければあんな状態になるわけがないのだ。仮にも鳴上の血統なら、魔術師ほどとはいかないまでも抗魔力は通常の人間の非ではないのだから。
それとも奴の人格は全て、最初からあの魔剣に支配されていたとでもいうのか? ……まさか、それは有り得ない。もしそうであったら逆に今の鳴上は理性的過ぎる。魔剣や妖刀といった代物は、とにかく持ち主に人を斬らせたがるモノだ。魔剣に支配された人間が、人を斬ることを躊躇ったりすることなどできない。と言うより、日常に溶け込むこと自体不可能だ。
ならば何故奴は……正気でない?
そして何故奴は……あんなにも余裕がある?
「多分勘違いしているだろうけど―――」
俺の内心の動揺などどこ吹く風で、鳴上は心底愉快そうに話を続ける。その様子は、砂場で作った城を壊そうとしている子供に似ていた。
「さっきまでの斬り合い……僕は本気じゃないよ。というか、本気を出せるほど君が強くなかったってだけなんだけど」
「……見え透いた嘘を」
本気じゃない? 笑わせるな。そんなハズない。何故なら俺は間違いなく、全力で戦っている。仮に奴が俺より強いことがあったとしても、奴が本気を出さずに―――こんな余裕の表情で―――俺を斃せるハズなどない。凌駕できるハズなどない。俺と奴の隔たりは、そんなに大層なモノじゃない。
その、ハズなのだ。
「嘘……ね。君は相手との実力差も分からないのか。……ますます失望だよ。ちょうど家にあったからっていうのもあるけど……いい戦いができると思ったからわざわざこの剣まで持ち出してきたのに」
「実力差? そんなものは分からない。何故なら―――俺とお前に実力差など、ないからだ!」
言い終わった時には奴めがけて一直線に飛び込んでいた。フェイントも何もない。ただ一閃、奴の戯言と共にその身を斬り捨ててしまいたかった。
だが、俺の剣は届かなかった。
どこまでも鳴上は遠く、俺から離れていく。
瞬時に俺の剣閃を見切った鳴上は、わずかに半歩、立ち位置を変えただけ。それで俺の剣撃の全てを回避した。
そしてゆっくりと、その剣を鞘に納めていく。
「気づいていたはずだけどね」
時間の流れが、遅くなったような気がした。
身体が重く、思うように動いてくれない。
刹那という時間の渦の中では、俺ごとき矮小な存在は、一瞬にしてその全てを封じ込まれる。
「僕はさっきまで一度も剣を鞘に納めていなかった。……分かるよね、この意味が」
「!?」
理解できる。その言葉の意味が。
散々教え込まれたはずの、
常々注意しろと叩き込まれたはずの、
鳴上家の剣士が得意とする技、それは―――
抜刀術。
つまり、刀を―――奴の場合は剣を―――鞘に納めてから最速の振り抜きを以って相手を薙ぎ払う、居合いの技。
この戦いで鳴上は、その技を一度も使っていない。
それが意味することは即ち―――
「君と僕とでは、格が違うということなのさ。さあ―――種明かしは終わりだ。いっそ楽に……死になよ」
ダンッと大きな音を立てて鳴上は腰を落とし、そして。
その最強最速の一閃を、放った。
思い上がりで何の力も持たない、ただの道化に過ぎなかった、俺に向かって。
死ぬ直前というものは、別の時系列を持つに違いない。
こうして冷静に眼前の死を待てるのだから、それは最後の懺悔なり、後悔なりを果たす為の、ちょっとした猶予なのだろう。誰だか知らないがこのシステムを作った奴は、なかなか気が利いている。
結局俺は、鳴上に勝てなかった。
月城に認めさせることもできなかった。
……呆れることしかできない。俺は、何という間抜けなのか。
最初から俺の手には、何もなかったのだ。
世界は俺を否定した。その存在を抹消した。
それは不良品を処理する自動機械のような、ただ一つの作業。
在る必要のないものは、やはり世界から排除される。それだけのこと。
その結果が、コレだ。
俺は、俺という人生を駆けて、何を果たせたのか。
棄てられるだけの存在だったとしても、そこに何かが在ったはずなのだ。
思い出せ。
俺が最後まで残していた想いとは。
塵のように浮かぶ残骸の海。
そこには俺が確かめたかった感情の欠片が無数に散らばっている。
そのたった一つでも手に取ればいい。
どんなに小さな一つであっても、その欠片に込められた願いは、あまりにも鮮明に俺を語ってくれる。
―――ああ、そういうことか。
答えはシンプルなものだったのだ。
もっと早くに気がつかなかったのが不思議なくらいに、明白な感情。
たった一つ俺が抱えていた、俺が俺であった証。
俺は、
俺は月城七瀬を、愛していたんだ―――
命を狩る切っ先が、俺を貫こうと迫る。しかし俺はそんなことは対岸の出来事とでもいうほどに落ち着いて、目を閉じた。
気づくのが遅すぎたのかもしれない。だが、きっとこれでよかったのだ。
不良品では、月城の傍にはいられないだろう。
永遠は俺に、チャンスをくれた。
世界と決別するだけの、自分を認めるだけの、証を残すだけの。
だからこれでいい。
最強の剣士の手に掛かって死ぬのなら、それもいい―――
「月……しろ……」
最後の呟きまで、未練がましいと思いながら。
その瞬間を待った。
……。
……。
……。
ぴたり、と何かが停まったような感覚を覚える。しかしそれは、死という停止とは異なるものだった。
……どう、した?
何故俺はまだ、生きている―――?
「鳴上……?」
不安と焦り、そして恐怖が俺の目蓋を開かせる。
黒を裂いて生まれた光の世界の中で、鳴上恭司は……苦しんでいた。
天に伸ばした片方の手は何かを求めるように虚空をまさぐり、もう一方の手はその頭頂へと添えられていた。……いや、握り締めていた、という方が正しい。自分で自分の頭を握り潰そうとしているかのように、そこに込められている力は本気だ。呻く声も、浮かび上がる血管も、それを如実に示している。
俺は硬直している身体に無理矢理命令し、鳴上から距離をとることにした。不意を突く、などという真似はしない。そんなことに意味はない。
苦しんでいる―――ように見える―――鳴上を斃したところで崩れ落ちた俺のプライドが再生することなどないし、ましてや俺は、真剣勝負ですでに敗れている。
ならば剣士として、潔く敗北を背負うしかない。
そうでなければ……俺が醜い姿を晒せば、俺が求めた月城もまた、穢れてしまうような気がしたから。
……そうか。
俺は二度、敗北していたんだな。
納得するような、歯がゆいような……なんとも言えない気分だった。
まあ、今はいい。
今は鳴上の状態の方が気になる。
変わらずくぐもった呻き声を獣のように垂れ流している。焦点は定かではなく、こちらの姿なんて見えているのかいないのか。何が足りないと言うのか、ひたすらにもがき続ける。
そこにヒトとしての理性はない。魔剣に取り憑かれたというのもあながち間違いではないのか。
剣を操る者が、剣に溺れるとは。
これがあの鳴上恭司なのかと思うと、やりきれない思いがした。
「おい、鳴上……」
だから無意識に声を掛けてしまっていた。
奴がこれからどうなろうとすでに俺とは関係の無い世界での話だ。奴が俺を斬るというのであればともかく、奴自身が魔剣に取り殺されようがそんなことは俺にとってどうでもいい、……はずで。
だがどうしても、
「お前は、」
込み上げる疑問を抑えられない。
鳴上は凡そヒトとは呼べない狂態を演じ続けている。俺という存在に終止符を打つ間際だったというのに矛を納め、今度は自らが苦痛に喘いでいるのだ。これが異常でなくて何だというのか。
そんな異常を看過できるほど、俺は全てを割り切れてはいない。
だから問う。
「お前はどうして、苦しんでいる?」
「………………月、城?」
……ん?
今、何か聞こえたか?
「月城……七瀬?」
やはり、聞こえた。
俺がその名を違えて聞くことなどない。
確かに鳴上恭司は、月城七瀬と口にした。
それが何を意味しているのか。
この対峙、この流れ、この状況で。
月城七瀬という言葉がどれほど強さを持つのか。
一見高度な謎かけのようにも思えて、しかし他ならぬ俺には、少し考えれば明白な事実だった。
……奴は死の淵に立った俺の月城という呟きによって、自分を取り戻そうとしている。
単純と言えば単純な話。奴にとっての月城がどういう存在なのかは知らないが……多分、俺と似たようなものなのだろう。だからこそ土壇場でその名を聞き、刃を止めたのだ。それが結果として俺の命を救ったというだけのこと。
「……負け、斬り、七……瀬が、斬り、負けな、約束……」
鳴上は俺には意味の分からない言葉をぶつぶつと呟いている。奴にとってさえ、それが何かを含有するものなのか、判断できない、ただ。
先程までの苦痛とは、異なるような気がした。
「誓った……僕は、……二度、もう二度と……君を、……七瀬、」
……葛藤。
それは、他ならぬ奴自身の戦い。
魔剣の魔力によって縛られた人格を、再び自分の支配下に取り戻すための、そして、
自分の確固たる部分を奪い返すための戦い。
月城とこの男がどういう関係なのかは知らない。だが、きっと、俺が想うほどに、
いや、俺が想う以上に。
月城のことを―――
「克て……鳴上」
思えば、勝手に言葉が口から飛び出していた。
どうしてかなんて分からない。すっきりとした気分でいたようでいて、本心では勝負に負けたショックで頭がイカレていたのかもしれない。
ただそれでも、生まれてくる言葉を抑えることが出来ないことに変わりはない。
「打ち克て! 鳴上恭司! お前はそんな剣に支配される程度の男じゃない! そうでなければ……お前は月城に相応しくない!!」
ぴたり、と鳴上がその一切の挙動を停止した。
手に隠された奴の顔は見えない。
「こんな……俺如きという障害に心を乱しているようで、お前は目指す頂に立てるのか!?」
だが……確実に、俺の声は届いている。
「その頂に―――月城の傍らに、立てる男になりたいんだろう!?」
俺の叫び声が残響した後には、空気の流れさえも止まったような、凍てつく時間が通り過ぎる。
俺も、鳴上も動けないでいる。
ただ在るというだけの、静謐で変化のない世界。
蒼い空と、大地と、たった二人の、ヒト。
何も聞こえない。
何も動かない。
このままリアルな彫刻と成り果ててしまうのか。そんな結末なのかと思えてしまうかのような、永遠のように永い時間の中で。
……全てに存在を与えるその刻は、訪れた。
不意に放たれた、音。
「僕は、もう二度と、もう一人の僕に負けない―――君を傷つけない……そう、誓ったんだ!」
ただ先に向かって流れるという、その性質をたった今思い出したように再び動き出した時間。
鳴上は、振るわれようと掲げられていた魔そのものを、ゆっくり、それは本当にゆっくりと、その巣へと帰した。
カチャン、というささやかな鞘鳴りが、鳴上の戦いの決着を静かに告げる。
俺との戦いなど、最初から決着はついていたようなもので。
奴が戦っていたのは最後まで自分自身だったのだ。
封印を終えた鳴上の目には、人としての輝きが戻っていた。奴は魔を宿す剣に、克ったんだ。
……そう、それでいい。
そうでなくては、いけない。
でなければ…………俺が報われないじゃないか。
正気に返った鳴上は魔剣の鞘を手に、半ば呆然として観客となっていた俺の方へと近寄ってきた。
その表情は、何となく予想はついていたがやはりどこか申し訳なさそうだった。
「謝る、なんて真似はするなよ」
俺に言葉の機先を制されてか、鳴上の咽がうっ、と唸った。
月城のことを考えると、本当なら一発でも二発でも殴ってやりたいくらいなのだが―――ふん、いい気味だ。今はそれで満足してやる。
「俺はお前に負けた。それは、お前の実力だ。魔剣なんて、関係ない。だから、謝罪される理由なんて、ないんだからな」
話しながら、今更になってずっと呼吸をしていなかったことに気がつく。いつからだ? 鳴上の剣が迫った時からか。……どうりで、息苦しいはずだ。結構な時間呼吸を忘れていたようだ。
少しだけ息を切らせながら、俺は鳴上に語りかける。その様は第三者から見れば友人のそれのようだろう。あれほどまでにわだかまっていた奴への妄執は、気がついたときには跡形もなく霧散していた。だからこそ、こんな状態でいられる。
鳴上はしばらく呆っとした顔をしていたが、やがて、
「君が最初からそういう人だったなら、僕達は友達になれたのに」
……下らない。
「はっ、願い下げだ」
「そう言うと思った」
にこやかに笑いやがる。……くそ、やっぱりこいつは気に入らない。
「じゃあ謝ることはしない。でもこれだけは言わせてもらうよ? ―――ありがとう」
「……そうか」
さっきまで俺達は敵同士で、後一歩で俺を殺そうとしたその直後だというのに、その台詞。その態度。
俺はやはり、こいつのことがよく理解できない。こいつのようにはなれない。
きっとそれが―――月城が俺を見なかった理由、なのかもしれない。
「礼を言われる筋合いはない、と言いたいところだが……まあいい。受け取っておく」
「うん、それがいいよ」
鳴上はすっかり険の取れた表情で、どこか嬉しそうに頷く。
「それじゃ―――また」
そう言って、鳴上は去っていった。
去り際にはなんの遺恨も残さず、むしろ薄情なくらいあっさりした決別。
それでいい、と思う。
剣を合わせただけで、想いを認識しただけで、それはきっと価値のあったことだ。
俺がずっと追い続けていた、乗り越えたかった背中。それが視界から失せていくのを少しだけ名残惜しく眺める。
終わってしまえば妙に清々しい気分だ。
ずっと引っかかっていた胸のつかえが跡形もなく取り払われた、とでも言うのだろうか。
親の執念も、俺の情念も、もはやただの幻影。その悉くは霞のように消え去った。
そう、今なら。
戦う前と同じようでいて、全くの別人に生まれ変わった鳴上に、
今のお前になら、俺は―――
「敗北したか」
「!?」
慌てて声のした方向―――俺の背後―――に振り返る。有り得ない、そう思いながら。
しかし、有り得ないはずの存在が、そこに佇んでいた。
黒いロングコートを纏った、壮年の男。特徴なんて全くないはずの顔なのに、一度会ったら絶対忘れられない、それだけの印象と威圧感を備えた強者の風格。
―――外法使い。
「あんたが……何故ここに!?」
そんなバカげたことが、と思ってから、しかしその思考そのものがバカげていることに気づく。
相手は外法使いなのだ。今はオカルトでしかないと思われている秘術を修め、魔という力を行使するモノなのだ。例え俺や鳴上がヒトの身でどれほどの高みに登り詰めたとしても、所詮は格が違う。最初からこの場にいて気配と姿を隠していたにしろ、たった今この場に現れたにしろ、どの道察知など不可能だろう。
だからこそ姿を現した今、隙を見せてはならない。
内心の動揺を隠せずにいるが、それでも奴の一挙動一挙動全てに神経を研ぎ澄ます。
「私が何処に居ようと、貴様には縁のない事。それより、」
音も立てずに周囲を眺め回し、
「成程、前回よりも強固になっている。それで良い」
「……結界のことか? 当然だ、ちゃんとあんたの言う通りにしたんだからな」
「……気付かぬか。まあいい。貴様に説明する云われなどないのも事実」
何を言いたいんだコイツは。
……ちっ、足の震えが止まらない。
「恐れるか、小物。それは必然だ。恥じることなどない。それは存在としての格の違いだ。蟻は象に勝てない。然り、人間は魔道の者に克てない」
悔しいが、事実だった。
もはや抵抗するのもバカバカしいくらいに俺は萎縮してしまっている。奴が魔法を発動する前に斬り伏せるなどと、どの口が言ったものか。それがどれ程愚かしい認識であったのか、今になってようやくわかる。
こいつには、抗えない―――
「……それで、あんたは一体何の用でここにいる」
そんな脅威でしかない存在が、俺の目の前に居る。それだけで十分な違和感だ。
外法使いは珍しく愉快げに口の端を歪め、
「何、大した用などない」
「……?」
認識の外側―――見えていたハズなのに、知覚出来ない―――で、外法使いは堂々過ぎる程に堂々と、俺に向かって腕を伸ばした。
彼我の距離はわずかに二メートル程度。それでも腕を伸ばしただけではどうにもならない。奴の手は空を掴むのみ。
―――その、はずだったのに。
遠く、何かを思い出す。
何の変哲もない、壮年の男の顔。
動く唇。紡がれる呪法。
あれから全てが一変した。
剣術だけが生き甲斐だった俺が。
どうして最初、あの屋上で風にたゆたう月城を見て、
―――彼女に、興味を持ったのか。
いつだ。いつだ。いつだ。
寄せては返す奔流に埋もれながら、必死にその瞬間を思い出す。
そう、俺は、新藤海は。
かつて一度、月城に出会う、その直前に。
この男に、出会ったことがある―――
外法使いの手が何もない空を掴む。
見たこともない複雑怪奇な紋様が奴の腕から浮かび上がり、圧倒的な質量を持ってやがてソレは俺へと侵食した。
それは、奇跡。
それは、システム。
それは………魔法。
「単なる―――廃品の除去だ」
その重く低い声を耳にした瞬間が。
俺の―――新藤海だったモノの、存在が否定される瞬間だった。
結論を言おう。
鳴上が言った『また』の機会は、二度と訪れることはなかった。
見渡す限りの赤を撒き散らし、真新しいピンクの内容物を晒す、肉塊。生きていたことの名残か未練か、いまだ微弱な脈動を残しているが、それが潰えるのも時間の問題だった。
かつては人間だったソレをつまらなげに見下ろす、外道に堕ちたモノ。
「児戯だったが、器共に接触するとは、意外に役立った」
周囲の結界と、虚構の記憶の構造を解除。この世に存在していたはずの『新藤海』という情報を鳴上恭司から遮断、排除。
もはや彼は新藤海だったモノを識らない。偽りの人形はもう、壊れてしまったから。
そうして因果の連鎖を掻き消してから、外法使いは一人、抑揚に欠けた声で呟く。
「私が誘導した印象を自分自身のモノと勘違いし、アレに関心を抱き、そして、」
それは、風の調べのようであり、
「報われぬ感情をその身に宿して死ぬ。それは唯の人形。それはただの骸」
それは、古き詩のようであり、
「貴様の『憎愛』。確かに私の糧とした。眠れ。久遠に醒めぬ夢の中で、見果てぬセカイと戯れるがいい」
それは―――
「……贄を餌に、順調に魔力は滞積している。フフフ、近い、近いぞ、私がその輪廻、断ち切る日よ!」
―――寂寥を打ち砕く、祈りのようであった。
真夏の聖蘭学園の屋上。恵みの象徴たる太陽に照らされていながら、誰もが足を踏み入れぬ異空間。
その閉鎖した怪奇なセカイに、外法使いの哄笑だけが響いていた。 |