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箱に願いを
作:草壁蒼司



第四章 『浸食』−Dead flow−1



 ――――――――――

 何が知りたい、という訳ではない。
 何が見たい、という訳ではない。
 そこに在ると言われたモノには、大した興味はない。
 それが例え何に繋がっていようと、何をもたらそうと。
 そんなことは、どうでもいい。
 それを穿ほじくるような真似をするのは、所詮は手段でしかない。
 『箱』なんて、結局は誰のものであってもいいのだ。
 私が得る為に犠牲になった、というだけのこと。
 必要だというのなら仕方がない。
 貪欲に私が求める唯一つのモノの為に。
 そして、それを永遠とする為に。

 
 その『箱』を、渡してもらおうじゃないか。

 ――――――――――

 CASE1 須藤勇麻

 たった今、バイト先からの帰りに交通事故の現場に遭遇した。何でも、大学生くらいの男が女を轢いたらしい。
 バンドの練習があるからいつもとは違う道を通ってスタジオへ行こうと思っていたのだが、異常な程に集まった野次馬のせいで、結局迂回しなければならない。仕方ないと言えば仕方ない。ここが普通に通れたとしても遅刻する時間なわけだし、自分で言うのも何だが俺の遅刻癖はメンバーにもすでに周知のことだ。今回は事故があったという言い訳もできるから大丈夫だろう。
 というわけで、俺もそのまま野次馬に参加した。思うに理由があれば遅刻したって問題ないはずだ。事故じゃあ俺自身で回避できるようなものでもないし。こいつは好都合、なんてのは当事者達に失礼かもしれないが、所詮は顔も知らない相手だから関係ない。そんなことを美恵が聞いたら恐らく凄い剣幕で怒るのだろうが、あいにくこの場にはいないので全てがオッケーだ。
 人の群れをかき分けて、器用に群集の先頭まで抜ける。こういうどうでもいいことは得意だ。
 ぱっと開けた視界の中に、三人の人間がいた。
 一人は男。これが事故を起こした張本人だろう。内心はともかく、見た目は案外堂々としたもので、冷静に救急車を呼んでいたりしている。事故慣れでもしているんだったら結構なやんちゃということか。そういう風な感じはしないが、人は外見によらないのが世界の通説だ。そういうこともあるんだろう。
 残る二人は制服姿の女……というよりむしろ女の子と言ったところか。昨今の高校生―――だろう、多分―――なんてガキそのものな連中が多いものだが、この二人はそうでもなさそうに見える。一人は血を流し、一人はそれを介抱しているわけだが、その様子を見る限りではもう少し大人びているような印象を受ける。まあ、事故直後なんて特殊極まりない状況での分析に意味があるかどうかは不明だが。
 こうして無感動に人となりを評価している俺自身というのも、何だかそれはそれで浮いた存在みたいだ。だが幼い頃に両親を亡くした俺としては、死なんて身近にある一つの形にしか見えず、結果的に絶えず動揺のない人格を宿すことになってしまっている。一人で生きることに精一杯だった俺は、ただ一人を除いて他人の生き死になどそれこそそこら辺に転がっている石ころの行く末のように無意味だ。そんなものにいちいち気をとられていては、多分俺はこの歳まで世界という戦場を生き残れなかった。
 別に大げさな話じゃない。昔何があったにせよ、元々自分以外にはあまり興味を持たない性格だったのだから、それが少し極端になっただけのことだ。
 まあ、そんなことはいい。
 最後まで落ち着き払ったまま、俺は外野から血に染まる女の子の姿を見つめ続ける。
 そして今、ようやくというタイミングでやってきた救急車に、女の子達と男が乗っていった。
 去っていく救急車のサイレン音。無意識の底のどこかで、深い記憶が疼く。

 手を伸ばす人間だったソレ。慈しむ心で溢れていたのに、愛情が見せた執念だったのに。
 肉塊となり果てたソレを拒絶してしまった幼い俺。

 ―――関係ない。それは過去の再演じゃない。俺のことじゃない。
 無性にその音を追いかけたい衝動に駆られる。
 違う。あの時がここに在るわけじゃない。血に染まった両親は、もういない―――
 気がつけば息を切らせた俺が呆けたようにその場に立ち尽くすのみになっていた。
 ……何をやっているんだか。
 自分が死ぬ夢でも見ていたように、後味が悪い。こんなのは初めてだ。
 今もそこに見える気がする。
 死、というリアルな世界が。
 無、という空白の領域が。
 俺という存在を奪っていく、その瞬間が。
「バカバカしい……」
 死体を見たわけでもあるまいし、何をこんなにイカレたことを考えているのか。
 何だか興が冷めた。こうして一人でバカみたいにごちていることも、怪しい空想ごときに理性が敗北したということも。
「ちっ。……もう少し遅れていくか」
 絶好の言い訳もあることだしな。
 適当に時間でも潰していこう。最終的にはそりゃあ行くとも。なんてたって真面目なボーカリストだからな、俺は。傾ける情熱が足早に練習に向かわせるなどということは一切ないが。
 ―――何気ない一日であるはずのその日は、そんなふうにして過ぎていった。
 気の迷いで遠回りした道が、ゆくゆくは俺の命運の全てを決めてしまう道であったことに、俺自身、気づくことなどなかった。
 ああ、追記しておくべきか。
 結局、バンドのメンバーにはしこたま怒られた。


「どうしてそんな言い方……! 可哀相だとは思わないの?!」
「思うよ、思うさ。でも結局他人だろ? 野次馬根性で見ようが、結果その娘がどんな怪我しようが、俺が関与することじゃないだろうに」
「私の生徒よ? 私の娘みたいなものだわ! それをあなた、どうなってもいいなんて……!」
 ああ、やっぱりこうなるわけ。
 教師なんてやっているせいか、人一倍こういうことにはうるさい。いや、教師だからというより、こんな性格だから教師になったのか。何せそこらのチンピラ同然の俺に説得なんぞかまし、それに若干ながらも心を揺さぶられた俺はこうして恋人なんてポジションに納まってるくらいだ。まして自分の担任する生徒が事故に遭ったなんてことになれば、そりゃあ心配もするのかもしれない。
 が、それと俺の感情とは無関係だ。
 例え美恵の生徒だろうが、俺にとってはやはり他人。それに関していちいち同情だの憐憫だのといった思いは持ち合わせていない。美恵が事故に遭ったというならそれはまた別の話だが、たかが女子高生一人、別にどうでもいいことに変わりない。
「もう二日も前の話じゃないか。まだ言うのか? それを」
 そう、もう二日も前の話だ。バンドの練習の後は疲れきっていたからそのまま自分の家に直行して寝たし、昨日は昨日でバイト。ようやく夜になって美恵のアパートに泊まりに来て、そのまま朝を迎え、ベッドの中で美恵が切り出した話は……自分の生徒が事故に遭った、という話だった。
 せっかく落ち着ける場所に来たのに、あの妙に自分を見失った現場の話なんかされたって、いい気分になどなれっこない。
 そりゃあいつになくイライラしているような気がするのは認める。美恵が自分の生徒を溺愛しているのは今に始まったことじゃないし、それをわざわざ怒らせるような返答をするほど俺も幼稚じゃない。今日みたいな喧嘩なんて、それこそ付き合い始めた当時くらいにしか記憶がない。今となってはお互い、相手の性格くらい理解し合っているつもりだ。
 それがどうだろう。蓋を開けてみればこんな状況だ。俺にしろ美恵にしろ、こんな下らない言い争いなんてしたくはないというのに。
 ……正直に言ってしまえば、悪いのは俺なのだろう。
 生徒が事故に遭ったことで自分のことのように悩む美恵に対し、どうでもいいなんて言葉を吐いた俺が。
 何でそんなことを言ってしまったのか、今でもよくわからない。仮に内心ではそう思っていても、美恵の前でそういうスタイルを気取るような真似、普段なら絶対しないはずなのに、今日に限って本音を吐露してしまった。それも美恵を嘲るようにというオマケつきだ。聖母でもなけりゃ怒るのも当然だろう。
 そしてそんな俺の性格を一番よく知っているはずの美恵でさえ、今日に限ってやけに突っかかってきた。
 ああだこうだとなし崩しに言い合いになり、しまいには泣き出した美恵は今、服も着ずにそっぽを向いている。こうなると後が長い。
 謝ってしまえばそれまでだということはわかっている。今ここですまなかったと一言言えば、それだけで美恵はまた笑って朝食の一つでも作ってくれるだろう。
 だがどうしてもそんな気になれなかった。
 正体不明の靄みたいなものが、心を覆っている。その靄は時々棘を伸ばして心を突き刺し、耐え難い痛みとこの上ない怒りを湧き上がらせる。一体何に憤っているのか、もはやそんなことさえも思い出せずに、ただ漠然と誰かに八つ当たりしたがるのだ。
 結局、俺の甘えだ。
 それがまた、イライラを助長させる。
 ここ数日毎日のように見る暗い夢と、このイライラは、何か関係でもしているのか。
 寝覚めが良くなければ、気分も良くない。気分が良くなければちょっとしたことでもすぐにイライラする。理屈としてはそんなところだ。
 ……理屈なんか分かったって、治まるわけじゃないのだが。
 ふぅ、と息を吐く。
 落ち着けよ、俺。何をそんなに苛立っている? 美恵は俺にそれほど気に障ることでもしたのか?
 ……答えは、ノーだ。
 そうさ、簡単な計算だ。
 このままお互いを牽制するように言い合いを続け、恋人と疎遠になって、おまけに朝食にもありつけないままバイトなんて行けるか? 今日もバンドの練習があるんだぞ?
 どう考えたって大人になるべきだろう。
 一つ認めてやるだけでいい。残念だったなと。その生徒が一秒でも早く元気になるといいなと。そう言えばいいのだ。
 ……よし。
「なあ美恵、」
「勇麻、」
 ぱっと目線の先で二人が同時に声を発した。
 こんな時にまでタイミングが重なるとは、つくづく付き合いの長さを感じる。
 伊達に恋が愛に変わるだけの時間を過ごしてはいない、か。
 自然に笑みがこぼれた。そう。……そういうことだ。
「な、何を笑っているの?」
 そう言いつつ自分でも笑っているじゃないか。
「いや。……悪かったな、美恵」
「……ううん、私も言い過ぎたね。ごめん」
 それだけ言えば十分だ。それで全てが伝わる。
 わだかまりも、イラつきも、もう過去の塵だ。
 何だったんだろうか。
 こうして終わってしまえばそこには何の残滓もない。
 ただ愛しい女がそこにいるだけ。
 今の今までその女に対して憤っていたということが、実感として刻まれない。ただの空想か。それこそ夢だったのではないか。
「なあ、美恵」
「何?」
「……いや、なんでもない」
 ……まあ、いいか。
 どうせ明日が来れば世界は日常を描き始めるのだから。
「それじゃあ……ご飯作るね」
「―――ああ。頼むよ」
 そうして朝食を作る美恵の背を見ながら、
 今日のバイトをどうやってサボろうかと考えるのが、俺という人間らしさだった。


 深淵、というほど大層なモノじゃない。
 ただただ昏いだけの、禍々しい空間。
 何よりも静謐なようでいて、渦のように激しい流れを宿す漆黒。
 常に何も見えず、常に何も聞こえない。
 触れることも、感じることもない。
 在ることで何かを得られるような、そんな都合のいい場所じゃない。
 そこはただそこに歪められているだけで、結局夢の一片を辿るだけの、時間さえ不確かな穴。
 イメージが身を焼く。
 イメージが身を守る。
 全てに勝るのは空想の中の自分に存在を与えること。
 一度目はそれで自我を保てた。
 四度目で空想がカタチを忘れ始めた。
 十度目でもはや存在の定義すら理解できなくなり、
 最早どうしてモノをモノと認めていたのか、自分を自分たらしめていたのか、『 』はどこにあったのか、そんなことも分からなくなった。
 ヒトというのは騙されたことに気づかないだけの、腐った人形でしかないと。
 世界を切り裂く紅が教えてくれた。
 黒を食い破るように、貪るように膨大していく真紅の傷。
 それは、何よりも根底に近い、原初の色。
 やがて世界は紅が支配を始める。
 あがこうと、もがこうと。
 抗おうと、逆らおうと。
 塗り替えられたイメージが、身を刻めと追い立てる。
 何か、大切なモノがあったのではないか。
 何か、特別なモノがあったのではないか。
 最後の警告は嘲るように笑う奔流に全て洗い流されてしまった。
 何も残らなかった。
 虚無と呼ばれる集合に過ぎなかった。
 ああ、赤い、紅い、あかい、アカイ……
 そう、それは根底の色。原初の色。そして……胎動の色。
 ヒトはそれを、血と呼ぶのだ―――

 
「がはっ!」
 もはや何が自分の上にあったかもわからず、ただソレが自分を縛ると感じた瞬間には跳ね除けていた。
 それがただの布団であると認識するのに、若干秒。
「何を……?」
 荒く、乱れる呼吸。
 速く、脈打つ鼓動。
 俺は……一体……?
「須藤、勇、麻……?」
 自分をそこに繋ぎ止めるために、そっと呟く。
 ……足りない。
 俺が俺であるという確信が、足りない。
「須藤勇麻、須藤勇麻、須藤勇麻っ、須藤勇麻っ!」
 突き動かされるようにして連呼する。そう叫び続けていなければ自分が砂塵のように溶け去ってしまうのではないか、そんな思いに駆られて。
 漠然と精神の圧迫を続けるその妄想が、しかしリアルな圧力となって俺を苛む。
 どうしたというのか。
 あれから……あの事故があった日から、もう二週間以上だ。
 あの日以来、毎晩同じ夢を見る。
 昏くて、黒くて、紅い……
 あのイメージこそが『死』だ。
 力を持つ『死』のイメージが、張り付いているのだ。
 もう、ただ混乱が極まっていくだけで、俺にはもはや須藤勇麻という人格が残っていない気がする。
 だからこうして叫び続ける。自分は確かにここに在るモノなのだと。
「歌……歌を……」
 俺が俺であった証。追い続けた夢。例え脆く儚い幻想だったとしても、そこには確かに俺という人間が存在した足跡が残っている。
 人生のほぼ全てを捧げてきた音楽。それを口ずさめば、きっと、俺は俺で居られる。
 そして―――
 はたっ、と俺の全てが停止する。
 俺の、俺達の、
「歌って……どんなものだったんだ……?」
 思い出せない。
 昨日まであれ程までに愛していた歌の数々。自分達の魂をこめた結晶そのもの。
 その歌が何一つ、頭の中に残っていない。
 霞がかった思考を必死に研ぎ澄ませても、記憶の果てを包み込んだヴェールを取り払うことはできない。
 変わりに埋まった『死』のイメージがその他の記憶を覆いさってしまったとでもいうのか。
 俺の中にあったはずの確固たるカタチが。
 あっけなく崩壊していた。
 俺を俺たらしめていた歌という核がすっぽりと抜け落ち、もはや空っぽの抜け殻。意味のない虚像だけが詰まった、棄てられるだけの箱。
「あ……あ……ああああ!」
 歌だ、歌だぞ? 俺の生き甲斐だった歌だ。それが、心からどこかへ消えてしまったなんて。
 だというのに。
 俺は恐怖する。驚愕する。放心する。
 ―――全く心に動揺がないのは、何故だ―――?
 本当は心の中で、全てを諦めていたとでもいうのか?
 このまま歌を続けたところで、メジャーデビューなんてできっこない。誰かが認めることなんて有り得ない。ただの自己満足で、ただ現実から目を背けたいというだけで、心の底から歌を愛していた時期など、とっくに終わっていた―――そういうことなのか?
 だとしたら……それが事実なのだとしたら。
 俺はどうして、生きているんだ―――?
「それは―――そうそれは美恵が……」
 言ってから自分で口を押さえた。
 それは俺にとっては奇跡のような名前だったはずだ。
 何にも代えることなど出来ない、たった一つの芯だったはずだ。
 それが、幻想のように霧散していくその瞬間を、今の俺が知覚していた。
 それは終焉に違いなかった。
 それは夢の続きに違いなかった。
 ベッドから飛び起きて、すぐに軽い身支度を整える。
 胸中はどす黒いまま、虚ろなまま、空っぽのまま。
 俺は一目散に外に出た。
 真夏の昼は、苦しむ俺を嘲笑うかのように鮮やかな晴天だった。
 その蒼く美しい空から逃げるように視線を外す。前だけを見て、そして脱兎のように走る。
 目的なんてない。
 ただじっとしていることなどできなかった。
 ―――何故ならば。
「美恵って、誰なんだよ……!」
 恐怖でも、狂気でもない。
 実体を持たない、しかし圧倒的な何かが、俺の中を支配していた。
 もう俺には、帰るところなどないのかもしれない。


 見慣れた街の風景を尻目に俺は走り続ける。太陽に彩られた、日常だったソレらに、感慨とさえ呼べない微弱な思いだけを乗せて。
 あの家も、あの店も、あの道路も、あの看板も、あの信号も、あの橋も、あの木も、あの山も。
 全部覚えている。ここは俺が生きていた世界。俺が在ることを許されていた場所。
 なのに、俺は思い出せない。
 歌も……美恵という名前も。
 焦りとは無縁の静けさを心で抱えながら、しかし抑えられない衝動に突き動かされて俺は道を行く。
 どこへ向かっているのか。
 どこへ向かいたいのか。
 何も分からないまま、彷徨う抜け殻。それが俺というモノの正体。
 記憶は退廃と逆行を続けている。
 イメージは、かつての事故の光景を俺に教えていた。
 両親は俺を庇っていた。
 最後には必死に手を伸ばして、俺に何かを伝えようとしていた。 
 だが俺はそれを拒絶した。
 あまりにも変質した、その『死』を貼り付けた物体に対して、もはやそれが親だとは認識できなかったのだ。
 醜い化け物が自分を手招いているかのようで、目を背けた。手を払った。
 同じ『死』になんて、絶対行きたくなかったから。
 ……あの時の、顔。
 全てを喪った時の、悲しそうな顔。
 それが今の俺の中に灼きついて離れない。
 今現在大切だったはずの何かを思い出せないくせに。それを過去にしてしまったくせに。
 過去に囚われているなんて。
 もうどうしていいのか、どうしたらこのイメージを捨て去れるのか、それだけを考えていた。
 何もかも知っている街をあてどもなく進み、そして気がつけば喧騒に飛び込んでいた。
 ここは……何処だったろうか。
 無償に、何かを叫びたい気がした。
 俺はここに在るのだと。確かに生きているのだと。
 きっとここは……
「俺が、初めて歌を……」
 他人から見れば、田舎のショッピングモールで行われる、些細なイベントの一つに過ぎなかったかもしれない。
 だが俺にとっては、大きな一歩だったのだ。
 思い出せる。
 今なら、思い出せるはずだ。
 俺に迫る『死』を祓う、魔法の歌を……

 オマエニ、セカイヲイクチカラハナイ。

「なっ!」
 突如大声を上げる俺に周囲がこちらに意識を向ける。
 だが俺にはそれを気にしている余裕などなかった。

 タダノイシズエ。タダノイケニエ。タダノコマ。

 脳に直接響いてくるような低い声。それが俺の理性の全てを奪い去っていく。
 や、止めろ……!
 これ以上、俺の―――

 シニヨッテクワレルガイイ。

 俺の存在を、否定するな―――!!
 その怨念のような声から逃げたくて、走り出す。
 場所は……とにかく、こいつが届かない場所。
 そう、高い……高いところだ。
 飛べば、こいつは俺を追いかけられない。そうに決まっている。
 そうすれば俺の勝ちだ。俺は世界を取り戻せるんだ。
「ははっ、はははっ……そうさ、俺は飛べるんだよ!」
 ちょうどおあつらえ向きに天へと伸びる建物がある。
 古めかしい時計塔が、そこに在る。
 管理者や清掃員の為の入り口から内部に侵入し、淀みのない足取りを崩すことなく走り続ける。
 前にここで……いや、そんなことをしたか? 知らない。分からない。だがここに上へと続く階段が存在することを、俺は知っている。
 何かを考えるのも億劫になってがむしゃらに古びた階段を上る。声はもう聞こえない。ざまあみろ。お前では俺に追いつけない。お前は俺を殺せない。
 もっと、もっと高くへ……
 疲労など感じない。息切れなど感じない。
 身体は、心は、全ては、あの高みに届くために。
 最後の階段を駆け抜け、そして最後の扉を開ける。
 ここなら、俺は、どこまでも飛べる。
「飛べる……飛べる! 声にも、誰にも! 邪魔はさせない!」
 明るくなった視界の果てに、小さな世界が広がる。
 俺が生きていたはずの街。しかし俺を見捨てた街。
「見ろよ美恵! ここが俺の世界だ!」
 考えることなんて、億劫だろう―――?
 だったらそう、こうして、
 『死』のセカイへ、飛べばいいのさ―――!


 吹き飛ぶ風景と、迫り来る地表。
 一瞬の浮遊感を身に受けながら、俺は何かを取り戻した気がした。
 ―――言いたいことが、あったんだ。


「俺と……結婚しよう、美恵……」


 そして俺の意識は暗い奈落へと、未練の全てを背負って沈んでいった。 
 

 『ユート・ピア』名物の時計塔から、一人の男が突然飛び降り自殺をした。遺書こそ発見されていないが、その男が一人で時計塔に上っていったのを何人もの人間が目撃していて、また飛び降りる直前に奇声を発していたなどの情報もあり、事故という線も薄いということで結論は覆らなかった。
 事件としてはたったそれだけの、強固な日常には微弱過ぎて揺らぎにもならない出来事。
 その些事にあって、興味本位の野次馬達からわずかに離れ、一部始終を見やる影が一つ。
「鎖の影響……伝播の強度。貴様は唯の贄に過ぎなかったが、質を見切る程度には役に立った。やはり回路は強固なまでに『箱』に繋がっている」
 影は興味深そうにその結末を見届け、やがて誰に悟られることもなく姿を消す。 
「安らかに死ぬがいい―――私の血肉となって」
 そして影は本命の相手、全ての鍵を握るヒトの元へと向かった。
 世界を救い、そして滅するという……己の目的の為に。












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