第三章 『血継』−Sacrifice−2
「突然、何なんです? それにあなたは誰なんですか?」
その質問には、現れた男ではなく七瀬が答えた。
「私の従兄よ。……月城慎也」
正直、あまり相手にしたくないわ、と七瀬は小声で僕だけに付け加えた。ただ単に苦手だ、という理由で人を避ける七瀬を見るのは初めてかもしれない。
もしかして、昔何かされたとか……
って、そんな下衆な発想をするのは七瀬に失礼だ。
「初めまして。私は月城慎也。説明の通り、そこにいる七瀬の従兄です」
落ち着いた口調で話すその風貌はいたって普通の人間。顔だけを見ていれば特徴という特徴が見当たらず、体格も中肉中背。服装もどこにでもありふれたジーンズとTシャツ。街ですれ違っても恐らく印象には残らないだろう。
ただ一つだけ彼という存在を際だたせるように主張するものが一つ。それが、首の後ろにある大きな痣。何か塊のようなものを勢いよくぶつけたかのように、色々な方向に飛び散った跡。トマトを地面に叩きつけたりすると、こんな形になるかもしれない。
どこかで見た覚えがある気もする。
何故か僕はこの月城慎也という人に対し、隙を見せてはならない、という気がした。威圧感への防衛反応、とも言うかもしれない。
「……それで? その従兄さんが僕に何の用事ですか?」
意図せず声が固くなる。初対面の相手にこんな口の利き方をしたのは初めてだ。
慎也とやらは何が楽しいのか愉快そうに笑い、
「私も嫌われたものですね。いい雰囲気のところを邪魔してしまったからですか?」
口調は穏やかであるのに、その裏には鋭い敵意が隠れているような印象だ。僕の勘繰りすぎでなければ、だけど。
「そんな事はどうでもいいわ。貴方は何をしに来たの?」
助け船のつもりか、あるいはこの話題を避けるためか……悲しいが恐らくは後者の理由によって、七瀬は慎也を詰問する。
慎也はおどけたように両手を折るジェスチャーをしてみせ、
「言ったじゃないですか。そこにいる……鳴上恭司君に話があるんです」
「何故……僕の名を?」
「病院の面会記録を拝見したんですよ。私が七瀬の病室に行こうとした時、少しね」
やっぱり……油断してはいけない相手だ。
どこかで見たと思ったら、あの時病院を去る際に見た痣の男……七瀬の病室を聞いていた男だったのだ。
彼がその記録とやらを見て何を思ったのかはわからない。ただそれが原因でこちらへと干渉しようとしているのならば。
この男には何かある。僕も、そして七瀬でさえもも知らない、何かを知っているかもしれない。
そう考え、一つ天啓にも似た閃きが頭を走り抜ける。
彼が知ること……それは多分。
七瀬の『狂気』に関することだ。
はっきりとした理由は分からない。でもそういう確信がある。
多分彼も僕がそういう風に思考すると読んで、今ここでコンタクトを取ったに違いない。
思考の『誘導』―――記憶が確かなら、そんな体系を組んだ魔術があったはず。詐術にも似たようなものがあるが、アレとは比べものにならないほど強力な操作。意識操作ほど強引ではなく、ゆっくりとそちらへ向かうように『手招き』するような力。それ故に容易に人に何かを勘付かせたり、逆にそれを防いだりできる。訓練をした魔術師相手には通用しないらしいが、僕のような普通の人間には本来なら知覚することすら叶わない。
だが一般人とはいえ僕は魔術について師匠から教わっているし、多分人よりも真理を見抜く眼を持っている。だから僕は気づくことができた。
全ては直感だ。五感が与える情報は全て彼は普通の人間であると告げている。
でも、僕の六つ目の感覚―――目ではなく、眼は、彼を『人の形をした人ならざるモノ』だと教えている。
何故『狂気』のことをこの人が知っているのか、そして何故僕に目が向けられたのか。
この際そんなことは些事だ。
僕達の知らない事実を彼が掴んでいるというのならば、僕は―――
「そんなものを勝手に見るなんて、貴方―――」
「わかりました。行きましょう」
「……恭司?」
七瀬の視線が言外の圧力を向けてくる。貴方、自分で何を言っているかわかっているの? と。彼女にはきっと僕の考えは分からないだろうが、それでもその心配が嬉しい。例え単に苦手な相手に付いて行かないように、というだけの理由であっても。
分かっている。ここで彼についていけば、きっと僕が知るべきではなかった何かを知ることになる。
理由なき確信であっても、それが少しでも七瀬の『狂気』をどうにかする可能性になるなら。
僕はその可能性に賭けたい。
彼は簡単にそんな話をしてくれはしないかもしれない。
そもそも彼は全然関係のない目的で僕を呼んでいるのかもしれない。
それでも、僕は七瀬の力になりたい。
彼女が『普通』でいられるように。
「僕に用事だって言うんだし、七瀬の従兄なら、仲良くなってみてもいいじゃないか。もしかしたら小さい頃の七瀬の話とか聞けるかもしれないしね」
「貴方ね……」
呆れたような顔をされても構わない。
道化を演じようとも、踊らされていようとも。
「ほら、彼もそう言っている事ですし、何、そう大した話じゃありませんから」
にやり、と底冷えのする笑み。
多分七瀬が彼を苦手としているのは、半ば本能的に……あるいは彼女が持つ二面性故に、彼の中身を悟っているからだ。
魔術師という、力を持つ者の存在を。
「……仕方ないわね」
七瀬は、いつも通りにため息をついた。
「エスコートは80点ね。……詰めが甘いもの」
それ以外は割と高評価だったことに、内心でホッと胸を撫で下ろす。
今度は最後までしっかりとしたデートをしたいなと思いつつ、
「ごめんね、七瀬。送ってあげられなくなっちゃったけど」
「雨も上がったようだし、家だって近いわ。私なら一人でも帰れるから、大丈夫よ。今日は……楽しかったわ。ありがとう」
「うん。それじゃあまた……次の因果が重なる時に」
無言で首を傾げ、それは何? と問いかける七瀬に、
「姉貴が言ってたんだ。また逢おう、って意味なんだってさ」
それは何だか大事なおまじないなんだ、と言うように。
「そう。……そうね。そういうのも、悪くないわ」
最後に七瀬は、気をつけなさい、とだけ僕に告げた。
それに笑顔で返して、僕と慎也は七瀬を残して待合所を後にする。後ろ髪を引かれる思いは確かにあるが……仕方ない。
そうして男二人連れだって、しばらくは無言のまま歩を進め、七瀬の家とは反対方向の……つまり再び『ユートピア』に向かう通りに差し掛かった頃。
先程までとはうってかわった、鋭利で硬質な世界に身が包まれたのを感じた。まるで四方八方から銃を突きつけられているかのように、あらゆる神経が恐怖という名の警告を叫んでいた。
空気が、張りつめている。
隣を歩く男が……別人に見える。
この感覚を僕は知っている。
「さて」
不意に慎也はこちらに顔を向け……そして愉しげにその顔を歪めた。
「随分私を警戒しているね。本能の成せる業か?」
口調も、表情も、七瀬が居た時とは全く違う……
それはどこか『ヒト』という生き物を超越していた。
「やっぱり、猫を被っていたんですね」
「それはそうさ。突然現れて君に喧嘩を吹っかけたら、七瀬に嫌われてしまうからね」
ということは、今なら喧嘩を吹っかける気があるということか。
……上等。
「それで、今日僕に会いに来たのは何が目的なんですか?」
「さっきも言ったと思うがね。君の顔を見に来たのさ」
「それを信じろと?」
「信じるも何も、事実さ。幼い頃から私がずっと見守ってきた七瀬に近づくような男だ。顔を見なくては気が済まないよ」
僕が見る限り、彼は本気で言っているようだ。保護者の体裁を取った穏やかなことを言っているようで、その実目は全く笑っていない。
僕に敵対心があるのは明白だった。
「七瀬とのことは僕達の問題で、あなたが干渉することじゃないと思いますが」
「思い上がるなよ。君ごときが七瀬を御せるわけがない」
「……七瀬は、機械じゃないんです。御するなんて言い方、止めて欲しいですね」
「思い上がるなと言っている」
鋭い先端を伴った声に連動して背筋を這っていったのは、強烈な寒気。身体が僕の命令を拒絶し始め、勝手に判断を下そうとする。この男に逆らってはならないと。
「七瀬は私のモノだ。余所者が口を挟むな……痛い目を見るぞ」
指一本動かせないほどの圧力。何一つとして僕が持つ主導権はない。
動くことさえも封じられた僕は、何も言えずに慎也の次の言を待つばかり。
身構えているようで、その実、防備と言える何かは僕の中に存在していなかった。
それを明確に読み取ってか、慎也からも恫喝じみた圧力は少しずつ薄れていく。表情も、やはり薄笑みに戻っている。
「まあ所詮は何の変哲もないモノに成り下がった男など気にすることもないか。いつでもどうにでもできる」
「……魔術で、ですか?」
そこに来て慎也が初めて僕に対して敵対以外の感情を示した。
それは……好奇、だろうか。
自分の正体を一目で看破した相手に対し、どういった手合いのものかと興味を見せている様子だ。
成り下がった……という言葉は若干気になるが、そんなものは些事だ。
この機を逃してはならない。
敵対心だけの相手からは、何も得られはしないのだから。
「……成程。幾重にも張り巡らされた魔術防壁は当人の行使でないと視えているが、携わる証拠にはなるか。君は私が魔術を扱うと見破ったわけだ……どんな因果だろうな」
「ということはやはり……」
「そう。私は魔術師だよ」
意外にもあっさりと慎也はその事実を認めた。自分が異能の力を持つ者であると。
「七瀬はそのことを?」
「知らないさ。知るわけがない。月城の家は確かに『月代』の言代として魔術を受け継ぐ家系だが、七瀬も私も傍系だからね。魔術の知識を継承していくのは本系だけさ。七瀬は魔術の魔の字も知る機会はないよ。まあ、後天的才能の上では、だが」
月城の家が魔術を受け継ぐ家系だということは驚きだが、とりあえず七瀬本人には余計な負担がないとわかっただけでもよしとしよう。
だが……後天的才能、という言葉が引っかかる。
「そういう言い方をすると、先天的には才能があるかのようですね」
すると慎也は肩を竦め、
「それを君に話す必要はない。まあ私に関して言うなら、先天的な才能だがな。傍系の私が師を持たずに魔術を手にするにはそれしかない」
つまり、僕が師匠に師事しているように誰かに師事しなければ魔術を得ることは叶わないということだ。
僕の予想では、七瀬の『狂気』は魔術的な力が関与しているはず。
七瀬が魔術の才能を持って生まれたかどうかは不明だが……七瀬は魔術を識らない。
ならば防壁を構築することができず、普通の人間と変わらないレベルの魔術抵抗しかないはずだ。
となれば、ある程度の力を持った魔術師ならあの『狂気』を植え付けることが可能かもしれない。そして七瀬の親族……慎也は、本人もそう言った通り魔術師だ。
つまり彼が七瀬にあの『狂気』を植え付けたという可能性もある。理由は……自分の傍に置いておく為、とか。今までの会話を鑑みる限りでも慎也は七瀬に対して異様な興味を持っている。それがどういった類のものかは僕には判断できないが、少なくとも七瀬を自分のもの扱いしているのだ。それくらいのことはやりかねない。
慎也が施した魔術なら、慎也が解除の方法を知っているかもしれない。
それは七瀬にとって希望になる。『狂気』を拭い去る方法が存在するかもしれないのだから。
だが……素人目に見ても七瀬の『狂気』はあまりにも強力な束縛だ。七瀬が物心ついた時から今に至るまで、しかも段々とその衝動を強くしていくような、あれほど潜在下に根付く魔術を施せる魔術師なんて、果たして存在するのだろうか。
……裏を返せば、もし『狂気』を植え付けたのが慎也だとすれば、それほどの力を持った魔術師である、ということだ。
今僕は、そんな強大な存在かもしれない相手と会話をしている。
知らずと汗ばんだ手を強く握ってしまう。心なしか心臓の鼓動も速いし、呼吸も乱れている。剣術の鍛錬によって多少のことでは全く動じない精神と身体を作り上げたはずの僕が、無意識下で慎也という存在をタブーだと認識し始めている。
それは、どれほどの重圧か。
このまま何もしないで逃げることもできる。僕が彼にとって無害だと知れば―――七瀬に近づく意志を見せなければ―――慎也もこれ以上の干渉はすまい。七瀬について更に深入りするのは、僕の命を天秤に乗せて賭けをするに等しい。
でも、僕は。
僕は何をしようと誓ったのか。
七瀬を普通の女の子でいさせる為にと。
『狂気』といういつ目を開けるかもわからない猛獣を繋ぐ鎖を得る為にと。
全て……七瀬の為だ。
ここで核心に触れない手など、あるものか―――
「一つ、尋ねたいことがあります」
「さて、何だろうな?」
「単刀直入に聞きます。七瀬の中に巣食っているあの『狂気』について……あなたは何か知っているんじゃないですか?」
「『狂気』? ―――ああ、何かと壊したくなるアレか」
「知っているんじゃないですか?」
息を呑んで返事を待つ。
もちろん全てをありのままに話してくれるということもないだろう。もしかしたら無関係かもしれない。
しかし、どんな小さな手がかりだろうと手に入れてみせる。慎也が無関係ならそれも一つの『慎也は関与していない』という情報なのだから。
その為に僕は、棘に手を突っ込んだのだ。
「さあ、知っていると言えば知っているし、知らないと言えば全く知らない」
……やはり、簡単にはいかないか。
歪められた口元を見て判断する限り、全容を把握しているというわけではないが、見当はついている、というところか。
逃がしは、しない。
「なら質問を変えます。あなたは、七瀬のことをどう思っているんですか?」
慎也は全く態度を変えず、何を言っているのかと言わんばかりの口調で、
「先にも言ったはずだがね。アレは私のモノだと」
今は、この傲慢な物言いにいちいち反応している場合ではない。
「あなたのものだというのに、把握していないんですか?」
「どちらだろうと君には関係ないだろう? それとも……私と今ここで戦るか?」
刹那。
彼の中の境界が移り変わる。
一瞬にして彼から殺意という名の威圧が僕へと圧し掛かる。
それはついさっき浴びたばかりのモノと同質でありながら、さらに本気の度合いを高めた、より純度の高い敵意。
一度でこんなモノに慣れることなど到底不可能で、先に続いて二度目でなお、僕の身体は全ての機能へと停止信号を送り始める。
足が竦む。肩が震える。内臓が痙攣さえしているような気がする。
……コレが、魔術師という生き物。
先ほどまで心の中を占めていた想いは、刹那の時を持って脆くも瓦解していく。こんなものに、勝てるわけがない。
出し抜いて情報を得ることなんて、僕には……
心の芯を失い、弱気になり始めたその時だった。
ふと急に身体を包む重圧から解放された。
あっけない程の解放に瞬時には自分の精神の変化を制御できず、それは身体への反動となって少しだけバランスを崩した。
少々不恰好で不自然な体勢から、見れば慎也から殺意がすっかり抜け落ちていた。先程のモノと同一人物だとはもはや思えない。言うなれば抜け殻のような印象だ。もちろんそれが本当の姿ではないのは、すでに証明されていることだが。
「今ここで戦えば君など三秒かからずに殺せるが……それも面白くない」
生命のやり取りをしたと思っているのは……僕だけなのだろう。
慎也は全くといっていいほどの自然体。あれだけの威圧など引き出しを出し入れするように簡単で、つまり言葉通りいつでも僕を殺せるということ。
「もう少し化けてから会いたいものだな。腑抜けの君など相手にしても仕方ない。例え私怨があったとしても、」
何故かそこで一瞬だけ僕を睨み、
しかしまたすぐに愉快そうに笑って、
「私には弱者をいたぶる趣味はないからな」
素直に頷ける言葉ではないが、当人はそう信じているのだろう。
私怨というほどのものを持たれる覚えもないけど……思い当たるとすれば七瀬に近づいたことか。
「まあいい、君にも少し情報をあげよう。でないとフェアじゃない。種としての違いのようなものだ。動物と人間に差を与えたのは知識の成せる業であり、裏を返せば知識のない人間などカス同然ということだ。それでは霊長たり得ない。魔術師と人間の差も、突き詰めれば知識の差だと言えよう。……もっとも、知識を与えられた人間が魔術師になれるかどうかは別の話だがね」
自分が魔術を修めたことを暗に誇っているのか、やけに饒舌だ。
魔術師と人間は別種だと言われれば、今の僕には頷くことしかできない。納得せざるを得ないだけの距離が視えているから。
「教えて欲しいか?」
「……ええ」
少し悩んだ末に素直に認める。僕に情報が足りないのは事実だから。
が、事はそううまく運ぶわけもなく、
「はて。それが人にモノを尋ねる態度かな?」
……この男はいちいち人の神経を逆撫でするような言葉を吐く。
つまりこういうことだ。
全面的に自分が劣っていることを―――己の不甲斐なさに屈する姿を拝ませろということ。
それは完全な敗北宣言に等しい。あなたの慈悲なしに私が何かを得ることはできません、というジェスチャー。
―――己の立場をわきまえて屈服しろ。
慎也はそう言っているのだ。
無論僕だってそんなこと認めたくはない。情報さえあれば打倒しうるなどと思い上がるつもりはないが、それでも手に噛み付くくらいの反抗はできるつもりだ。
しかしそれさえも許容されない。
―――認めろ恭司。
僕の心が確かな音となって僕自身に語りかける。
―――お前が自分の沽券など気にしていて何を救える?
救う。
そう、僕の目的は一つだったはずだ。
―――七瀬が普通の女の子でいられるために。
そのためにできる努力は何でもしようと、そう誓ったばかりじゃないか。
後は、天秤を軽く傾けてやるだけでいい。
「……教えて、ください」
思った瞬間には、すでに深々と頭を下げ、慎也へと懇願していた。
慎也はそれを楽しそうに見下しながら、
「いまいちだな。誠意っていうのはそういうものだと教わったか?」
……やはり。
この男は天性のサディストだ。やるからには徹底的にこちらのプライドを破壊しようとするだろう。
「どういう、」
気づかぬフリをして返答しながら、次にどうすればこの男を満足させられるか、それを考えて、考えて、考える。
「何かを乞うのなら、それなりにすべきことがあるはずだ、と言っている。どうしても知りたいのなら……頭の一つでも下げてみたらどうだ?」
くくく、と含み笑いを滲ませる。僕が覚える屈辱への期待を隠そうともしない、心底気に食わない表情だった。
……だが。
何も考えるな。
今はただの人形でいい。
そこに心はいらない。意志はいらない。感情はいらない。
操り糸の誘うままに演じればそれでいいのだ。
僕はゆっくりと地面に膝をつき、両手をつき、身体を傾け這い蹲り、可能な限り乞うような声色をもって、
「お願いします……どうか、どうか教えてください」
通りすがる人の何事かという視線を肌に感じる。
だが僕の屈辱一つで七瀬を救えるなら、安いものだ。
―――しかし。
慎也はこの上なく愉快そうに嘲笑し、
「私にも分からない」
「……!」
思わず顔を上げる。見上げた先で視線は、何かを堪えているかのような表情の慎也と交差した。
その正体は、すぐ次の瞬間に理解できた。
ハハハ! と堪えきれなくなったのか声を上げて嗤い、慎也は僕を見下す。ゴミでも見るかのような目で。どこまでも上から、不遜に僕という存在を矮小化する。
僕はどれほど間の抜けた顔をしていたのだろう。
仕方がない。これほどの肩透かしだ。しかし例えどれほど無駄な時間だったとしても、僕と彼の間に歴然とした『力』という距離がある以上、僕はあるとも思えない彼の温情に縋るしかないのだ。
慎也はひとしきり笑うと、気味が悪いほど穏やかな動作で僕の肩に手を置いた。
「何、半分は冗談だ。アレは私の手に負える代物ではないが、恐らくは魔術の一種だろう」
僕の予想もまた、半分は当たっていたということか。
「それじゃ、解除する方法は……」
「ないな。あってもそれを君に教えると思うかな? この私が」
思うわけない。
しかしこれで一つ情報を得ることができた。
魔術的な関与があるのならば、師匠に相談すればいい。慎也が知らなくても、師匠ならあるいは何か解決策を知っているかもしれない。
心のどこかでは分かっている。これは思い込みに過ぎない。慎也は決して三流の魔術師なんかじゃない。身に浴びた殺意の塊やどこか超越者じみたその気配は、到底在り得ない程に事実を主張していた。僕の眼はそれを見過ごす程に無駄な代物じゃない。
しかし、それでもそう思い込むしかないのだ。
こんな得体の知れない男より、自分の師の方が優れた魔術師であって欲しいという薄っぺらな虚勢。
それでも、それが事実であることを、僕は誰より望んでいた。
それが何より七瀬を救う鍵になるのだから。
「さて、こんなところか。ただの人間相手だったが……まあ、有意義だったと言えば有意義だったな」
「……そうですね」
慎也がにやり、と嗤った。
「―――では、置き土産だ」
僕の肩に置いてあった手で軽く一撫でするというほんの僅かな動作が引き金だった。
グンッ!! という猛烈な衝動を体内に感じた。
慎也が一体何をしたのかもわからない。ただ僕の中へと何かを送り込まれたような、異物が僕という僕のあらゆる場所を這いまわっているような、そんな危うい信号を感じ取る。その何かは僕の『壁』を見つけてはノックして回るのだ……そこに在る中身を探して。
「ぐぁ、はっ、はっ、はぁ、う……」
「さあ、せいぜい自分と戦え。それに克てないようでは、話にならない」
慎也が遠ざかっていく気配。あの大きな痣だけが視界に浮かび上がって見えているような気がした。
けど僕には周囲のことなど気にしている余裕はない。
ただ自分の中から何かを探して引きずり出そうとするその衝動と戦うだけ。
それは、新藤と戦った時の感覚に似ていた。
真剣を持つことで切り替わったスイッチ。
武器を振るう為だけに存在する人格。
一度は封じ込めた、そして二度と呼び出すまいと思ったソイツを、
この異物は、呼び起こそうとしている……そんな気がする。
負けて……たまるか。
七瀬も『狂気』が暴れないようにと、もし仮に発症しても誰かにその敵意をぶつけないようにと必死になっているのだ。
それに……約束したじゃないか。もうあんな真似はしないと。
僕がこの衝動に負けるわけには……いかない。
何とか一歩を踏み出す。硬いはずのアスファルトは思った以上に僕を支えてはくれないらしく、少しだけ上体の安定を崩す。
だがこれくらいなら倒れはしない。
よし、大丈夫だ。僕の行動に精神状態が連鎖するようなことはない。
後はただ、僕の全神経を総動員して抑制すれば……
滝のように汗を流し、息を切らせ、ともすれば倒れてしまいそうになりながら、死に物狂いで家を目指す。
転ばずに前へ。転ばずに前へ。
それだけを考えて足を動かす。
―――見てろ。
反骨心というほど強くもない。
敵愾心というほど猛ってもいない。
ただそこにあるのは無性に焦がれる淡い幻影と、それを追いたいというだけの小さな思い。
勝ち取るために、負けられない。
……それが、あの笑顔に繋がるのなら。
道中の僕は無我夢中で戦いながらも、喜びなんていう相反する感情に包まれているような気がしていた。
熱に浮かされたようにおぼつかない足取りで。
奇異の視線に晒され、誰の手も借りられない状況で。
これで七瀬と同じ立場になれた、なんてピントのずれたことを考えながら。
僕は、当て所ない浮浪者のように緩慢に……しかしそれでも真っ直ぐに、我が家を目指した。
絶え間なく続くかのように思われる戦いの後に残るのは、真夏の夕暮れだけだった。
雲間に帰った雨は、しかし湿度という忘れ物を残していった。
夏と湿度という組み合わせは、どこまでも人を不快にする。
私だって例外ではない。
仕方がないとはいえ長袖などを身に着けていれば嫌でも服は身体に張り付いてくるし、頼んでもいないのに纏わりつく空気は容赦なく私から平静な思考を奪う。
誰もいなくなった待合所を後にし、帰路につく中頭に残る事はただ一つ―――早く家に帰ってシャワーでも浴びようという思いだけ。
慎也の不自然な登場や、恭司の不自然な態度もいつの間にか気にならなくなっていた。当人同士で納得ずくなら私が関与する事ではない。
特に……あの慎也について言えば、私は元々できるだけ接点を持たないようにしている。思考の中に登場させる事さえ煩わしい程に。
何というか……昔から慎也が私を見る目には奇妙なところがあった。
親類に対してこういう言い方をするのも何だが……妙に変質者じみたというか。舐めるような視線と言えばいいのか、それでも表現しきれているかどうかは判断に悩む。あぁ、そうか。今この無闇に高い湿度によって張り付いてくる服のような、とでも言えばいくらか理解できるかもしれない。つまるところ見られていて不愉快なレベル、という事だ。
従妹という立場の私に対してそういった見方をしているような人間に、私が心を開く事などできはしない。人が個人で空を飛ぶ事より無理な相談だ。
別に異性として意識している、程度なら私だって無視するだけである。従妹は四親等に当たるわけだから、法的には結婚する事さえ可能な立場というわけだ。そういう感情を持つなというのは―――決していい気分ではないけれど―――押し付けというものであるし。そう、それくらいなら仕方ない。
だが、欲情とか、そういった手合いになってくると話が違ってくる。結局のところ本人に確認できるような事でもないから真実は不明だが、仮にそんな下世話な見られ方をしているとなると警戒するのも当然の話だ。私だって自分の身は可愛い。
そもそも、昔から慎也はどこか人と違っているようなところがあった。
誰かと接することは極端に少なく、接すれば接するで見下した態度をとる。他の人間は塵芥と同等で自分の踏み台に過ぎず、あるいは踏み台にすらならない不要な産物であると公言していたりしたらしい。どういうわけか私の前では紳士ぶった仮面を被るようなのだが……まあそれはこの際置いておこう。
いわゆる天才肌の人間にありがちな思い上がりで、しかし事実慎也は優秀だった。周囲からは神童とさえ呼ばれ、その過大な態度も実力を伴ったものとして認知されていた。もちろん、それで受け入れられたというわけではなく、忌避すべき対象とされて当然のように孤立していったのだが。
そんな曰くばかりの人間に興味を持たれたところで、私が喜ぶはずもない。
―――ふぅ。
まあ、そんなことはどうでもいい。慎也の事は考えたくないし、そうでなくても今は何かを考えるのも億劫という気分なのだ。
そんな事を思いつつ、半時以上もぶらりと無意味な寄り道などしながらゆっくりと家を目指す。せっかく外に出たのだからやれることはやっておこうという心理が働いたのかもしれない。普段の私ならまずそんな真似はしないのだが……どうしたのだろうか。
先程からあまり自分でも自分を捉えられていないような気がする。普段人一倍自分という器に敏感な私が、である。
それが異常事態を示す合図だと気づくには、日没直前までという途方もない時間がかかってしまっていた。
―――そしてそれは、何かにとって致命的な過ちだった。
家まではもうそう遠くもない。普段はしないような遊覧気味の散策も終わり、あとは二つ角を曲がる程度。
―――そしてそれが、ソレに出会った刻。
即座に私は悟る。既に想像の範疇にはない不可視の世界へと誘い込まれていた事に。
湿度以外の何かがゆっくりと、しかし確実に私へと迫る。
幻術、とでも言えばいいのだろうか。
馬鹿げている。
馬鹿げているが、
避ける事のできない入り口がすぐそこに在った。
顕然とした、ヒトという形を真似て。
「貴様が破壊の礎を継承した者か」
この暑さがうだるように立ち込めている中にあって、黒いロングコートを身に纏った姿は確かに異質であった。
だが……異質と呼べるのはそれだけではない。
「此度は随分と手間がかかった。事前に察知されても、前回のように不要な邪魔が入っても詮無き事なのだからな」
外見だけならどこにでもいる、どこまでも当たり前な顔立ちをした壮年の男。コートの中に見える服装もいたって普通の人間と変わらない。
しかし私はソレが、何だか違うモノであるような気がしていた。
「枠など所詮は付属物に過ぎぬが……やはり、色濃くその形質を残しているようだ。その瞳の光、確かに憶えている」
それは夢か幻か。私がいくら異常な体質を宿しているとはいえ、人間にしか見えない人間を人間以外だと知覚するとは到底思いたくなかった。
紛れもない現実であるのに、どうしてもそれを認めたくなかった。
それを認めてしまえば……私という生き物が終焉を迎えてしまうような気がした。
抗いようのない、運命のような強制力を以って。
「貴方……一体……?」
辛うじて振り絞れたのは、たったそれだけの言葉。
その言葉を吐くだけで、臓器の全てを吐き出したような気分だった。
「言ったところで貴様に私に関する情報など残ってはいまい。唯一つの繋がりは、螺旋のように絡まる鎖に成り果てている」
この男が一体何を言っているのか、そんな事はもちろん分かりなどしない。
私が思うのは、何故こんなところにいるのか、という事だけ。
先程までとは違う、この立つのもやっとな威圧の世界に、私はどうして足を踏み入れてしまったのか。
―――誰か、
「さて、あまり時間をかけると因果を辿られる可能性が高くなるのでな」
―――麻美、
「これも偏に世界の為だ」
―――恭司、
「助け……!」
「貴様の『箱』、開かせてもらう」
男がそっと手の平を私に向け、
『何か』を手繰るように、軽く後ろへと引いた。
ただそれだけの、ちっぽけな動作。
本来なら何事もなく過ぎていくはずのその時間の中で。
私は、
―――ああああああああああああ!
訳が分からないうちに私は内なる衝動が鼓動を打ち始めるのを感じていた。
何をされた?
何かが私を貫いた。
何が?
一瞬の閃光のようで、永久に佇む氷のようでもある。
分かったのは、この男が何かをしたらしいという事と、私が私でなくなろうとしていたという事。
形を持たない、理解する事もできないソレが、私のあらゆる全てを奪っていた。
眠っていた、眠らせていたはずの私が顔をもたげ、牙を剥く。
狂気が私を支配するのは、僅かなズレでしかなかった。
「あ……ぁ」
「見せてみろ。その奥に宿る神の道具を。そして、無限に連なるこのくだらない鎖を断つ、贄となれ」
視える。蜃気楼のように虚ろで、歪な未来が。
感じる。砂糖菓子のように甘い、血の匂いを。
―――何より。
この男を、殺したい。
この手でその身体を貫いて、砕いて、潰して、掻き回して。
真紅に染まったその臓物に身を埋めるのだ。
ソレは、どれほどの幸福感か。
ソレは、どれほどの背徳感か。
禁忌とは人を封じ込める鎖であると同時に、甘い果実の名でもある。
それは、侵してはならない領域であるからこそ、侵したくなるセカイ。
躊躇う必要などない。
脈打つ私という胎動は、素直になれと囁き続ける。
一歩、前へと進む。
手を伸ばす。
男がいる。
コレが何であるかなんてこの際どうでもいい。
死ね。
死ね。
死ね。
私のこの手に、殺されろ―――!!
「ふむ。想像以上の侵食だな」
エモノが何か言っている。
「視えぬ。タガが必要か。それとも何か別の因子か」
いいから死ね。
お前は私の渇きの代償となるんだ。
「ふん。たかが人間でしかないその器で、私を殺すつもりか」
手が届いた。
この首をへし折ってやるだけでいい。
そうすればコイツは死ぬ。
あぁ……ゾクゾクする。
死が隣に寄り添った、その骸を想像するだけで絶頂を迎えてしまいそうだ。
力を込める。最初は陶器に触れるように柔らかく。それを徐々に、徐々に形を変えさせるべく念じる。意のままに操るように、砂城を崩すように―――壊す。
だが……
「どうした」
どれほど爪を立てても、どれほど力を込めても、この男は顔色一つ変えない。
女の細腕で大の男の首をへし折るなんて真似、普通はできない。だからこの男も侮っているのかもしれない。
だが今の私ならそんな事、容易にこなせる。その自信がある。湧き出る泉が砂に還るように、その観念は止めどなく私に浸透する。念じればそれは現実を塗り替えるとでも言うように。
実際、私には出来るだろう。そんな気がする。ならば私は、結局ヒトではないのかもしれない。
狂気に操られた、ただの人形。人形に自己防衛の為のリミッターなどついてはいない。限界を過ぎれば、ただ壊れるだけの運命。
仮初めの命は、ホンモノの命を知らない。だから簡単に他の命を壊せる。重さを知らないから軽く捉える。軽いから摘み取ってしまえる。
なるほど、私は人形だ。
誰に作られたのかも分からないが、唯一つ書き込まれたプログラム。
―――破壊。
今まで何を躍起になって耐えていたのか。
力を抑える必要はない。
身体の悲鳴なんて聞く必要はない。
こんなに楽しいのに。
こんなに気持ちいいのに。
自制する必要など、どこにも在りはしないのだ―――
「まだ諦めぬか。興に乗って余計なものを与えてしまったかもしれぬな。よほどの魔力を食ったとみえる。『箱』の外側さえ視えぬとは……」
男の首はまだ折れない。
ぎりぎりと締め付ける私の指が、腕が、ぶちりという音を鳴らした。
だが、関係ない。私の傷はすぐに癒える。きっとその為にこの回復力を得たのだ。限界を乗り越え、壊れた身体を再び殺戮に使う為に。
「自己治癒か。ますます破壊に特化した器だ」
「フゥ……フゥ……!」
獣のように荒い呼吸は、果たして誰のものか。
私はすでにヒトを捨ててしまったのか。
壊したいだけの、失くしたいだけの、くだらない獣。
「まずは、戻すのが先決か」
私に首を押さえられながら、男は再びその腕を振り上げた。
脳髄に直接響く空気の音色。
それは、私に幾許かの理性を与えた。
―――私は、何を?
今の今まで何を考えていたというのか。
殺したい……だって?
何を馬鹿げた事を。
何を血迷った事を。
まるでそれを当然のように……
「何を惑う、獣」
それが私を示す言葉だと理解するまでに時間がかかった。
「私が……獣?」
「殺戮を求め、殺戮の為に行動し、殺戮に飢える。それは境界を見失った獣のように」
「……違う」
呼吸は変わらず荒れたまま。しかし自分の行為を理解できるだけの理性が戻った為に、嫌悪の感情だけが燻る。
こんな自分は、見ていたくない。
受け入れたと、仕方がないと諦念したように見せていたって。
私はそれでも、ヒトで居たかったのに―――
「ならば抗って見せろ。刻限も近い。呪縛から逃れる為に、その真性を晒すのだ」
「言われ……なくたって」
こんなモノ、振り払ってみせる。
恭司は、言ったのだ。
こんな私に、言ったのだ。
『普通の女の子だった』と。
彼の言葉は嘘じゃないと、私が証明しなければならない。
私が普通である事を、証明しなければならない。
私がこのまま狂気に身を任せれば、
それは彼への裏切りに他ならないのだから。
それは、凄く嫌な事のように思える。
無条件とさえ言えるほどに人に歩み寄るあの馬鹿げたお人好しを。
どうして私が、裏切ってしまえるのか―――!
「しっかり……見ていなさい!」
狂気にくらい、抗ってみせる。
自分くらい、制御してみせる。
それが私の唯一つの意地なのだから。
じりじりと蛞蝓が這うような速度で、私は男から手を遠ざける。
自分自身を戒めながら。
お前は所詮私の一部に過ぎないのだと。
主導権を握る権利などありはしないのだと。
言い聞かせながら、私はその手を今度は私に向ける。
ブラウスの袖をまくり、古傷が奇怪な紋様を描く二の腕から肩までを露にし、
そこに、爪を立てる。
あらん限りの力を振り絞って、
もう一人の私に、寝てしまえと攻め立てる。
お前は起きてはならない存在だと切り捨てる。
迷うな。
私が、私で在る為に―――
爪が、皮膚を破った。
鮮明過ぎる程の痛覚。敏感になった今では、何よりも真っ先に脳の中身を撃ち貫くように駆け抜けていくその痛み。そして流れ出る血液。
止めはしない。肉を裂いていく嫌な感触を覚えながら、しかしそれでも痛みを求めて中へと。
「ほう。さすがに十七年の時を耐えただけの事はあるな。自傷による発散……私でもそう長くは耐えられん。常人なら三日と保つまい。よく飼い慣らしたものだ」
「見くびらないで欲しいわね……」
少しずつ呼吸を整えながら、徐々に衝動が沈静化するのを内面で感じ取る。
私は、負けない。
「私の事は私が一番よく理解しているっていうのが、私の自慢なのよ」
「そうか」
男が嗤った―――ように見えた。
「ならば、その幻想を抱いたまま壊れるがいい」
どこまでも自然な動きで持ち上げたその手が、
ぱちん、と一つ音を鳴らした。
……それだけの事なのに。
「―――なっ!」
なん……で……!
また、狂気がぶり返すなんて―――!
「矮小なものよ。小娘一人の気概で御せるような封印など、世に存在しない」
あ、あぁ……
前に、ヒトが、エモノが。
それは人間。殺してはならないもの。
それはニンゲン。殺してしまいたいモノ。
入り乱れていく相互の主張が、徐々に交点を求めて動き始める。
右手は、私の身体を求めた。再びケモノを鎮める為に。
左手は、男の首を求めた。さらなる快感を得る為に。
「先程よりは耐性が生まれたか。見上げたものだ。もう波動に順応してくるとは。我が業ながら驚く他ない」
「うる……サイ……」
惑うのか、振り切るのか。
私には勝ち目があるのだろうか。
今を逃げても、次があるだろう。
この男にはそういう力があるらしい。
ならばこの苦しみが延々と続くという事だ。
それは、どれ程の苦痛なのか。
想像するだけで理性は縮んでいきそうだ。
……だが。
「崩壊していくがいい。そしてその中身を曝け出せ」
こいつに折れてやる事だけは、我慢ならない。
傲慢で、全てが自分の思い通りになる事を疑っていないこの男に。
全能か何かだと勘違いして思い上がっているヒトでないモノに。
一泡、吹かせてやりたいじゃないか。
「干渉は最小限で留めたいのだが。仕方あるまい。耐えようというのなら、何度でもぶつけるまで」
さらに、男が何かを始めようとした時だった。
プルルルル!
―――不意に、携帯電話の着信音が鳴った。
硬直や緊張などを一切無視して己の主張を続けるその機械は、滑稽を通り越して救いですらあった。
忘我している場合ではない。
一瞬の停滞を経て、氷のような静寂の檻を崩したのは、私の方が先だった。
朦朧とした意識の中で身体をまさぐり、取り出した携帯電話のディスプレイを眺める。
飛び込んできた文字は、私から一切の挙動を奪った。
恭司からの電話だった。
それを意識した途端に、ごく自然に、あっさりと、私は自我を取り戻していた。
そうだ。意地だ。
私は、どうしたいと言ったのか。
何故、こうも頑なに狂気に抗おうと思ったのか。
誰の為に、普通で在りたいと思うようになったのか。
簡単な事に違いなかった。
そう―――私はもう、惑わない。
すぐに通話ボタンを押す。もちろん警戒して男から距離をとる事も忘れない。
「……もしもし」
『もしもし、七瀬かい? ……どうしたの? 何か息が切れてるみたいだけど』
いつも通りの、気の抜けた声。どこまでも平和ボケしたような、頼りない顔が目に浮かぶ。
だが、それでいい。いつもを、日常を知覚させてくれるその声は、正常と異常の狭間を視た私にとってはとても心地いい。
「気にしないで。それで、何か用かしら」
『いや、うん。送ってあげられなかったからさ、無事に家に着いたかなと思って』
私は一度だけ不思議そうな顔をして佇む男に目線をやってから、
「……大丈夫よ。言ったでしょう。一人で帰れるって。貴方の子守が必要な子供ではないわ」
『あは、そうだよね。うん。何かちょっと声を聞きたいっていうのもあったかもしれない。ちゃんと着いたならそれでいいんだ』
「ええ。じゃあ、切るわね」
『うん、それじゃ―――』
「……恭司」
『何?』
「……ありがとう」
『えっ、』
何かを言い出す前に通話を切る。これ以上話しているときっと私が耐えられない。無性に気恥ずかしさを感じる。
しかし本当に、感謝するしかない。
こんなどうでもいい事で自分を取り戻すなんて、少し前の私なら考えられない事だったが。
どういう心境の変化だろうか。
……それも悪くないと、思い始めていた。
「何故だ。今更障壁の構築など……有り得ん」
「何だかよく分からないけれど、どうやらアテが外れたみたいね…………いい気味だわ」
男は私の言葉など聞いてはいない。ただ自問を繰り返すだけ。
「やはり……原因の駆逐が優先か。余計な干渉を残した。悟られる前に行動しなければな」
「貴方……何を言っているの?」
やはり男は答えず、一方的に吐き捨てた。
「今は退く。が、次は覚悟をしておけ。……必ず壊して取り出してやる」
そして現れた時と同じように、唐突にその姿を消した。
まさに一瞬と呼べる間の出来事。
どんな奇術なのかトリックなのか分からないが、風景に溶けるように見えたのは私の錯覚ではないと思う。
正しい言い方をすれば、認識できなくなった、とでも言うのか。
よく……分からない。
「一体……何だったのかしらね」
一度でも人を殺す事を躊躇わなかった自分に吐き気すら覚える。狂気を御しきれなかったなんて初めての事だ。
……もしかして、もう私は、壊れてしまったのか。
後ろ向きな想像が脳裏で幅を利かせる前に首を振って振り払う。麻美にも言われたじゃないか。悪い事ばかり考えるのはよくないと。
ならば、前向きな思考をすべきだ。
二度生まれた狂気。そしてそれは、あの男の意図によって呼び起こされていたようだった。
つまり、あの男は私の狂気を操る事ができる。
……という事は、
「逆にこの狂気を止める方法も、知っているかもしれないわね……」
それは、歓喜という衝動だった。
暗い世界に射した、小さな一筋の光明。大地を流し去る洪水を前に、もたらされた箱舟。
嬉しいじゃないか。
その光を辿れば、その箱舟に跳び乗れば、
私は、普通になれるかもしれないのだから―――
喜びに、思わず顔がにやけてしまう。
心なしか足取りも軽くなって、再度帰路についたその時。
無情な知らせを電波にのせて、再び携帯電話が世界にその声を聞かせた。
『ハハハ……力だ。力が漲ってくる!』
無意識が支配する世界では、深層にこびり付いた僅かな記憶の残滓を垣間見ることがあるという。
今まさに、そんな状況にあると感じる。
虚構と現実の狭間であるそこで、僕は自分でさえも忘れていた世界を知覚していた。
いつの頃だったか。僕は魔剣と呼ばれる代物に取り憑かれたことがあったのだ。
『ガキの身体じゃあ存分とはいかないが、まあ、ないよりはマシだ。せいぜい斬って斬って斬りまくってやるぜ! ヒャーッハァ!』
言ってしまえば、ただの好奇心だった。
蔵部屋の、さらに奥にある部屋。そこへの立ち入りは厳重すぎる程に禁止されていた。
でも、禁止されていたからこそ、いつか探検したいと思っていた。そう、ただの好奇心だったのだ。
家族がみんなで祖父の元へ帰郷するという話を聞き、頑なに駄々をこねた。ふて腐れたふりをした。
そうすれば厳格な両親は、きっと僕をただ一人残して出かけるだろうという計算だった。当時は毛嫌いしていた親の性格を、まさに利用した最高の計画だった。
それは面白いほど思い通りになり、自由を手にした喜びを胸に秘密の部屋へと向かった。
入り口は固く閉ざされていたけれど、そこの鍵の在り処はすでに見当をつけていた。
ちっぽけな冒険心と、親の取り決めに逆らうという蟲惑的なその状況が、僕の中から警戒心を奪っていた。
そして僕は……魔性のモノに魅入られた。
『この家には誰もいねェのか……仕方ねェ、外に出るか』
教えに反し、剣を以って斬る為の人を探すなんて、どうかしていた。あるいはだからこその魔性か。
僕は……壊れていたのだ。
『あン?』
やがて来る殺戮の未来に興奮を抑えきれず、唾液を垂らしながら歩を進める僕に、立ちふさがる影があった。
『あちゃー、そんなもんに取り憑かれるなんてね。大方好奇心に負けたんだろう? 不貞腐れたふりまでして……まーたバカげたことを考えたもんだね』
いつの間に戻ってきたのか、そこにいたのは姉さんだった。
『何だオマエ? 俺に逆らおうってのか? なら―――死ねよ』
魔剣に支配されていなければ、そんな愚は決して冒さなかっただろう。
魔剣は知らなかったのだ。
例えそれが魔性のモノの力を借りようとも、姉さんに勝てる要因など在りはしないということを。
結果から言えば、魔剣はあっさりと再封印された。
とは言っても、その時に姉さんが何をしたのかはよく覚えていない。
ただ今でも脳髄に鮮明に灼きついている映像は、
『安心しな、恭司。あたしも一緒に親父達に謝ってあげるよ』
そう言って僕の頭を撫でた姉さんの笑顔と、
煙を吐き出すこともなく、ただ当たり前のようにその口に咥えられたタバコの匂いだけ―――
―――僕はそれ以来、最後まで解呪に抵抗した魔剣の意識、その断片を、身に宿すことになった。
「ん……」
夢……か。
何だかとても懐かしい夢を見ていたような気がする。今よりずっと昔の、僕にとって大きな影響となった何かの瞬間。
……よく、思い出せない。
思い出せないついでに、僕は一体何をしていたんだっけ……
少しずつ整理してみよう。
確か今日は七瀬とデートをしていたはずだ。いつもより気持ちお洒落を(と言っても着飾るほどの何かは持ち合わせていなかったのだが)して、いつもよりうきうきしているのが自分でも分かるような軽い足取りで待ち合わせ場所に行って、いつもより一段と綺麗な七瀬に会って、いつもより充実した時間を過ごしていた。
夕立が通り過ぎるのを待つ間、帰り道にあったバスの待合所で色々なことを話した。七瀬のこと、僕のこと、他愛もないこと。今までは表立って話す機会のなかったさまざまなことについて、二人だけで話した。永遠に続けばいいとさえ思ったその時間。ずっとずっと、七瀬のことを見ていた。
その後だ。
それが、侵入者によって崩されてしまった。
徐々に記憶が鮮明になっていく。
七瀬の従兄だという、慎也という男。
彼は、自分を魔術師だと認めた。
七瀬を自分の所有物だと主張し、近づく僕を虫ケラのように見なす超越者。
膨大な知識を武器とする魔術師である彼を以ってさえも、七瀬の『狂気』については知らないらしい。もちろん、知っていて隠している可能性は残っているが、ああいう性格の手合いは、自分を誇大化させる為に手段は選ばないと思う。ならば当人曰く公正を期す為の情報提供に偽りはないと思っていいはずだ。
その彼が僕に対し、何らかの操作をした瞬間―――
そうだ。
僕はもう一人の僕が這い出すようなあの気味の悪い感触を全身で味わい―――
それでも何とか理性で縛りつけ、どうにか家に帰ってきたのだった。
家に入った瞬間に衝動は鳴りを潜めたが、百パーセント以上の集中をし続けた代償としてか、すぐに視界が暗転し、
「今、何時だ?」
自我を保っている確認も含めて声に出す。
目的の置時計はすぐ近くに転がっていた。
時計の針は六時半過ぎを示している。
あれから大した時間は過ぎていない。
短い夢がもたらした倦怠感と、時計の針が奏でる小気味の良い音だけが残っている。
さて、どうしたものか……
「そうだ、七瀬……」
待合所から七瀬の家は大した距離ではないようだったし、大丈夫だとは思うが、一応確認しておこう。何てったって今日のエスコート役は僕だったのだ。最後まで一緒にいられなかった以上、帰宅の確認ぐらいはやって然るべきだろう。
……いや、まあ、ただ七瀬の声が聞きたいだけって言っても嘘じゃないんだけどね。
とにかく、電話してみるか。
こんなこともあろうかと携帯の番号とアドレスは交換してある。と言うか、麻美ちゃんが半ば無理やり交換してくれたのだが。もちろん(と言うのも少し悲しい)七瀬は渋っていた。必要以上の干渉をされるからいらないと言うし、どうせ使わないのだからやはりいらない、とも言っていた。
ほら、使うじゃないか七瀬。
よく分からない勝ち誇りをしてから、虚しいので咳払いをしてごまかす。誰もいないとは言え我ながら恥ずかしい。
気を取り直して携帯を手に取り、七瀬の番号を表示して、電話をかける。
トゥルルル……というお決まりの呼び出し音が数回続く。
待ち人との逢瀬を焦がれるような思いで七瀬が出るのを待つ。もしかするとこのまま永遠にかからないのではないか。表示を見た瞬間に七瀬が嫌がって切ってしまうのではないか。そんな不安が頭を過ぎる。
が、それも杞憂に終わり、思っていたよりすんなりと七瀬の声が聞こえだした。
『……もしもし』
小さな違和感があった。
七瀬が息を切らせている。
別に、それ自体はどうということもない。動いたり走ったりすれば自然と息は切れるものだし、そういった運動のちょうど後くらいにかけてしまったというのならこういうこともあり得る。
が、どうしてそういう運動をすることになったのか、ということに関しては、いくらでも邪推が可能だった。
何かあったんだろうか。僕と別れてからわずかな時間の間に。
「もしもし、七瀬かい? ……どうしたの? 何か息が切れてるみたいだけど」
極力平静な声を出す。もし本当に何かがあったのだとしたら、不要に七瀬に勘繰らせるような真似をしてはいけない。
『気にしないで。それで、何か用かしら』
七瀬の声自体はいたって普通だ。息が切れていても、トーンや口調はまったく普段と変わりない。もし何かに巻き込まれていたりしたら、きっとこんな調子では話はできないはずだ。
……考えすぎか。
僕と七瀬、二人にアクシデントなんて、そうそうおかしなことばかり起こりもしないだろう。
内心で一息ついて、身体に溜まった不安を吐き出す。後は用事を済ますだけだ。
「いや、うん。送ってあげられなかったからさ、無事に家に着いたかなと思って」
『……大丈夫よ。言ったでしょう。一人で帰れるって。貴方の子守が必要な子供ではないわ』
少し憮然としている七瀬の顔が見えた気がした。
「あは、そうだよね。うん。何かちょっと声を聞きたいっていうのもあったかもしれない。ちゃんと着いたならそれでいいんだ」
『ええ。じゃあ、切るわね』
正直に言えば名残惜しいのだが、話題もなしに会話を引っ張るのも難しい。まして相手は七瀬だし。
ここは、素直に引き下がろう。話なら、またいつだってできる。
「うん、それじゃ―――」
『……恭司』
もうすでに切る気で携帯を耳元から動かそうとしていた僕は、突如聞こえた七瀬の声に慌てて携帯を耳に戻した。
……まさか七瀬ももっと話がしたい、とか?
いやまさか、そんなことは。でもまあ、そういうことも……
一人妄想を膨らませながら、若干しどろもどろと応じる。まずい、動揺し過ぎだぞ僕。
「何?」
なぜか七瀬は次の言葉を躊躇しているようだった。
こんな七瀬は珍しい。
妙な直感が働く。
運動? 息切れ? 躊躇?
もしかして、僕は何かとんでもない勘違いをしていたのか―――?
『……ありがとう』
「えっ、」
あらゆる予想を覆す七瀬の謝辞に、一瞬思考が停止した。
ありがとう、って……
何についての感謝なのかと尋ねようとしたが、すでに電話は切れていた。
何だったんだろう……
今日のデートのことか? いやでもそれについては別れ間際にもうお礼を言われた気がするし。
結局何について礼を言われたのかは分からないが、反応させる暇なく通話を切ったあたりからして、
照れていた……のかな?
七瀬の性格上、素直に礼を言うというのはあまり好きじゃないと思う。多少失礼な物言いになってしまうが、それが七瀬の持ち味ともいえるし。
うーん……
「ま、いいか」
七瀬と話すこともできたわけだし。
あの七瀬にお礼を言われるなんて経験も……今日だけで二度だ。
うん、いい日だったと思う。
慎也とのやりとりは……七瀬には黙っておこう。
可能性を見つけただけでは、ぬか喜びさせてしまう結果になるかもしれない。師匠頼みになってしまうが、あくまで目処が立ったら今日のことを告げよう。
慎也に対する注意は、大丈夫か。七瀬は最初から彼を警戒していたみたいだし、慎也の目的が七瀬なら、七瀬をどうこうするっていうこともないはずだ。
「さて……」
色々歩いて疲れたし、今日は早めに寝ようかと思った時。
ぴろぴろ〜っと気の抜けた電子音が部屋の中に響いた。
記憶にない着信音だが、すぐその理由に思い当たる。
……姉貴め、勝手に設定変えたな。
朝の連絡の時点ではマナーモードだったからして気づかなかったわけだが……まったくそういうことだけはしっかりしているのだから手に負えない。
で、誰からだろう。セオリー的には姉貴当人で、内容は着信音は気に入ったか、という話から今日のデートの首尾は、と言ったところか。
ふふん。大成功だったさ。
そう言ってやろうと携帯を手にして、
「あれ、七瀬からだ」
さっき電話を終えたばかりでまた七瀬とは、これはさすがに読めなかった。
何の用だろう。
……まあいいか。何の用であれまた七瀬と話せるなら僥倖というものだ。
心持ちうきうきして通話ボタンを押す。さて、何の話だろうか。
―――結論から言えば、それは僥倖でも何でもなかった。
いつになく慌てた様子の七瀬は、ただ一言、我が耳を疑うようなことを口にした。
あまりにも唐突過ぎて何を言われたのか瞬時には分からなかったほどだ。
ふと我に返ったところで、僕に出来るのはどうしようどうしようと焦るばかりの七瀬を落ち着かせることだけ。それだって上手くいったかどうか自信がない。僕自身、何より動揺していたから。
―――今日は一体どうしたっていうんだ。
吉日なのか、厄日なのか。
いずれにしても、直面した問題が全て片付くには、幾許かの根気と時間が必要なようだった。
『恭司! 今、麻美の両親から電話があって……、麻美が……麻美が行方不明になったって!』 |