終章 『箱』−True Heart−
吹っ切れたような暑さが身に染みて、それがどこか心地良いと思うのは、私が元来夏という季節を好む人種だからなのだろう。コンクリートから反射される耐え間ない熱放射だって、すぐにシャワーを浴びたくなるじめじめ感だって、時折イライラするくらいの蝉の鳴き声だって、どれも全て私に前を向かせてくれる。
最近その事に気づいて、ほんの少し前まではこの季節を鬱々として過ごしていたのかと思うと若干勿体ない気がしてくる。
あれから少しだけ軽くなった私の身体。弾むように軽快なステップは、きっと重荷が取れたせいだろう。未練がないとは言わないけれど、着実と前へ進むのなら、転ぶ事だって今は怖くない。だって、そんなものはまた立ち上がればいいだけの事なのだから。
でもたまに、やはり怖くて怖くて仕方が無い事がある。
どうしようもなく辛くて、どうしようもなく苦しくて、どうしようもなく切ない。
そんな時はいつも思い出す。
私が歩んできたセカイを。
私が乗り越えてきた選択を。
私に微笑んでくれた親友を。
―――あのお人好しの顔を。
恐怖の名残はまだ長袖の衣服という形で残っているけれど、どちらかというとこれは単なる習慣の問題で、そんなのはもう本当はどうでもいい。
私の身体に刻まれた、無数の傷痕。
私が私という存在の中に狂気を宿していた証。
そして私自身の選択を受け入れた証。
それは今も色濃く残り、時折いつかの私を回想させる。
……あの頃は本当に、子供だった。
こうして振り返ってみれば、少々の事で駄々をこねては周囲に迷惑をかけていた、実に捻くれた人間だったのだと実感出来る。なら今はどうかと問われればそれはそれで返答に窮するところもあるのだが、それでもかつてをかつてとして客観的に考察出来るようになっただけ、成長したと言えるだろう。
自分の殻、とでも言えばいいのか。
あるいは閉じた箱とでも言えばいいのか。
セカイはそれだけしかないと頑なに信じ続けて、変化を厭い、成長を嫉み、経過を謗っていたわけだ。そんなの、今の私から言わせればまさに愚か者と呼ぶに相応しい。
願いは一つ一つは取るに足らない欠片だけれど、それを心に持ち続ける事で凝縮すれば、やがて奇跡へと繋がる。
それは夢見がちな子供のような理屈。
でもそれが真実である事を……他ならぬ私が知っている。
私がこうして夏を好きになれた事だって、そんな些細な奇跡の一つに過ぎないのだ……なんて。
自分で思って顔を綻ばせ、思い出したように一歩、また一歩と、この日常という『世界』を楽しみながら地面を踏みしめる。
―――あれからもう、三年にもなる。
『7月30日
唐突だが私は今少し涙ぐんでいる。こうして字を綴るのさえもどかしく、気持ちを整理する事も難しい。多少震えて変な文字になっているのには、自分を許してあげる努力が必要だろう。
今日、一週間ぶりに麻美が戻ってきた、という連絡を受けた。
一も二もなく麻美の両親に頼み、麻美本人に取り次いでもらうと、あの娘は散々私に心配させておきながら、いつものようにけろりとした口調でその元気な声をまた聞かせてくれた。
言いたい事がたくさんある。訊きたい事がたくさんある。
だが麻美も色々とあったらしく、そしてそれはこんな大事になった以上当然と言うべきなのかもしれないが、会話の端々に疲れている様子が見え隠れしていた。
だから質問は明日の登校日まで保留だ。交わせた会話なんてほんの当たり障りの無いものばかり。
それでも、今はただ、嬉しい。
夏休みに君臨する鬱屈の代名詞である登校日を、麻美と会える吉日と思える事だけが、今となっては最良。それは後付けの言い訳なのかもしれないが、だとしても。
……この文章、今読み返してみても、何だか支離滅裂だ。
けれどこれも私の想いの証。それだけ複雑な想いを暴れさせたという、口に出す事のない非難の記憶。
麻美の馬鹿。こんなに心配させて。
そして、麻美。
―――おかえり。帰ってきてくれて、本当によかった』
今日の本来の目的とは少し外れて―――とは言っても私的にはこれで間違いの無い予定表を辿っているのだが―――私はこうしてある場所に来ている。
北条家跡。
そう、つまり彼女の住んでいた家の跡地。
汗ばむ肌に貼りつく上着を引っ掴んで、鬱陶しくもぱたぱたと振りつつ、夏の明かりに照らされたそれの前に佇む。せっかく早起きして整えた身だしなみが台無しだが、それも仕方ないと割り切るしかない。ここに来る事は外せなかったし、何よりあの男は例えどんな格好をしていったとしても私を褒めちぎるだろうという自惚れがあるからだ。というか、そうでなければ許さない。
まあ、それはさておこう。
この北条家は世間的には三年前に一家揃って『謎の失踪』をした事になっている。無論それが真実でない事など私にとっては明白で、というかその一部始終を目撃したりもしているのだが、あえて誰かに言うような真似はしていない。したところで誰が信じるわけでもないし、ましてあの時の私と彼女は本当に心を通じ合えていた。その代償として失ったものは大きかったが、でもやはり……世話になった相手達には薄情だが、たったそれだけの事なのだ。大事の前に小事は霞むと言うけれど、私にとって彼女と分かり合えたという事実の前には、ここで何があったのか、誰がどうして姿を消したのか、なんて事実はどうでもいい。思い出すべき時に思い出す事は一家の失踪などではなく、彼女との別離だけ。
話を戻そう。
私がここにやってきた理由は、色々と感慨深いかつてを回想する、という事だけではない。
北条家跡地は、今現在はちょっとした公園になっている。主である北条家の人間は居なくなってしまったわけだが、誰がなくとも時間は動くもので、分家だか親類だかよく分からない人達がそれはもう鮮やかとしか言いようの無い手際で邸宅を更地にし、この広大な土地を国に寄付したらしい。
彼らにも負い目があったのだ、と私は思っている。
学術的にはどうだか知らないが、人道を問えば確実に最低としか言いようの無い実験の日々。その失敗例をむざむざと残しておくようなわけにもいかないだろうから、身内の尻拭いは身内で、と言ったところなのだろう。思惑は見事に成功し、存在した全ての事実を土の下に隠すようにして、この公園は昼間から様々な人で溢れている。今ではそこに家が在った事さえ覚えている人がいるかどうか。
それだけならば―――自分達の罪を躍起になって隠すというだけならば、私は憤慨極まりないところなのだが、彼らの『負い目』は確かな贖罪の証もまた、ここに残していた。
それが私の前に立つ、公園のシンボルとなっているモニュメント。
一見してそれはどこにでもありふれたデザインの、特別な何かを喚起するようなものではない。
だが注意してそのモニュメントの土台の下部を覗くと、彼らの後ろ暗さを示唆するようにひっそりとこんな文章が刻まれている。
『全てに愛され、全てを愛した子へ。我らの悲願の糧となった事をここに感謝し、そうしてしまった事を謝罪する。どうか―――恨んで欲しい』
一公園に置かれるものとしては、いまいち要領の得ない内容だ。
しかしその真相を知る者にしてみれば、彼らに残されたわずかばかりの理性と苦悩を読み取れる。
きっと、後戻りなど出来なかったのだ。
きっと、終わる事など出来なかったのだ。
誰かが止めてくれなければ、自分達ではどうする事も出来なかったから。
或いは、彼女自身に終わらせてもらう事を望んでいたかもしれない―――なんて。
そんな私の感傷は、きっと彼女にしてみればどうしようもないくらいのつまらない悩みで。
『やだなぁ、わたしは別に、誰かを恨んでなんてないよ?』
そう言ってこの青い空と同じように曇りなく笑う彼女の姿が見えるような気がした。
「あ、もうこんな時間」
腕時計を見れば、約束の時間まであと少ししかない。予想以上にここに残る想いが強すぎたせいか、大幅に予定時間を過ぎてしまった。
後ろ髪を引かれつつも、私は持参してきた花束をモニュメントの下に供えると、最近ようやく誰に対しても自然に浮かぶようになってきた表情で彼女を想い、
「それじゃあ、またね―――麻美。貴女と過ごした時間の想い出を一年の糧にして、それが足りなくなったら、またこの季節に逢いましょう」
そうして私は公園を後にする。
心中駆け巡る想いは一つ。
―――この笑顔が、彼女に届きますように。
『7月31日
多くは語らない。
私はとてもとても大切な半身を失った。
魔術とか、輪廻とか、得体の知れないセカイがすぐそこに在る事を知って。
その代償が麻美の命だというのならば、それは、どんなに最悪な筋書きなのか。
考える事が多すぎて何が何だか分からない。混乱、……そう私は混乱している。
麻美が居なくなったなんて事も実感のない嘘みたいで。
それでも私は私の目の前で消えてしまったあの娘を忘れられなくて―――
いや。
……忘れてなんか、やらない。
いつも私をからかって、馬鹿みたいな事で笑って、しっかりしているようでどこか抜けてて、
私の愛すべき親友だった麻美の事を生涯忘れる事はない。
それに。
失ったという事実は変わらなくても。
代わりに得たものも、それは確かに大切で。
私は、こうして揺れる感情を抑えつける事が出来ない。
答えは見つからないまま、でもはっきりと意識する何かの形。
―――恭司。
私は、貴方の事を―――』
途中の大事な寄り道を経て、私はようやく本来の道順へと戻っていた。
久方ぶりの、この道。
いつかは何かを意識する事すら億劫だった頃の記憶。
あの時は確か、詩音さんと麻美がこちらの同意もなしに妙な謀略……と呼ぶにはあまりに単純な罠を用意していて。
最初は素直には楽しめないでいた事を覚えている。まあ、当時の私にしてみればそれは確かに青天の霹靂に近いものだったろうし、多少の緊張もあった。あるいはそう、見極めとでも言えばいいのだろうか。今改めて振り返ってその心境を考察してみると、彼を自分の傍らに置いてもいいかどうかを試す機会を伺っていたようにも思える。
もちろん意識的にそんな事を思ってはいなかっただろうし、指摘されれば即座にノーと答えただろう。
実に可愛くないのではあるが、それは性分なのだから仕方ない。今こうして自覚出来つつある事が何よりの進歩だろう。……改善に至っていないのは我ながら遺憾ではあるのだけれど。
その辺りは詩音さんにもああだこうだと言われてきたが、別にあの男を意識して自分を変えようなどとはこれっぽっちも思わない。何というか、努力するベクトルの向きが間違っているというか……これはこれで味のある個性なんじゃないかとか、都合のいい解釈をしていたりする。
私は私。これで気に入らないのなら離れていけばいい。
……実際そうされて耐えられるかどうかは自分でも疑問だったりする。大いなる前提としてそんな事は……ないと願いたい。
ああ、詩音さんと言えばだ。
本当にまああの人はやる事成す事のスケールが大きいというか。不可能なんてないよという冗談が冗談に聞こえないというか。
まさか―――あれだけ魔力を吸い込んで限界まで肥大した狂気を解呪してしまうなんて。
あの日……私と彼が別れた日。詩音さんは慎也の領域から戻ってきた私を待っていたかのように現れ、唐突にこんな事を言った。
『あたしに賭けてみる気はない?』と。
狂気の全てを預ける気はないかという問。私そのものの行く先を方向付けてしまうその挑戦。
それはもちろん確証や確信のある言葉ではなかったのだろうけど、実際狂気を乗り越える当てなど微塵も持っていなかった私にしてみれば天啓にも等しかった。
一も二も無い。
かつての記憶をこの身に受け入れた私が判断するに、詩音さんでどうにもならなければ生涯どうする事も出来はしないだろうという思いがあった。
だから半信半疑の段階などとうに終わっていて、もはや信じるしか―――縋るしか方法は残されていなかったのだ。
それでも『大丈夫ですか?』と聞かずにはいられなかった私に詩音さんは、これ以上頼りがいのあるものはこの世界のどこにも存在しないと思えるような力強い笑みを見せ、彼女らしい、はっきりとした口調で言ってのけた。
『あたしを誰だと思ってる? 『到達』した錬金術師たるクラリス=ケントニスこと鳴上詩音様さ。二度とキミ達に悲しい思いなんかさせるものか。あたしはあの時誓ったんだ。この先どんなことがあってもキミ達の力になると。だから……少しだけ時間をちょうだい。必ずキミが恭司の傍にいられるように、キミの自我崩壊、私が食い止めてみせる―――『全てを御する者』の名にかけて』
自我崩壊。それは詩音さんから説明された、彼を最終安全装置にした最低最悪の罠。慎也の最後の足掻き。
私が―――受け入れるかもしれなかった未来。
慎也が死んだ事でスイッチが入り、あのままいけば狂気は近づく者全てに殺意を持つまでにその根を深くしただろう。そしていずれ誰かを殺めずには生きていけない身体へと私を変えていく。だから私は魔術的に防護された―――つまり狂気を遮断する可能性のある彼の傍でしか自分を保てず、私のセカイは閉じていくはずだった。
だが、慎也は彼を最後の安全装置にする事で、彼の傍にいると狂気がその矛先を内側に向け、私自身を蝕んでいくというシステムを組み上げた。
私自身を助けたいのなら、彼から離れなければならない。私に殺されるはずの誰かを助けたいのなら、彼の傍にいなければならない。
いずれにしろ何かを喪う、究極の選択。
いや、その時点でそれは選択とは呼べない代物だったのだろう。何故なら私は自分の取る道を既に決めてしまった後で……その結果、呪縛を残した魔術師の思惑通りに私は誰かを殺す宿命から逃れられなくなる―――
はずだった。
だが詩音さんは、あの憎たらしくも心優しい保護者は、そんな暴走手前の私に第三の選択肢を用意してくれた。
誰も殺さず、誰も悩まず、私は今まで通り……彼の隣に立てるという、そんな夢のような選択を。
頭が上がらない、とはこういう事を言うのだ。
思い出すだけで苦笑してしまう。
どんなに傍若無人な振る舞いをしても、どれだけ唯我独尊を貫いても、詩音さんの態度の端々には私達を想う心が見え隠れしている。
徹底的なまでに過保護な私の『友人』は、そうして新しい未来を提示してくれたのだ。
おかげで私の外見は変わってしまったけれど、日常という平穏を生きている、歩いているというだけで私は満足だ。
―――さて、今日の目的地ももうそろそろ。
娯楽施設をこれでもかというほどに詰め込んだショッピングモール。その一角には古いながらも様々な感傷を受け止めるだけの悠然さで立ち聳える時計塔があり、その真下には何の変哲もない木製のベンチが置いてある。
流す視線で見やればそこには、凡庸が服を着て歩いているような無個性男が座りながら何やら熱心に書物に読み耽っている。
何故だか無性に安堵する私がいたのを偽れない。
その姿をどれ程待ちわびた事だろう。
確約も出来ないような約束を一方的に押し付けた私を、彼はそれでも何も言わずに受け入れ、待っていてくれた。
込み上げる想いはいかなる重さか。
ああもう、堪えているだけでもどかしい。
早く声が聞きたい。
焦る気持ちは足取りに表れ、汗ばむのも気にせず歩調を速める。一歩一歩に枷が付くような錯覚は夢の中でなくとも体感できるのだと、どこか鬱陶しく、それでもどこか嬉しくなりながら、着実に私を運んでいく。
最初にかける言葉はどんなものがいいだろうか。
彼は私に何と言ってくれるのだろうか。
そんな胸中で暴れる感情はどうにか抑え付けて。
後もう少しで。
私は彼に触れられる距離にまで―――
今日は、そう。
契約を施行する日。
嘘ではなく本当なのだと、約束は確かなのだと、確認する日。
その、特徴を見つけるのにさえ苦労しそうな外見の男は、何かに気づいたかのように今まで読んでいた日記帳からふと顔を上げ、一瞬瞳を大きく見開いてから、喜びを隠そうともせずに割れんばかりの笑顔を見せた。心底から愛おしいとでも言いたげに細められた目は、まるで少年が宝物を眺めるような、そんな素直で真っ直ぐな色をしている。
だが彼の元を訪れた女は対照的に、少しだけ息を切らせて、冷ややかに曇らせた黒瞳とそしてどこかむくれた表情とでそんな男を無遠慮に迎えた。
その若干鋭い視線に気づいているのかいないのか、男は、
「久しぶり」
と挨拶し、
「そうじゃないわ」
と女は間髪入れずに返事をした。
笑顔ないしそれに連なるような温かみある対応を期待していたのか、これには男が驚き、え? と気の抜けた声を漏らしてしまう。
女は不満そうに腕を組み、座る男へと威圧気味に視線を斜め下にぶつけ、ふん、と鼻息を鳴らす。
じーっという音が聞こえるほどに圧力を込め、無言のまま透き通った黒瞳の標的にされる男はどこか気まずそうである。
再会という言葉とは些か縁遠い対面は熱気と沈黙が主導権を握ったまま過ぎていく。
身動き一つなく、玉のような汗が噴き出すのにも構わない。容赦なくじりじりと二人を焦がし続ける太陽も蚊帳の外だ。
と、いい加減焦れてきたのか、女がさらに一層険を深くし、男のほうはその琴線を読み取れずに狼狽するばかり。
―――やがて。
誰が見ても得る物のない根比べに、先に音を上げたのは女のほうであった。
「私を見て挨拶よりも先に何か他に言う事はないの?」
これ以上の助け舟をやるつもりはないぞ、とでも言いたげな口調だった。さらにはこれで気づかなければ一片の容赦も残さない、とも。
「えっと」
どうにかやっと、といった感じで男が声を出す。
喉が渇ききって掠れつつあるのは、決して夏という季節のせいだけではないだろう。
思い当たる節を半ば必死になって片っ端から抽出した結論は、
「あー姉貴も言ってたけど本当に髪を切ったんだね。長くて綺麗だったから少し勿体ないなぁって思ってたけど……やっぱり君は可愛いから。うん。その髪型もすごく似合ってるよ。それに……これは元々そうだったけど、もっとずっと……大人っぽくなった。気を抜くと見とれちゃうよ」
探り探りな口調。姿の見えぬ地雷を発見せんと、どうかこれであってくれという男の願いの詰まった言葉は果たして。
「本当に、」
「うん?」
先程までの不機嫌さはどこへ行ったのか。怯えると称して差し支えないほどにか細く抑えられた声に、男は思わず前傾姿勢になって聞き返した。
女はそんな男から目を逸らし、少しだけ頬を染めながら、
「本当に……似合っている?」
それは内心の不安が見え隠れした再度の確認であったが、
「うん。とっても」
一点の曇りもない瞳でそう返されれば、女は納得する以外の選択肢を見つけられないようだった。
一つ頷いてよし、という合図が発信された。
それは男に忘我さえもたらしたいつかの焼き直しであり。
『帰ってきた』ことを確認するための儀式であった。
とは言え。
「そう。賛辞はありがたく受け取るわ。貴方は……少し髪が伸びたわね。率直に言えば、似合わないわ」
似合うと言われて現金にも頬を緩ませてしまいそうになったのを恥じた様子で、そんな憎まれ口を叩く。
本人が自覚しつつもずっと直せずにいる癖は健在といったところだった。
「相変わらずだなぁ、七瀬」
「貴方も変わらないわね、恭司」
名を呼び交わしたのは安心したかったから、なのかもしれない。
双方ともに力み過ぎていた部分をようやく解放して、ゆっくりと表情を穏やかなものにしていく。
「それじゃあ……とりあえず歩きながら話そうか」
「ええ」
ここに来てようやく本当の再会を果たした二人は、初デートの場所であるこの『ユート・ピア』を散策することにした。
全ては7月の末日である昨日、恭司の元へと唐突に送られてきた小包みに端を発する。
差出人の欄には月城七瀬の文字。
それだけで理解する。魔術という非日常から繋がった一連の事件が本当の意味で終わったのだと。
恭司にしてみればそれは唐突に唐突を重ねたようなものではあったが、しかしその名は見るだけで口元を綻ばせるには十分過ぎる破壊力を擁していた。
破り散らさんばかりの勢いで開封してみれば、同封されていたのは『治療が終わったから一ノ木市に戻る』ということと『ひいては翌日8月1日に例の場所で待ち合わせをしよう』ということだけを簡潔に記したメモ程度の手紙と、一冊の日記帳だった。
治療の終了。
即ちそれは―――姉である鳴上詩音が七瀬の『狂気』の解呪に成功した、ということ。
具体的な方法は何一つ聞かされていなかったが、それでも恭司は微塵も疑っていなかった。
全てはありふれた日常へと繋がるのだと。
他の誰でもない七瀬が、こんな当たり前の世界を生きていけるのだと。
だから心が躍ろうと、知らず知らずに頬が緩もうと、それはきっと何でもない予定調和のようなもので。
今はただその愛しい顔を見たいと思うだけだった。
夏の日差しと時折吹く気紛れなそよ風に揺られながら、二人は三年ぶりのデートを続ける。
それは何の変哲もない、どこにでもありふれた光景。
そして二人が何よりも願っていた在り方だ。
だからその全てを愛おしく甘受しながら、他愛もない会話に花を咲かせては、今という時間にこの上ない幸福を噛み締めるのだった。
「そう言えば貴方、まだ陶器を作っているという話を聞いたけれど」
いくつかの店をまわった頃、ふと七瀬がそんな言葉を口にした。
恭司はその質問を覚悟していたのか、さして驚くでもなく強く答える。
「うん。師匠はあんなことになっちゃったけど、それでも僕に対して磯部時宗という人が教えてくれたことは間違いじゃなかったと思うんだ。例え仮初めの人格だったとしても師匠はやっぱり師匠で、だったら僕が陶器を作りたいと思うのなら、多分それが一番いいことなんじゃないかと思う」
もちろん我流だから趣味の範囲になっちゃうけど、と恭司は付け加えた。
磯部時宗―――セラフ。
その名は二人にとって大きな意味を持つ。
恭司が陶器作りに焦がれた最大の理由であり、
七瀬が麻美という親友を失った原因でもある。
振り返ればそれは様々複雑な感情を想起するに足るほどの意味を含み―――
しかしその全てを過去と思えるだけの、少なくともそう前向きに歩もうとする強さもまた、二人にはあったのだった。
本来なら暗澹たる雰囲気にさえなってもおかしくない話題を、お互いに明るい態度を崩さぬまま、かつての記憶として想うに留める。
「結局しがないフリーターってことになっちゃうのかな、僕は」
わざと冗談めかしているのは、まだどこか整理しきれていない表れだったのかもしれない。
それをよく分かっているからこそ、七瀬もまた恭司の想いを汲み、冗談のようなセカイの出来事として、それを思い出に屠る作業に手を貸す。
「つまり、甲斐性無しと呼ばれても仕方のないという事ね」
「うわぁ手厳しいな、七瀬」
「気にする事はないわ。私は貴方の肩書きに惹かれてここに居るわけではないもの」
言っていてそれが告白まがいの台詞だったことに後から気づいたのか、歩きながら七瀬はそっぽを向いてその頬を僅かに赤くした。
「……だからと言って現状維持で思い上がるような真似をされても困るわ」
それでも恭司から離れたりしないのは、それはつまりそういう想いがあるからである。
変わらない半身の、どこまでも焦がれた想い人のそんな態度に優しい気持ちになりながら目を細め、
「分かってるよ。君に愛想を尽かされないようにちゃんと努力するつもり」
恭司は心底からの明るい笑みを浮かべた。
あらぬ方を向いたまま、けれど七瀬も応えるように淡く笑う。
『解呪とは言っても完全になくなったってわけじゃあないんだけどね』と詩音は言った。
小包を開け、さあ今から小躍りでもせんとばかりに歓喜していた恭司の元へとかかってきた電話でのことだ。
喜びに些かの水を差すように告げられた言葉の意味はインクが紙に滲むような速さで恭司へと浸透していき、しかしそれでも詩音の口調が絶望や悲嘆とはかけ離れていたために、何とか笑みを崩さぬままそれを聞き終えることができた。
今回施された解呪は一時的というほど弱いものではないが、完全と言うには遠い言わば『妥協案』的な措置であるらしい。
本来あそこまで核心部分に魔術が侵食すると、生涯その影響から逃れることはできない。魔術とは完成された魔力の形であり、顕在化された非現実である。そういった『完全な異物』が人としての最も深い部位に既に存在してしまった以上、それを完全に無かったことにするのはほとんど不可能と言っていい。無理を通そうとすればそれは癒着した核ごと消滅しかねない―――早い話が外法使いセラフが七瀬に対してしようとしたことと同じ結果を生んでしまうのである。あまりにも融合が進んでしまったために個々の状態に分化させることは詩音の力を持ってさえ無理なのだった。
そこで詩音は完全な撤去ではなく、曖昧に『ぼかす』手段を考えた。分かりやすく言い換えれば『狂気』の衝動を限りなく微小に軽減させようとしたのである。
まず魔力の加工を主眼とする錬金術の特性を最大に発揮し、七瀬が持つ魔力に限りなく近い空の器を生成した。それを七瀬の核、つまり病巣とも言うべき奥底に配置し、徐々にだが呪いに偽の器が七瀬の核だと『勘違い』をさせ、魂に定着した呪いを吸い出すようにして引きずり出したのだ。
もちろんどちらも見かけ上七瀬の魔力であるから、必ずしも偽の器に呪いが吸着するとは限らないのだが、そこは詩音の神具さえも複製してのける錬金術の賜物。設定した魔力以外を無限に吸い続けるという効果を持った荒唐無稽な神具を錬成し、それを器に仕込むことで『勘違い』を促すことに成功し、じっくりと歳月をかけて、それはバケツでプールの水を汲み出すような気の遠くなる作業ではあったが、何とか蓄積した魔力を魂から精神へと移転させた。同じ手順でさらにそれを肉体にまで表層化させ、仕上げにそれを魔力を溜めやすく、かつ喪失したところで身体的には何ら支障の無い部位―――つまるところ、髪の毛だ―――に集約してばっさり。
それでも吸着しきれない魔力が核に残留しているのだが、かつての『狂気』ほどに肥大しないうちに処理さえすれば七瀬の精神に影響を及ぼすことは一切ない、とは詩音の弁だ。
後は定期的に呪いのガス抜きならぬ魔力抜きをすれば晴れて七瀬は普通の女の子に戻れる。
トカゲの尻尾切り、という安っぽい言葉が最も良く似合うこの手法は、しかし七瀬にとってはまさに奇跡のような贈り物で。
かくして自慢の髪の毛を対価に、生来蝕まれていた『狂気』の束縛を限りなくゼロにすることが出来たのだった。
魔力を呪いに奪われないため、七瀬自身が魔術師としての適性を復活させるという結果だけを残して―――
『狂気』を克服したとは言え、もはや習慣というより習性となって定着していたためか、まだ人ごみが苦手な七瀬を思いやり、あまり賑わっていない店を優先的に巡るというルートを選択していくと『ユート・ピア』というショッピングモールは意外と狭い。それだけここが繁盛している証明でもあるのだが、二人にしてみれば三年もの間溜め込んだ想いを確認し合うには些か物足らないと言えた。
「うーん、結構早く戻ってきちゃったね」
再び時計塔の下のベンチに座り、恭司が言う。
同じくその隣に腰掛けた七瀬は短くなった髪を所在無さげに梳きながらどこか不満顔で、
「私がもう少し努力すればいい事なのに、貴方が過保護なのよ。私の事なら気にしなくていいわ」
「でもあんまり好きじゃないんでしょ? 人ごみ。僕は七瀬が嫌がるのを無理に押してまで遊ぼうなんて思わないよ」
譲り合いというには少し妙なきらいのある応答。言い合う口調こそ穏やかだが、どちらも自分の考えを退けるという気はなさそうだ。
はたから見れば恋人達の痴話喧嘩、そしてその実そのものの、犬も素通りしそうなやりとり。
「どうせならこのまま二人で話をしているだけっていうのも悪くないんじゃないかな」
「……座って話しているだけのデートなんて聞いた事がないわ」
特別そんなことに興味はなかったくせに、という意地の悪い質問は恭司の口からは出ない。内心で笑いたい衝動をどうにかこうにか抑えながら、この二人らしいデートの構図に酔う。
恭司の内心はこうだ。
恐らく今回、本気でデートだと意識したからには、七瀬は七瀬なりに必死になってそういった関係の雑誌を読み漁り、デートというものはどういったものなのかを研究したに違いない。一歩下がることを嫌悪する七瀬の性格を考えれば、対等に振舞えるように知識を仕入れようとすることなど想像に難くないからだ。
そう思うからこそ、恭司は温かい視線を七瀬へと注ぐだけに留める。彼女の努力は無駄になってしまうかもしれないが、それはまたいつでも発揮する機会がある。今こうしてデートする必然を得たということは、次のデートが約束されているようなものだということに彼女は思い至っていない。この一回で失敗すれば次はない―――そんな風に思うからこそここまで頑なに散策に固持しているのだろう。
少なくとも恭司はこれっきりで終わるような浅い関係だとは思っていない。
この内面の余裕というかすれ違いが、視線の温度差に表れているのだが……
七瀬にはそこまで冷静に観察するだけの余裕はないようだった。それだけ彼女は彼女でデートというものに緊張していたということで……それが更に恭司の感情をくすぐる。
「何を笑っているのかしら。貴方は私が怒るのがそんなに面白いの?」
必死に堪えてはいたものの、どうしても抑え切れなかった部分が顔に出ていたのか、七瀬が目聡くそれを指摘した。
「そんなことないって。そもそも七瀬は怒ってないじゃないか」
「怒っているわ」
言った言葉を証明せんとばかりに息巻いて、七瀬は眉を吊り上げ視線を険しくする。
が、そんなものが鳴上恭司という男に通用するわけもなく、
「またまた、そんな可愛い顔して怒ってるなんて言われても説得力ないよ」
「……貴方はまた、そういう、」
歯が浮くような台詞を、という言葉尻は俯いてしまったことで恭司の耳には届かなかった。
とびきりのカウンターに耳まで赤くして、七瀬は照れを隠せずにいる。元々免疫などなかったのだ。はっきりと自分の想いを確信してからそんなことを言われれば、彼女のポーカーフェイスなどガラスの仮面に等しい。
「どうかな? こういうのは楽しくない?」
少しだけからかうように恭司。先程の言葉は彼にしては珍しく確信犯であったらしい。
悪びれることなく言ってのけるのも、これが七瀬の一番愛らしい表情を見るためという動機なら必要悪だと割り切っているからだろう。
「……楽しいわけないでしょう」
「そうかなぁ」
「貴方は散々私をからかって遊んでいるものね。それはそれは楽しいでしょうけど」
「拗ねないでよ七瀬」
「拗ねていないわ」
明らかに拗ねた口調で、七瀬はアヒルの口のように唇を尖らせる。これでもまだ拗ねていないと主張するというのは何かの意地のようでもあったが、恭司にしてみれば彼女のいじらしさを一層際立たせるだけでしかない。
溺れてしまいそうだ、と内心で口にする恭司からは笑みが消えることはない。
我が子の成長を見守る親のような思いにも駆られながら、そろそろ引き際か、と恭司はむくれるお姫様のご機嫌取りに勤しむことにした。やり過ぎて本当に怒らせてしまっては本末転倒なのだから。
「ほら、ごめんって。この通り」
手を合わせ拝む仕草を作ってみせる。
笑いが漏れそうなのを必死に堪えながら、ではあったが。
「ね? 七瀬。何でも七瀬の言う通りにするからさ。機嫌直してくれないかな」
「……別に、最初から本気で怒っているわけでもないけれど」
視線を合わせないまま、けれど僅かに口調が穏やかになる。要はそういうポーズを見せればいい、ということなのだろう。
恭司は自らの仕事に手応えを感じ取ると、ここぞとばかりに『観念しました』という態度を作る。
「それでも、ごめん。僕も浮かれてたみたいで、ちょっと調子に乗りすぎた」
それがとどめとなったのか、
「そうまで……言うのなら水に流してもいいわ」
七瀬はそれを横目でちらりと伺うと、しぶしぶと言った体を見せながら、ようやく機嫌を直した。
「ありがとう」
それからは恭司の言う通りに、ベンチに腰掛けたままの会話が続く。
離れている間にどんなことをしていたのか、最近はどんなことに興味があるのか、これからどんなことをしたいと思っているのか。
そんな当たり前の話を交わし続ける。
最初は渋っていた七瀬も、この不思議なデートにどうやら満足しているようだった。
どんな些細な話でも楽しそうに屈託なく笑う恭司を見ていると、いちいち腹を立てるのも馬鹿らしいなどと考えたのだろうか。
そもそも腹を立てているフリをしているだけで、元々こうして再会を楽しんでいるのか。
いずれにせよ、ちぐはぐな二人のデートは一風変わった形を描きながら、少しずつ終わりへと向かっていく。
そしてそれはいつか訪れる次へのステップになるための通過点に過ぎない。
そんなことを思う恭司は、
「恭司」
不意に放たれた七瀬の言葉にどきりとする。
深く響く慈愛に満ちた、どこか大人びた艶のある声。
それは七瀬がようやく手に入れた、普通の世界で、そして誰かのために届く声。
打って変わって真剣な表情が魅せるのは、どこまでも愛おしい、この世にたった一人の己が担い手が紡ぐ想い。
「何でも、と言ったわね」
「え?」
一瞬でも見惚れてしまっていたのを照れ隠すようにして、恭司は聞こえていないフリをする。
もちろん七瀬はそんな安直な逃げに撒かれることもなく、
「貴方がさっき自分で言った事よ。何でも私の言う通りにすると」
「いやまあうん、それは……いいけど」
たじろぐような返答になってしまったのはその視線があまりにも真っ直ぐだったからだ。
鮮やかな黒に彩られた瞳は一点の淀みを見せることなく、七瀬の真摯な想いを代弁する。
それだけで、次に空へと溶ける言葉を決して見失ってはならないのだと恭司は悟った。
恭司は静かに姿勢を正すと僅かに七瀬に向けて身を傾け、続く彼女の想いが形になるのを待つ。
陽光と微風の中に佇むようにして、二人だけの時間がゆっくりと流れていく。
深呼吸のような吐息と、深い瞬きが一つ、時を追うと、
七瀬がその唇を開いた。
「貴方と別れて、詩音さんと一緒に解呪をしている間、私はずっと不安だった」
一言一言を噛み締めるように、それら全てを慈しむように、七瀬は溜め続けた想いを紡ぐ。
そんな彼女を思いやり、恭司はただ頷くだけでやんわりとその先を促す。
「詩音さんは大丈夫だと言っていたけれど、本当はそれは優しい嘘なんじゃないかって。私を安心させるためにそう言っているだけで、とっくに手遅れで、私は誰かを殺すだけの獣に成り下がっているんじゃないかって」
「うん」
そんなのは単なる妄想だ、と否定することは簡単だ。
だがそれを勘違いや思い込みだと割り切れなかったからこそ、悪夢のように七瀬を苛んだということを恭司は理解している。
だからあえて何かを告げることはしなかった。
全てを吐き出したなら、それを受け止めてあげようとだけ決心して。
「ずっとずっと不安で、どうしようもなくて……でもその度に、貴方の顔が頭に浮かんだ」
表情は今も硬いまま、それは拒絶を恐れる子供のように無垢で、指先で触れただけで脆く崩れてしまうような無防備さ。だがそれ故に美しく恭司の目に映える。
「私がどうしてこんなにも不安に揺らぐのか。私はどうして生きていたいと願ったのか。私がどうして―――貴方に逢いたいと想うのか」
真っ直ぐ交わされた視線の先に、二人は大切な繋がりを感じる。
「約束を守るなんて、そんな事は後付けの理由みたいなもので、私が貴方に対して抱いているこの気持ちが何なのか、そんな状況になってようやく分かったのよ」
「聞かせて……くれるかい?」
優しく問う声に七瀬は一瞬だけ躊躇するような間を見せてから、やがて注視していなければ気づけないほどに小さく頷き、
「こんな私でも、素直に伝えたい想いというものはあるの」
「……うん」
「私はね、恭司。愛していると百度言うよりも、愛して欲しいと一度言う方が勇気がいるのだと思うわ」
一度目を伏せ、小さく何かを呟いた後、意を決したように顔を上げた七瀬は、
女神さえ魅了するような微笑を浮かべて。
「愛しているわ、恭司。だから―――私を、愛して」
そんな本心を言葉に乗せて届けた。
必死、というには穏やかで、不意に、というには強く編み上げられた想いの形が恭司の胸の内へと徐々に浸透していく。
それは温かく熱い感情の奔流となって、恭司の体内を突き抜けていく。
唯一無二の半身として、杖とその担い手として、共に在ることを決めた相手が。
精一杯に勇気を振り絞って告白をしてくれたというのだ。
ここで答えない選択など、在るはずはなかった。
「僕も」
だから恭司もまた、とびっきりの笑顔で。
照れたように笑う七瀬を強引にその両腕に抱き、
「君を愛しているよ、七瀬」
そっと耳元で囁いて、有無を言わせぬように唇を塞いだ。
日常という何気ない世界の隣には、魔が犇く異質な世界が横たわっている。ちっぽけな箱の中に生まれた世界は、願いの数だけ歪さを増し、人々を平常ではいられなくする。
だがそんな騒々しい現実も。
並び立つ恋人達にとっては単なる他人事に過ぎないのかもしれない。
「おかえり、七瀬」
「ただいま、恭司」
夏空はそんな二人を見守りながら。
また今日という日を明日へと繋げていく。
暑さに大気を揺らし、時折吹く風にやがて来る季節を感じさせて。
そっと空に浮かぶ太陽に祈りを預ける。
夏に浮かれる人々に―――今はただ、凪の時間を。
「ねえ、恭司」
「何だい?」
「もし……もしも、前世なんていうしがらみもなくて」
「うん」
「私が元々こんな身体じゃなくて、もっと普通の女の子に生まれていたら」
「うん」
「貴方は私に出逢って……そんな私を、愛してくれたかしら?」
「うーん、不思議な質問だね」
「……あら、悩むの? 即答できないという事?」
「そうじゃないよ。そうじゃないからそんなに怒った顔しないで」
「……別に、怒ってなんていないわ」
「あは、そうだね。……うん、例え七瀬が今のようでなかったとしても、僕は君を好きになっていたと思う。それは間違いない。即答できるよ」
「そう」
「でも、そういう仮定はそもそも意味がないんじゃないかな」
「どうして?」
「今のままでも十分、君は普通の女の子だよ。ちょっと気が強くて優しい、普通の、ね。他の誰が認めなくても、少なくとも僕は、そう思って君の傍に居る」
「……そういう事を平気な顔をして言う貴方は、普通じゃないわ」
「いいんじゃないかな―――それで君を、愛していられるならね」
『箱に願いを』――――――Fin. |