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箱に願いを
作:草壁蒼司



第八章 『覚醒』−Deep blood−3



 遠い喧騒が耳朶を揺らす。
 それは寒空のように淡くて、蜃気楼のように実体がない。
 込み上げてくるのは泥みたいに凝り固まった自責と、じとっと絡み付いて離れない疑念。
 あの声から逃げるようにして私はどこまでもどこまでも追い詰められていく。
 これは私自身の中。流れ込んでくる五感の情報を意図的に視ないようにして、深い深い心の底に作った隠れ場所。ここなら何かに干渉される事はない。
 逃避するにはうってつけの、見て見ないフリをするにはこれ以上ない、暗闇。
 ここではない喧騒の中で私を呼ぶ声がどこからともなく流れ込んでくる。
 空白ではない、確かな実体リアルさを持ったそれを私は確かに望んでいたはずで。
 なのに今は耳を塞ぎたい。
 そんな同情はいらない。
 そんな慈悲はいらない。
 在りもしない感情を見せて、期待を持たせるような真似はしないで欲しい。
 他の誰かならいい。
 馬鹿げた寝言を、と一蹴する事もできるだろう。
 ……でも。
 あの男にだけは。
 ―――『 』という男にだけは。
 私は真っ当な思考で、平静な理屈など組みようがなくなる。
 『彼』が私に情けをかけている、などと少しでも考えてしまえば。
 ただでさえ脆くて不安定な足場は即座に均衡をなくし、私は自分の殻へ、ヒトとして大切な核心を失った底なし沼へと堕ちていってしまう。
 『彼』とは対等で居たかった。
 麻美という私の半身を失い、自分を見失った私に前を向かせてくれたのは『彼』だ。
 『彼』を支え、『彼』に支えてもらう相互扶助。そんな関係であれば、あるいは私は生きていてもいい。
 そう思わせてくれたのだ。
 ―――それがすべて蝋の翼であったのなら。
 私の期待は太陽となって全てを溶かし、白日の下に曝されて残るのはくすんだ憐憫の欠片。
 そんな事に耐えられるわけがない。
 だったら……だったらいっそ、私はこのまま鎖に繋がれ、考える事を放棄した人形になってしまえばいいのではないか。
 狂気に取り付かれ、いずれ誰かを傷つけるような真似をするくらいなら。
 『彼』に見捨てられるくらいなら―――いや、それだけならまだいい。私という唯一人の人間が壊れるだけ。だがもし『彼』をこの手にかけるなどという事になったら。
 朽ち果てた人形の方が似合いの末路なのかもしれない。
「……って……せる」
 視覚が映す光景は、誰かと誰かが鬩ぎ合う異質。私が生きてきた過去とは似ても似つかない異形のセカイ。
 奇妙な姿形をした群と、それに命令を下す者。
 そしてそれらにただ一人抗う者。
 ……何をしているんだろう、と他人事のように考える。
 あれだけの数を相手にすれば多勢に無勢。どうあっても勝ち目などない。いや、そもそもあれらを操っているのは魔術師という規格外。それだけで私達ヒトでは打倒すべくもないと、分かっているはず。
 だが『彼』は抗い続ける。凄惨な程に表情を鋭くし、あらゆる挙動に気を配り、時には慎重に、時には大胆に立ち振る舞いながら、異形を一体、また一体と消し去って行く。
 無理だ、と私は思った。
 魔術師は常に新たな異形を喚び出しつつ戦っている。『彼』がどれ程異形を潰したところで、喚び出す速度の方が圧倒的なまでに速い。それに感覚で分かる。今『彼』に向かって行く異形と、魔術師が後続として喚び出している異形ではその禍々しさが比較にならない。絶対的なまでの物量と、徐々に強固になっていく敵。あれでは魔術師はおろか、それを守るようにして立つ側近の異形にさえ辿り着けはしまい。
 密閉された空間に犇く何十体もの異形の群に、しかし『彼』は臆さない。
 何故『彼』はそこまで立とうとするのだろうか。
 今はまだいい。異形一体一体よりも『彼』は強いらしく、よほど拙い手を打たない限りは傷一つ負う事はないだろう。
 だがそれは異形達のほんの一部に過ぎない。
 極限まで集中していれば神経も磨り減る。機敏に動き続けていれば体力も削れていく。召喚される異形は段々その歪さを増していく。
 いつかは限界がくる。
 そんな事、誰にだって分かる事なのに。
 『彼』は一度も立ち止まろうとしない。
 何故?
 そうまでして得たい何かがあるというのか。
 私は自惚れない。
 私が『彼』の目的であるなどと思えるはずがない。
 あれだけ迷惑をかけて、あれだけ無様な姿を晒して、どうして自分の為に何かをしてくれるなどと思えるのか。それほどの厚顔さを私は持ち合わせていないし、誰かを信じるという事さえ今の私には耐えようのない重荷だ。どうして、どうしてそんな―――
 依存しようなどと考えるのか。
 私は誰の私でもない。そう思うのに。

 それが哀しい事だと……訴える声が聞こえる。

 鈴の音のようにか細く、しかし凛として鮮やかな音が私に語りかけるのだ。
 そんな事を思うな、と。
 天啓にも似た不思議な言葉。
 どこか心地良い響きを伴って、私を誘う。
 蘇ってくる記憶の中で、いつか誰かが言った。
 『僕は君が傷つくのを見たくない』。
 その言葉が偽りも飾りもない本心であったと、他の誰より『彼』を観察した私が知っているはずなのだ。
 ならばどうして私は『彼』を疑うのか。
 その干渉はどこから生まれたのか。
 一つ疑念を抱けば、それはみるみるうちに密度を増し、私自身の動機付けとなって、その思考を操っていく。
 ―――突き止めなければならない。
 逃げるのはそれからでも遅くはない。
 だから。
 空っぽになった心にうずくまりながら、私は私に繋がる回路の全てに目を向けた。
 すぐに違和感が見つかる。例えようもないほどに濁った淀み。侵食するべくして侵食を続ける何かの爪痕がそこに在る。
 淀みは遅々とした流れながらも着実に深層を目指して進む。どうして今までこんな奇妙さに気づかなかったのかが不思議なほど、それは私という中に在ってこの上ない異彩を放つ。かつて見た事もないような漆黒。果てのない悪意だけを抱えて堕ちて行く不自然な流れ。私を汚していく罪色。
 何て醜悪な。
 これは私のものじゃない。こんな醜い色を自ら抱えようとするはずがない。
 だとしたら。
 だとしたら、それは。
 この身に絡みつく汚泥は、魔術師が放った魔術という名の枷。
「七瀬は救ってみせる。それが俺と彼女の約束だ。共に立ち、支え合うと誓った。ならばその障害に過ぎないお前など、越えられないはずはない!」
 外界が私に何か温かな心を届けようとしている。
 私は無意識にその温もりに応えようとしている。
 心地良いから。
 嬉しいから。
 傍に居たいから。
 ―――そう。
 そういう事。
 納得という結論を以って、私の思考はクリアになる。心の外で鳴り響いていたあの雑音。『彼』を、そして私自身を疑わせる暗い闇の音色はもう聞こえない。そんな泥は今の私には全て捨ててしまえる。
 私はまさに蜃気楼を見ていたのだ。
 本当ではない、しかし本当から生まれた偽者の影。ただ在り方を少し変えただけの、可哀相な骸の姿。
 そんな表層に惑わされて、私は本質を見失っていた。
 『彼』がどんな人間かなんて、馬鹿みたいなお人好しだという事なんて、とっくに分かっていた事。
 魔術師の戯言を真に受けて、あっさり思考を誘導されて、勝手に嘘を真実だと思い込んでいたのは……他ならぬ私の迷いだった。
 例えあの醜悪な泥を抜き取る事は出来なくとも。
 手を伸ばせば届くところに、最初から『それ』は在った。
 『彼』は最初からずっと―――そしてこれからだって、変わる事なく私を信じている。
 なら私が……『彼』を信じなくてどうするというのか―――!
「……っ!」
 急に冥府から現世に呼び戻されたかのような感覚が私を支配する。
 今まで閉じこもっていた私の中から私は外に出た。変える為、そして変わらないでいる為。もう鬱陶しい声になど誘われはしない。
 走り出そうと身を揺らして、鎖に繋がれた手が悲鳴を上げる。変わらない姿勢でいた事が身体に余計な癖を教え込んだらしい。体勢を変えようとする事にあれこれと文句を言っているようだ。
 だがそんな甘ったれた言葉などに耳は貸さない。私はこのままでいたら確実に『彼』の邪魔になるだけ。
 私はかつて言った。
 『彼』の後ろではなく、横に立つのだと。
 そうだ。私は『彼』に守られるだけの女ではない。『彼』を守り、支える。その関係は上下でなく、対等。互いに認める者として、互いを許す者として、並び立つ事を選んだ。その事こそが、月城七瀬というヒトとしての誇り。
 だから私は力の限りの声を振り絞って―――『彼』の名を呼んだ。
「―――恭司!!」
 生まれてから一度として聞いた事のないほどの大音量が私の喉から放たれた。
 それは真っ直ぐに空気に乗り、一条の矢となって魔術師の領域を駆ける恭司へと届く。
 同時にそれは慎也にも伝わり、その挙動をも停止させ、一瞬部屋の時が止まった気がした。
 少しだけ爽快な気分になる。部外者を決め込んでいた、そして少なからずあの二人もそうだと割り切っていた私が、今この場を支配しているなんて。
 恭司も慎也も幽霊でも見たかのような顔をしている。私が自力であの『魔術』を振り切った事にさぞ驚愕しているのだろう。
 そんな事、私だって驚いている。一体どこにそんな力が残っていたのかと問われれば、返す言葉もない。
 だがそんな小さな事情に付き合うつもりはない。
「この鎖を斬って! 私も―――貴方と戦うわ!」
 恭司は何も言わなかった。
 何も言わず、私の言葉を聞いてすぐに地を蹴り、行動を阻もうと立ちはだかる異形を瞬く間に斬り伏せ、脇目も振る事無く私の元へとやってきては、鮮やかとしか言いようのない剣捌きで、私の願い通りにこの両手を繋ぐ鎖を断ち斬った。
 甲高い金属音の残滓だけが木霊する。
 恭司は私の身に何が起こったのかを完全に把握したわけではないだろう。まして本当に私の助力を必要と考えたわけでも。
 だが彼は私がそうして欲しいと願ったから行動した。正しいか正しくないかなんて計算は捨てて、ただ私の言葉を信じて。
 その信頼が素直に嬉しかった。
「七瀬……大丈夫なのか?」
 心配していた、という感情を少しも隠そうとしない声色。純粋に私を気遣う思い。
 照れるくらいに真っ直ぐな視線に目を背けそうになるが、私はそれをぐっと堪え、出来る限りの強さを装って応じた。
「ええ。少し……悪い夢を見ていただけよ」
「俺の記憶が確かなら、君も戦うと言っていたようだが」
 いつもと違う口調。だがこれも恭司という人間が持つ姿なのだとすぐに納得できた。理屈じゃない。本能にも似た感覚がそれを察知する。
 あぁ……これが。
 これが『識っている』という事。輪廻するという事。
 魔術師の領域という外界から隔離された閉鎖空間において、その際立つ異質さが招いた歪みなのか、かつての記憶が私の深層に流れ込んでいるのだ。
 この恭司も、いつかの私が出会ったのだろう。
「貴方と私は半身同士。貴方が戦うのであれば私も戦う。当然の事よ」
「……そうか。きっと止めろと言っても聞きはしないのだろうな」
 やれやれ、と肩を竦める仕草。それは非難ではなく、どこか愛嬌を思わせた。
「分かっているようね。それでこそ私の杖よ」
「全く、俺の不安を煽ってくれる」
「気にする事ではないでしょう? 心配しなくても私は死なないわ。貴方が守るのだから」
 平然を装ってみたものの、随分と大きな事を言ったものだ。だがそれくらいの想いがあるのは嘘じゃない。恭司が居ると思えばこそ、今こうして私は立つ事が出来る。
 正直に言えば状況をどうにかする手立てなど全く思いつかない。身体は思うように動かないし、無理に魔術を取り払った反動か、全身に鉛でも仕込んだかのような重さを感じる。
 それを恭司も理解しているようだが、何も言わない。
 私の決意を曲げる事など出来ないという事も理解しているからだ。
 その連帯感が心地良い。
 今の私―――いや、私達なら、何でも出来るような気がしてくる。
 この昂揚。
 そうか、これが―――
「ふざけるなっ!」
 頭を抱えて叫びを上げる魔術師の声に私達はそちらへと目を向けた。
 哀れな狂人。それが私が今の慎也に対して思う率直な感想。
「何故……私の魔術を解呪できた? 有り得ない。お前の魔力はもう空のはず。ましてそんな知識など……! くっ、どうしてだ!? 何故そんなにまでして私に逆らう! そんな男にほだされるなど……!!」
 想いに水を差すようにして紡がれた慎也の疑問は、もっともであり、的外れだ。
 恭司と慎也。私に関わる人間で、こうも違いがあるものかと思うほどの差違。比較しようという考えこそ論外だ。恭司は私の半身。慎也は明確な……敵。あの男の所有物になるなど、考えただけで寒気がする。
 あるいは感謝してもいいのかもしれない。慎也が狂気を私に植付ける事がなければ―――あの歪んだ愛情を抱く事などなければ、私と恭司は出会う事すらなかったのだろうから。
 ちらり、と視線を脇に寄せた。
 肩がぶつかりそうなほど近く寄り添う恭司が居る。
 恭司もこちらを見やり、力強く頷いて囁いた。
 一緒に戦おう、と。
 私もそれに頷きを返す。味わった事のない温かな想いが胸の内から次々と生まれてくるのを感じながら。
 何が出来るわけでもない。私なんかに残されているのは狂気の食欲から逃れたただ一握りの魔力と、忘却され続けて色褪せたかつての記憶だけ。
 だが詩音さんは言った。私にも魔術師の才能があると。
 ならばその才能を今発揮しないで、いつ発揮するというのだ。
 重要なのは理由や原因ではなく、『そうする事ができた』という結果のみ。
 原因を知らなくても、結果は導く事が出来る。
 一度出来たのなら、二度だって出来る。その必然性がある。
 ―――だから。

 思い出せ。
 遥か彼方の世界で得た知識の全てを。

「生憎、私は好き嫌いが激しい性格なの。だから白黒ははっきりさせないと気が済まない。さっきも言ったわね―――貴方なんて大嫌いよ。恭司と比べようとするなんて事自体が私には許せないほどの侮辱だわ」
 私は目線を慎也に向ける。
 恭司もまた真っ直ぐそれに重ねた。

 思い出せ。
 狂気によって封印された奇跡の全てを。

 私はぎこちなく微笑してみせる。昔の私ならばこんな表情、麻美以外の誰かの為に使う事があるなんて思わなかったけれど。
 今は、こんな顔をしていたい。
「人は何かを宿命づけられて生まれる。必ず何かの歯車となって動くように出来ている。―――私が狂気や、かつての記憶などというものを宿して生まれたのはきっとこの時の為。恭司―――貴方をこうして支える為よ」
 目的は一つ。
 視線の先には愚かなまでに虚しい、堕ちた者の姿。
 私の人生を狂わせ、私の全てに枷を負わせ、私の全てを奪おうとしたあの魔術師。

 思い出せ。
 その幻想―――魔術の全てを。

「魔術師になんて負けない。私が―――私で在る為に」
「だ、そうだ。これで心おきなくお前に引導を渡せる。覚悟しておけ。七瀬にこんな真似をした罪―――その命で贖ってもらう」
 それでいいんだろう? と恭司の優しい目が問いかける。
 殺す。殺人。それは私が必死に抑えてきた衝動。人を殺すなんて考えただけでもおぞましい。それを恭司に代行させてしまうという事だって、苦しい。
 しかし相手は魔術師。ヒトならざるモノ。その並外れた叡智を駆使して理を捻じ曲げるモノ。まして私以上の狂気を孕んだあの男はヒトにとって絶望に等しい破壊をもたらす存在。
 慎也を殺してしまえば……私の狂気を取り除く術は分からないままだ。
 だが、それでも。
「もう二度と、私のような思いをさせる人なんて、出したくないもの」
 慎也が今は私にしか興味がなくとも、これから先、戯れにまた別の人間に同じ狂気を植付けない保証はない。
 そんな真似、許せるはずがない。
 だから矛盾なのだとしても、エゴなのだとしても、恭司を利用する形になってしまうのだとしても―――私はやり遂げなければならない。
 恭司なら理解してくれると、信じているから。
「君は強いな」
 本当を言えば私は強くなんてない。弱いからこそ必死に強がっているだけ。今だって気を抜けば膝が折れてしまいそうなほどに震えている。
 ただそれでも、こんな私でも強くなる方法が一つだけあるのだ。
「ええ……貴方が傍らに居るのなら」
 犇く異形もともすれば一歩先に迫る死の香りも何も怖くはない。
 隣に恭司が居る。それだけで私は強くなれる。恭司だってそのはずだ。
 最後まで激怒と憎悪に歪んだままの慎也の顔が、たまらなく愉快に思える。
 相手が悪意の魔術師ならば、それくらいの屈辱を与えなければフェアじゃないというものだ。
「七瀬―――」
 恭司が耳元で囁いた言葉をしっかりと胸に刻む。小鳥の啄みのようなほんの一瞬だけの作戦会議。
 それこそが私の剣。
 実体すら持ち得ない、脆弱で、しかし最も強固な刃の形。
 唯一つそれを胸中に携えて。
 今こそ―――最初の選択の正誤を選定する時。


 何はなくとも狙うは先手。こちらが持つのは一振りの刃。飛び道具と呼べる魔術を撃てないことはないが俺の流儀ではないし、まして魔術戦を主体に戦う相手を前にしてはほんの児戯と変わらない程度のモノだ。対し相手はどの距離であっても一撃必殺に等しい魔術行使を可能とする。ならば後手に回っては逃げるだけで体力を削られていくだけ。
 判断はしてみるものの、しかしそう易々といかないのはこれまでの戦いが証明している。
 懐にさえ飛び込めれば、どうにかなるのだが……
「っ! 邪魔だ!」
 そんなことを思っている間にも慎也が召喚した幻獣が襲い掛かってくる。俺からすれば鈍重と言って差し支えない程度の速度だが、何せ視界を埋め尽くすほどの物量だ。加えて一発一発の重さなど……考えたくも無い。
「そっちは大丈夫か?」
「心配はいらないわ。どうやら私は……眼中にないようだもの」
 やや側手の後方、幻獣の群の少し奥から七瀬の声が聞こえる。そこはこれだけの異形が犇く中にあって周囲に何も無い、文字通り不自然なまでの空白地帯。
 彼女が言う通り、慎也は戦闘開始当初からのスタンスを崩さず、一向に七瀬に攻撃を加えようとはしない。それが甘さなのかどうかは知る由も無いが、狂人同然であっても、七瀬を我が物にせんとする目的は忘れてはいないのだろう。フリだけでも彼女を盾にしないだけ、奴に敬意を払いたいところだ。
 無論、それは俺に異界の獣が放つあらゆる攻撃が集中しているという意味でもあるのだが。
 共に戦うと言った手前、七瀬は現状をもどかしそうに見詰めているが、実際問題として彼女個人にこの幻獣と交錯するような戦闘能力は皆無に等しい。ああして幻獣達に囲まれていれば、彼女とて無茶しまい。それならそれで好都合というものだ。それが慎也の裁量如何で崩れてしまうというのが難点だが。
 だが俺には確信があった。この段階までこぎつければ慎也は何があろうと―――例え追い詰められようと―――七瀬に手出しをする事はないと。
 理由はと問われれば、些か簡単すぎるきらいがあるものの、こう答えるしかない。
 『そんな未来は視えないから』と。
 そのおかげで俺は安心して彼女を後方に待機させておくことが出来る。それが彼女の想いとは相反するものであったとしても、何よりも俺自身のエゴのために。
 ―――本音を言おう。
 かつてのように肩を並べたい、という感情がないとは言わない。傍らに彼女がいるというだけでどんな強化魔術などよりも自分が高まる気がする。空にさえ手が届く気がする。運命に抗うことさえ容易いと慢心できる。
 だが同時に、もう彼女を失いたくないという想いが俺を縛る。出来れば何もせず、何もさせず、傍観者のまま、俺がこの手で決着をつけたい。
 その結果が―――俺の死だったとしてもだ。
 慎也さえいなくなれば七瀬は日常に帰れる。ここで見聞きしたことなど全て忘れ、魔術も魔法も何も無い安寧に住むことができる。
 だから俺は自身さえ省みることなく『眼』を開く。要は、奴を倒せればいいのだ。
「どけ! お前達の相手をしている暇はない!」
 次に襲撃してくる『だろう』幻獣の位置に向けて抜刀する。それはあまりにも滑らかに、予測通り飛び込んできた幻獣ごと空間を裁断した。
 胴を真二つにされ、塵となって返還されていく幻獣を見届けることなく、俺は前へ、さらに前へ、幻獣達を避け、時には斬り捨てて、召喚の源泉、慎也本体へと疾駆する。
 そこに防御はない。守りなど必要ない。そんな甘えなど彼女が見過ごすはずは無いし、そんなものを求めてもいない。
 在るのは攻撃という手のみ。その一手ごとに相手を追い詰める戦況の流れを視る眼。
 それだけ我が身を疎かにすれば目に見えて傷は増える。だがそんなものなど構いはしない。
 七瀬を『普通の女の子』に戻せるのであれば。
 俺の命一つ、安いものだ―――
「威勢だけでは私を打倒できないぞ! やれ、『獣』ども!」
 先程までの激昂とは打って変わり、戦闘となれば流石はというべきか平静を取り戻した慎也の発破に呼応して、幻獣達が咆哮する。
 その手繰り様はまさに召喚師として優秀と言って差し支えのない、隙の無い攻め。数に物を言わせた圧倒的な破壊。
 右手から二体、左手から二体、正面に三体。後方など……勘定するのも面倒だ。どうせ振り返る気はない。
「いつまでも雑魚で俺の相手が務まると思うなよ!」
 怒号混じりの叱咤。切り替えろ、今は余計な思考はいらない。障害は取り除き、ただ前に進むことだけを考えろ。
「ウォォォォォ!!」
 声にならない声を撒き散らしながら、幻獣達が連携して俺の命を狩りに来た。
 見える姿は構えを取る段階の幻獣の群。しかし『視える』のは三方向から七体の同時攻撃。お互いの死角や攻撃の空隙を埋めるように計算された、凡そ獣とは程遠い知性ある猛攻。伊達に幻獣などと呼ばれてはいないということだ。
 観察する。
 思考する。
 予測する。
 迎撃する。
 進軍する。
 突き詰めればたったの五行程。このステップさえこなせば脅威は灰燼同然。成功の如何は最初の三行程の精密さが決定する。
 問題はない。
 俺が脳裏に描くのは常に『確定された未来』。
 何も迷うな。
 視えるがまま、視たがまま、呼び声に従って己の刃を振るえばいい―――!
「塵に還れ! 異形ども!」
 腰を落とし、右足を大きく一歩踏み込み、滑空の要領で地を蹴り跳ねる。地面と平行に近い角度で群に飛び込んだところで右手にいた二体の幻獣が『予測通り』間合いへと飛び込んできた。
 後は時間をなぞるだけ。滞空したまま斬撃を放つ。
 残像すら残さぬ抜刀の瞬間に映った幻獣の顔はなかなかに面白い。俺は微笑を浮かべる。そうか、奴らでも『驚く』ことがあるのだな、と。
 そんな感傷ごとほぼ同時に二体を斬り伏せ、結果など放置して次の動作に移行する。俺の幻獣達に対する優位は『思考』と『速度』。そのどちらも鈍らせてはいけない。
 着地と同時に今度は一歩後ろに跳び、膝を屈する反動をつけてその全運動量を再度逆に変換し、より大きな跳躍。これで詰めた距離の先には様子を伺ってか僅かの間静止する『はずの』幻獣が一体。
 躊躇わずにに正面に立つ鈍重なソレ―――ではなく、真横、左側面の空間『だった』場所を斬りつける。
 そうすれば吸い込まれるように手前の幻獣の守りに入った別の幻獣が死の運命を招き入れることになるわけだ。
 これで三体。
 勝負には鉄則がある。
 即ち、攻勢に転じている間は、動きを止めてはならない。
 俺はそのセオリーに乗っ取って、納刀を終える頃には斬り裂いた幻獣の腹を割るようにして飛び込み、その後方にいた幻獣を一薙ぎにした。
 四体。
 残ったかつての正面側―――今は右手側に立つ幻獣が今更思い出したように行動を再開し、後ろで待機していた二体と合わせ三位一体となってこちらの動きを封じようと飛び込んでくる。
 成程、身を犠牲にして後に繋ぐ気か。
 幻獣にしてはなかなか殊勝な心がけだ……だが。
「悪いが、お前達の術中など全て分かっている」
 俺はこちらに飛び込んでくる三体を完全に無視し、五行程目を―――つまり側手にステップというワンクッションを置いて左前方に飛び込み、俺が元いた地点を目指して脇を通り過ぎる三体を十分に引き付けてから一気にやり過ごした。
 鉄則その2。敵の全てを相手にせず、戦闘は最小限に。
 あまりにも容易く敵陣に切り込む様を見せているせいか、どこかで息を呑む音が聞こえた気がした。それが慎也のものだったのか、或いは後方で俺の戦いを見守る七瀬のものだったのかは分からない。
 だがそれを聞き届ける頃には、慎也の周囲を取り囲む言わば『親衛隊』の幻獣の眼前まで踏み込むことに成功していた。
 あっけないと言えば、あっけない。代償として身体に残る負担は……後で考えればいい。
「ちっ、想像以上だな鳴上恭司。魔剣と剣術―――それに恒常的な身体強化の魔術か。正直ここまで君が脅威だとは思っていなかったよ」
 憎々しげに舌打つ慎也の言など聞いている暇はない。奴の予想以上だろうが以下だろうが、俺がここで奴を叩きのめす結果に変わりはないのだから。
 と、後方で蠢いていた無数の気配が煙のように消え去っていく。音もなく、最初からそこには何も存在しなかったかのように無という気配がそれに成り代わる。
 隙間という隙間を塗りつぶしていた獣達が一斉に消滅したせいか、実際に変化などなくともこの領域がやけに広くなったように感じる。体感と錯覚的な要素が多分とはいえ、踏む足場が増えるに越したことは無い。
「少々位階を下げても物量で何とかなると思っていたのは私の傲慢だよ。認めよう。君は強い。だから私も無駄な魔力は割かない。『こいつ』らと私自身が確実に君の息の根を止めてやる」
「無駄な手間を省いてくれるのはこちらとしても願ってもないことだな。欲を言えば……どのみちそこに群がっている連中も返還されるだけなのだから捨て置いてもらいたいところだが」
 俺はあえて挑発するように言ってみせる。無論自信による裏打ちあっての発言ではあるが、これで本当にあの『親衛隊』共を返還してもらえるのなら無用な体力の消費を避けられるのだ。リスクを負わないのであれば、言ってみるだけ言ってみるのが定石だろう。
「ここから見ている限りでは確かに『こいつ』らでは君を打倒するには役不足かもしれないが、それでも足止め程度にはなる。ようやく同じ舞台に立ったんだ。少しは面白い演出というものも必要だろう?」
 ククク、と含む笑い。個人的な意見を言わせてもらえば俺はあのテの笑い方を最も嫌う。理由は簡易にして簡潔。単純にして明瞭―――不愉快だから、気に入らない。
「恭司」
 幻獣の群が返還されたことで遮るものがなくなり、小走りでこちらに駆け寄ってくる七瀬。
「七瀬、君には少し下がっていて欲しい」
 が、俺はそれを左手をかざすことだけで制した。自然、彼女は俺の横に立てず、背後で立ち止まることになる。
「恭司、それは―――」
「分かっているさ。『だから』君には下がっていて欲しい」
「……」
 何か言いたげな沈黙が俺の背中に突き刺さる。必要なことだとはいえ、想像に難くない彼女の表情を鑑みれば、今すぐ振り返って抱き締め、詫びの言葉の一つも囁きたい衝動に駆られる。
 だが心を鋼鉄にしてその甘美な誘惑を振り切る。彼女には安全な場所にいてもらわなければならない。完全に安全な位置で立っているからこそ、全ての布石が磐石になるのだ。
「そう言うのであれば、従うわ。私が非力である事は事実だものね」
 多分に棘の混じった物言いであるが、七瀬はどうやら引き下がってくれたようだ。俺の意図が伝わっているわけでも、まして本当に納得しているわけでもないだろう。腸が煮えくり返る……とまでいかなくとも、釈然としない気持ちのまま自分を宥めているに違いない。
 今はそれでいい、と思う。今はそれで。
 肝心なのはこれから、後何手先になるかは定かではないが、確実に訪れるその機運が巡った瞬間。
「機運、か」
「何か言った? 恭司」
 いや、と呟きを独り言という結果に座らせる。
 自分で思っておかしくなっただけのことだ。
 理論に服従し、公式に隷属し、計算に没頭し、思考に傾倒する魔術師が、たった一つの偶発的な要素、しかも在るかどうかを完全に説明は出来ない機運などというものに己の行く末を賭けているなどと。
 こんな矛盾は愉快で、滑稽で、心地良い。
 それはどこかで取り戻した感覚が訴える、妙にざわついた本能。
 何事も例外が存在するように、魔術師にも例外が存在していい。それが俺であったのだと、そう思わせる何かがそこに在れば。
 俺は五体と叡智と感覚を十全にし、備えるだけだ。
「では、面倒はさっさと片付けるに限るんでな―――行かせてもらうぞ」
 俺は吐き捨てるように言うと、地を蹴った。
 『親衛隊』は全部で三体。細身で人間とさして変わらない体躯であるが、視ただけでソレが今まで斬り伏せたどの幻獣をも凌駕した存在であることが理解できる。何せ感じ取れる魔力の密度がケタ違いだ。召喚のエキスパートを名乗るだけあって舌を巻くその完成度と言わざるを得ない。あれだけの魔力を持った幻獣は上位十二階でもさらに少数―――自分で召喚式にアレンジでも加えたりしていれば尚更―――だろう。決して侮っていい相手ではない。
 よって、最初から最大加速、全力で斬撃の錆と化すべく特攻じみた勢いで飛び込んでいく。
 そもそも魔術戦は長期戦を前提におかないものだ。系統にもよるが大抵一撃一撃の威力が必殺であるが故、どちらかの攻撃が直撃すれば即終了。よしんば直撃を避けても命中すればどちらかが戦闘不能に近い状態になる。
 だからこそ勝負は一瞬で決着する。俺が『親衛隊』三体を蹴散らし、身体能力ではソレらに遥か劣る慎也本体を捉えるのが先か、はたまた『親衛隊』か慎也の放つ魔術かが俺を潰すのが先か。まさに機先を制した者が勝ち残るシステムだ。
 さて思考しているうちに一瞬で間合いを詰めた俺は立ちはだかる三体を目の前にし、出方を伺う―――などという真似はせず、突進の勢いそのまま抜刀し、慎也の正面、一番手前で待ち構えていた幻獣に斬りかかった。
 ちまちまとした策を練っていられるほどの余裕はないし、まして付け焼刃の戦術が役立つとも思えない。牽制がてら、上手くいけばこのまま一体屠ってしまおうという算段とも呼べない算段だ。
「舐められたものだね。『こいつ』らをそこらの幻獣と一緒くたにしないほうがいい」
 慎也がその繊手を持ち上げるのが視界の端に映る。
 直後、背後からこちらに飛び込んでくる複数の気配を感知し、半ば直感に頼って真横に跳躍。半端に抜刀した状態でしかし勢いを制御し何とかしてその鋭い気配の突撃を回避する。
「この程度の罠で―――」
「恭司、駄目っ!」
 魔力弾か何かだと当たりをつけて多少の余裕程度に回避行動をとってみせた俺だったが、直後に届いた七瀬の悲鳴がその考えがあまりにも浅慮過ぎていたことを悟らせる。
 俺を襲った気配の正体は、慎也が放った魔力弾などではなかった。
「石礫だと……小細工を」
 果たして思惑は大いに外れ、それは余りにも原始的なトラップだった。操り糸でスイッチを入れれば設置されていた石が飛び出すというだけの玩具。いつの間に仕掛けたのかは知らないが、恐らく七瀬と会話をしている最中に視覚からくらますだけの簡単な魔術迷彩をかけておいたのだろう。こんなものであればいちいち攻撃の手を止める必要もなかった。全弾受けたところで体勢が揺らぐことさえない―――『まんまと一杯食わされた』というわけだ。
 それが致命であると気づくのには一瞬という時間さえ必要なかった。
 急速に動く視界の中で膨れ上がっていく濃密な魔力の波動を感じ取る。
 まずい、と思うのと同時。
 切り札として隠され続けていた本命が姿を現す。
 最初からほとんど全てに近い魔力を込めてずっと編み続けていたのだろう、ヒトの身にしても莫大な魔力を乗せた慎也の魔術が今このタイミングで俺へと牙を剥く。
 それは何の工夫もない、ただの一本の魔力矢。しかしその速度は神速と呼んで生温い、視覚などでは到底捉えきれない究極の一手。
 石ころを刃と勘違いし、無闇に滞空している俺にはそれを回避する術はない。
「ちっ!」
 さすがにあれだけ魔力を込めれば発動まで若干のラグがあるのか、それは一秒にも満たない差ではあったが、回避を瞬時に諦め防護の魔術を紡ぐには万全でなくとも十分。半ば無意識のレベルで公式計算の手順をクリアし、事象連結をイメージし、現象をここに再現。それは繰り返され、証明された解として俺の身を包む魔力の籠となる。
 直後。
 直接に脳髄を揺らすほどの衝撃が俺を襲う。
「ぐぅぅう!」
「恭司!」
 七瀬の声が聞こえている、ということが俺の精神をここに留めていたのは間違いない。
 時間の感覚がおかしい。一秒が何千倍にも引き伸ばされているような錯覚を覚える。
 痛覚はとうに遮断した。あるいは最初からそんなものは吹き飛ばされてしまっていたのかもしれないが、感じないのであれば意識する必要はない。
 肝心なことはただ一つ。
 魔力の矢に身体ごと弾き飛ばされ、防護を紙か何かのように容易く貫いた致命の殺傷はしかし俺を殺し切るには役不足だったらしい。
 地面に転がされた自分の身体の隅々まで神経を行き届かせて現状を推し量る。
 五体満足とはいかないが、俺はどうやら生きているようだった。
「今ので死なないか。さすがに魔術師だな」
 意外にも慎也は無様と罵るでもなく平静のまま、先程と変わらぬ場所に立っている。すぐに追撃して来ないのは慈悲のつもりか。
 ―――否。
 我ながら魔術師が慈悲とは笑わせる。そんな物好きがいるのなら魔術師は社会に役立つボランティア集団と呼ばれていただろう。
 ということはつまり、だ。
 冷静に事態を見直しつつ思考する。
 これが全て手順通りであり、次なる一手は既に決定され、これはその渦中にある―――
 俺が奴なら。
 俺が幻術と召喚を主とする魔術師であったなら。
 完全な勝利を収める為に、どんな手を打つ?
 俺は反動を殺しきるのに手一杯で、被弾後の体勢を万全に整えるだけの余裕がなかった。何とか床を転がって距離を取りつつ身体を起こそうとはしているが、そんなものは気休めにもならない。有り体に言って隙だらけ。今の俺なら魔術師でなくとも多少武術をかじった者ならば即座に間合いを詰め、いくらでも攻撃を当てることができる。
 まして。
 相手はヒトの身など遥かに凌駕し、予想も及びつかぬ力を持つ幻獣だ。武術こそ扱わないが、身体能力に任せた突撃だけで十分、俺の命を狩ることができる。
 そしてこんないちいち言うにも愚かしい空白を、幻獣の駆り手である魔術師、慎也が見逃すはずもない―――
「蛮勇届かず、か。面白味の無い幕切れだったな」
 俺の予想は的中した。
 命令は既に行き届いていたのか、『親衛隊』はとっくに彼我の距離を零にまで詰めており。
 三体共が俺に密着するように取り囲んで、
「『幻惑に踊れ』」
 慎也の低い声が部屋中に響き渡った瞬間。
 『親衛隊』は自爆した。
 自爆と言っても名の通りの爆発を伴ったり、直接の致命傷を与えたりするようなものではない。
 幻獣自身が持つ魔力を全てここに置いて、代価として返還されるということだ―――
 そして慎也は過分に過ぎるその残留魔力の全てを使って、
 魔術師である俺に幻術を仕掛けたのだ。
 本来魔術師には通じないはずの意識介入。しかしそれは防御側の防壁を絶大な魔力によって崩せるのであれば矛と盾の優位は覆る。『親衛隊』がハナから魔力に特化した幻獣であったのはこの時の為の布石だったのだ。
 俺は慎也の魔術に対しありったけの魔力を流し込んで魔術防壁を構築するがそんなものは大洪水の前に砂の城を築くようなもの。
 堤防はあっけなく瓦解し、慎也によって意図的に構築された視覚聴覚の情報が俺の感覚器官のソレを上書きしていく。
 圧倒的な情報の奔流がヒトというちっぽけな脳内で鬩ぎ合う。
 俺が魔術師でなければそれだけで発狂し、自ら脳を掻き毟りたくなってしまうほどの混濁。
 馬鹿馬鹿しいくらいに頭とそして目と耳が痛みを叫んでいる。秒毎に神経を切り刻んでいくような『痛い』という情報の氾濫は、痛覚の遮断とか最早そういったレベルではなかった。
「○≒Σ△*$&!」
 聴覚が狂っているせいか、音が飛んできていると認識出来てもそれがどの方向からなのか、そして誰のものなのかが判別出来ない。キンキンとした金切り音にしか聞こえないが、恐らくは七瀬が不安に駆られてのものだろう。まあ推測の域を出ない以上考えても仕方ない。俺の戦意を高めるためにそれが七瀬のものだったとして、叱咤激励の類であると解釈することにしよう。
 さて、と……
 こうして術中に嵌ってみれば成程、幻術とはよく言ったものだと感心している俺がいる。
 ギシギシという効果音すらついていそうなほど重く鈍くなってしまった身体に無理矢理言うことを聞かせて起き上がってみれば、そこは理解の範疇を超えた世界になっていた。
 領域である部屋に変化はない。相変わらず悪趣味な調度や戦闘の影響で倒壊した本棚などが散乱しているものの、基本的には来た時と同一の姿だ。
 が、問題は別にある。
 何せ今の俺には慎也が7、8人の徒党を組んでいるように見えるし、そのどれもが別の顔を付けていた。タチの悪いことに俺はそのどれもを『慎也』であると認識しているし、振り返って見れば七瀬は七瀬で会ったこともないような別人の顔になっている。
 視覚は頼りにならない、と。
 次いで意識が捉えるのは聴覚による情報だ。まあこんな状態ではコレがまともに機能しているなんて考えるのは子供の夢か何かみたいなものだろうが。
 試しに集中して聴覚を研ぎ澄ましてみると、常に怨嗟なのか悲鳴なのか区別のつかない奇声が響いているのが分かった。時折獣の咆哮じみた圧力ある音なんかも混じって飛び込んでくる。助けて助けてと縋るような子供の声やら殺す殺すと騒々しくてかなわない低い声やら、一体どんな場所に行けばこんな音の地獄に塗れられるのだろうか。
 ふう、と人知れず嘆息する。これで視覚と聴覚が完全に役に立たないことが図らずも証明されてしまったというわけだ。
 魔力はまだ残っている。魔術を編むだけの『思考』も出来ているようだ。『栄光の月』―――いや、今は『血染めの月』―――という銘の魔剣も手元にある。身体のあちこちにガタがきているが、その気になれば今回の戦闘そのものには大きな支障を与えるほどではない。第一格闘戦を主体にする俺のような魔術師の方が稀なのだから、万全でなかろうと身体能力で慎也に劣るということは在りはしまい。
 が、この有様である。目も耳も使えない状態でどうして攻撃を当てられるだろうか。
 一応曲がりにも人型をした物体がいくつも視界に映ってはいるものの、そもそもこれらが正しい位置に立っているという保証もなければ、慎也の背格好をしているからといってそれが慎也であるとも限らない。闇雲に抜刀してまかり間違って七瀬を斬り捨てるような真似になってしまえば目も当てられない。
 こちらの攻撃が万に一つも的確に命中する可能性などあるまい。ただ立ち尽くしていても、仮に移動し続けても、いつかは慎也の魔術の餌食になるだろう。
 絶体絶命。
 万事休す。
 誰がどうあってもこの状況にそう結論を付けただろう。
 その誰かが―――俺でなければ。
「さて、まんまと俺を策に嵌めてさぞ愉悦に顔を歪ませているところだろうが、」
 俺は視覚では誰もいないと訴えかけている場所に身体の向きを変えて、軽く首を傾けて見下した風を装い、自分でもやり過ぎだと思う程に不遜で不敵な口調で言い放った。
 そこにいると『識っている』慎也の立ち位置に向かって。

「言わせてもらおうか―――全ては予測通りだった、と」

 驚愕に息を呑む気配だけが伝わる。視覚聴覚と封じられても触覚は残っているのだ。空気の流れと張り詰める場の緊張感くらいは感じ取れる。
「□#@☆!?」
 俺なりに解釈すれば、『何だと!?』とでも叫んでいるというところか。音の方向はデタラメだが、それでも目の前にいると分かる慎也の気配が明らかに動揺している。
 奴からすれば、それはそれは異常な事態に違いない。
 まともに幻術を食らった相手が、自分の位置をしっかり把握し、あまつさえ余裕たっぷりの態度を取っているなどとなれば。
 だが別に虚勢を繕っているわけでも最後の悪あがきをしているわけでもない。
 それは所詮確定された未来をなぞっているだけに過ぎず、
 未来を予測した俺がこうしているのは必然でしかない。
 絶対知覚、とでも言えば通りはいいのか。或いは魔術師ならばこう呼ぶのが正しいのかもしれない。
 初期数値情報化知覚魔術―――『邪眼』。
 鳴上恭司という魂に息づく記憶の名であり、知識の名。そして魔術の名でもある。
「おかしいとは思わなかったのか? 俺が何故あんな礫ごときのトラップに引っかかったのか。直後にお前の魔術が来ると分かっていて体勢の変化が利かない空中に身を投げたのか。幻獣の自爆はまだしも、その後の幻術を『解呪』ではなく『防御』しようとしたのか」
 俺の頭の中で踊り狂っていた情報が、俺の意識一つで意味を成し、秩序と整然を備えた完全な形を緻密に構築し始める。
 ソレは以前に―――慎也がトラップを仕掛ける以前に施し、作り上げておいた未来の形と擦り合わせるように溶けていき、誤差を修正しながらより確実な未来の形を映像化して俺の意識に根付いていく。
 その未来ヴィジョンによれば、慎也の反応はこうだ。
「何故だ……確かに君は私の幻術に囚われている。頭では分かっていても『そうではない』と思い込まされるように意識を改竄されている! それを……どうして私を視ていられる!?」
「お前が何を思おうと勝手だが……忘れたのか? 俺は邪眼師―――未来の姿を識る魔術師だ。予め予測してある罠など罠とは呼べない。それは単なる事務的に撤去すべき障害だ。いつどこでどんな風に自分が攻撃されるかを識ってるのであれば、お前の攻撃を甘んじて受けてやる理由など数える程しかないだろう?」
「貴様わざと……! 私の動揺に付け込む為にわざと全てのトラップを身に受けてみせたというのか!?」
「理解が早くて何よりだ。言っておくが無論それだけじゃない。いやむしろこっちが主とした理由だが……お前にさらに幻獣を喚ばれるだけの魔力を残すと面倒だったんでな。石礫を避けた後、俺に幻獣の特攻を防がせないためにはできる限り強力な魔術を用いると踏んで、わざと隙を見せたわけだ」
 自明過ぎる結果として、未来を予測出来る俺が『まんまと一杯食わされる』ことなど在り得ない。
「まあ、お前の全力で放たれる魔力に俺の身体が耐えられるかどうかだけは……正直賭けだったがな。思いの外ダメージも少ないようで一安心だ」
 最後に軽く挑発を入れるのも忘れない。そもそも動揺が激しい現状で今更こんな言葉でどうこうということもないだろうが、やっておいて損はないというところだ。
 何にせよ、状況は上手く運んでいる。何より慎也の幻獣再召喚を阻止したのは今言った通り、上等以上の成果だ。
 当然と言えば当然だが、邪眼による未来予測は予測する対象の数が増えれば増えるほど脳に絶大な負荷をかける。無意識下で『直感』というレベルに抑えていた戦闘開始時ならいざ知らず、意識的に未来を予測するのは『親衛隊』を含めたかが四つが対象でもなかなかに堪える。
 俺の謀略が功を奏し、結果としてこうして普通に対峙し会話も出来るが、残念なことと言えば屈辱に歪む慎也の顔を見れはしないということか。嗜虐的ではあるがさぞ痛快だったろうに……これだけは予測は不可能であり、想像しか出来ない。
「だがそれでもそんな束縛状態で私を捉えられるわけでは……!」
 と、よくも心を折らず、軽快にバックステップしながら残り少ない魔力で次の魔術を放とうとする慎也に、俺は安全圏とは程遠いその距離をただの二歩であっさりと詰めてみせ、
「だから言っているだろう、俺には未来が視えると。ならば今お前がどのような対応をとろうとしているのか、こちらから攻撃すればどちらに逃げようとするのか、防御するのか、反撃するのか、手に取るように俺には分かる。だったら……目が見えないことや耳が聞こえないことがどんなハンデになる? そんなもの、眼が視えれば十分なのさ」 言葉尻と同時に斬撃を叩き込む。目で見れば空間を相手に素振りしているだけの滑稽な姿だが……そこに慎也がいることは疑う余地も無い。
 銀色の残影は絶対の速度と致命の威力を以って慎也へと肉薄する。そこに容赦も躊躇も思慮も配慮もない。刃は道具。振るわれれば主の命に従うのみ。
「舐めるな! 見えてもいない攻撃になど!」
 が、慎也も一筋縄ではない。素直に賞賛に値するだけの反射神経を見せ、俺に放つはずだった魔力弾を地面に撃って反動を利用し、さらなる加速を得て死の半月から辛くも命を守り抜いた。
 ……ふむ、多少誤差があるか。
 俺の計算では今の一撃で詰みだったのだが……予想以上に慎也が幻獣を召喚していたせいか、或いは単純に被弾や疲労で思考が鈍っているのか。
 とにかく長期戦は避けなければならない。
 長引けばそれだけ予測に誤差が出る。今の時点より時間が遠ざかれば計算は複雑になるし、予定外の要素も増える。邪眼は魔術であり、奇跡ではあるが所詮予測。予知ではないのだから。
「恭司、貴方……見えているの?」
 七瀬が不安そうに声を掛けてくる。しかしそれでも彼女は気丈なまでに俺の言いつけを守ってその場から動くことはしなかった。さすが、俺の認めた女といったところだ。
 思えば先程から七瀬には目を瞑りたくなるような様ばかり見せているようだ。彼女が心配になるのも分かる。心優しい彼女が、俺が傷ついていくのを見て笑っていられるはずなどない。だから俺はなるべく早く決着をつけたかったのだが……
「大丈夫だ。見えも聞こえもしないがちゃんと『視えて』いる。君は……俺の言葉を覚えていてくれればそれでいい」
 返事はなかったが、頷く気配だけを捉えることが出来た。ますます彼女には頭が上がらない。
 そんな七瀬にこれ以上余計な心労を増やさないためにも、次こそ仕留める。
 俺はそう決めると、再び計算を始めた。
 邪眼によって得た情報を脳内の思考回路をフルに使って分解し、咀嚼し、並べ替え、作り変えて、未来を構築していく。そこに介在するのは論理だけであり、追随する何かを許容することはない。堂々と巡る情報の渦を的確に把握し、セカイにとって都合のよい秩序を見つけ、その式の解をここに編む。
 時間などという概念は必要ない。
 あるとすればそれは才覚に裏打ちされた感覚。
 ただ解を、確定された未来を、この眼によって感じるだけのこと。
 数瞬もすれば、こうして今ではない世界の映像が脳裏に重なってくる。
 俺はそれを愛しげになぞるようにして、階段のように一歩一歩、しかしどこかせわしなく未来への道を進んだ。
 慎也の身体は向かって右手にずれていく。倒れた体勢からの立て直しは見事と言う他なく、魔術戦を主体にする魔術師とはいえ、やはり知識だけに依存しないのは変わらない。天秤の触れ方が多少異なるくらいで、絶対値としての触れ幅の和は俺と殊更に差を持つものではないということだ。
 だが今は。
 奴の魔力がほとんど干乾びている今は。
 肉体に依存する魔術師である俺に、圧倒的な利がある―――
 敗ける要素など微塵も感じない。
 俺が描く未来をそのまま実現すべく、動き出す前の慎也に先行する形で俺は右手側前方へと踏み込み、鞘に添えた左手と地を踏んだ右足に軸となる負荷をかけていく。
 伝わっていく筋肉の緊張をそのまま勢いに変え、抜刀。
 余計な力はいらない。必要なのはその身を確実に薙ぎ取るだけの速度を与えること。慎也の動作速度は未来が教えてくれる。飛んでくるボールをキャッチするのと何ら変わり無い。剣を振り抜いてタイミングを合わせるというだけの、斬撃とさえ呼ぶにおこがましい遊び。
 果たして束縛から放たれ、風とともに悲鳴をかき鳴らす『血染めの月』は俺のイメージ通りに、その名に恥じぬ月弧を空に描いた。
 未来と現実が重なっていく。
 虚構が真実を塗り替えるように、まだ無かったはずの世界が生まれ出るように、銀閃は魔術師へと吸い込まれ、至極あっさり、あまりにも簡単に慎也を真二つにした。
 そして―――
 俺は意識さえしていなかった己の吐息を呑んだ。
 それは慎也も同じことだったろう。回避の動作をとった瞬間にはその避けたはずの地点へと俺の攻撃が襲い掛かっていた……のにも関わらず。
 確実に捉えたと思っていたはずの剣閃。その刃から伝わってくるはずの確かな衝撃が―――手応えが、まるで無かった。
 結果だけを言うならあまりにも容易すぎるその現実は。
「―――外した!?」
 一瞬思考が乱れる。それは確かな動揺となって俺の魔術集中を霧散させ、結果として存在していたはずの『この先』が無数にブレて実像を編まなくなる。
 馬鹿な。俺の予測は完璧だったはずだ。ただ一つ生まれた解は確実な未来を呼び出し、俺の前に現れていた。再計算など必要ない。その結果に間違いはない。
 ならば。
 『過程が間違っていた』とでも言うのか。
「ちっ!」
 身体は無意識状態でも忠実に納刀の手順を踏んでいる。何千、何万と繰り返したその行動はもはや一つの決められた型となり、抜刀すれば納刀するという一連での技。まして俺の攻撃が終わっただけであり、精神的な動揺が残っていたところで俺の身が傷ついたわけではない。だから今からでも再度同じ精度の斬撃を放つことは可能だ。
 だが……どこに放てばいい?
 識っていたはずの未来が『すり替わった』以上、今慎也がどこにいるのかも予測はおろか予想も出来ない。
 不純物の存在―――幻獣か、慎也の魔術か、俺が食らった魔術によるダメージか。いずれにせよ誤差として予測に狂いを与えた原因の存在について、先程で止めをさせなかった時に気づくべきだった。それはすでに俺の識る未来が『確定していない』という現実を思い知るには絶好の証明だったというのに。
「ふっ、ふはははっ! どうしたんだ!? 視える視えるとあれだけの見得を切っておきながら!」
 見当違いな方向から飛んでくる慎也の声。それさえも冷静に捌くことが出来ない。見る方向ではないからの音。認識がずれる。迷う。狂う。
「今の私でも君の身体一つ壊す程度の魔力は残っているよ!」
 くそっ! どこだ、どこにいる!
 思考しろ。思考しろ。思考しろ。
 惑うな。沈着を保て。情報を整理しろ。
 確定しなくてもいい。曖昧でもいい。ただ断片的でも、刹那的でもいい。
 奴の未来を暴くんだ―――!
 集中は虚しいほどに足りていない。
 全身の感覚がかつて感じたことのないほどに鈍重になり、身体にさえ枷をつけたような―――いや実際、その状態と変わらない。
「恭司!」
 だが―――突如脳髄に飛び込んできた七瀬の声が、生物としての本能に警鐘を鳴らさせた。
 『今この場にいてはならない』。
 是も非もなくその訴えに飛びつく。今の俺には頼るべきものはそれ以外にない。
 振り絞って唯一それだけの思考が身体に命令を下し、文字通りの『直感』で身体を捻る。
 それが俺の死を先送りにする判断であったことは、次の瞬間が教えてくれた。
 何かがこめかみの横を通り過ぎていく感覚。触覚に直に響くほどぎりぎりに迫った魔術という直接的な死の姿。
「ちっ、運のいい」
 慎也が忌々しげに吐き捨てる。
 どうやら、まさに運のいいことにやり過ごすことが出来たらしい。これは大きな好材料だ。
 魔力が絶対的に足りていない慎也。今の奴では魔力矢一本編むのに、ましてそれに魔術師の身体を貫くだけの威力を持たせるためには、七瀬のことを完全に無視してでも一瞬というには長過ぎる『溜め』が必要だろう。それだけの時間があれば、俺だって体勢を立て直せる。邪眼だってもう一度―――
 と、俺は雷にでも打たれたような気になった。
 ……何か、重要な何かを忘れている。
 それはきっと人物像のジグソーパズルの顔の部分が抜け落ちているくらいに滑稽で、一目でミスと分かるミス。しかし完成された状態を識らなければどうとでも補完のしようのある、唯一という意味の確定ではなくむしろ多岐という意味での曖昧さ―――
 そこまで考えて俺は気づいた。
 こうなればいっそ笑いさえ込み上げてくるような馬鹿馬鹿しさだ。
 簡単すぎる解。しかしそれ故に見落としてしまいがちな計算ミス。
 過程が間違っていた? なるほど確かにそれはそうだ。が、それも正確ではない。
 本当の解というものはえてしてシンプルなもの。そうなるように作られた式なのだから、当然だ。
 間違っていたのは……『仮定』だったのだ。
 考えればすぐに思いつく疑問だ。
 ―――何故、
 『何故俺はまだ、慎也達の言っている言葉を理解出来ているのか?』
 邪眼が機能せず、俺の計算した未来予測が間違っているのならば、観測と思考の誤差によってその映像が霧散した時点で彼らの言葉を紡ぐ機能は断絶しているはずだ。にも関わらず俺はいまだに彼らの言動をこの身で、この眼で感じ取ることが出来る。聴覚も、視覚も狂いっぱなしだというのに、どうして、その感覚だけが残されているのか。
 そう、間違っていたのは過程であり、仮定。
 順序を違えてはいけない。それは魔術と魔法のように、異なる系統として生まれる神秘と同じ。
 本当は、邪眼も機能していたし、未来予測も間違っていないのだとしたら―――?
 つまりこれが、元々未来として約束されていた姿だとしたら。
 予定調和として決定されていたのだとしたら。
 俺は次に、どんな行動を取るべきなのか。
 迷いなど、惑いなど、狂いなど、そこには一欠片も介入する余地はない―――!
「今だ―――七瀬!!」
 俺は今の今まで封じていた、とっておきの切り札を切ることを選んだ。
 機運。
 そう、これが―――巡ってきた機運だ。
 七瀬は俺の叫びを聞き、一瞬たりとも迷うことなく―――それは何があろうとこの刹那まで献身的に、愚直なまでに待ち続けていたという他なく―――そして寸分も違えることなく。
「『飛び』なさい!」
 彼女が選び、彼女が念じ、彼女が紡いだ、彼女の『魔術』を慎也に向けて解き放った。
 それは俺達の思惑通り、そして慎也の思惑を大いに裏切って、矢となり矛となり刃となり剣となって慎也へと直撃した。
「何―――だと!?」
 慎也のあからさまに動転した声が耳に心地良い。
 奴が今どんな表情をしているかなど『予測』するのは足し算よりも簡単だ。それがどこまでも俺にとって愉快だということも。
 『今』の七瀬が扱える魔術など本来のそれとは程遠い児戯のようなものだろう。単なる魔力の礫をぶつけるのと何ら変わらないそれは肉体的なダメージとしては下の下。慎也を直接にどうこうできるという代物ではない―――だがそれでも。
 存在し得ない敵による奇襲。
 それが先程俺が七瀬の耳元で囁いた、作戦と呼ぶにはあまりに稚拙な『約束』。
 共に戦うと申し出た七瀬の想いを踏み躙らないように。俺の傍らに立つことを厭わない彼女のために。
 俺が一人では慎也を打倒しえないと―――七瀬の『力』が必要だと感じたら、その名を呼び、助けを請うと。
 そうしたら一も二もなく、今残るありったけの魔力を込めて『思い出したモノ』を慎也に向けて放て、と。
 本来なら使う予定の無かった封じ手。あのまま並び立てば自棄にさえ思えるほどの特攻をしてしまいかねない彼女を抑えつけるための鎖だったつもりなのだが……まさか七瀬でさえも本当にこんな状況に陥るとは思ってはいなかっただろう―――否、もしかすると最後の最後まで信じきっていたのかもしれない。だからこそのこの反応の速さであり、確実さだったと言える。
 それだけではない。彼女にはあの『狂気』という呪いが戒めとして残っている。魔力を吸い、彼女に殺人衝動を植付ける、あの『狂気』に対し、自分に魔力を蓄えるということは即ち『狂気』による食事の衝動を抑え続けなければならないということだ。魔術を編むための魔力を身体に残そうと思うのなら、それによって生じる『狂気』を自制し続けるデメリットを考慮しなければならない。そんな危険な橋渡りなど、七瀬にさせたくはなかったのだ。
 しかし―――それは決定的な境界を記すように、奴へと届いた。
「くそっ、どういうことだ?!」
 慎也は変わらず平静を欠いている。何が納得出来ないのか、何が理解出来ないのか。それさえ理解出来ないとでも言いたげな、異常なまでの狼狽。
 そしてそれは、致命となるには圧倒的過ぎる、隙。
「七瀬……お前が、今のお前が魔術を扱えるはずなどっ―――! お前はっ!」
「残念だったわね。私も魔術を識っている。識るという事は力を持つという事。私には必要のないものだけれど……今こんな時の為に在るというのであれば、そう。―――悪くはないわ」
 七瀬と慎也の会話を遠くに聞く。黙って見届けてやりたいのは山々だが、それではこの必然に意味がない。
 七瀬が魔術を放った、という必然に。
 詰め手は決して緩めてはならない。
 俺はそのことをよく識っている。
 だから、
「慎也」
「なっ!?」
 まるで『予測した通りとでもいうように』背後に移動した俺に慎也が気づくのは数瞬も後のこと。
 それだけの時間があれば事は足りる。
 七瀬が魔術を放ったのであれば、
 誰よりも俺がよく識る彼女の魔力を、今も慎也に張り付くソレを辿って、位置を特定することが出来るのは道理を超えた確定。
 誤差を修正。思考を安定化させ、改善された情報を元に再計算。今度こそ完全な、寸分も狂いの無い未来図を思い描く。
 ―――そして。
「詰みだ。二度と舞い戻るなよ、亡霊」
 俺は告げると、そこに慎也が立ち尽くして居ることを疑いもせず、無造作に、滑らかに、そして鮮やかに。
 因果断絶の刃を振るった。
 死神の鎌は狙い通り、観測通り、予想通り、予測通り、未来通りに、慎也の首元、毒のように変色した古傷の跡に重なるようにして飲み込まれていき、その因果と生命を二重に、根こそぎ狩っていった。
 決着だった。
「な……ぜ……?」
「さっきから疑問ばかりだな。識者である魔術師がそれでは七瀬も愛想を尽かしてしまうぞ。尤も―――既に手遅れだったか」
 慎也を斬り捨てたことで、体内から慎也の魔術が薄れていき、俺の視力と聴力が回復してくる。
 この両の目でしかと見れば、思った通りの場所に思った通りの姿で死を迎えようとする慎也がいた。
「私は……こんな、こんなセ、カイは……!」
 どうやらその慎也には俺の言葉など聞こえてはいないし、そもそも奴は俺の姿など見てはいなかった。
「認め、ナイみとめないミトメナイ……認めナイィィィィィィィ!!」
 ただその視線の先にあるのは、奴が唯一求めて求めて手に入らなかった―――歪んだ愛の矛先。
「な、な……せぇぇ……!」
「消えなさい。見果てぬ夢と共に。叶わぬ祈りと共に。その―――醜悪な濁りと共に」
 限りない憎悪と、果てのない卑下と、比類のない憐憫と、ほんの僅かな……悲哀を含んで。
 七瀬はその過去の鎖を、断ち切った。
 『魂殺し』の名に恥じることなく、その刃で切断された慎也の首は傷一つ生むことなく魂の現世への存在を許さず。
 まるでその傀儡であった幻獣達を追うような儚さで、月城慎也という魔術師は、輪廻を外れ、その身を眩い光の粒子に変えて散っていった。
 虚しいくらいの空白だけが後に残る。
 かつてこの部屋の主だった魔術師は、もはや居ないのだ。
「終わったか」
「ええ……」
 俺の呟きに、七瀬はどこか心苦しそうに答えた。
 例え相手が慎也という魔術師だったとしても……心優しい彼女はそれを死に至らしめたということに罪悪を感じているのだろう。ましてその相手は押し付けがましいとは言え自分に好意を向けていたのだ。今更俺が道徳を語るのもおこがましいが、それでも感情あるモノの命を奪うことなど、彼女には耐えられない負担でしかない。
 それでも七瀬は選んだ。
 自分に鎖を施し、そしてこれから生じる害悪を摘み取るという大義名分を抱え、否、それを唯一の依りどころとして―――唯一の赦しとして。
 俺の傍らに立つことを。
 感慨がない、と言えば嘘になる。
 だがそれも俺が思うには筋違いな……本来口にすべきでない吐露。
 だから今は。

 邪眼師としての『俺』ではなく―――
 鳴上恭司としての『僕』に戻ることを選ぼう。

 そうして抜き身のままだった『血染めの月』を鞘に納め、一言、ありがとう、と語りかける。
 鞘を持つ手には熱が篭もっている。或いはそれは『彼』なりの返事なのかもしれなかった。
「それにしても」
 唐突な幕切れ……と言うほどには軽くなく、しかし死闘と言うには体感的に些か余裕の残る。
 どこかで味わったような気もする、後味の悪い、終わり。
 ざらついた感覚だけが舌に残る。濁り水の中を進むような、夢の中で走ろうとしても身体が重くて思うようにいかないような、そんなこびりつく嫌な予感。
 これは予測でも予知でもない。
 全くの……人間としての直感。
 まだ何か、僕達の身に起こるというのだろうか。
「ねえ、なな―――」
 そんな嘘みたいな悪寒を振り払うため、そして誰にとっても平穏な日常を取り戻すため。
 ここから脱出する算段について告げようと彼女の名前を呼ぼうとした瞬間。 
 僕の直感がどこまでも正しかったことを知る。
 完全に意識の外だった。
 終わったのだという慢心がなかったとは言わない。
 でも心のどこかではそれを分かっていて。
 分かっていて、彼女が近づいてくるのに気づかないフリをした。
 それは悲鳴のようであり、
 それは怨嗟のようであり、
 それは―――
 救いを求める、純粋無垢な、衝動。
「……!」
 がはっ! と肺に溜めていた酸素の全てを持っていかれる。
 一瞬にして視界が暗転しそうになる。
 だがそれでも何とか堪えた。
 ここで目を閉じたら、きっと彼女は独りのままいってしまう。
「わ、わ、私、私、は……!」
 どうにかやっと開き続けている目の先には、七瀬が、僕の半身が、僕という杖の持ち主がいて。
 ―――しかしそれはどこか物悲しく。
 震える口で紡がれるその声にはまるで生気がなくて。
 口元を歪め、衝動に従い嗤う顔はどこか泣きそうで。
 精一杯の抵抗を宿す瞳はどこまでも美しくて。
 ああ、僕は本当にこの娘を大好きなんだと、そんな場違いなことを考えて。
 されるがまま、僕は。
 『七瀬に首を絞められたまま』、僕は。
 ―――そっとそんな運命を、受け入れた。


 どうしてかなんて分からなかった。
 どうしていいのかなんて分からなかった。
 慎也という魔術師は私の鎖の鍵ごと死に、罪の爪痕を残して去っていたはずで。
 私は、不謹慎でありつつもどこかそれにほっとしていて。
 罪悪と幸福を半々に噛み締めながら、私の半身とそれを分かち合おうと思っていた。
 ―――なのに。
 どうして私は。
 どうして、こんな、
 恭司の首を絞めたくて、殺したくて仕方ないのだろう―――?
 膨れ上がっていく負の感情。それは憎悪とか、嫌悪とか、そういう暗い類のものではなくて、むしろ爽快なくらいに明るい、前向きな朗らかさ。だと言うのにそれらの方向はマイナスをひたすら向いていて、まるで殺す事が善であるかのような押し付けがましい強迫観念を私に強要する。
 僅かに力を込めれば。
 脈打つ動脈の胎動が感じ取れる、ソレが確かに生きていると如実に伝えるその首に支えたこの手で。
 絞めて絞めて絞めて絞めて殺して殺して殺して殺せば。
 そこには想像を絶するような快楽が在るはずで―――
 でもソレは、事を終え果てたように佇むソレに残されるのは。
 鎖から放たれた狂気に支配された、下らないケモノの姿。
 そしてそれを遠くから見やる、私という理性の成れの果て。
「恭、司……?」
 分かっている。
 本当は分かっている。誰よりも自覚している。
 何故なら……私が私そのものを司っているから。
 だから私自身の中に狂気を孕んでいる事など……最初から分かっていた。
 でも、何故? と。
 未練がましく、言い訳がましく思う私が確かに存在する。
 かつて一度、彼に近づいた事で揺り動かされた狂気。感じるはずの無かった、感じてはいけなかった麻美への殺意を生んだ、邂逅。だがそれは私の狂気の異常な免疫機能によって上塗りされ、そして詩音さんによる魔術防壁によって、恭司と私という間柄には無縁のものになったはずなのに。
 どうして今更……こんな時になって。
 恭司がいなくてはいられないと想う程になって。
 彼に対して、牙を剥こうというのか。
 こんな事になるのなら、結果として避けられない運命だったのだとしたら。
 どうしてもっと早く、彼と絶対的な距離を取ろうと思える程の前兆が無かったのだろうか。
 あの時に。
 最初に出逢ったあの時に。
 恭司に対して殺意を抱いていれば、私は自傷でその衝動を抑え、代価として恭司を失えた。それでも私は心に傷一つ負う事なく全てを終える事が出来た。
 なのに。
 こんな番狂わせと言ったらない。
 そんな空白なんて耐えられるわけがない。
 依存するだけ依存するようになってから切り捨てるなんて、あまりに、
 あまりに、酷すぎるじゃないか―――!
「あ、く、う……!」
 あれだけ偉そうな事を言っておいて、抑え付けてみせると、選択が正しかったと証明してみせると言っておいて、この様だ。
 今恭司は苦しんでいる。他ならぬこの私に、首を絞められ、呼吸もままならない状態にさせられて。
 それでも―――
 分からない。
 どうしても分からない。
 どうして、恭司は。

 ―――こんなにも晴れやかな顔をしているんだろう―――?

「な、なせ?」
「どうして、どうして?」
 子供のように繰り返す。どうして? と。意味が分からないと。理解が及ばないと。
 どんな顔をしているのか分からない。
 どんな顔をしていいのか分からない。
 今度の狂気はいつもの狂気じゃないと、そんな事は簡単に分かるのに。
 自傷で抑え付けて、なあなあで後回しに出来るようなものじゃないと、そんな事は簡単に分かるのに。
 どうしてこの気持ちは、
 ずっとこうして二人でイタイという気持ちは、分からないのだろう?
 居たいのか、痛いのか。
 もう、考える事さえ億劫で。
 何故かそんな今が、不思議と落ち着くという不思議。
 恭司だって笑っている。
 私もきっと……笑えている。
「どう、して、きみ、……は」
 だったらそれで。
 それが終わりで、いいと。
 そんな事を考えていた。
 甘え。
 逃避。
 何とでも。
 何とでも、呼べばいい。
 それでも私は、セカイというものがたったこれだけの、たった二人のちっぽけな空間だったらと、心から願っている。
 他に何もいらない。他の何かなんて必要ない。
 傍らに半身があれば、それで。
 例えそれが、鳴上恭司という男の死骸であったとしても―――
「―――!」
 思わず目を見開く。驚愕する。
 私は何を、想って?
 恭司の死を受け入れる?
 そんな、
「そんな、馬鹿げた事……」
「そん、な……ふうに」
 ふと気がつく。
 私は私の思考に、狂気の束縛との鬩ぎ合いに夢中で、本当に感じるべき言葉を聞き流していた。
 誰よりも、何よりも大切なはずの、恭司の言葉を。
 だから私は耳を傾ける。
 必死になって全てを聞き取ろうとする。
 それが未練ならば。
 私は―――全うしなければならないから。
 端から見れば私は恭司の首を絞め、今にも殺そうとしていて、恭司はそれを何でも無い事のように笑って見ているなどという、まさに狂気が取り巻く絵図。
 そんな中にあって私は、

「泣いて……いる、んだい?」

「えっ……?」
 泣いて……いる?
 気づきもしない、気づくわけもない、そんな事実。
 ソレは妙に温かくて、それでいて切ない滴となって頬を伝っていく。
「あ、ああ……!」
 だから私は駄目なのだ。
 ああだこうだと駄々をこねるだけで、その実、何も理解していないし、しようともしない。
 麻美を失った時だって、自棄になって恭司にもたれかかっただけ。結果として相互扶助という鞘に納めてくれたのは、詩音さんの好意による婉曲的な回避措置に過ぎない。
 今だって私は、全く分かっていなかった。
 どれだけ狂気が私の殺人衝動を焚きつけ、どれだけ何かを壊したいと思ったところで。
 私には―――恭司を殺す事など、出来はしないと。
 普通に考えれば分かる。
 そう、『普通』に考えれば分かるのだ。
 どうして―――自分が最も大切に思う人間を、殺められるだろうか。
 身体はそれをとっくに分かっていて、首を絞める手は知らず知らずのうちに力を緩めていた。
 感謝しなければならない。
 謝罪しなければならない。
 贖罪しなければならない。
 だったら。
 私には出来ない。
 恭司が死ぬ姿なんて、見たいわけがない。
 私は恭司を殺さない。
 それが例え―――半身を、杖を失う結果をもたらすのだとしても。
 苦しい。
 心が、苦しい。
 全身のありとあらゆる部位に存在する月城七瀬という意志がそれを拒絶している。
 共に在りたいと悲鳴を上げる。
 それでも私は逃げてはいけない。
 狂気の……最後のカラクリに気づいた今の私は。
「げほっ、げほっ! ……七、瀬」
 死に至るはずの力が緩和されたせいか、恭司が咳き込みながらも私の名前を呼ぶ。
「七瀬、……七瀬っ」
 呼び続ける。
 まるで自分の存在を知らせるようにして。
 鳴上恭司はここに、月城七瀬の傍らに在るのだと、教えるようにして。
 それは温かくて、嬉しくて、心地良くて。
 だから。
 だから私は、ここに居ては、いけない。
 狂気の―――最後のリミッターが、他ならぬ恭司だという、嘘みたいな、嘘であって欲しいシステムに気づいてしまったから。
 ここに至るまで何一つ問題なかった狂気が突然目覚めたなんて、そんな偶然を信じ込むほど素直な私じゃない。この状況……慎也が死に、恭司と共に居るからこそ狂気が私を侵食してきたのだと、証拠などなくとも確信出来る。
 本当に、あの慎也はロクでもない罠を仕掛けておいてくれたものだ。ロクでもなくて、どうしようもなくて、どこまでもどこまでも、
 最悪な。
 決して純粋とは言い難い、それでも好意の類に入る彼の感情は、ここまで私を束縛しようというのか。
 何て孤独な。
 そして思い上がりも甚だしい。
 こんなもので私の想いを縛ろうなんて。
 ……本来なら人の事をどうこう言えたものじゃないけれど。
 この瞬間だけは。
 心から、あの男が憎いと思った。
 だからこそ、私はこんなものに負けては、屈してはならないのだ。
「私も、」
 はっきりと言おう。
 今しか、きっと様々な偶然と必然が絡まって生まれた今しか、舞台が整う事はないから。
「私も存外に馬鹿なのね……こんな、こんなお人好しの馬鹿一人くらい見捨てて、自分よがりになれれば……殺意を抑えようと抗う理性なんて持っていなければ……こんなに苦しんで、こんな想いを持つ事もなかったのに……!」
「……七瀬?」
 もはやほとんど力など入っていない、ただ添えられるだけの私の手に自分の手を重ねて、どこまでも心配そうに、私に声を掛けてくれる。
 そんな……この男だから。
 私は、きっと。
「分かっているとは思うけれど、私は素直な人間ではないわ。貴方とは違って、心の記憶を日記に綴っておかなければならないくらい、何かを溜め込まなくてはいられない。だから、こんな言葉を伝えるのは私らしくないのかもしれない。―――でも、今だけは文字ではなくて言葉で残したいと思う」
 私はやんわりと恭司の手を払って、殺せ殺せと喚く私の中の狂気を無理矢理に抑制し続けながら、ゆっくりと恭司の元を離れた。
 恭司の瞳から目を逸らさないまま。じっと見詰めたまま、後ろ向きに足を動かしていく。
 一歩を引く。
 大丈夫。
 また一歩を引く。
 大丈夫。
 自分に言い聞かせては、狂気の甘い誘い水を見ないようにする。大丈夫。絶対に大丈夫だ。こうして恭司と離れてしまえば、この駄々っ子は嘘みたいに鳴りを潜める。
 私は、私なら……独りでも大丈夫。
「私は独りでは立てない弱い人間。だから貴方という杖を失えば、もしかしたらどこかで倒れてしまうのかもしれない」
 なのに臆病な口から飛び出すのは想いとは裏腹の甘え。違う、言いたいのはこんな言葉じゃない。どうして私はこう……
 駄目なんだ。恭司が心配してしまうようでは、そんな弱い私では、それこそこんな狂気モノを背負っていけない。
 だから伝えなければならない。
「それでも……貴方をこの手にかけるくらいなら、その方がいいわ」

 ―――何よりも、誰よりも。

 恭司はとても複雑そうな顔をして、それでも黙って私の言葉を聞いている。
 それが何故かおかしくて、私は少しだけ笑う事が出来た。
 だから溢れ続ける涙は見なかった事にして、私に出来る限りの凛々しい態度をとって。
 伝えよう。
 告げよう。
 届けよう。
 私の、本当の想いを。
「そんな顔をしないで。私だってこれまで死に物狂いで自分を抑えてきた。例えふらふらでも、無様でも、必死に生きる努力を放棄したりはしない。だけれど、そんな姿を貴方に見せる事はないし……見せたくない」

 ―――貴方の傍に居たいと願っている、と。

「私にだって人並みの感情くらいあるわ。だからもう取り乱したり、騒いだりしない。せめて今貴方の前では―――いい女で居たいもの」

 ―――そしてそれが、今叶う望みではないのだ、と。
  
「今なら、こんな気持ちで居る今なら、あの映画の理由が、分かる気がする。ああして誰かと触れ合っていたいとも―――口づけしたいとさえ思う。でも、そうしたらきっと私はそれに縋ってしまう。未練にしてしまう。狂気がそれを見逃すはずはない。殺意なのか好意なのか分からない、でも絶対に良くない想いが私を縛って、貴方から離れる事ができなくなるわ。だから、」

 ―――でも、きっと、きっといつか。

「待っていて、恭司。私は絶対に、こんなものには負けたりしないから」

 ―――貴方の元に、戻ってくる、と。

 私は、きっと笑顔で言えたはずだ。
 滴り落ちる涙も、堪えようの無い嗚咽も、全部全部幻だ。
 だってこれは、さよならの挨拶じゃない。
 また会おうという、再会の約束なのだから。
 恭司は、私の言葉を最後まで飲み込んで。
 きっと我儘な私に言いたい事もあっただろう。
 もしかしたら、それこそ呆れて物も言えなかったのかもしれない。
 けれど。
 心優しい、私に言わせれば単なるお人良しの。どうしようもない―――大切な人は。

「待っているよ。七瀬。そして―――いつかきっと君を迎えに行く。だから君は、自分が納得するまで、『狂気そいつ』を赦しちゃダメだからね」

 根拠なんて一つもない一方通行の指きりに、その温かな指を交わしてくれた。
 繋がってしまえば、これは契約だ。
 絶対に破ってはいけない、契約。
 そう、私は狂気になんて負けはしない。負ける事は許されない。
 この契約が、在る限り。
 だから最後は笑顔で別れよう。
 泣き顔なんて必要ない。
 私達は、いつかどこかで、またいつかどこかと同じように、そして何も変わらないまま、再会するのだから。

「また逢いましょう、恭司」
「ああ、また逢おう、七瀬」

 そう言うと恭司は慎也の領域だった壁まで歩いていき、無造作に剣で斬りつける。今度は反対側の壁まで歩いて、もう一度。これで二箇所。私から向かって右手側と、左手側に伸びる、日常への扉。
 慎也の魔力が途絶えたせいか、それはいともあっさり、此処とは違う、平穏な世界への入り口を露にする。
 再度私の前に戻ってくる恭司の表情は、読めない。
 これ以上はきっと甘えになってしまうのだろう。
 だから私達は一瞬見詰めあい、何も言わずに頷くと、それぞれが示し合わせたように同じタイミングで、全く逆の出口へと歩き始めた。
 もう振り返らない。
 私は、何にも負けない。
 彼が待って居る限り。
 私が私で在る限り。
 ―――そうだ。
「一つ、言い忘れていたわ」
 振り返らないまま、私は告げた。
 恭司の足音が止まる。こちらを伺うような気遣いの色が、顔を見るまでもなく伝わってくる。
「何だい?」
「私はこれで、嫉妬深い性格なの」
「へぇ……それで?」
 そんな過保護な私の杖に、心配する事はないと、とびっきりの冗談が言いたくて。
 でも……実を言うと、少しだけ本気な。
「私がいない間に浮気をしたら……許さないわ」
 恭司が苦笑する気配を背中に感じる。
 いいのだ。
 湿っぽい泣き別れなんかじゃないのだから。
 いつもの通り。
 私の可愛くないへそ曲がりさを、
 恭司が仕方なしというように宥める。
 そんな関係が、私達だ。
 そんな関係が、またいつか続けられるよう。

『それじゃあ―――また次の因果が重なる時に』

 一時の別れを、告げた。

 今なら心から想える。
 ―――私の最初の選択は、間違っていなかったのだと。












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