第七章 『贖罪』−Alternative egoism−2
宵闇と静寂の中、弱々しい月明かりに照らされながら続く異質の対峙。
張り詰める緊張―――尤も、それを感じているのは詩音だけのようだが―――は空気さえも静止させたかのように封じ込む。無味と威圧が支配する時間は、夏という季節が生むあらゆる印象を忘れてしまったかのよう。
それを埋めるのはヒトならざるモノの息吹。
「あれだけの幻獣を一息で強制返還させるってことは……それにこの術式構成。『到達』して完全な魔法使いに鞍替えかい、外法使い」
「フ……あの程度の児戯などに感心しているようでは先が思いやられるというものだ。それに私は『到達』などと驕るつもりもない」
セラフはその痩躯を僅かに揺らして嗤った。
ち、と詩音は舌打ちする。眼前の男から発せられる絶大な圧迫感に肌寒さを感じながら、頭の中で一手、またさらに一手を思案しては消去する。
戦闘は無理だ、と詩音は判断した。手持ちの駒で最も有用な『男爵』はあっさり返還させられてしまったし、かといってまだ掴みきれていない事情を理解しないうちに全てのカードを切るのは愚者のやり方だ。必ず時機は巡ってくる。手段は必ずしもゼロではないが、逆転の賽はタイミングという手に転がされなければ何の意味もない。
現段階で格上の術師相手に生き延びるためには、会話をするしかない。それも相手の関心を一時でも引くような会話を。
詩音は慎重に言葉を選んで外法使いに問いかける。
「単純魔力だけでも並みの幻獣を遥かに超えてるなんて、あんた、一体何人殺した? それだけ影響を与えていれば、嫌でも誰かの目に付く。物騒だなんだって最近の騒ぎ……死体発見事件なんてのも大方あんたの仕業なんだろう?」
「すでに糧の量など覚えておらぬ。半人前が制御も出来ずに撒き散らした呪詛の後処理も面倒でな。大した『箱』も所持していない者をいちいち『喰う』のは手間でしか無かった。が、直接我が業が与えた呪縛の行く末なら見守ったぞ。魔に魅入られた四つの屍こそ、私の力の証」
「四つ……濃縮した願いの持ち主ってことか」
その通りだ、とセラフは鷹揚に頷く。その様は己のした事に対して誇らしげでさえあったが、詩音には壊れているようにしか見えない。
構わない、と心の中だけで呟く。
外法使いに常人などいるはずもない。ありとあらゆる負の力を喰う為には、本人が喰った糧を全て内包できる程の闇を抱えていなければならない。それほどの闇に潰されず、まして己が力に還元するなど……狂人以外の何者でもなかった。
それでも今はセラフの好奇をくすぐるだけの話題を放れたことに安堵する。人の生き死になど、決して心地良い話題ではない。しかし壊れた人間の興味を誘うにはこんなものしか思いつかなかった。
仕方がないことだ、と自分に言い聞かせる。
上手く事が運んでいるのならそれに頼るしかないのだと。
やがてセラフは詩音の思惑通りに自分の所業に満悦し、雄弁に語り始めた。
「夢想に焦がれ、現実との境界を忘れた者の哀惜。恋慕に溺れ、道化と成り果てた者の憎愛。悲哀に裂かれ、寄る辺を失った者の懺悔。そして―――」
詩音にはその次に紡がれる言葉が分かっていた。
今までこの凄惨極まりないセカイに関わっていた者で、最も濃密な願いのカタチを持っていた者は唯一人。
―――誰かにとってはかけがえのない、しかし運命に翻弄され辛苦の限りを抱えた名。
「精神を壊し、最後まで己の願いに踊った半端な魔術師―――フフ、あの小娘、北条麻美と言ったか。アレが持つ『箱』は大層な糧、我が血肉となった。感謝せねばならないだろう」
ぎりっ、という歯軋りの音。意図せず言葉を飲み込むだけにしては些か大きすぎるきらいのあるそれは、知らず知らずのうちに詩音が鳴らしていたものだ。
沸々と込み上げる怒りをやっとの思いで抑え込む。落ち着け、と全身に言い聞かせる。ここで我を失ったら全てが元の木阿弥だ。何のためにあえて外法使いの情報を狭め、恭司を焚きつけて慎也との戦いに集中させたのか。セラフは自分が引き受けると、止めてみせると決めたからではないのか。
七瀬の感情を思えば殴ってでも土下座させたいところだが、それでは何の解決にもならないということを、誰より詩音自身が痛感している。
だから詩音は自分の内心に見て見ぬフリをして、常に冷静な自分を演じていた。魔法使いと対峙する時に心を乱すなど自殺行為。誰かを救うという題目を掲げる前に、自分の身を滅ぼすようでは本末転倒だ。何かを成し得たいのなら、成し得るべき自分を疎かにしてはならない。そうやって理性の蓋をかけ、心を戒める。
一つだけ。
たった一つのことだけがはっきりするまでは、柳のように全てを受け流す心を保たねばならない。
「元来、どれも呪いの伝播の度合いを計る犠牲に過ぎなかったのだがな。存外に現世も捨てたものではない。あれだけ歪な『箱』の持ち主がこう近辺を徘徊していたとは」
「呪いの伝播……もしかしてそれって七瀬ちゃんの『狂気』のこと?」
「『狂気』?」
その言葉にセラフがより一層顔の歪みを深くした。何が愉快なのか、声さえ鳴らして感情をばらまく。
「『狂気』か。得心のいく言葉だ。成程確かにアレは『狂気』と呼ぶに相応しい。獣の如く血を求め、壊れた人形の如く殺戮を求める。代価として自身の傷は厭い、その全てを呪いに乗せて周囲を汚染する」
セラフが放つ言葉一つ一つが意味するところを確かに汲んだ詩音は、納得した表情を見せた。
「それがあの『狂気』のシステム……誰かを殺そうと願う衝動が自傷で霧散するのは、実のところ呪いを押し付けているだけに過ぎないってことか。七瀬ちゃんの身体から血液が流れる瞬間に並の人間なら簡単に精神を壊してしまうほどの呪いが周囲へと伝染し、その代償として七瀬ちゃんは自分の傷を治す。衝動を殺し傷を治し、再び魔力を蓄える。そしてまたいつか衝動が飽和して同じことを繰り返す…………ここまで来ると感心するほかないね。一体どこまで外道に堕ちてるっていうんだ。自分を保とうとするだけで周囲の人間を傷つけていくなんて……」
七瀬ちゃんがこの場にいなくてよかった、と詩音は呟いた。そして嫌な予感ばかり当たる、とも。
詩音は薄々感づいていた。七瀬を視た時から、そして『狂気』の存在を知ってから、心当たりのあるその魔法の性質について。そう、あれは魔法であり、魔術ではない。魔法は魔法使いの業であり、魔術師には―――つまり慎也には扱うことのできない代物だ。『狂気』を植付けた本人は『あいつ』に違いないのだろうが、そもそもの術式を組んだのはこの目の前にいる外法の魔法使い。例えそれが身を外道に堕とした代償だとしても、詩音の知る限り最高の叡智を得た人間が生み出した『狂気』の呪い。それがどんな力を持ち、どうやって七瀬の心を壊そうとしているのか。気づいていて、そうでないことを心から願っていたのに。
その願いはたった今、砂城のようにあっけなく、無惨なまでに崩れ去ってしまった。
『狂気』が狙う誰かを守ろうとして自分の身体を傷つけた代償が、結果として守ろうとした誰かを暗闇に迷わせることになるなどと。
誰かを傷つけることを嫌悪する七瀬がこの事実を知れば、今すぐにでも命を絶ってしまうかもしれない。それは終わりのない闇となって彼女の心を蝕み、侵していくに違いないのだから。
「私は誇るべきなのだろうな。あれ程の術を完成させたのだから」
そんな悪夢を植付けた魔法使いは、どこか満足気に壊れた笑みを浮かべる。
そこに人一人の人生を破壊した罪悪など在りはせず、単なる実験の一結果に過ぎないとでも言いたげな手軽さだけを残す。所詮外法を操るモノにしてみれば、人間一人の命や生涯など路傍の石の行く末程度にも満たない些事なのだろう。
「そんなところだろうと思ったよ。アレはあんたが編み出した外法の産物。魔力だけは無尽蔵に七瀬ちゃんが生むからね。後は慎也に吹き込んで植付ければいい。最後にあんたが『箱』ごと根っこを引っ張っておしまい、とそういう筋書きだったんだろう」
「思いの外あれの中が心地良い環境だったらしいがな。私の干渉を弾くとは想定外だったが……とは言えまた数度も揺さぶれば時間の問題だろう」
そして沈黙が場に降りる。
それは呼吸を止めた世界の束の間の安息。これから起こる嵐に備えて一旦の猶予が与えられただけに過ぎない。
物言わぬ二つの影。
黒い空がなおも滲んでいく錯覚。
止まっていた時を追いかけるようにして一陣の風が二人を叩くが、すでに異界と成り果てたこの地にあって、そんな些細な自然は見る間もなく跡形も無くなってしまう。
現実は遥かに遠い。
泡沫の幻のような不安定さ。
均衡は一瞬。
その一瞬を、詩音は能面のように表情を固めてセラフの言葉を噛み締めていた。その胸中を巡る想いは彼女にしか分かるべくもない。
ただその堤防は見た目ほどに強固ではないのだと誰にも分かる。飽和が近い。ともすれば次の瞬間にも決壊を迎えてしまうほどにそれは破綻した脆さを抱えていた。
「……なるほどね。だから麻美ちゃん達に関しては手が込んでいたってわけか。新藤くんにいちいち結界の作り方を教えたり、麻美ちゃんの記憶を―――自己探査出来ないように封印し、あんたの名を出せば自己崩壊を招くトラップを仕込んでおいたり。魔術師による記憶封印なんて、あの時は可能性の一つにしか考えてなかったってのに……今のあんたならそれだって可能だろうね」
そんな事実をどこかに押しやって、健気なまでに魔術師という自分を作り、詩音は会話を続け、仮初めの凪を選んだ。
迎えるはずだった崩壊を先延ばしにしてでも―――足りないのだ。
もう少し。
もう少しで核心に触れる。
セラフの目的が詩音のまさに予想した通りであったのなら。
その時こそ―――
「ふふ、恐れているのか鳴上詩音」
「―――!!」
突如貫いた内心を見透すような視線に思わず一歩を下がる。
だがセラフはそんな彼女を容易く見逃したりはしない。
じわじわと嬲るようにして追い詰めていく。
「先程から矢継ぎ早の質問だな。弁も饒舌だ。額の汗、鼓動の速度、表情―――全て焦燥を隠しきれていないぞ」
「……そいつはご心配どうも。生憎あんたに何とかしてもらおうなんて思ってないからいらないお節介はよすんだね」
嘯くがその言葉が空虚な抗弁であることは明らかだった。
「生かされている、という状況はさぞ苦痛だろう。貴様は場の主導権を何より先ず得ようとする性質の人間だ。相手の機嫌を伺う会話にどうして甘んじていられる」
真綿で首を絞められているような息苦しさが詩音を襲う。
今の言葉を返せばつまり、詩音の思惑はセラフに筒抜けということだ。それでいて泳がされている現実が言いようのない重みを以って押し寄せてくる。
「魔術師ですらない今の貴様には最上の綱渡りだな。即座に引導を渡すのも一興か」
「出来ると思う?」
表層は全く何でもない風を装う詩音だが、事実それは綱渡りに違いなかった。
が、それは詩音の身が危うい、という意味ではない。
セラフは勘違いしている。
詩音が焦っているのはすぐにでも殺されそうだからではない。
『欲しい情報を聞き出す前にセラフを打倒せざるを得ない状況』になってしまうことをこそ恐れているのだ。
彼女がどうして心理的な余裕を保てているのか。
それは―――まごうことなき切り札が存在するからである。
彼女とて無策で敵地に乗り込むような暴挙は冒さない。やるからには徹底的に、例え不利な状況に陥っても形成を一転させるほどの仕掛けを前以って施すのが鳴上詩音という女の流儀だ。
先程強制返還させられた『男爵』。
あの幻獣は何も今この場で召喚した、というわけではない。実際それは魔術師ではない詩音には不可能な芸当だ。当然、予め召喚されていた使い魔の姿を隠させていただけである。
では召喚されるまで『男爵』は何をしていたのか。
その答えが詩音の逆転の鍵を握っている。
詩音がまだ時宗と会話をしていた頃、彼女は『男爵』に、月詞山の霊脈の継ぎ目を探させていた。
元々魔術師が自分の領域として選ぶのは霊地として重要な拠点である。そこに乗り込む以上、敵を強くする可能性のある要素は極力排除するのが定石。『男爵』に霊脈による魔力の過剰供給を防ぐようにパイプを遮断させていたのだ。
さらに詩音はもう一段階のトラップを用意した。魔法使いが相手であるのなら、魔術の使えない詩音では話にならない。そこで手っ取り早い手段を考案した。
即ち、霊脈を乗っ取り、その膨大な魔力を逆に利用してセラフをそのまま封印してしまう結界だ。
『男爵』に霊脈の継ぎ目全てを探して細工させ、詩音の呼び声一つで封印結界が発動する仕掛けを用意する。後は会話によって時間稼ぎをした詩音が『男爵』の念話を聞いてしびれを切らしたフリをし、すでに現界している『男爵』を今その場で喚んだように見せかけたのだ。
後は必要な情報を聞きだして結界を発動すればそれでよい。悪の魔法使いは正義の魔術師に封印されめでたしめでたし―――
と、そんなシナリオを描いていた詩音だったが、
次の瞬間に―――全てが覆ることになる。
「フフフ、フハハハ!!」
突如セラフが弾かれたように笑い声を上げた。
詩音は最初こそ思惑に乗っていると思い表向きの虚勢を崩さずにいたが、いつまで経っても笑うのを止めないセラフを見て訝しげな視線を投げた。
セラフは勘違いしている―――そう思っていたが。
それこそが大きな勘違いであったことは、間を置かずして詳らかになった。
「十三箇所」
「……何?」
詩音の頬を冷たい汗が伝う。決してそれは夏の気温が招いた体温調節機能の発露などではない。
あの男は、今なんと言ったか?
「全て的確だ。余程手なづけてあったと見える」
十三という数字。
それが意図するところはつまり―――
「あの獣を使って様々細工をさせていたようだな。目には目を……か。成程あの結界なら或いは私を封じることができたやもしれん」
「なっ!?」
今度こそ詩音は悲鳴を上げた。
十三箇所。獣。結界。封印。
その全ての単語は、まさに詩音の切り札を連想する。
それがセラフに筒抜けであったということは。
「貴様ほどの術師が丸腰で乗り込んでくると思うほど私は愚かではない。先程の獣は貴様にしてみれば虎の子であったろうに、それが返還させられて尚、貴様の装う表情には余裕が見え隠れしていた。その程度の繕いで私を欺けるとでも思っていたのか?」
嘲る。
「此処は私の領域だ。それは何もこの山門の内部に限ったことではない。この山全体が私の支配下にあり、異常が在れば即座に察知が及ぶ。無論、結界などとっくに解呪させてもらった」
貴様の全ては封じた、とでも言わんばかりに。
「……どこまで悪趣味なんだか。全部分かってて内心でほくそ笑んでたってわけ」
「切り札にしては浅慮が過ぎる故、様子を見ていたのだが……どうやら期待するだけ無駄だったようだ」
浅慮、と一言に切り捨てられれば、詩音には反論のしようもない。
相手が気づいているという可能性に最後まで気づけなかったのは紛れもない詩音のミスだ。
ちっ、と何度目か分からない舌打ちをする。
「つまりあたしはあんたに命の天秤を握られてるわけだ。さて、気分次第で今すぐにでもあの世行きとは……ロクな気分じゃないね」
「まだそれだけの軽口を叩こうとする気概だけは認める他ない。安心するがいい。貴様の魂が違えて迷わぬよう、冥土の土産程度ならくれてやるぞ」
絶対的な優位からくる余裕。それは相対した当初から変わらぬ姿ではあったが、詩音の精神状態が劣悪なまでに窮屈になった今となっては、相対的に一層の狡猾さを秘めているように映った。
「ふん……三流悪役みたいな台詞を吐きやがってさ。そんなことしてるうちにあたしに噛み付かれても知らないよ」
「なれば望むところだ。私とて一度は真理の探究を志した身。使命に堕ちた今でさえ、当代最高の術師と知を比べるのもまた一興よ」
『最高の』などと賞賛しているようでその実、私が貴様に劣る筈もないが、と続く言葉が詩音には聞こえるようだった。
不愉快極まりない。
押し寄せる圧倒的な存在感。間違いなくそこに立つのは敵だ。だというのに自分は一時の主導権を握ることさえ許されていない。
このままではまずいと知りながら、その流れに身を任せるしかないというこの状況。暑さなどとっくに感じなくなったはずなのに止まらない汗。悪寒だけが徐々に心を支配していき、最後には自分自身を押し潰す妄想に囚われそうになる。
そんな鬩ぎ合いをしながら、魔術師は思考する。
思考して、思考して、思考して―――これが契機だという考えに至る。
相手は油断せずとも警戒していない。まして本当にこちらに手土産代わりの情報を寄越しそうな気配すらある。
どうせ知りたいことがあったのだ。
―――どうする、という自問は、
真実を見極めなければならない、という強迫にも似た思いによって塗り替えられていった。
「……あたしは欲張りだからね。くれるというのなら何でももらうよ。駆け引きなのか余裕なのか知らないけど、知りたいことがあるのは確かだから」
セラフは気味の悪い笑みを崩さぬまま、詩音の続く言葉を待っている。
どうやら本気で質問に答える気のようだ。
詩音はその神懸った気紛れに驚嘆と感謝を半々に思いながら、一つ一つ、懸案を踏破していくことにした。
「まずは……そう。あんたがここまで手の込んだ真似をした目的は何? 大方予想はつくけど、敢えて訊かせて欲しいね」
「何かと思えば」
とうに知っているだろう? とセラフは続け、
「人間は脆弱な生き物だ。血管の位置さえ把握していればたかが注射器一本でも死に至る。我々のような魔を司る超越種は、そんな人間達を擁護する必要などない。人間など滅んだところで誰も困りはしないのだから。だが例え魔術師でも輪廻を打ち破ることはできない。それは不変の法則に等しく、誰の手にも余る世界の公理だ。ならばそれを打ち砕くにはどうするか―――当然のことだ。人間に対する注射器を―――我々の持つ武器、魔力をぶつけるしかないだろう」
「輪廻……やっぱりそれか」
「そうだ。既知に相違なかろう」
まあね、と詩音は頷き、
「だが気になるね。話からするにあんたは『到達』していないらしいじゃないか。輪廻が俗に言う世界の閉鎖なのだとしたら、あんたがそれの打開策を識る術なんてはないはずだろう?」
「フフフ、貴様のような者には分かるまいな。私は―――神に選ばれたのだ」
「……おや、意外な台詞をありがとう。あたし達は思想こそ違えど、立派な理論に生きるモノだ。神なんて曖昧な偶像を信奉する趣味があるなんて知らなかったよ」
詩音の言はもっともだ。魔術や魔法は奇跡のような現象を起こすが、それはれっきとした裏付けのある公式に従っている。だからこその再現性であり、無論才覚によって行使の可不可はあるものの、全ては的確な手順の元に招かれた言わば『人工の奇跡』とでも呼ぶ代物だ。
だからこそ魔術師は魔術を行使できるに至った力を才覚と信じ、超越種として驕ることはあれど、科学者のように数式や理論を大事にし、決して無から有を生む超常とは捉えない。
魔法使いであるセラフが神論をかざすというのは、確かに些か奇異なことのように思えた。
―――そしてそれは、どうやらセラフ自身でさえ自覚しているらしい。
「勘違いをするな。神など机上の空想に過ぎぬ。ヒトを縛るも放すもヒトの役割だ」
「ならどうして」
「だが……我々の与り知らぬ理論を行使し、他ならぬ『本物の奇跡』というものを操る存在が在るのならば、それは真実の神でなくとも神に等しいと言えるだろう」
「現実の肩書きに意味はなくて、結果があれば過程は気にしない……所謂神様みたいな真似が出来れば、そいつがどんな愚者であれ神様と変わらないって?」
「その通りだ」
セラフの笑みはますます深まっていく。何がそれほど愉快なのか、或いはこうして己の目的を語ることそのものが利己的な自尊心を満たしているのかもしれない。
いけ好かない、という詩音の本心は無論表には出さず、気のいい相槌を打つフリをしてセラフの舌を滑らかにする。
「ま、言うことは分からないでもない。それで? そんな神様がいるとして、あんたが選ばれたっていうのはどういう理屈?」
「啓示を受けたのだ。輪廻を壊せ、とな」
冗談ともつかない話を、しかしセラフは真正直な表情で語る。真偽はどうあれ、現実として本人はそれを信じているらしい。
詩音にしてみればセラフほどの術者がそんな夢物語を真に受けている、ということに相応の違和感を覚えないでもなかったが、『輪廻を壊す』などという発言をしている以上、啓示とやらで何かを識ったのは確かなのだろう。セラフが言った通り、真実など些細な差に過ぎないということだ。
「オラクルなんて、また非現実的な話だね」
だから詩音に出来る反応と言えば、こんなものだ。
その通りだとも、そうではないとも言い切れない、反射じみた安易な回答。
格段その態度に気分を害したというわけでもなく、セラフは淡々と言葉を並べる。
「だが非現実では私の知識に説明などつくまい。どんな超越的な影響だろうと、私がこうして在るのは、全てその啓示によるものだ。因ってかつての私は輪廻を識り、外法の体系を識り、世界を封じる機構を穿つ方法を識った。それは私に与えられた使命だ。だから私は壊す。この下らない束縛を」
「ただ一度のオラクルでそこまで思っちゃうあたりがあたし達みたいな生き物の性っていうか何ていうか」
慢心に陥りやすいのは誰でも同じ、ということらしい。
まあいい、と詩音は心の中だけで呟く。
自分に酔っているのであればいちいち目を覚まさせてやる必要などないのだ。肥大した力を得たとしても所詮は人間の本質を残したままであるなら、そこに付け入る隙が生まれる可能性がある。
―――チャンスは、今しかない。
ごくり、と生唾を飲み込み、その決意を悟られないように気を配りながら、
詩音は、その扉を叩いた。
「じゃあ……輪廻を壊す一環として、あんたが七瀬ちゃんの『箱』を執拗に狙ってるのは分かるけどさ。何で七瀬ちゃんなの? 本来なら誰にも知覚できないはずの『箱』。だがあんたは確実にあの娘の『箱』だけに焦点を絞ってる。ということは中身を識っているはずで―――」
あくまでもふと思いついたように、他愛もない疑問だと思わせるように、努めて軽い口調で尋ねる。
「あの娘の『箱』が他の魔術師のものと、どう違うっていうの?」
七瀬が持つという『箱』の中身。
これこそが詩音の本命。
セラフが輪廻を崩壊させるため、執着の限りに追い続けてまで得たいと思う程の何かがそこに在るはずで。
詩音にしてみればセラフの返答如何によっては全ての立場を白紙に戻しかねないほどの重大な問いかけ。
―――どうか、このままで。
詩音は崇める神を持たない。だが今この瞬間だけは神と呼べるだけの存在に乞う。
結果がどう転ぶのか、それは詩音にさえ分からず、オラクルを受けたというセラフだけが命運を握っている。
だがそれでも思わずにはいられない。時を重ねて一つ一つ積み上げたこの関係を、このセカイを崩さないようにと。
それは祈り。全身全霊を賭けた想い。誰にも想像さえ及ばない程の直向さ。
何よりもこの答えを知りたい。そしてそれが自分の望む答えであって欲しい。
それが叶うのであれば―――鳴上詩音の生涯を代価にしても構わない。
詩音は願う。願い続ける。
切望の大きさに比例するようにして引き伸ばされた時間が無限にも思えながら、実質1秒にも届かない重たい空白を乗り越え、
セラフがその口を遅々と開いた。
飛び出るのは安息か、破壊か―――
「フ……分からぬか。分からぬだろうな。言うなればそれが貴様と私の器の差異だ。……ならば問おう。貴様は輪廻を破壊する魔力を得る効率的な手段とは何だと思う?」
「外法だろ。いけ好かないけど、魔術師を『喰え』ば、増幅される魔力量はケタ違いだもの。だけどそんなのは七瀬ちゃんじゃなくても―――」
魔術師ならば誰でもいいはず、と繋ぐ前にセラフがそれを遮り、
「それが貴様の認識の甘さだ。外法は魂と願いを喰う。魂はヒトという種に区別はなく、どういった類であれ存在すればそこに生じる核だ。だが願いは違う。ヒトの種、さらには魔術師に詰まったソレは他の何をも凌駕し―――稀に、その願いの大きさと歪さ故、神の道具すら身に宿す存在すら現れるのだ」
「神の……道具?」
「貴様も識るところだろう。現存し得ない筈の究極。魔術師がその魔力を与え続け千年かけても生み出せぬような程の莫大な力を秘めた道具。所謂神代に用いられたとされる武具などがソレだ。ヒトの、いや魔術師さえもの手に余る奇蹟の具現。それは言い換えれば―――何も及ばぬ魔力の塊だということだ」
ふん、と詩音は頷き、
「神具ね……確かにそれなら秘める魔力は絶大なんて言葉じゃきかないだろう。単純魔力に変換してぶつければ……世界のシステムさえ砕ける、か」
「その通りだ。そしてそれが……あの小娘の『箱』に眠っている。一つさえあれば無限にも等しいソレが四つ。タスラム、ブリューナク、クラウソナス、ダグダ……ダーナに伝わる四宝にして至宝。これも奇妙な縁よ。ヒトの身にありながら神の道具を宿し、一方で魔の業に蝕まれ他を食らい己に食われようとしている。その様な真似、かつて類を見ないことだろう」
ダーナの秘宝、即ちケルト神話に伝わる至宝。
それだけを聞けば一見眉唾ものだが、魔術に携わる者にしてみれば古来の伝承のような逸話が全て事実であることは周知であり、神話に登場する神々といった存在は例え『本当は神ではなかったとしても』人智を超えたモノとして実在していたのだ。眉唾は眉唾なりに、蓋を開けてみれば神として崇められていたのは他ならぬその時代の魔術師ないし魔法使いといったモノ達に相違なく、しかし同時に存在していた幻獣や魔獣を捕獲したり駆逐していた彼らの魔力は現代の魔術師らの比ではなかった。才覚の違い。血の濃度。失われた儀式。原因は数多く論議されているが真偽は不明―――しかし実際に彼らは卓越した魔術を操るモノであり、ならば彼らが使っていたとされる武具なども実在しない理由はなく、そういった『神』の道具を入手さえすれば比類なき魔力を秘めた魔術的アイテムとなる。
それが七瀬の『箱』の中に生み出されている、とセラフは言っているのだ。
「それが七瀬ちゃんを狙う理由? あの娘の『箱』の中には輪廻を打破し得る魔力の塊が眠っているから? そんなの本物かどうかも判断できやしないのに……」
「贋作が真作に劣る理由もない。アレが本物でないにしろ、それに匹敵するモノが其処に在ることは既に『識っている』のだ。―――この年が過ぎ行く頃、世界は再び時の鎖によって胎児に成る。それは閉じられた輪。ヒトを宿命的に幽閉する牢獄。私はそれを壊す為にこうして在る。私の目的の為―――世界そのものの為に使われるのであればアレも本望だろう」
「……そうかい」
詩音は咀嚼するようにその言葉を聞いている。
ゆっくりと、丹念なまでに噛み砕き、一つ一つの意味を網羅し、認識し、思考し、理解する。履き違えを恐れるようにして没頭するその様はまさに執拗。潔癖なまでに過ちを退け、それで尚残った情報のどこからどこまでが真実で、何が虚偽なのかを吟味し―――
その変化は唐突に始まった。
「―――ふ、」
大きく膨らんだ呼気が夜に溶ける。それは戦闘に赴く前の集中ではなく、まして緊張がもたらす重圧でもない。
その一瞬を境にして、吐息は途切れることを知らぬ感情の塊と化した。
「ふはははははは! ハハハッ! アーハッハッハッハッハッ!!」
止まらない。それがどうしても堪えられないものなのだと、そうするしかないのだと主張するように。
鳴上詩音が、笑っていた。
さながらネジの一つでも失ったロボット。大事な堤防を崩し、狂気―――否、狂喜を振り撒く。
さしものセラフも呆気に取られ、物言うこともせずにただ彼女の狂態を眺めるばかり。
「そうか、それが理由か。そうかそうか! 『たったそれだけ』が理由か!!」
「気でも触れたか。状況が絶望に等しければ等しいだけ崩れていくなど脆弱な人間の背負う業だ。我々の得た境地にてそのような振る舞い、解せんな」
が、セラフの呟きなど耳に入らないのか、詩音は勝手な独演を続ける。
「いいんだよ、いい。それならいい。それでいい。七瀬ちゃんは間違っちゃいなかったってことか! 結局あたしが彼女を信じきっていなかっただけっていう、それだけの話。誰に何と言われなくても、最初から七瀬ちゃんは何よりも誰よりも世界とセカイのことを考えていたんだ! そうかそうか!」
狂笑は近寄るもの全てを拒絶し、そしてそれは世界さえも例外ではなく、熱気に揺れるはずの夜気が凍え始める。
ざわつく悪寒。
ここにきてそれを感じ始めたのは他ならぬセラフの側だった。
正体不明の威圧感。
手足をもがれた状態に等しい相手が突如豹変した。と言ってもそれは表層の感情が変化しただけで、手段は何一つ変わっていない。
変わっていないはずなのだ。
しかしセラフの目には詩音が余裕や落ち着きといった諸々の力、強者が持つべき優位の気質を取り戻しているように見えた。
何がそうも詩音を『安心』させたのか。
セラフには隠された―――或いは、すでに切られたか―――カードの一つさえ看破することができないようだった。
焦り、というほど大層なものではない。
だが口をついて何かを吐き出さねば、それで何かが終わってしまうような妄念に囚われ、
「何が可笑しい」
思わず、としか表現しようがない風体でセラフはそんな疑問を口にしていた。
「何? 何って、……ああ、何の捻りもない。あたしがあたしを騙す理由が消えただけ。それがあんたの答えなら――――――あたしは遠慮なく本気を出せる」
「本気だと? この期に及んで何を―――」
「この期に及んで、はこっちの台詞だよ外法使い。こんな手番になってまで輪廻を壊したいだの魔力が欲しいだのって。何ていうか呆れを通り越していっそ哀れってものさ」
ぴくり、とセラフの仮面に罅入る確かな亀裂。無理もない。単なる獲物に過ぎないはずの相手が場の支配者である自分を哀れむなどと、ミイラ取りをミイラにせんと歯向かうなどと。そんな隠しようのない怒気がせりあがり、刹那も過ぎれば爆発してしまいそうな奔流を、しかし他でもないセラフ当人が必死に抑制していた。
単なる虚勢として見ない素振りをするには些か不可解過ぎたこともあるのだろう。そしてあってはならないはずの自信を詩音が取り戻しているということも。
術師は探求する者。理解できないという現実を許容出来ない生粋の負けず嫌い。ならば好奇に依存こそすれど一時の感情のみで解決を灰塵と化す真似などしない。
セラフにしてみれば眼前で起こっている『予測外の事態』に決着を果たさないまま、この口の減らない魔術師を消すことはできないということだ。
「よもやそのまま茶を濁すということもあるまい。貴様のその態度。まさか万に一つでも私を打倒し得ると?」
そんな言葉を聞けば、打たれて響く鐘の如く当然ように詩音はこう答えた。
「一万回も試す必要なんてないね。あんたを倒す機会なんてただの一回あれば―――ほんの一回で確実に葬ってみせる。だからあんたは叶わない夢を抱えたまま無念にも死を迎えるのさ。バカなことを考えてバカな真似をしでかした、絶望的なまでに愚かな魔法使いとしてね」
彼女をよく知る弟が見ればさぞ震えたであろう。
その時の詩音は、人を食ったようないつもの笑みを僅かに歪ませて―――確かな超越者として外法使いを見下していたのだから。
「それ程の暴言……貴様、楽には死ねんぞ」
「そりゃお互い様、と言ってあげたいところだけど残念。あたしは確かに楽に死ねないだろうけど別にあんたに殺されるわけじゃないし、そもそもあたしと違ってあんたは楽に死ねるよ。このあたしが全力を以ってあっさり殺してあげるからね。何かを疑う暇もない程の一瞬に滅ぼしてあげるから安心しな」
詩音の口調には淀みがない。不自然さもなければ虚飾を施した様子さえ一切無く、それはとりもなおさず彼女がそれを全て本気で言っているという証明に他ならない。
圧倒的な実力差がそこにはあったはずである。
詩音が喚んだ『男爵』は容易く返還され、罠として設置した結界は見破られて、まして今彼女は魔術師としての力を持っていないという。
児戯にも等しい単純な計算だ。
在ったはずの可能性を全て摘み取っていけば、詩音がセラフを打倒し得る未来など微塵すら在り得ない。
詩音にも分かっているはずだ。
なのにこの何をも寄せ付けないほどの自信はどこから湧いてくるのか―――
と、
「さてと、」
詩音はおもむろに懐に手を突っ込むと、何を思ってか小さな箱を取り出した。
その箱は無味乾燥な、見た目にはどこにでもありふれたパッケージの、やはりどこまでも普通な―――煙草。
それを一つ取り出して口に咥え、同時に取り出したライターで火を点ける。
喫煙者であれば一見当たり前の行為。依存的な欲求が飽和すれば当然解消しようとする。衝動は衝動。それを実行することに何ら不和はない―――無論、こんな状況でなければだが。
当たり前過ぎるが故に異常な一連の行為を眺めさせられたセラフにしてみれば、それこそ当たり前にこんな反応をするに違いない。
「何の真似だ」
「見て分からない? 一服してるんだよ」
突然の奇行に訝しむセラフにそう軽く返すものの、一服の目的に似ず彼女の煙草から紫煙が立ち上る様子はない。確かに火を点したはずなのに、ちりちりと先端が焦げていくだけで一向にその役割を果たすことなく、詩音本来のスタイルである文字通りの咥え煙草状態。
情報としてはその程度だ。それが何を意味し、意図するかなどセラフには分かりはしないし、恐らく理解しようとも思わないだろう。
あるのは鋼のような警戒の心を以って、次の動作を見守ることのみ。
「ああ―――『味なんて分かりゃしないけど、美味いね』」
一人感慨深げに呟く詩音の声だけが辺りに響く。
そうしてどれ程その時間が流れただろうか。
詩音は一向に何もしようとしない。まさしく自然体のまま、喫煙とさえ呼べない行為を続ける。
セラフは判断した。
こんなものはただの虚勢である、と。
反撃など企ててはいない。何故なら、そんな手段は残されていないからだ。現に詩音は何もしていないし、する気配もない。
つまりは口先だけの優位。その中身に実体などなく、単にこちらを動揺させたいというだけの、下らない戯言。
浅はかにも口車に乗せられ、一度でも頭に血を上らせた己を恥じながら、心底から無為な戯れにしびれを切らし……つにセラフが行動に出た。
「大口を叩いておいてそれか。死に逝く前に舌の上でだけは勝っておきたかったなどとは失望が過ぎる」
「さあ? どうだろうね」
「もう茶番は飽きた。―――疾く、地獄へ参れ」
外法使いがその気になれば、後は一瞬の出来事であった。
セラフが目にも映らぬ動作で腕を一振りする。
カッ、という閃光が世界を貫き、次いで忘れたように爆音が大地を揺るがした。
本来ならいくつもの手順を踏むはずの事象連結を瞬きの間に済ませ、その速攻性を活かした、何よりも速い魔法行使。外法により蓄えた、度を越した程の潤沢な魔力を最大限に駆使し、詩音の頭上と地面の両側から挟みこむように発生した魔雷は空気さえ抉るように、それはあたかも空間に亀裂が奔るような鋭さを以って詩音へと肉薄した。
起こしてから起こり得た世界に修正する魔法は魔術に比べて圧倒的な速度を誇る。故に不意を衝く必要はなく、故に放たれれば回避不能の必殺。
瞬きもしていれば決着が訪れる。
ましてこの段にあってすら微動だにしない詩音はそのまま爆裂した光に包まれ―――
「―――やれやれ」
存在し得ないはずの声が大気に響いた。
セラフの目が見開かれる。
決して加減などしなかった先刻の魔法。それは確実に今しがた届いた声の主を葬ったはずだった。
幻聴……いや、彼にしてみればそんな隙間すら入り込む余地を与えた覚えもない。
ならばこの事実が導く答えは。
「人が気持ちよく喫煙してるんだ。邪魔するのは野暮ってもんじゃないのかね」
途端、潮が引くかのような清冽さで魔雷が霧散する。
一瞬のうちに解呪された魔法の残骸から当然のように姿を現したのは―――詩音だった。
相変わらず煙草を片手に、恍惚と喫煙の快感に浸っている。
「馬鹿な……在り得ぬ」
「あん? それはあたしが生きてること? それともお得意の魔法を解呪されたこと? まあどっちにしろ……在り得ない、なんて言葉を軽々しく使っちゃうあたり、魔法使いとしてはそもそもの器が知れてるってものだけど」
「貴様どうやって、」
解呪した、と続くはずの言葉はそこで断ち切られた。
否、断ち切らざるを得なかった、と言うべきか。
セラフの魔法を解呪し、威風堂々とそこに立つモノは、まさしく異形だった。
何がどう、と表現することは難しい。
ただ纏う空気が、呼応する大地が、悲鳴を上げる闇が、
ソレが見知ったソレではないと、告げていた。
くく、と喉の奥で笑うソレは、鳴上詩音の顔をしている。
「ああ、いいね。実に上機嫌だ。綱渡りと言うほど仰々しくもないが、それでも吊り橋を渡るくらいの緊張感はあったものね。達成感はそれなりに得るというものさ。あんたと真面目に議論したってあんたが目的を軽々喋ってくれる保証はない。まあ実際に会ってしまえば―――思いのほか操るのは簡単そうだったみたいだけど。それはまあいい。魔術師ってのはエゴイストだ。エゴイストっていうのは自分本位。そんな自分さえよければいいっていう連中から何かを聞こうと思うのなら、そう。図に乗せるのが一番手っ取り早い。絶対的な優位さえ示してやれば後は勝手に自己満足のありがたいお言葉をくれる。そうなったら後は方向付けしてやるだけさ。今の通り……あんたが簡単にあたしの掌で踊っていたように」
「戯言を……」
セラフの声は硬い。いつの間に世界が逆転したのか、精神的圧迫を受けているのは今や外法使いであった。
「そう思う? 今のあたしを見ても?」
そんなセラフの内心の動揺を見抜いてか、詩音はさらに揺さぶりをかける。
是と頷くことなどできようはずもない。
先程までの詩音とは限りなく似て非なるモノだ。それは存在が存在するが故に持つ胎動が、物理的な障壁にさえ変化して周囲に圧力を与えていることからも分かる。それは純粋な力の塊であり、存在が持つ生命力。波動。そして異能を駆る原動力。
魔術に携わる世界の人間はそれをこう呼ぶ―――魔力、と。
「貴様は確かに魔術師ではなかった。魔力など欠片さえ持たぬ抜け殻だった筈」
「あたしの記憶違いじゃなけりゃ言ったと思うけどな。『今』のあたしは魔術師じゃないって。あんたも自分で言ってたじゃない。丸腰で乗り込んでくるとは思わないってさ。『男爵』がその場での召喚じゃないってことくらいは気づいてたと思うけど……その通りだよ。文字通りの徒手空拳で外法使いに挑む奴なんていないだろうに」
憤怒の形相へと変化していくセラフは、己の愚を恥じているといったところだろうか。
見通しが甘かったのは、誰でもない、セラフ自身だったということ。
「どうしてこんな状況になってしまったのか、あんたも魔法使いならちっとは自分の頭を使って考えてみるんだね。どういう可能性を見逃したら、こんな蓋が開いてしまったのかってことをさ」
そう言われれば、考慮せざるを得ないのがセラフだ。
そして彼ほどの術師になれば、一つピースを与えられれば一直線に解答へと辿り着く。
「―――まさか貴様、私と同じ、」
ご名答、と出来のいい生徒を褒めるように詩音。
「あたしはこのちょいと特殊なタバコを吸うことで眠らせていた人格を呼び起こしたに過ぎないよ。とは言ってもオリジナルと仮面に性格の差はないし、記憶も共有してるけどね。違いがあるとすればそれは……ヒトか魔術師かって違いだけさ。そう、ここに関しては全くあんたと同じだよ。あたしも二重人格によって正体を―――魔術師としての力を隠していたってわけ」
それは鍵に相違ない。
副作用の残るほどの毒性を持つ煙草を吸うことで、魔術師としての感覚を磨ぎ、身体を作り変える為のスイッチ。
喪失を補填する最後のパズルを完成させれば、そこに生まれる形は紛れも無い魔術師。
これこそが詩音の真の切り札。
そう、鳴上詩音という女の流儀は、やるからには徹底的に―――
「だが、」
焦りを隠せないままセラフは声を荒げる。
「貴様が魔術師と成ったからと言って私に敵うという道理は無い。譲歩して知識が対等だとしても、魔力量は私が圧倒している―――! 現に貴様は獣や結界に頼っていたのだ。そんな輩など私の敵ではない……!」
それは自分に言い聞かせているようでもあった。
敗れるはずはないと。
悲願の成就が覆ることはないと。
そんな外法使いの姿を詩音は目を細めて見やる。まるでやんちゃな子供でも見守るかのような視線。そこに混じるのは余裕。魔力量という現実の壁を目の前にして、しかし全く自分の勝利を疑っていない、強者の顔。
「ま、やってみなけりゃわからないでしょ。それに一応補足しておくけど、」
そこで一旦言葉を切ると、皮肉めいた笑いを浮かべ、
「『男爵』にしろ、結界にしろ、『普通の魔術師』なら十分に切り札と呼んでいいレベルの代物だ。それを二つ用意しただけで周到―――さらにそれを崩されれば後は脆い。そんな風に思わせることこそがあたしの狙い。そうしてまんまと調子に乗ったあんたは本来喋らなくていいことをぺらぺらと喋った。いやあそれでもドキドキもんだったよ。危ない橋に変わりはないし、万一あんたが強攻策に出ようものなら―――さっさと殺してしまっていたかもしれないからね」
信じられない、という顔をしているセラフは、詩音にしてみればさぞ滑稽に映っているのだろう。
今の言葉が示す解はつまり―――
「全力ではないとは言え幻獣の攻撃を容易くいなしたあんたが動揺するってのも変な話だと思うけどね―――使役する者が使役されるモノより弱いなんて、誰が決めたルールなのさ?」
そうして無造作に指を弾く。
小さいながらも鮮明な乾いた音は止まった風にさえ乗るようにして周囲に木霊していく。
そして世界に波打つ僅かな震動が、こんなモノを誘った。
「滑稽なものだな。幻獣に『死んだフリ』をさせる人間など、後にも先にもお前だけだろうよ、『全てを御する者』」
驚く間さえ与えず、無から有の存在を得たソレは轟声と共に再びこの地に姿を現した。
凡そヒトとは似つかぬ巨躯に豪快な笑みを貼り付け、上位十二階の幻獣は詩音の前に鎮座する。
今度こそセラフはその表情を凍りつかせた。
その圧倒的な存在感は先刻の召喚とは比較さえ意味のないほどの隔たりを持ち、射抜く視線に心臓さえ掴まれているような錯覚となって彼の全てを支配した。
無論卓越した外法使いとして、決して倒せない相手ではないと頭では冷静な分析が出来ている。セラフ自身が言った通り、生贄によって得た魔力は幻獣の一体二体を滅ぼすには有り余っているくらいであるし、実際にそういった専用の魔法も習得している。
だがセラフをして恐怖せしめているのはそんな遊びじみた段階の話ではない。
それだけの力を持ったセラフを前にして、一歩を退くどころか段々と距離を詰め、あまつさえ意表と裏を完全に掌握するなどという芸当に畏怖しているのだ。
そもそも、どうやってセラフの魔法を解呪したのか。
そもそも、幻獣の召喚に魔法陣さえ用いないのはどういうことなのか。
底が知れない。
藪を突けば飛び出すのは蛇どころではない、と思わせる何かが今の詩音から発せられている。
―――本能の警鐘。
そんな馬鹿げた考えを払拭するようにセラフは首を振り、
「フ、フフフ……それでこそ、それでこそだ。私を打倒せんとするなら、その程度の獣、自在に操ってこそよ!」
そうして警戒を強めるセラフだったが、
しかし詩音はセラフに状況の主導権を握らせない。
「いや、まあ『男爵』にはどっちにしろ還ってもらうんだけどね」
「そういうわけだ。引導を渡すのは我ではないぞ、外法使い」
「何だと?」
そんな外法使いの不審が届く頃には。
「よもやそんなことはないだろうが……『全てを御する者』、我が主に敗北などは許されんぞ」
「はいはい。あんたは黙って寝てりゃ起きる頃には事は終わってるよ。……それじゃ、バイバイ」
交わされた言葉通りの現象―――やはり合図一つの動を経て、小鳥の囀り程の音も無くみるみるうちに幻獣の姿が闇に溶けていく。
即ち幻獣の返還。セラフが行った焼き増しを見ているかのような鮮やかさで、その魔術行程が世界に不和するように経過していく。しかしその鮮烈さが莫大であればあるほど、その異常さもまた比例していく。
「―――正気か。自らの手駒をみすみす手放すとは」
あら、拍子抜けした? などと言ってのける詩音は、さして気にしてもいない風だ。まるで進行表通りであると言うような。
すでにセラフの理解を超えていた事態が、さらにそれを凌駕して進行していく。意表に次ぐ意表を突かれての思考の空白化を避けようともがく様は、やはり詩音の言を借りれば哀れでさえあった。
この世の裏側を散々視てきたはずの外法使いが己の立場を飲み込めず、何とか振り絞って残せたのは、そんな安直な疑問でしかない。
「あんたには分からないだろうさ。わざわざこんな手の込んだ茶番まで仕込んだんだ。溜まったストレスの解消を使い魔に代行させるなんて馬鹿馬鹿しいったらないよ」
そう言うと彼女は指で煙草を挟み、無いはずの煙を肺腑へ送っては吐き出す仕草を作りながら、どこまでも人を食った笑みを絶やすことなく、
こんなことを告げた。
「さて―――挨拶が遅れたね。こっちでは『初めまして』。あたしはクラリス―――クラリス=ケントニス。当代唯一の正当な錬金術師にして『全てを御する者』の名を持つ、れっきとした魔術師だ。まあ、今まで通り鳴上詩音でも構わないけど……そっちは相変わらず不愉快な面をどうも」
何の裏表さえない、真っ直ぐで、だがそれ故に―――残酷な。
時間を越えた邂逅の証だった。
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