第五章 『離絶』−White lie−1
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本質的には視えないモノ。
でもどこか必ず自分で意識する瞬間がある。
それを望んでいる、と。
言わばそれは理想のカタチ。
他の誰にも知りえない、自分自身が求める至高の高み。
それを実現できるかどうかは、文字通り蓋を開けてみるまで分からない。
奥底に眠る『箱』の中に整然と並ぶ理想。
興味はある。
一体自分の理想はどんなカタチをしているのだろうか。
あるいは誰かの理想はどんなカタチをしているのだろうか。
そう、興味はある。
でもこじ開けたいとは思わない。
だってそんなのは、
―――所詮ただの理想に過ぎないじゃないか。
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夢を見ている、と感覚的に理解できる時がある。
例えば見ている世界があまりにも非現実な光景であった時。
例えば自分が知らないはずの視点を手に入れた時。
例えば―――
それが過去の映像だったりする時。
今まさにそんな渦中にある。
あそこにいるのは、幼い頃の私。具体的な年齢は頭がぼやけていて分からないが、少しずつ何かしらの違和感を覚えつつも、まだその正体が何であるのかを理解できなかった頃の私だ。
ここは家の近所にある小さな公園。一見して大した遊具もなく、街中にあるただの空き地、と言った方がいいような場所。それでも子供達にとってみれば恰好の遊び場であり、鬼ごっこをして駆け回ったり、新しく買った玩具を見せびらかしたり、あるいはこじんまりと作られた砂場で思い思いの空想を現実に表現してみたり。そんな日常の一場面。
どういうわけか灰色がかった背景なのは、過去ということで私の脳内が用意した演出なのか、あるいは当時の心境を象徴しているのか。まあ、どちらでもいい。
私は独りだった。
この頃の私は特別誰かを避けていたわけではない。人並みに友情に対しての渇望はあったし、子供ながらの無邪気な社交性も今よりは備えていたからだ。学校に行くような年齢でもなかったので、ここで顔を合わせるだけの名も知らぬ近所の子供達だが、実際に友人と呼べる友達も何人かいた。けれどその日は独りだった。たまたま友達はその時間、公園にはいなかったのだ。
私は独りで、地を這う蟻の行列をじっと見ていた。
彼らはとても面白い。言葉を交わしているわけでもないのに(実際どうだかは知らないが)前の蟻を見失う事なく、しっかりその後を追って行列を作る。知識として匂いを辿っているのだという事を知った今でも、彼らに対する興味は変わらない。
どうして無条件に信頼出来るのだろうか。
前の蟻が間違った道を歩いていないという保証はない。もしかしたら先頭を仕切る蟻は群れを裏切ってわざと間違った道を進ませるような下衆な蟻なのかもしれない。この公園が彼らにとって初めて通る道なのだとしたら、どうして自分だけで帰ろうとしないのか。前の蟻が迷ってしまえば全ての蟻が迷うことになる。そんな恐ろしい真似がどうして出来るのだろうか。そう思うと無性に目で追いたくなるのだ。
人間は、そういう無条件な信頼というものに欠けた動物だと思う。どんなに仲の良い間柄でも、心の奥底には不安と疑念が必ず付きまとう。相手は嘘をついているのではないか、自分の事を本当は嫌いなのではないか、そういう感情は人と接する上で切り離せないものだ。
彼らが羨ましかったのかもしれない。
もしかしたら他の人と違うんじゃないか、そんな不安を抱える自分では到底得ようもない絆で繋がっている気がしたから。
―――あの日もそんな風に彼らを見ていた。
そうして。
私はその日、決定的に悟ったのだ。
自分が普通ではなく『―――』なのだという事を。
……上手く記憶を辿れない。年月によって風化する砂礫みたいに、所々で破損した記憶がある。
私は夢の中にいるのだ。ならばはっきりとした思考を保てないのも道理か。
ほら、こんな風に時間の流れを無視して世界を跳べるのだから。
いつの間にか、砂場で遊ぶ私の前には少年と少女達が立っていた。
少年は私を庇うような姿勢で。
少女達は私を睨み殺さんばかりの視線で。
一体どうしてそんな状況になったのかはよく分からない。
でも。
少女達のリーダー的存在のその娘が言った言葉だけは、しっかりと胸に刻まれている。
『ケガがすぐなおっちゃうなんて、ニンゲンじゃないよ! おかあさんが言ってたもん、ケガはばんそーこーをつけないとなおらないって! ―――この、』
悔しくて悔しくて仕方なかった。
内心自分でもそうなんじゃないかとは思っていたけれど、改めて他人から、しかもいつも自分に嫌がらせをする名前も知らない相手から言われると、無性に腹が立って、言い返せない自分が悔しくて、涙が零れないように必死に堪えていた。
泣いたら負けだと思った。
私の人格が決定されたのは、多分その瞬間だ。
自分は普通ではない。
自分はヒトとは相容れない存在。
その時初めて、家に帰ってから庭にいた蟻を次から次へと潰した。潰しても潰しても足りなかった。興味と好奇は憎悪の材料でしかなかった。
無条件の信頼なんて嘘だと思ったから。そんな世界は在り得ないと思ったから。
……ただ、嫉妬していたのかもしれない。
彼らと同じようにヒトを信じる事ができない私は、いじめっこの汚い言葉に言い返せない私は、出来損ないなんだと認める事しか出来なかったから。
そうして私の自分勝手な回想録は幕を閉じる。
どうやら私は目覚めるようだ。
漠然と、こうして振り返った過去のどれだけを覚えているんだろうと思いながら、
睡眠から覚醒すると、すぐさま耳元で騒ぐ目覚まし時計を止める。寝惚けた頭で周囲を見渡すと、見慣れた自室があった。そんな当然の事が何故か懐かしい気がする。
夏の盛りに迎える朝は、クーラーの恩恵もあってか割合快適だ。寝汗をかかずに寝ていられるというのは、電気代という不条理な簒奪者が登場するまでとりあえず身の回りにある小さな幸福なのかもしれない。……とは言っても料金を払うのは私ではないが。
顔にもたれかかってくる髪の毛を一度払ってから、さて、と深呼吸する。
今私はいつかの夢を見ていた。内容はもうほとんど思い出せないけれど、それが何であったかは覚えている。
……あれは確か、日記を書き始めた理由だ。
きっかけさえ確かなら、忘れていた過去も徐々に思い出してくる。何だかとても悔しい事があって、どうしてもそれをどこかに書き留めておきたくて、日記帳を買った。最初の一ページ目は拙い字で書かれたひどく程度の低い文章だったような気がする。
不思議なもので、一度書き始めると意外にあっさり習慣になってしまった。今では意識しなくても夜寝る前に日記帳を開く癖ができている。特別意味のある文章を書き留めてあるわけではないけれど、私という存在が感じた心の記憶を残すという作業は割と気に入っていた。
ふとそこで根本的な事実に気づく。
……私はどうして目覚ましをかけたのかしらね。
今は夏休み。規則正しい生活をある程度心がけているとは言え、休日にまで目覚ましで起きる程無粋な真似はしない。私だって睡眠を至福と考える感性くらいはある。
背筋を伸ばしながら少し真剣に考えていると、ゆっくりと脳が活性化してくる。そうだった。確か今日は登校日だったはずだ。
成程、と妙に納得し、早速準備を始める。学校のある日は余裕を持って起きるようにしているが、かと言って無駄に呆けている時間が用意されているわけでもない。
とりあえず私も一応女であるからして、やる事は色々とあるのだ。
まず一目散に浴室へ向かってシャワーを浴びる。やや温度を低くした冷水で身を引き締め、適度に身体を拭いて制服に着替える。それが終わったら用意された朝食を摂り、最後に洗面台の鏡で一通りの身だしなみを整える。これが私の朝の過ごし方だ。
鏡の前で髪型の最終チェックをしながら、目の前に映る自分自身の姿を思索してみる。
鏡に映る私は昨日までと何ら変わりない。
それでいい、と思う。こうやって何もない日々が続くのが何より尊い。最近ではそういう年寄りじみた達観がある。
いつも通りの日常。
それはようやく昨日手元に戻ってきたものだ。
昨日の夜、行方不明になっていた麻美が、いなくなった時と同じく唐突に帰宅した。その連絡を麻美の両親から受けて慌てて電話をかけた私に、散々最悪な想像とか不安を抱かせた当の本人はいたって軽い調子でこんな事をのたまった。
『いやー、ちょっと自分を見つめなおしてきたよ』
まったくもっていい気なものだ。どれ程心配したと思っているのか。
色々と言ってやりたい事もあったが、声色から察するにどうも麻美は疲れている様子だったので、説教その他はひとまず保留という事にした。私だって鬼ではない。執行猶予くらいは与える寛大さがある。
とは言っても今日はしっかりと追及するつもりでいる。いつもはからかわれてばかりの私だが、今日こそは立場が逆転だ。
ふふっ、と自然に笑みがこぼれる。自分で言うのもなんだが珍しい。つまりそれだけ、私にとって麻美が大切な人間だった、という事だ。
そう。いなくなったと聞いて不覚にも恭司に取り乱した声で電話を掛けてしまうくらいには。
「……嫌な事を思い出したわ」
元の鞘にとはこういう事なのか、気紛れに出てきた私の笑顔は一瞬にして奥底へと引っ込んだ。
何という暴走か。今思い出しても恥ずかしい。鬼の首でも取ったと言わんばかりににやける恭司を想像するだけでぞっとする。その辺りの文句も麻美に言ってやる事にしよう。
―――ああそうだ、恭司と言えば。
一つ気になったのは、昨日麻美が帰ってきたという事を電話で教えた時、どうにも恭司の口調に違和感があった。何が、とは上手く言えないが、いつものあの男なら諸手を挙げて喜びそうな話なのにやけに静かに聴いていたような。返事もああ、とかそうだね、とか短くて素っ気ないだけのものばかりだった気がする。
……別に長い会話を期待していたわけではないが。
恭司とて年がら年中お人好しというわけではないだろう。あんな男でも虫の居所が悪い時くらいあるかもしれない。そう納得するしかない。
確かに釈然としないのも事実だが、私が気にしていても仕方がない。相談があるのなら言えばいいのだ。私でも話くらい聞いてあげる事はできるというのに―――
ふと我に返る。
……何を考えているんだか。まるで相談してもらいたがっているみたいに。
馬鹿みたいね、と一言呟いて首を振る。そんな思考は時間の無駄だ。
とにもかくにも、まず麻美の顔を見なければ。
「行ってきます」
両親に挨拶して家を後にし、見慣れた道を学園に向けて歩き出す。
室内と違って屋外の太陽は容赦ない熱と光を持って私を攻め立てる。せっかくシャワーを浴びても歩き始めてすぐに身体が汗ばんでくるのは、何とも言えない不快感だ。
しかし今日の私はその程度では鬱にならない。暑さなど些細な問題だ、と柄にもなく意気込む。
―――この時は、まだ。
今日という日が復活した日常の延長である事を、疑いもしなかった。
身に染みるような木枯らしが今だけは恋しい……なんていうのはやっぱり都合のいい発想だろうか。
そんなことを考えながら僕は自宅へと戻ってきていた。
さっきまでの暗澹たる思いなどどこかへ行ってしまうくらい、とにかく暑い。昼を過ぎて気持ち悪いくらい気温が上がってるし、今も太陽が元気に仕事中だ。ついでに言えばこの立派な鞘ごしらえの剣。手に馴染む感じがする割に凄く重たい。
あ、もちろん剥き出しで持っていたりはしていない。ちゃんと布袋を被せてあるし、弓形に反っているとは言えぱっと見には剣道の竹刀か木刀か、という風に見えるはずだ……と信じたい。まさか僕だって銃刀法違反で捕まるような真似はしたくないし。
ともかくこんなモノを持って歩けば汗だくにもなるし、アパートの階段が果てしなく長いような気もしてくる。ついでに言えばぶんぶんと活力いっぱいに飛び回る虫たちもうるさい。だから夏には秋か冬を、冬には春か夏を焦がれるのは、もう四季のある国に生まれたら最初から刷り込まれた本能みたいなものなのだ。
それでもとりあえずは帰宅完了というわけで、階段を上りきってしまった今、後はこの廊下の奥にある僕の部屋へと飛び込んでクーラーでも付ければ万事オーケーだ。今だけはエネルギー問題と電気代の請求について考えるのは止めることにした。
それにしても……何だって僕はこんな剣なんか持ち出したんだっけ。
疑問に思いつつ我が家のドアを開こうとして。
……またか。
恐るべきデジャヴが展開する。
鍵が掛かっていない。そして半開きにしたドアから視線を下に向ければ、いつか見た誰かさんの靴を確認してしまい、呻く。
「……姉貴」
「おじゃまさま」
部屋の中から気の抜け切った声と共に冷涼な空気が届く。……姉貴め、勝手にクーラーを付けてるな。
脳の奥にある思考ゴミ捨て場に置いたはずの請求書が復活を遂げる。あと何日かすればたかが一枚の紙切れを目の前にして僕はきっと頭を抱えているだろう。
……ともかく。
侵入者に占拠された我が家に入り、憤然、という表情を作って、へらへらと笑う姉貴の前に座る。
Tシャツにジーンズといういつもながらのラフなスタイル。しかし僕にしてみればそれは分かりやすいくらいに嫌なイメージの権化であった。
「来るなら来るって言ってよ」
「だって恭司、携帯電話置いてったみたいだし、それに、」
と脇に置いた剣をあごで示し、
「忙しかったみたいだしね」
何だかよく分からないが姉貴は僕の用事を知っているらしい。
……僕でさえ何なのかよく覚えてないのに。
そして本当に携帯電話を忘れて行ったらしいことを確認して、そんなに焦って何をしていたのだろう、と他人事のように疑問に思う。
これは好都合かもしれない。ここ何時間かの空白を埋める手がかりらしき人間が目の前にいるのだから。
はっとして同時に気づく。
「姉貴、僕がどうしてこんなもの持ってたか知ってるだろ。……というか姉貴の差し金じゃないのか?」
「まー半分当たりってとこだね」
やはりか。
僕にとって面倒なことの原因は大抵姉貴にある。今回もまたその例に漏れなかったということだ。
「……説明してよ」
「自分で分かってるんじゃないの?」
分からないから訊いているのだが……
ふと姉貴はおやっ、と首をかしげてみせ、急に真剣な表情になって目を細めてこちらににじり寄って来た。
「もしかしてこいつは……」
「ど、どうしたんだよ急に」
少し引き気味になって返す。
姉貴が真剣な顔になるなんていうのは十中八九良くないことの前触れだ。
それでも結果的には姉貴自身の手によって事態は解決する。しかも考えうる限り最善の形をとって。
いつもはこっちが呆れるくらいに何も考えていないような素振りをしているくせに、いざというときはどこまでも頼りになる存在に早変わりする。
羨ましくて、そして少し悔しいくらいに。
そんな生きる超常現象じみた姉貴はじっと僕の方を見つめ、不意に、
―――ビシィ!!
と、骨に致命傷でも与えかねない轟音を響かせて、僕の額に本気のデコピンを放った。
「痛っ!!」
たまらず額を押さえ、少し涙目になりながら僕は突然の暴行に抗議する。
「いきなり何するんだ! ……って、あれ?」
手で触れた辺り、額からその奥深くに潜ったような、頭の芯とでも言うべきその場所に、疼くものがあった。
当然痛みはある。だがそれは表面ではなく、もっともっと遼遠な深層に響く波紋。
何か、大切なことを忘れている気がする―――
「あっ!」
途端、駆け抜けていく記憶の残滓たち。
きらきら光る粒子を手に掴もうとするイメージ。
最初は零れていくけど、一つ一つかき集めることで徐々に明確になっていく欠片。
やがて僕の頭の中で曖昧だったついさっきまでの出来事が鮮明な現実となって巡り始めた。
そうだ、僕は新藤に得物を持ってやって来るように呼び出されて……
「家に置いてあった、あの剣を持って……」
「思い出したみたいだね」
姉貴はその美麗な栗色の髪を梳きながら、僕へと優しい笑みを浮かべる。
だが僕はそれに和んで笑みを返せるような状況ではなかった。
排除されていたはずの過去を手にしたことで、それに連鎖するあらゆる記憶が僕に襲い掛かっていた。
剣を手にすることで自分を見失ったあの瞬間と、その契機となったもう一つの事件。
……先生を、目の前で死なせてしまった、あの、
「うぅあっ……!」
鈍い痛みが脳髄に奔る。どうして気軽に笑ってなどいたのか。どうして忘れようとしていたのか。僕は、僕はみすみす先生の自殺を放置して―――
そして自分の存在が確かではなくなった。それから誰かと電話で話したような気がするが、多分そのときは正気を失っていた。
それで今日の昼前に新藤の呼び出しを受けて。
僕は再び、囁きかける『何か』の声に従ってしまった。
七瀬と約束したはずなのに。
もう二度と、彼女を傷つけるような真似はしないと―――
「恭司」
思考の泥沼に嵌る僕に、差し伸べられる救いの手。
倒錯にも等しいほどに感情の奔流に揉まれる僕でさえ、一瞬で我に返るほどの、
それはどこか悲痛な決意を秘めた言葉だった。
たった一言僕の名を口にするために、ありとあらゆる力を総動員して振り絞ったような、そんなぎりぎりの投げかけ。
無視することは、できなかった。
「……姉さん?」
知らず知らずのうちに昔の呼び方をしていた。どうしてだろう。自分の力で歩くと決めたときから、姉貴に守られているだけじゃいけないと覚悟したときから、決して口にするまいと思っていたのに。
姉貴も少しだけ驚いた様子で目を丸くするが、そんな珍しい表情もすぐに消え去る。
やはり残ったのは死地に赴く前みたいな、悲壮な覚悟を滲ませた瞳。
「懐かしい呼び方をありがと。何となく元気をもらった気がする」
「そう……」
「ねえ恭司、何があったの? あんたはいつも強く笑っていたはずだよ。そんな泣き出す手前みたいな顔の似合う子じゃない。……話してごらん。あたしが、あんたの姉であるこのあたしが、責任持って最後まで聞き届けるから。……そしたら、」
一旦区切られた言葉の後、姉貴が深く息を吸うのを見逃さなかった。
吐息に乗せて、それは紡がれていく。
何かにとって決定的な境界線。
―――日常が非日常に移り変わる、宣告を。
「本当はこんなもの視たくなかったんだけどね……視えちゃったものは仕方ない。だからあたしもあんたに話そう。ずっとあんたに隠していた―――この世界の真実を」
僕には、それを言ったときの姉貴の顔のほうがよっぽど、泣きたがっているように思えた。
夏休み中の登校日にやる事と言えば、大会で活躍した生徒の表彰とか、終業式に続いて夏休みの心得とか、所詮そんなものばかりだ。八月になればじきに始まる受験対策の課外授業ならともかく、私が今日学校で過ごした半日は、恐らく学校生活で一、二を争うくらいの蛇足だったに違いない。
正直な話をしてしまえば、他人の活躍などどうでもいいのだ。
そう思っていたのが私だけではない証拠に、こんな日にわざわざ学校にやって来る生徒の数は明らかに少なかった。うちのクラスの教室を軽く眺め回すだけでも空席がちらほらと見受けられたし、私だって麻美に会う用事がなければ登校などしなかっただろう。
極めつけは、うちのクラスの担任さえもボイコットをしたという事だ。正確には休み中に体調を崩して入院しているらしい。校長だったか教頭だったか忘れた教員が教室にやって来て、彼女はしばらく学校に来られない旨と、英語の課外授業は別の教員が担当する旨を無用に回りくどく説明していた。
過程はどうあれ、担任さえもいない登校日というものに意義があるはずもない。
……こんな登校日では常勤の教員ではない恭司もいない事だし。いや、何でもない。
ああもうどうして私が恭司の事など気にしなければならないのか。電話の応対がおかしいという漠然とした理由で勘繰るなど、まるで私が恭司を心配しているみたいではないか。気にならないとまで言うつもりはないが、今はそれより気になる相手がいるというのに。
掴みどころが無い癖に無性に腹立たしい気分になりながら、麻美の家へと続く道を歩く。
形ばかりの登校日はつつがなく終了し、正午近くなって、ますます陽射しが強くなってきていた。夏には定番のセットで気温も不必要に上昇し、今や私が存在する世界全てがサウナにでもなったみたいだ。汗は勝手に溢れ出てくるし、じとっと肌に張り付くブラウスはできる事ならいっそ脱ぎ去りたい。シャワーを浴びたのがもう何日も前のように感じる。
表面に焦げ跡でも付きそうな熱気に包まれながら、私は心の中で愚痴をこぼし続ける。本当にそうでもしないとやっていられない。
というのも。
登校日に学校へ行く目的は麻美に会う事だったというのに、麻美は今日学校を休んでいたからだ。
そのせいで手持ち無沙汰な私は、不覚にも恭司の事などを考えて今日一日イライラしていたわけである。
不幸にもというべきか私にとっての数少ない相談相手であり、普段は呼んでもいないのにのこのこやってくるくせにこういう時に限って学校にいない。仮にも教師という立場にいる割に何てはた迷惑な人間なのやら―――そんな具合だ。
そうだ、こんな風に考えるようになった原因であるあの……デートは、麻美の策略でもあったわけだ。あの日に麻美がいなくなったからその思惑を訊く事もできずにいたわけだし、恭司の事を考えるハメになった事を含めてこれはいよいよ本格的に文句を言わなければならない。多少冤罪気味なのは自分でも分かるが、しかし親友である私に嫌という程心配をかけたのだ。それくらいの犠牲にはなってもらわなくては割が合わない。
ふと嬉しくない想像をしてみる。
これでもし麻美がサボりなどという事になれば、いよいよ私の徒労ではないか。この暑い中に学校くんだりまで来て目的の麻美はズル休み。これほど理不尽な事はない。
……まあ、昨日電話した時の麻美の様子からして、大事を取ったのだろう。いまいち状況は把握していないが、何せ6日もの間行方不明だったのだから。まったく本当に何処で何をしていたのやら。
そこまで考えて合点する。私は何を麻美が学校に来て当然のような思考をしていたのか。むしろ学校に来る方がおかしい。麻美の両親だって相当胸を痛めたのだろうし、昨日の今日では例え麻美が学校へ行こうとしたって止めるはずだ。
……何だ、結局最初から私の思慮不足が悪いんじゃないか。
自業自得、と考えると何となく気に入らない。
こういう場合、つまるところ私が八つ当たりする人間なんて一人しかいない。
全部恭司が悪い。
それでいいか、と一人納得した頃には麻美の家のすぐ近くまで歩いて来ていた。
少し視線を高くしてみる。
何の変哲も無い住宅の屋根をいくつか越えると、雲一つ無い蒼い空を背景にして一際背の高い家があった。というか、一目で判別できる豪邸があった。
何度見ても慣れる事はない。
一ノ木市内で五指に入るだろう大邸宅―――それが麻美の自宅である。
名家と呼ばれるだけあって家の規模も大したものだ。どれくらいの規模かと言えば、一般的な感性を持っていれば必ず門をくぐるのに二の足を踏むくらいの規模である。私なんか初めて麻美の家に呼ばれた時はインターホンを押すまでに10分近く硬直していた。言い訳するようだが普通自分の知り合いがこんな馬鹿みたいに巨大な家に居を構えているなどと想像しようもない。何度麻美に確認を取ろうとした事か。
ちらりと見える範囲でも気持ち悪いほどの広さだというのに、離れや別荘まであるらしい。全体を合わせて何坪の土地を所有しているのかなんてもう、考えたくもない。
……相変わらずね、ここは。
来る度に何となく後ろ暗い気分になる。決して場所そのものの居心地が悪いというわけではなく、むしろ快適過ぎるくらいに快適なのだが……心が居たたまれないのだ。
私は、こんな大きな家でくつろいでいいような人間じゃない気がして。
麻美はとてもいい娘だし、麻美の家族もとてもいい人達だ。こんな私に『これからも麻美と仲良くしてあげて』と言ってくれた事は、今思い出しても凄く嬉しい。
でもそれだけに―――あの人達がいい人達であればあるだけ、私とは違う世界の人間であるような気がしてならない。家柄がどうとか、自宅の大きさがどうとか、そんなのは取り繕うための言い訳で、結局……人として私に欠けている部分を見せ付けられているように思えてくるのだ。それにもし必要以上に好意を持ってしまえば……麻美はともかく、その家族が狂気の対象になってしまう可能性だってあるのだから。
こんな考え方をする私自身に自己嫌悪を抱く。情けない。誰もが誰も私を責めているなんて、どんな被害妄想なのか。
……結局、陽の当たる場所が眩しいだけなんだ、私は。
ふっ、と吐息を漏らす。
気落ちしている場合じゃない。今日は麻美に話を聞きに来たのだ。冗談を抜きにすれば、どうして行方不明なんかに―――真意があると、私は思う―――なっていたのか。もしかしたら自分から出て行ったのではないか。一言相談があっても……いや、それは無理か。もし私が麻美の立場だったら、自分の事で迷惑を掛けるような真似はしたくない。どちらか、という選択肢を提示されれば、私なら間違いなく麻美には黙って家を出る。きっと麻美も同じ思いだったはずだ。
だからもし家を出た理由が彼女の心にある痛みなのだとしたら、私はそれを取り除いてあげたい。
よし、と意気込む。
今はもう、眩しいセカイに気後れするような事はない。そんなものより大事な事がある。
―――ぐるぐると渦を成して私を苛む思考を除去し、ようやくという思いで麻美の家の門へと辿り着いた。
立派な構えの、まさに門といった風体。高さこそ二メートル程度だが、視線を横に巡らせばずっと塀が伸びているのが確認でき、左右両側共に一ブロック先の彼方で折れ曲がっているのが見える。つまりそこまでずっと門の外壁が続いているという事だ。考え事に夢中だったが、冷静に考えればこれだけで麻美の家の尋常じゃない程度が知れるというものだ。
もちろん本来の防壁としての機能も万全だ。そこかしこに防犯対策の設備が備え付けられていて、目に見える範囲で監視カメラが一つ、二つ、……いや、もういい。
ごほん、と咳払いして、佇まいを正す。外観にとらわれてはいけない。見るべきモノはその中身だ。
意を決して門の脇に設置してあるインターホンを押す。
手に汗が浮かぶ。落ち着け。私の目的はただ一つ。麻美に会って話をするだけ。何もない。何も起こらない。そう言い聞かせる。
……何なの、この悪寒は。
インターホンを押した瞬間から私の中に爆発的に広がって行く危機感。この家の中が、まるで魔性の巣窟のように思えてくる。
何を、私は、考えて……?
インターホンが鳴り止んでから数十秒。しかし誰かが応答する気配はない。
留守?
まさかそんな事はないだろう。少なくとも学校を休んだ麻美が家に居るはずだ。
もう一度押してみる。
……やはり応答がない。
ここに来て悪寒はいよいよ本物になってきていた。漠然とした嫌な未来が奇妙な既視感となって脳内に投影される。
何か、麻美の身に……
焦る。このまま中に入る? しかし本当にただの留守だったら? 侵入したと間違われてあの温かい家族にさえ見放されるような事に―――
「……迷ってばかりでは、駄目」
頭を振り、口に出して言葉を生めば、それは実体を得た力になるようだった。
私の予感はこと悪いベクトルに関しては的中する。
ならばこの中では必ず、私にとってロクでもない事態が起こっているはず……
―――仮にただの杞憂だったとしても。
必死に説明する私に呆れた視線を向けられようとも、妄想癖だと謗られようとも、それでこの悪寒を無かった事にできるのなら。
……行こう。
異界と現世を隔てるように聳え立つ門戸。それにそっと手を当てる。
重たげな音を響かせながら、わずかに扉が開く。
予想通り鍵はかかっていない。
ごくり、と唾を飲み込む。
背筋を伝う汗と、張り付くブラウスの不快感を必死に無視する。
門をくぐった。
開けた視界には綺麗に手入れされた庭が広がり、その奥に麻美宅の玄関が映る。
一歩、一歩を踏みしめて歩く。足取り軽く、とはいかない。踏み出す脚に力が入っているのが自分でも分かる。
……大丈夫、大丈夫。
強迫によって自分の不安を取り去れるなら、そうしたい。いくらでも思い込んでやれる。麻美は無事だ。インターホンに出なかったのはただ昼寝をしていただけで、家族は買い物か何かで留守で、勝手に心配して勝手に入ってきた私を困ったような、でも嬉しそうな笑顔で迎えてくれる―――
どれほどかの時を経て、玄関の前に立った。物理的な距離も長かったが、それ以上に精神が近づくのに幾許かの抵抗を感じた。
全部私の妄想であって欲しい。
ノックをし、やはり反応がない事を確認してから。
……ゆっくりと、家の中へと踏み込んだ。
―――そして。
結論から言おう。
麻美は無事だった。……だが。
―――それ以外のモノが、身体の中にあるあらゆるモノを無残に散らした姿で、至る所に転がっていた。
眩しくて憧れだったはずの場所は、粘つく赤と、狂気の紅と、異常なまでに犇くアカによって支配されていた。
ただの一色に染め上げられた世界に一人佇む女は、三日月のように口を開いて嗤う。
それは、麻美に似ていた。
姉貴は僕の話をずっと黙って聞いていた。いつもなら茶化すような話でも、真剣に、言葉一つ挟まずに。
結局、僕は姉貴を頼りにしてしまう。それは悔しい、悔しいけれど。
僕の苦悩なんてきっとちっぽけなものだ。姉貴の様子を見ていれば分かる。姉貴はもっと大事な何かをずっと前に決意して、それを頑なに守り続けてきた。そしてそれが―――僕に関わりのあることだということも。
姉貴はずっと、僕が一人で生きていると思い上がっているときでさえも、僕を守ってくれていた。
だから僕も徐々に鮮明になっていく記憶を必死に伝える。姉貴の想いに応えたいという一心で。僕の傲慢な独りよがりなんてどうでもいい。それが姉貴への、僕にできる精一杯の礼儀と感謝だと思ったから。
話しつつ記憶を整理する。篠原先生から突然電話がかかってきたのが昨日。切迫したような様子からただごとじゃないと判断して先生の自宅へ向かい、そして彼女は僕に笑顔を向けたまま息を引き取った。
止めたかった。止めたかったけど、あの優しい先生ががあそこまで悲痛な顔をして『死なせて』と言ったのだ。……正直に言おう。あのとき僕は身が竦んで動けなかった。文字通り死ぬ気の決意というものを、全身で感じ取ってしまったから。
僕は自分が壊れていくのを知りながら、その惰性に身を任せた。早い話が自棄になっていたのだ。何もかもどうでもいいと。あれほど拘っていた七瀬のことでさえも頭の奥のどこか片隅に棄て去るようにして。
そんな状態のまま今日という日を迎え、やはり確かな自分を保てないまま、新藤からの連絡を受けた。壊れた脳が本当なら聞き流すはずのその会話をそうせずにしっかりと受け取った。何故か。『剣を持ってこい』という新藤の言葉があったからだ。
剣。それ単語を耳にした瞬間、僕は何かに呼ばれたような気がした。
いつかどこかで聞いた、僕の根源を揺るがすような悪魔の音色。僕の気一つで振り払うことができるはずのそれに、僕は僕というモノを捧げた。ロクに思考もできないような頭に直接作用する、とても甘美な誘いのように思えたから。今にして思えばその時点で僕は剣に操られていたのだと思う。偶然が招いたのか、置いた覚えもない魔剣と呼ばれる代物が僕の部屋にあった。まるで僕を待っていたかのように。
そして剣の柄を握ると、あるべき形に納まったのだと錯覚するほどに手に馴染んだ。同時に、麻薬か何かのように手放せない束縛が施されたようだった。
身に眠る衝動を蘇らされ、剣に導かれるままに新藤と戦い、結果……僕は自分を取り戻せた。ただ一つ、七瀬との約束を想って。
僕は彼女を護れる男でありたかった。力はそのための手段で、目的じゃないことを思い出したのだ。
だから新藤には感謝している。彼がいなければ……最後の最後で彼が呼びかけてくれなければ、僕はこんな簡単なことさえ見失ったままだったのだ。
―――そしてその辺りから記憶に混濁が生じる。ある一時を境にして僕の中から新藤についての記憶が消え去り、連動して契機となった先生のことも忘れ去った。
僕自身では何が起こったのかは理解できない。ただ一瞬、誰かの心の悲鳴が聞こえたような気がした。
僕が知ることは、それだけだ。
そこまでを一気に話して、僕は息を整えた。意識して深い呼吸を繰り返す。軽い酸欠を覚えているのはそれだけ必死になっていたからだろう。
言えるだけのことは言ったつもりだ。
姉貴はやや俯いた姿勢で腕を組みながらぶつぶつと独り言を言っている。話の途中から咥え始めたタバコがそれに合わせて上下する。ああやってリズムを取るようにしているのは姉貴が本気で思考するときの癖だ。僕がもたらした情報を頭の中で噛み砕き、得心がいくように整理しているのだ。
僕は揺れ動く白を目で追いながら、黙ってその作業を見守る。
姉貴ならきっと答えを出してくれるはず、そう信じて。
やがて姉貴はよし、と一つ頷き、僕へと向き直った。
「大体のところは納得した。順序だてて説明しようか」
「うん」
まず最初に、と姉貴は言った。
「この剣がこの部屋にあった理由からいこう。これは明確。あたしが置いた」
「……何だって?」
いきなりヘビー級ボクサーのパンチが飛び出してきた。すんでのところで避けたものの、下手をすれば致命傷になりうる力が僕に襲い掛かってきた、というプレッシャーで動揺している感じ。……うん、いまいち僕にもよく分からない喩えだ。
つまりそれくらい理解不能ということ。
この剣が……姉貴の仕業だって?
姉貴は少しだけばつが悪そうにして、
「いや、うん、悪いとは思ったよ。まさかこんな状況が重なるとは思ってなかったんだ。そろそろいい時期だし……きっとあんなものの『声』なんて突っぱねられると思ってさ。ちょっとした確認のつもりだったんだけど」
「確認って……」
「ほら、覚えてない? あんた昔、親父の蔵に忍び込んで魔剣に魅入られたことがあったでしょ?」
「ああ……うん。何となくは」
つい最近そんな夢を見たような気もする。
魔剣とまで呼ばれた曰くつきの代物。それを好奇だけで持ち出そうとして、自分を見失った。我ながら愚かしい過去だと思う。
「一応その時はちゃんと魔剣を封印したんだけど、ちょっと失敗して、魔剣が持つ意識があんたの中に少し残っちゃったんだよ」
こん中にね、と僕の胸のあたりを突く。
「あの魔剣の銘は……今は『血染めの月』って言ってね。通称では『魂封じ』なんて言われてるけどまあそれはいい。とにかく魔剣としては結構なクラスの業物で、とにかく性根がしぶとい。完全に封印できれば言うことなしだったんだけど、あいにくそういう専門家が出払ってたからさ。あたしじゃちょっと手落ちがあったわけ」
え、ちょっと待て。魔剣の銘とか質とかはともかく、今の話を聞くとおかしな点が一箇所ある。
「魔剣を封印したのは姉貴なのか?」
「うんそうだよ」
それこそおかしい。だって、
「姉貴は別に魔術師じゃ……」
と、そこで口を滑らせたことに気づく。
姉貴には、僕が師匠から魔術について聞いていることは教えてなかったんだっけ……!
「いや、何でもないよ、姉貴」
じろり、と僕を睨んでくる姉貴の冷たい視線にしどろもどろとする。まずい。非常にまずい。
「待ちなよ恭司。魔術師、だって? 何でそんな単語が出てくるのかな?」
「な、何のこと? 僕はそんな魔法みたいなこと姉貴にできたのかーなんて言おうとしてただけで……」
うあ、姉貴の視線が凄く痛い。目で殺す、なんて言葉があるけど、見るだけでこんな物理的な(いや、精神か?)殺傷力を持つとは……
―――この様子じゃあ、見逃してもらえるわけないか。
やがて根負けした僕は両手を挙げて、
「悪かったよ。そう、魔術って話は色々聞いてたから知ってたんだ」
そうしてかいつまんで僕と師匠の話をする。とは言っても包み隠すようなことは何もない。基本的に魔術というものの存在が実在のものであるということと、どういう魔術が存在しているのかということのほんの一部、それくらいしか教わっていないからだ。ましてや魔術そのものなんてもってのほかで、師匠から実際に習練させてもらっているのは陶器作りを通じて、物事を見極める眼力を鍛えることくらいだ。
おかげで今では『異能の力』を持つ人間を見抜くことだけはできるようになったりしたわけで。
その辺りの話を姉貴はうんざりとした顔をして聞いていたが、やがてほうっ、と大きなため息をついた。
「ほんっとーにあんたは余計なものにばっか関わるんだから……」
もしかして今凄くバカにされているんではないだろうか、とは怖くて聞けない。多分姉貴は即座に確実に深々と頷くからだ。
「陶器を作ってる話は聞いてたけど、その師匠が魔術に関わる人間だとはねぇ……何の因果なんだか」
やれやれ、と肩を竦める。
そんなことを言われたって僕にとっても不可抗力だ。元々僕は魔術を習いたかったわけじゃないし。
「それより姉貴の方こそどうして魔術なんてものを知ってるんだよ。それに……僕には姉貴が魔術師にも視えない。封印なんてどうやって……」
すると姉貴はにっ、と勝気な笑みを浮かべた。記憶のライブラリを検索すれば、あれは何かを自慢げに話すときの顔に非常によく似ている。
何を言われてもとにかく右へ倣えで頷いておこうと内心で思いながら返事を待つ。
「とりあえず封印したのはあたし。これは動かしようもない事実。それができたのはあたしが魔術を識っているからで、どうして識っているかと言えばあたしは魔術師だからってことになる」
もはや隠す気もなくなったのか、平然とそんなことを言ってのける。
姉貴が……魔術師。
目の前が真っ暗になるような感覚を覚えながら、しかし必死にそれを堪える。まだだ。まだ全てを投げて倒れるわけにはいかない。まだ尋ねることはたくさんある。
全身の気合をフル活動させて正気を取り戻す。
「でも姉貴は全然そんな、」
「魔術の残り香みたいなのを感じないって? そりゃそうさ。今のあたしは魔術師じゃないもの」
「……僕には要領を得ないんだけど」
「つまりスイッチがあるのさ。昔からあんたに真理を見抜く眼の才能があったのは分かっていたから、あたしが魔術師じゃないと偽装する必要があった。その頃色々あってちょうどいい偽装手段が思いついたんで、恒常的にそれを発現させてたんだよ。あんたの眼は異能に関して反則みたいな感度を示すけど、当然の話、それ以外の人間はいたって普通に見える。だからあたしが普通の人間であれば眼は反応しない。ほら、道理でしょ?」
そのスイッチが何であるのか、ということは姉貴は教えてくれなかった。
曰く、
「基本的に魔術師は自分のことを隠すものさ。魔術が表向きにも跋扈していた大昔ならともかく、現代においては魔術それ自体もそうだし、自分がどんな魔術を行使するのか、とかも口外しない。あたしがあんたに自分が魔術師だと教えただけでも感謝してもらいたいくらいだよ」
だそうだ。
となると自分から正体をバラした師匠やあの慎也なんかは珍しいタイプということだ。……確かに納得できる気がする。色々な意味で。
まあいい。とにもかくにも姉貴は魔術師であって、その知識がある。だからやたら色々なこともお見通しだった、そういうことだ。
それを僕に隠していたのは、きっと姉貴なりに僕を心配してのことだったんだろう。魔術師なんてモノに関われば、命の危険さえ日常の範疇だ。それを身を以って知る前に、僕を遠ざけようとしたに違いない。
だとすれば、感謝こそすれ責めるいわれなどないわけだし。ならばもう気にすることでもない。
「ところでこっちからも質問だけど、あんたの師匠って何て名前?」
「磯部時宗だけど」
「磯部……時宗、ねぇ」
「知ってる? 魔術師として有名だったりとか?」
「いや、全然聞かない名前だよ。近場にいる魔術師なんて把握してると思ったんだけど……偶然に6つ目が開いたのかな。魔術知識なんて、使えるかどうかを別にするならアングラを探せばいくらでも出てくるし……うーん、まあ名前の知られてないようなフリーの魔術師もいないわけじゃないしね」
6つ目、というのは6つ目の入力回路、俗に言う第六感というものに近い知覚なのだそうだ。魔術理論を計算するにはこの6つ目の入力回路が必要不可欠で、実際に魔術を行使するのは新たな出力回路が必要なのだとか。ここまでくるともはや正規の教えを受けていない僕にはもうちんぷんかんぷんだったりするが。
魔術講義、という言葉を思い浮かべて何となく面白い気分になる。現代でこんな話を大真面目にしている人なんてのはそうそういないだろう。
「それで魔剣に話を戻すけど、」
姉貴の言葉で本来の会話を思い出す。そうだった。僕の身体に魔剣の意識が残ってた、っていう話だっけ。
「その魔剣の意識ってのが狂ってるくらいに好戦的なんだ。まあ魔剣なんて大概人を斬りたくて仕方ないっていう怨霊じみたものが多いわけだけど、あんたのはさらに別格。たかだか意識の断片しかないくせに、本体の人格に影響を与えちゃうくらい強いんだ。ほら、あんたっていつも剣を握ると性格変わるでしょ?」
「そうなのかな……あんまり自分では意識してないけど。ああでも、普段以上に妙な昂りを感じるとは思う」
「それが魔剣の影響さ。でも別にそれくらいなら大した被害じゃない。よくいるでしょ? ハンドル握ると性格変わるドライバーとか。うちの流派も剣を握るとそもそもの人格を戦闘用に切り替えるなんて型を基本にしてるくらいだからね。多少好戦的になっても勝負においては何の問題もないわけ」
「じゃあ……何が問題なのさ?」
「あんたが魔剣の意識を封じ込められているうちはその程度で済む。でも、もし我を忘れたり、どうしようもないほど自棄になっちゃったりすると……」
「……魔剣が本来の人格を乗っ取るってことか」
合点する。
つまり新藤と戦ったときの僕みたいになるということだ。あのときは新藤を殺すことに対して何の抵抗も感じていなかったし、まして誰かを護るなんていう思いは一切存在しなかった。剣の道にあるべき姿を完全に見失っていたということだ。
「先生の死を目の当たりにしたことであんたは確固とした自分を揺らがせてしまった。だから魔剣に支配されたんだ。……あたしもタイミングが悪かったよ。反省してる」
ごめんね、と言われても、それは別に姉貴が気に病むことじゃない。『剣を握るのは人にあって人にあらず。主導を持つのは人の心である』という鳴上の教えを忘れた僕自身の責任だ。
「まあでも、もう大丈夫みたいだけどね。あれだけのことがあって、今はそうして曲がりなりにも冷静さを取り戻してるし」
「インパクトのある会話ばかりだからね……さすがに落ち込んでる余裕もないというか」
たまらず苦笑する。
でも本当に、今度こそはあんなバカな真似をしないようにしないと。
まかり間違って七瀬に刃を向けてしまうようなことになれば、僕はもう……
「はいはい悩まないの青年」
ぴんっ、と今度は先ほどとは比べるべくもない優しさのデコピン。
その穏やかな刺激が僕の迷いを弾き出した。
やはり姉貴には敵わない。どうしてこう、完璧なタイミングで僕を引っ張り出してくれるのか。何だかこういうことに慣れきっている感じだし、僕はきっと相当な回数姉貴に同じようなことを指摘されていたのだろう。
……うん、あれこれ考えすぎだ。こういう深みに堕ちて行くような思考のほうが何も考えないよりもよっぽど危険なのだから、気をつけなきゃいけない。
「もう大丈夫。僕らしくないしね、こういうのは」
頷く姉貴。その誇らしげな表情は、僕を少しだけ楽にしてくれた。
「それじゃ、他に質問とかある?」
今だけ特別サービスで答えてあげるよ、と姉貴。スリーサイズは禁止、というネタな台詞は聞かなかったことにする。すっかり姉貴はいつもの調子だ。
「じゃあほら、僕の記憶が曖昧になってたこと……あれも魔術のせいなのかな?」
「まあそうだね。ちょっと回りくどいっていうか、一種のブービートラップっていうか、そんな感じだけど。とにかくあんたとその新藤くん? その子以外に魔術師が介入していたのは確かだよ」
多分魔術の対象となっていたのは新藤っていう子のほうだろうけど、と姉貴は言う。
「詳しい魔術の構成は視てないからよく知らないけどね。発現の中心地となったのはまず間違いない」
待てよ、と思う。
……もしそれが本当の話なら。
終わったと思い込んでいた新藤とのいざこざに、凶悪極まりない結末が用意されているんじゃないのか?
唾を飲み込み、僕は声のトーンを落として次の疑問を投げかける。
「……それじゃ、新藤は?」
魔術発現の中心地。それがどういう影響をもたらすものなのか、僕にはよく分からない。
しかし魔術師という超越者まで関わっているのだ。
―――残像のようにあの慎也の姿が過ぎる。まさか、あいつではないはずだ。あいつの興味は七瀬と僕にしかない。新藤は関係ない。
だが魔術師という存在の奇異さを知った今では、新藤が五体無事で済んでいるとはお世辞にも思えなかった。
姉貴もまた沈痛な面持ちで、僕の質問を受け止める。
……それだけで僕には、その先の言葉が分かってしまった。
「分からない。人払いの結界くらい張ってあっただろうし……身元が辿れるほどの決定的な因果を残すほどバカな真似もしないと思う。あんたと別れてすぐ魔術が発動したところから考えても、彼が生きてるかどうかは……はっきり言って運次第だね。それも幸運なら生きているかも、って感じ」
決して一時しのぎの慰めなんて口にはしてくれない。それが結局僕にとってためにならないことを知っているから。
……ちくしょう。
不甲斐ない。
僕はまた、人を見殺しにしたのか?
ほんの少し前に出会っていた人間を、僕に関わったせいで……
「恭司。あんたのせいじゃない。誰かを責めるのなら……その魔術師を責めるべきだ」
肩に置かれた手には、生命の重さが宿っている気がした。
「でも、僕がいたから……僕が目的なんだろう!?」
「まだはっきりとそう言えるわけじゃないよ。もしかしたら不特定の人間に対する魔術の実験だったのかもしれない。あたしたち魔術師って生き物は、さらなる真理を得るためなら……時には倫理なんてものが見えなくなってしまうものだから」
「……歯痒いよ」
「だったらその思いを今は胸に秘めておくのさ。こうして干渉してきた以上、いつかまたあたしたちの前に現れる可能性が高い。その時は―――遠慮はいらない。ぶん殴ってやりな」
姉貴なりの励ましなのだろう。その言葉がじんわりと心に染みていくのが分かった。
そうだ。僕に関わってくるというのならば、
……全力で、抗うまでだ。
師匠に、慎也に、姉貴まで。すでに三人の魔術師が僕に関わっている。
全ての因果が僕に収束しているのだとしたら。
いつかまた、第四の魔術師に会えるはずだ。
だから今は、落ち着こう。
僕にできるのは、やがて迎えるそのときに備えることだけなのだから。
「麻美、貴女一体……何をしているの?」
どうにかそれだけを言葉にできた。
他にも尋ねたい事は山のように頭を駆け巡っていたが、どれもこれも決定的な形を得る前に霧散した。それだけの衝撃があった。何よりも先ず知っておかなければならない事―――それが優先度を得た言葉。
「それにこんなに血が、人が……」
ざっと見渡すだけで5、6人の生者だったモノが散らばっている。吐き気を催すほどの臭気と、空気に混じる狂気の海。この場において正常を保っているものなど、何もない。
そして真紅のセカイ。
壁が、床が、天井が、調度品が、空間を作り上げるあらゆるモノが。
ここが日常ではないと訴えかけてくる。
真っ赤に染まった、玄関というよりはホールと言ったほうが正しい広さの部屋に、ただ佇むのは唯二人。
私と…………麻美だ。
麻美は学園の制服を着ていたが、それは私が見知ったものより赤い色をしていた。全身を濡らしているそれの正体は、想像したくもないが恐らくは周囲にばら撒かれているモノと同じだろう。白い肌と斑に溶け合った赤色の四肢に、此処ではない何処かを見ているような不安定な瞳。そして呆然と固まる顔にべっとりと張り付く彼女の髪は何かこの世ならざる幽鬼を彷彿とさせた。
―――何を。
何を思っているの私は。あれは麻美。私の親友よ―――!?
いっそ私が壊れてしまいたい気分だった。
こんな非現実な光景を見せ付けられて、正気でなどいたくない。異質のセカイに染まって常軌を保てるのであれば、それは異質である事の何よりの証明なのだから。
だが私の中の冷静な部分はその存在を頑なに主張し、あまつさえこんな馬鹿げた事を私に叫び続ける。
アレはヒトではない、と。
―――怖ろしい?
何かが疼く。
―――逃げたい?
鎌首をもたげるようにゆっくりと。
―――壊したい?
私が持つ狂気を手招きするように……
「ああ、ツキちゃん、来てたんだ」
襲い来る冷たい感覚に呑まれそうだった私を現実へと帰還させたのは、麻美のものらしき静かな声だった。
分かっていながら確信できなかったのは、普段の彼女からは想像などできようもないほど淡白な音の連なりだったからだ。
麻美は重たげに身体の向きを変え、こちらを眺めやる。
彼女の顔に広がっているのは……死相とでもいうのか。そこには本来あるべき生命の活力というものが微塵も存在しない。
もはや麻美が生きていると認識できる材料は、ただ動いている、という事だけだった。
妄想だ、とそんな考えを振り払うしか、私にはできない。
「麻美、説明して。これはどういう事? 学校は? どうして休んだりしたの?」
……違う。私が訊きたいのはそんな事ではない。
でもそれを訊いてしまえば―――あそこに転がっている死体の顔が、見覚えのある麻美の両親である事をはっきりと認識してしまえば、私はきっと何も考えられなくなる。
本当は全部分かっているのに。
真実を形作る手がかりは全て目の前に横たわっているのに。
ただそれを信じたくないだけなのだ。
状況が全てを物語っている。
麻美に付着している返り血。無造作に放り出された死体、死体、死体。
そして生きているのは、私を除けば麻美だけ。
子供でも分かる簡単な引き算なのだ。
彼らを殺したのは―――
「ねえツキちゃん、わたしは、間違ってたのかなぁ……?」
どきり、と心臓が跳ねる。
頭を揺さぶられたように。得体の知れぬモノに私という人間の核を鷲掴みにされたように。
身体という身体が、竦みあがっていく。
「ほんとは、ただやめてほしかっただけなんだよ? わたしが望んだ結果にはならなかったけど、それでもみんなが望む結果はあったはずなんだもん」
麻美は亡霊じみた足取りで、ふらり、ふらりとその場を徘徊する。
その目には、私は映っていないように思えた。
「こんな力がほしかったわけじゃない。こんなことをしたかったわけじゃない。でも……こうしないと、やめてくれなかった。みんなが与えてくれた、この力で。何もしなければきっと、こんなことはできなかったのに」
言葉をどう頭で処理してみても、麻美の言っている事は私の理解の範疇を超えている。
力とか、止めて欲しいとか。
それでも麻美が何か大きな苦悩の果てにこうなったのだという事だけは分かった。
麻美はぴたり、とその足を止め、
縋るような瞳をこちらに向けた。
それはどこか、叶わぬ祈りのようだった。
「わたしは、どうすればよかったのかなぁ……? 教えてよ、ツキちゃん……」
―――そんな麻美を見て。
私は何も考えられなくなった。
ただ気が付けば私は自分でも驚くくらいの速さで駆け出していて。
靴を脱ぐ事など考えられずに、真っ直ぐに玄関を飛び越えて。
麻美を精一杯に強く、抱き締めていた。
多量の血が制服づたいに染みて行くが、そんな事はどうでもいい。
私は馬鹿だ。
麻美の事を一度でも怖いと思った自分を情けないと思う。恥ずかしいとさえ思う。
だって。
……麻美の声は、か細く震えていたから。
親から離された赤ん坊が助けを求めて手を伸ばそうとするような、そんな弱くて儚い想いが伝わってきたから。
「間違ってない、間違ってないのよ麻美……!」
「……ツキちゃん?」
ここでどんな出来事があったかは分からない。私が思った通りの事があったのかもしれないし、そうでないのかもしれない。
だがそんな事はどうでもよかった。
「貴女は精一杯生きている。一生懸命に前を向こうとしている。だって、」
ただ私はこの麻美という不思議な親友が、
「貴女の心は、こんなにも泣いているのだから……!」
―――何よりも愛おしくて、仕方がなかったのだ。
抵抗する事もなく私に抱かれたまま、ゆっくりと視線を私の顔に向け、伝えられた言葉を反芻するように唇を震わせて。
彼女の中の何かが、弾けたのだろう。
麻美は力の限りの声を上げて、泣いた。
「ツキちゃん! ツキちゃぁん! ……あぁぁん!!」
「大丈夫、大丈夫だから」
宥める私をよそに麻美は泣き続ける。私の服を破らんばかりに掴んで、私の胸に顔を埋めて、涸れるほどの涙を流して、張り裂けそうな声を上げて。
ただただ、泣き続ける。
どんな想いがそこにあったのかは、私には知る由もない。彼女がどれほどの事を考え、悩み、それを破裂させてしまったのか。いつも近くに居たくせに、私は少しも分からない。
だからこそ。
今こそ私は、麻美の力になりたいと心から思う。
こうして傍に居て、泣き止むのを待つ事しかできないのかもしれない。麻美が抱える想いを軽くするには役不足なのかもしれない。
それでも私は麻美の親友なのだ。
誰とも満足な交流ができず、孤独でいる事しかできなかった私に。
唯一人『よかったらお話しよ?』と声を掛けてくれた麻美。
馴れ馴れしい、と悪態を吐くのとは裏腹に、内心ではどれ程その言葉に救われていた事か。
麻美一人と会話するようになったからと言って、周囲の私に対する評価が豹変するわけではないし、相変わらず他人には無関心で、関わりを持つ気さえもなかったけれど。
麻美といれば、ただ傍に居てくれれば、私は孤独ではなかったのだ。
だから私も麻美の傍に居る。例え何があったとしても、それが決定的な溝なのだったとしても。
麻美が孤独になってしまわないように。
それが私にできる……たった一つの恩返しなのだから。
麻美は泣き疲れるまで、うなされたように叫んでいた。
『ごめんね』と。
何が麻美をここまで追い立てたのか。もしそれが必要なら麻美から話してくれるだろう。
だから今はこうして二人並んで床に座っている。ただ何もせず座っている。
たった、それだけの事。
それだけの事で私は―――この狂ったセカイを許せるような気がした。
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