第四章 『浸食』−Dead flow−4
CASE PRELUDE 北条麻美
わたしを蝕んでいた悪夢は、日に日に強くなっていた。前から実験の後遺症みたいな頭痛や、臓器の軋むような感覚はあったが、最近のはそれどころじゃなかった。なんていうか……そう、死にそうなくらい。冗談ではなく本当にそれくらいわたしを圧迫するのだ。
時期としては、ツキちゃんが事故に遭ったあの日。あれくらいから悪化を始めた気がする。もちろん正確に数えていたわけではないし、意識して理解できるほど唐突な変化でもなかったからはっきりとは言えないけど。
起きているときは大丈夫。全然大丈夫。だって普通に生活できているから。人に悟られることも―――もちろんツキちゃんにも―――ないし、狂いだしてしまいそうな毎日の中で、それだけは救いだと言えた。
でも夜はダメ。夜になると、突然身体は悲鳴を上げ始める。頭痛はひどくなるし、あちこちが千切れてしまうんじゃないかってくらいに痛み出す。それはずっとずっと続いて、感覚がなくなるような時間続くとようやくばたりと眠れる。ううん、ちょっと違うかな。単純に気絶するだけ。溜まりに溜まった痛みが飽和した一瞬で意識が落ちちゃう。
そして、悪夢を見る。何度も何度も見る。自分で自分を殺す夢。殺し方は一つじゃなくて、よくこれだけ用意できるなぁって思わず感心しちゃうくらいにバリエーションがあったりする。……そんなの何も嬉しくない。
最初はそれでもちゃんと耐えられた。我ながら自嘲的だけど、実験で慣れたせいか平然とした顔を作るのも上手だったし、例え誰に言い出したってどうせ疲れてるんだくらいにしか思わないだろう。わたしも最初はそう思っていた。
甘かった。すっごく甘かった。
次第に昼間でも変調をきたすことが多くなった。学校に行ってるときだって例外じゃない。ツキちゃんなんかは鋭いから、悟られないようにするのは大変だった。それだけはという思いで、多分ツキちゃんにはバレてない……はず。
ツキちゃんには、これ以上迷惑はかけられないから。
だって―――と、毎晩のようにかつての出来事について思いを馳せてみる。
そうやって思い出すだけで、わたしは今すぐ自分を殺してしまい衝動に駆られる。それこそ、最近の夢の中みたいに。
いっそそうできたらどれほど楽か、と思わないでもない。
だけどそうしないのは、死ぬのが怖いからじゃない。勇気が足りないからじゃない。
それじゃわたしはずっと心が囚われたままだから。
そんな利己的な思い。そんな利己的な献身。そんな利己的な―――服従。
バカみたい、ってみんなは言うのかもしれない。そんなこと、多分ツキちゃんだって全然なんとも思ってない。
だけどわたしには、あの日に言われた言葉が、ずっとずっと楔として心に残っている。
この際だから正直に言うと―――わたしは、あの男の子が好きだった。
顔はよく覚えてないけどちょっと抜けてるところがあって、印象としては少し頼りないくらいかもしれない。もちろん子供なんだから頼れるわけないんだけど、そこはそれ。女の子は早熟だから、そういうことも考える。うん、今思い出しても頼りないと思う。
だけど彼はとっても優しい。その優しさが、とても魅力的に思えた。同じ世代の男の子はみんな、女の子をいじめて喜ぶような子ばかりだったから。毛虫を近づけたり、嫌なことを言ったり。それは愛情表現だ、なんて言われても、理解できるわけないもん。
でも、わたしがどれだけ好きでもあの男の子はわたしのことなんかちっとも見てくれなくて、それで子供ながらの嫉妬心から、陰湿で、今何度思い返しても最低なことをしていたと思う。
男の子は、ツキちゃんのことが好きだったから。
ツキちゃんは今でも、わたしと最初に会ったのは中学生の時だと思ってる。でもそれは間違い。本当はもっと昔に……いつかもわからないくらい小さい頃に、わたしたちは出会っていた。実は一番最悪な想像をすると、今でもあのときのことを覚えていてずっと知らないフリをして内心ではわたしのことをすごく怒っているという……そんな怖い想像もできたりする。うわぁ、それは嫌だなぁ。
とは言っても多分ツキちゃんは覚えてない。前にそれとなく探りを入れたこともあるし……何よりあのときは児童公園みたいな場所で集まって遊んでいただけだから、わたしの名前すら知らなかったはずだから。
―――いっそ、ツキちゃんが覚えていれば、こんなことにはならなかったのかもしれないけど。
なんて考えるのは、わたしが甘えているのかな。
とにかく、その頃のわたしはツキちゃんのことが嫌いだった。だってわたしが好きなあの男の子はツキちゃんのことばかり見ていたから。
だからツキちゃんに『何かとてもひどいこと』を言った。
ツキちゃんは今みたいに頑固で、ずっとずっと退かなかった。泣きそうな顔なのに、あと一歩でこっちの勝ちなのに、最後まで名前も知らないいじめっこたちを睨んでた。こっちは同じく彼のことを好きな何人かで集まっていたけど、下手をすると怖くなって逃げ出してしまいそうで、余計に腹が立った。
結局ツキちゃんは涙を流さないまま、公園からいなくなった。
何だか凄く釈然としなくて、みんなでずっとツキちゃんの陰口を叩いていた。そうしていないと自分達が負けたみたいだったから。
そんなわたしに、ずっとツキちゃんを庇っていたあの男の子は言ったんだ。
『別の子を傷つけて、泣かせて、満足かな? ―――それできみの何が変わるの?』
とても子供とは思えないような、大人びた台詞。普段は全然頼りないくせに、不思議とそんな言葉の数々が似合う……だからこそわたしが好きな、男の子。
『誰かを傷つけて、好きになれないような人はたぶん、……ずっと誰にも好きになってもらえないよ』
それは非難とか、攻撃とか、そういった悪意のない、本当に心からわたしを心配したような、そんな言葉だった。
当時のわたしは水に打たれたように静まり返って―――こう見えて実は結構おてんばさんだったんだけど―――ひどく後悔した。
彼に嫌われちゃった、というのが大半を占めていた後悔だったけど、心の隙間には……ツキちゃんへの申し訳なさが生まれていた。
わたしは、言うに事欠いて何てことを言ったのか。
『――――――!!』だって?
一旦罅割れてしまえば、ちょっとしたことでそれはすぐ広がった。
月日を経るごとどんどんどんどん大きく膨らんでいって、今ではもう、そのために生きているんじゃないかってくらいの大きさ。
そう、わたしの全ては……ツキちゃんのために在る。
それでも晴れない罪悪感の正体。そんなことはとっくにわかってる。つくづく思うんだ。
わたし、
わたしは、
最低の人間だ。
どういう悪戯なのかわからない。
わからないけど、純然とした事実がある。
わたしがツキちゃんを傷つけた、肝心の、
わたしが殺意すら込めて言い放ったその言葉を、思い出せない―――
わたしがこんなどうしようもない実験に付き合うことを了承したのは、それが理由だった。
こうすれば、わたしはあの時の記憶を、あの時の言葉を思い出せると思ったから。
ツキちゃんを傷つけた、その記憶は残っているのに。
どうやって傷つけたのか、それがわからないなんて。
そんなのは、反省でも、懺悔でも、贖罪でもない。
何をしたのかも知らずに謝ることなんて、できないんだから。
―――そんな内心は、全て隠して。
わたしはその四肢を投げ出し、服も着ることなく医療台のようなものに乗せられている。潔癖と言うには少々度が過ぎるくらいの真っ白な部屋の中。周りには数えるのも面倒なくらいの、たくさんの男の人たち。
これから訪れる愉悦に顔を歪ませて、わたしの身体を嘗め回すようにして眺めている。人はここまで醜い姿を晒せるのか、という最悪のお手本みたいだった。
寒いとか、恥ずかしいとか、そんな感情はもうない。とっくに慣れてしまっていたし、そういう諸々の人間らしい部分を持って臨むには、この実験は辛すぎた。
もちろん初めての時は恐怖と羞恥から泣き叫んで、必死になって抵抗して、暴れまわった。何せわたしは所詮十三歳だった。自分で了承していたって、覚悟を決めたフリをしていたって本当に―――あらゆる意味で―――初めてだったから。
本当に、怖くて怖くて仕方がなかった。
世界が狂って……ここにいる人たちもみんな狂っていて、世界の理から外れた人間を作れると、本気で信じていた。狂人という種類が持つ瞳というのは……とにかく人を脅かす以外の何物でもなかったと思う。狂気というのはそう、伝染する。
室中を満たす狂気に浸りながら、わたしは絶望の宴の生贄となった。何度逃げたいと思ったことだろう。
それでも人間や現実というものはどこまでも残酷で、わたしは徐々にこの狂気に慣れていった。感情を閉ざし、あらゆる感覚を消去して、ただ一つの物体になる……そんな存在の侮辱を覚えてからは、単なる作業だった。
全ては記憶を取り戻せると信じて。
彼ら曰くの実験を再三にわたって繰り返した結果、確かに人とは異なるモノを宿すことには成功した。それは誰もが―――恐らくわたし自身でさえ―――望んだことで、その最初の血統となれることを本当に喜んでいるようだった。
だけど、ヒトから外れてしまっても……わたしの記憶は戻らなかった。
記憶だって簡単に操作して呼び起こすことができる、そう聞いていたわたしは必死に抗議した。こんなことをしても無駄だったって。何も変わらなかったって。
それで実験を止めるような……純粋に人外を造りたいだけだったなら、わたしも諦めていたかもしれない。
でも、そうはならなかった。
男たちは何かと理由をつけて―――さらに繰り返せば記憶が戻るかもしれないとか、濃縮の度合いをもっと深めていけば力が強くなるとか―――何度もわたしを侵し、犯し、陵辱し続けた。
それはある種の諦念に違いなかった。最初はどうだったか知らない。本気で力あるモノを造り出したかったのかもしれない。でも結局、わたしがどう抵抗したところで、あの連中は若い女の身体を支配できればそれでよかったのだ。
そこに在るのは、歪んだ欲望だけだった。
次から次へと彼らを受け入れながら、わたしは身体とは別の場所に切り離した頭で考える。
きっとこれ以上は、耐えられない。
普段だったらいい。仕方ないと割り切ることもできる。過去を手に入れることはできなくても、現在という幻想を抱えて生きていける。一生かかっても償いを果たすことはできないけど、それがわたしに与えられた罰なんだと納得できる。
でも今は―――悪夢がわたしを苛む今は、こんな責め苦に身体が納得してくれるわけがない。このままではいつ暴走を始めてしまうかわかったものじゃない。
こんな狂人たちでも世話になっていた人々だ。自分の力によって傷つけるような真似は、したくなかった。
だからあの日―――ツキちゃんたちがデートに出かけた日。
家を出た。
もちろんずっとそのままでいようと思ったわけでも、逃げるわけでもなくて、ただこの異常事態が収まるまで時間を置きたかった。
その間だけはツキちゃんの傍にいられない。そう思うと何度も止めようと思ったけど。
このままではいけないという強い思いが決断の背中を押した。
今だけ。
そう、今だけ。
言い聞かせるようにして、街を彷徨う。
バイトで貯めたお金を路銀にして、当て所もなく時間を過ごすだけの日々。
夏が招く蒼い空も、湿気を帯びた熱気も、木々に木霊する虫の声も、いつもと変わらなかった。
今になって思えば、それが最後の安息の日々だったのかも、しれない。
家出から6日経った夜。
わたしは北条家の捜索隊によって、あっけなく身柄を拘束された。
呪いのような悪夢は蜘蛛の糸のように絡みつき、決して私を放すことはなかった。 |