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タバコ売りの老人

作者:渡邉 龍
 それは穏やかな秋の昼下がりでした。
 とある小さなタバコ屋の前に一人の老人の姿があります。はたから見ればタバコを買いにきた客のように見えるかもしれません。しかしその老人は、おもむろに手を伸ばすと店のシャッターを下してしまいました。
 老人は客ではなくその店の主でした。ただそれを差し引いても、これほど明るい時間に店じまいをしてしまうというのは一体どういうことなのでしょうか。
 そろそろ潮時なのだ――。老人はそう思うのでした。税率が引き上げられてから喫煙者の数は減少する一方だし、そもそもタバコを買うにしても近くのコンビニに行けば済む。タバコ屋の需要などもはやないようなものなのだ――。
 老人は妻と二人三脚でこの店を営んできました。二人の間に子供はいません。友人らしい友人もいないため、三年前に妻に先立たれると老人は完全な孤立無縁状態となりました。
 そんな老人が今日までこの店を続けてきたのは、それでも二、三人はいた常連客のためでした。しかしここ最近その常連客の姿すらなくなり、誰も来やしないのに毎日律儀に店頭に座っている自分に虚しさを覚え、今日ついに閉店することを決めたのでした。
 この日わざわざいつもの時間に店を開けたことに深い意味はありません。単なる習慣によるものです。朝起きて店のシャッターを開けるという行為は、老人にとってみれば人が無意識のうちに呼吸を済ませているようなものなのです。
 店の中に戻った老人は、商品棚に残された何種類ものタバコに目をやりました。それらはちょうど年老いた人々のように色褪せ、世間から忘れ去られていました。
 やがて老人はあるタバコを手に取りました。それは老人が若かりし頃によく吸っていたタバコでした。
 テーブルの上に置き、しばらく感慨深げにパッケージを眺めたあと、老人は中から一本を取り出し、同じく売れ残ってしまったライターを使って火を灯しました。
 するとどうでしょう。懐かしい香りとともに当時の記憶が色鮮やかに蘇ってくるではありませんか。立ち昇った煙がスクリーンのようになって、当時の光景を映し出しています。
 そこに映し出されていたのは、今は亡き妻の若かりし頃の姿でした。

「行きたいところがあるの」
 妻が老人に言いました。当時二人はともに二十代前半で、どちらも製造業の仕事をして生計を立てていました。二人とも遠出が大好きで、休日になると老人の自転車に二人でまたがり、どこか遠くへと繰り出すのです。
 当時、車は高価なものでした。貧乏だった老人は、妻を自転車にしか乗せてやることができませんでした。それでも妻は文句一つ口にしませんでした。むしろ、まるで宇宙船にでも乗るみたいにはしゃいでくれるのです。
 いつか妻を車に乗せてやる――。それが老人の夢でした。
「どこに行きたいの?」
「公園」
「公園?」
 妻はこくりとうなずきました。「広い原っぱのある、静かな公園」
 妻がどうしてそのような場所を指定したのかは、着くとすぐにわかりました。公園に着くや否や妻は草原へと駆け出し、持っていたバッグの中からレジャーシートと大量の弁当箱を取り出したのです。
 ピクニックがしたかったのか、と納得しながらも老人はたずねてみます。
「これどうしたの?」
「今朝作ってきたのよ」
「少なく見積もっても十人前くらいはありそうだけど」
 妻は声を出して笑い、ゆっくりとした口調でこう言います。
「三食分よ」
「三食分?」
「そう。あなたと私の三食分。たまにはこういう静かなところで一日中ぼうっとしてみたかったの。何にも考えないで、眠くなったらお昼寝でもして、時間なんか気にしないで。で、そのためにはお弁当が必要だと思ったわけ。空腹に耐えながら一日過ごすのはつらいでしょ? だから」
 それから二人は弁当を食べたり、麦茶を飲んだり、寝転がったり、昼寝をしたりして過ごしました。その間二人は、老人の持っていたタバコを分け合ってふかしながらいろんな話をしました。妻の嫌いな上司の話。老人の貧乏生活の話。妻の失敗した料理の話――。
 そして最後に、老人が将来の展望について話しました。
「まだ言ってなかったけど、俺はね、小説家になりたいと思ってる。もちろん叶えるのは簡単じゃない。運だって味方につけないといけないかもしれない。でも、たとえ最期までなれなかったとしてもそれでいいと思ってる。振り返った時に、後悔がなければ、それでいいと思ってる」
 女性は男性よりも現実的な考えかたをする、と老人は父から聞いていました。そのため妻の顔をしっかりと見ることができませんでした。そんなことより今の生活をもう少しマシにしたらどうなのよ、と怒られると思ったからです。
 ところが妻は、いつもと変わらぬ口調でこう言いました。
「素敵。でもどうして小説家に?」
「え?」
 その瞬間、老人は自らの顔が赤くなっていくのを感じました。それだけは何があっても言わないつもりだったからです。
 しかし、ここまで話しておいて秘密にするのも申し訳ないし、適当なことを言ってごまかすにもその適当なことが思いつかなかった老人は、ポリポリと頭を掻きながら、観念したように口を開きました。
「車を……買いたいんだ」老人はあまりの恥ずかしさに俯きます。「それに君を乗せてやりたいんだ」

 ポリポリと頭を掻いたところで、老人はふと我に返りました。気づけば老人は公園ではなくタバコ屋に身を置いていました。
 すっかり短くなってしまったタバコを灰皿に揉み消し、椅子にもたれ、それから自分が挫折したことやそれでも妻がそばにいてくれたこと、二人が結婚してタバコ屋を細々と、しかし楽しく営み始めたことなんかを思い返しました。
 そしてそんな生活が三年前に突然終わってしまったことを思い出した時のことでした。来客を知らせる店のチャイムが鳴りました。店のシャッターは下ろされているというのに、一体誰がやってきたのでしょうか。
 老人はゆっくりと立ち上がり、外に出ました。そしてその客を確認するや否や、思わず目を見開きました。そこには亡くなったはずの妻の姿があったのです。
 老人の姿に気づくと、妻はくすっと笑いました。その瞬間、老人は目頭が焼けるように熱くなるのを感じました。三年という歳月は、何かに慣れるには十分な時間です。しかし、愛する人を失った悲しみには、どれだけ時間を費やしても慣れることはなかったのです。
「行きたいところがあるの」
 あの頃と同じように妻は言いました。老人はうなずき、ポケットに手を入れました。しかしそこには何も入っていません。今の老人には、いかなる乗り物も持ち合わせていなかったのです。乗せてやると誓った車も、いつも使っていたあの自転車でさえも――。
 そんな老人をみかねて、妻が声をかけます。
「いらないわ、乗り物なんて」
「え?」
「歩いていきましょうよ、これからは」
 妻はそう言って老人の手を取りました。老人は安堵し、にこりと微笑みました。
 穏やかな秋の陽射しが、枯れ果てた草木にそっと降り注いでいました。そんな優しい景色を眺めながら、二人はゆっくりと歩き出しました。
 しかし実際のところ、店の外には誰の姿もありませんでした。妻はもとより老人の姿さえありません。老人は店の中にある椅子にぐったりともたれかかっています。タバコを灰皿に揉み消したあと、静かに息を引き取っていたのです。
 それから数日間、老人を心配した隣人や通報を受けた救急隊員、孤独死を調査している団体など、とにかくあらゆる目的を持ったあらゆる分野の人々が入れ代わり立ち代りこの店を訪れました。しかし、テーブルの上にぽつんと置かれたタバコの意味について知ろうとする者は、ただの一人もいないのでした。

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