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ソラニワ 作者:緒浜
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004 PINKY LOVER BOY

「あの……ジインさん?」
「ジインでいい。“さん”いらない。“爺さん”みたいでいやだ。あと中途半端な敬語もやめろよ、調子が狂う」
「じゃあ、ジイン……聞くけどさ」
「うん」
「なに、ここ」
 ド派手な壁紙に、ふかふかのカーペット。へんてこなかたちのベッドはてらてらと光り、悪趣味なこと極まりない。
 ピンクの色水に浸したような部屋は、いかがわしさで溢れていた。
 立ち尽くすソラの横で、顔色ひとつ変えずにジインが答える。
「ええと、ここはラブホテルといって、おもに恋人同士がちちくりあう……」
「そんなの知ってるよ! そうじゃなくて、どうしてこんなところに来たのかって聞いてるんだ!」
「え、知ってるんだ……ふーん。おれのことは覚えてないのに、ラブホに関する知識は覚えてるんだ。ふーん」
 半眼で言われ、肩をすくめる。
「う……ごめん」
「冗談だよ」
 くすりと笑って、ジインの手が頭をくしゃりと撫でた。記憶をくすぐる懐かしい感触に、頬が熱くなる。
 手の甲で頬をこすりながら、照明がピンク色でよかったと、ソラは思った。



「……覚えてない?」
 記憶がないとわかった時のジインの反応は、意外なものだった。
「覚えてないって……え、何も?」
 ジインが目を丸くする。
 いたたまれない気持ちで、ソラはうなずいた。
「おれのことも、自分のことも……なにもかも、全部?」
 わずかに間を置いて、再びうなずく。
 まばたきをひとつして、ジインは黙り込んだ。
 ふたりの間に、風が吹きすさぶ。
 重苦しい沈黙。
 険しい表情で押し黙ったまま微動だにしないジインを、ちらりと上目遣いに盗み見る。
 怒っているのだろうか。
 それとも、がっかりしているのだろうか。
 そうだとしても仕方がない。自分のことを忘れられてしまうなんて、自分が逆の立場だったら、ひどく落胆するだろう。
 胃のあたりがぎゅうっとなる。空腹のせいではない。
 所在なげに視線を落としたソラの頭に、いきなり衝撃がきた。
 ごつ、と世界が揺れる。
 殴られた頭を抱えて、ソラはしゃがみ込んだ。
 世界が涙でみるみる歪んでいく。
 理不尽なげんこつに、立場も忘れてソラは思わず声を荒げた。
「いっ……たああ! な、なにすんだよ?!」
「いや、記憶が戻るかなと思って。どう?」
「どうって……戻るわけないだろこんなことで!」
 悪びれる様子もなく拳をさするジインを、ソラは涙目で睨みつけた。
「うーん、じゃあ、ちょっと温めてみるか? 脳みそのどこかがまだ凍ってるのかも」
 ジインが手をかざす。吹き出す炎を思い出して、ソラは後じさった。
「いいよ、もういい!」
 叫んだ拍子に、ぐう、と腹が鳴る。あっと声を上げて、ジインが手を叩いた。
「飯食ったら戻るかもよ?!」
 なんなんだこの人。
 思わず口を開けたまま、まじまじと見つめる。
 視線に気がついたジインが、不服そうに眉をひそめた。
「なんだよ、信じてないな。いいか、食事をとれば脳に糖分が……」
「いいです。もうわかりました」
「うっわ、ムカつく。何だよその言い方」
「だっていきなり殴るから!」
「前もって言ったら効果がないだろ。今からびっくりさせますよって前フリしてしゃっくりが止まるか?」
「それとこれとはまったく話が違うだろ?!」
「あーうるさいうるさい。記憶がなくても、それだけうるさきゃ大丈夫だな」
 にっとジインが笑う。
 あ。
 もしかして、慰めてくれたのだろうか。
「ああ、そうだ、名前な。おれはジイン。おまえの親みたいなもんだ。よろしくな」
 そう言ってにっこりと笑ったジインの笑顔は、ソラの中に渦巻いていた後ろめたさや不安を一瞬できれいさっぱり吹き飛ばしたのだった。



「しかし不思議だよなあ。言語とか一般常識は覚えてるのに、他のことは忘れちゃうなんて」
「……ごめんなさい」
「謝るなってば。そんなもんだろ、記憶喪失って。本か何かで読んだけど、記憶ってのは完全に消えることはなくて、本人が忘れているだけで脳のどこかには残ってるらしいぞ。だからおまえもそのうちけろっと思い出すかも……あ、なんならもう一度衝撃を与えてみるか?」
 にっこりと笑いながら、ジインが拳を作る。
「……遠慮しとく」
「あっそ。まあ、あんまり気にするなよ」
 さらりと言うジインの横顔を見ながら、ソラはかすかな寂しさを覚えた。
「……ジインは平気なの?」
「なにが」
「ぼくがジインを覚えてなくても……」
「平気なわけないだろ」
 かげりのない夜色の瞳が振り返り、まっすぐにソラを見た。
「奴らに捕まったせいで記憶がぶっ飛んだなんて悔しいし、もどかしいし、寂しいよ。でもそれはおまえのせいじゃないし、ごちゃごちゃ悩んでも仕方ないだろう。冷凍睡眠から目覚めて、こんなに早く身体機能が回復したことだけでも良しとしないと。それに……」
 ジインが腕を伸ばす。ソラの頭を引き寄せて少し屈むと、目線を合わせてジインは言った。
「心配しなくても、きっとそのうち思い出す。おまえの脳みそはそんなにヤワじゃない。大丈夫だよ」
「……うん」
 こくんとうなずきながら、ソラはさりげなく視線を落とした。顔が近すぎて恥ずかしい。ジインはことあるごとに肩を抱き、頭を撫で、屈託なくソラに触れる。それが嫌なわけではないけれど、慣れないせいか、その度にどぎまぎしてしまう。
 ジインの指はいつもさらりと乾いていて、少し冷たかった。
「まあ、無くして惜しむほどの記憶でもないんだけどな」
 その唇に皮肉な笑みが浮かぶのを見て、ソラは訊ねた。
「いったいどんな暮らしだったの?」
 ソラがジインと町外れの廃工場で暮らしていたことは、道すがらに聞いていた。二人とも身寄りがなく、住民登録もなければ『身分証』もない。群れをなして路上で生活する浮浪児童……いわゆる『ノラ』というやつだ。
「少し羽振りの良さそうな奴の財布盗ったり、食いモンちょろまかしたり、まあ一般的な『ノラ』の極貧生活だな。といっても、そこらの『ノラ』に比べたら生活水準高いほうだったけど……ああ、これこれ。これが使いたくてここに来たんだ」
 ジインの指先が小さなテーブルに触れる。突然、部屋いっぱいに女の喘ぎ声が響き渡った。
 とんでもない格好で絡み合った男女の裸体が、リズミカルに弾みながらテーブルの上でゆっくり回転しはじめる。
「なっ、ななななにそれっ!」
 後じさり、壁に張りつく。耳が熱くなり、全身から汗が噴き出した。
「ホロだよ。粒子流動ホログラフ。ここ数年で普及したんだ。これは完全立体型で、他に平面型もある。おまえ、見るの初めてだよな」
 ジインが操作板に触れる。男女の裸体が融解し、光る粒子の流れが色とりどりの魚に変わった。草原を走る馬の群れ、砂に煙るカーレース、何かの映画のワンシーン……円盤の上に、小さな立体世界が現れては消えていく。
「映像受信用のネットワークシステム。うまく使えば、これでやつらの動きが多少調べられる」
 ジインが慣れた手つきで台座の裏蓋を開ける。いくつかの配線を変え、腕に付けた端末機から取り出したチップを小さな隙間に挿入した。
「第四区でネットが使えるような高級ホテルは、エントランスに入るだけで『身分証』が必要なんだ。アクセスも全部見張られてる。でもこういういかがわしいホテルなら『身分証』もいらないし、これは映像用の受信専用機だから、わずらわしい仕掛けは一切なし。方法さえ知っていればいくらでも情報を引き出せる。ここはラブホの中でも最高ランクのところだから、建物のセキュリティーもわりといいし、金さえ渡せば“売られる”心配もないから、そこらの安宿より安全なんだ」
「“売られる”って?」
「情報のリーク……密告だよ。どこぞの幹部が密会してたとか、逃亡中の奴が隠れてる、とかね」
 ジインの指先が操作板の上を軽快に跳ねる。淡く緑に発光する文字が、羽虫の群れのように円盤上を旋回し始めた。
「おまえ、先にシャワー浴びてこいよ。使い方、わかるだろ? 服は下着も全部、浴室の機械に入れてボタン押しとけば、出る頃にはきれいになってるから」
「……ずいぶん詳しいんだね」
 よく来るの? と訊ねそうになって、あわてて口をつぐむ。さすがにそれは不躾だし、どんな答えが返ってきても困る。
 でも、気になる。
 さっきの男女がしていたようなことを、ジインもするのだろうか。
 ゆっくりまわる二つの裸体。あまりにもあけすけで、ひどく滑稽だった。
 ジインも誰かとあんなことを?
「……いやだな」
 知りたいような、知りたくないような気がした。
 クリーム色の浴室は真昼のように明るく、乾いていて寒かった。
 脱いだ服を機械へぶち込み、言われたとおりボタンを押す。冷たいタイルの上をつま先立ちで足踏みしながら、赤い取っ手をひねり、出てきた冷水に思わず悲鳴を上げた。しばらくしてからやっと出てきた熱いシャワーを、まずは頭から豪快に浴びて、浴室と体を温める。がびがびしていた髪や肌が、水気を得て今度はぬるぬるになった。あの機械に満ちていた液体の残りだ。唇を少し舐めてみると、しょっぱい味がした。
 ボディーソープをよく泡立てて、体中をごしごしと洗う。
 部屋側の壁は全面が大きな鏡になっていて、浴室のすべてを映し込んでいた。同じ部屋にもう一人裸の人間がいるみたいで、なんだか落ち着かない。
 もうひとりの自分と向き合ってみる。
 金色の髪。青い瞳。
 これが、ソラ。
 平凡な見かけに、少しがっかりする。
 ジインが持っているような、引力というか強さというか……そう、存在の密度みたいなものがない。
 ぱっとしない、普通の少年。舞台の役名で例えるなら、街の子B、といった感じだ。
 こんなので、ジインを守れるだろうか。
「……あれ?」
 守る? ジインを? ぼくが?
 どうして急にそんなことを思ったのだろう。
 けれど、それはなんだかとてもしっくりくる気がした。
 記憶を失う以前、“ソラ”はジインをかばって竜に噛まれた。
 ぼくだって同じだ。同じ場面に出くわしたら、ぼくも同じことをするだろう。
 だって、ぼくは“ソラ”なんだから。
 ジインを守る。それはソラが“ソラ”であるためのひとつの条件のように思えた。
 握った両手に力がこもる。
 とりあえず、見かけだけでももう少し強そうに見せなければ。
 しかめっ面をして、肩を怒らせる。やはり背が足りない。背伸びしたら、ふくらはぎをつりそうになった。背丈は今後努力することにしよう。
 強そうに見えるポーズをしばらく研究した後、せめて強面になるようにと、眉間にあらん限りのしわを寄せたままソラはがしがしと頭を洗った。
 全身の泡とぬるぬるをシャワーで流し、清潔なタオルにくるまる。
 機械に入れておいた服は自動で洗濯され、すっかりきれいに乾いていた。ここに来る途中でジインが買ってくれたものだ。大きなフードとポケットがたくさんついた、かっこいい上着。丈夫なザックと替えの下着もある。かっこいいひも靴も買ってもらった。
 浴室を出ると、ジインはまだホログラフの前に座っていた。円盤の上には半透明のごつごつした岩のようなものが浮かんでいる。岩の表面にはちかちかと光る小さな赤い点がいくつもちりばめられていた。
「それ、なに?」
「立体地図だよ、この国の」
 拡大されていた画像が縮小する。膨らんだクロワッサンを水平に割ったような、いびつなかたまりが現れた。
「これが鋼雪陸島。おれたちが今いるのはこのあたり……第四区だ」
 ジインの指が陸島の真ん中あたりを示し、そのまま左へ滑る。
「この枠の中が第一区……議事堂や国の重要機関が集中してる、国政の中心だ。セキュリティーが厳しくて、限られた人間しか入れない。そのまわりが第二区。閥族や大企業なんかが集まっている。第三区はそれに従事する人間、第四区はそのまた下の人間……てな具合に、外側へいくほど貧乏度数が高くなる。それぞれの区域は“壁”できっちり隔たれていて、行き来するには『身分証』が必要だ」
「この黒い溝は?」
「『虹ノ谷』……『彩色飴街』だ」
 現在地から少し東、陸島をちょうど東西に二分して黒い亀裂が走っている。
「深い谷の両側に、鉄くずみたいな街がこびり付いている。この国を“西”と“東”に隔てる街だ。街自体も、同じように見えて両と東じゃ生活水準がずいぶん違う……いや、人間の種類が違う、のほうが正しいかな」
 白い指先が、暗い溝からさらに東へと滑る。
「ここが花街で、そのすぐ北東が『裏』……花街の元締めがいる、この国で一番ヤバい地域だな。その南が『貧困街』……おれたちが暮らしてた工場は、このへんだな」
 ジインの指先がすうっと手前に移動する。ホログラフの粒子が歪んで、ゆらゆらと虹色の波が立った。
「ああ、そうだ」
 ジインが襟首を探る。引っぱり出された細い鎖に、同じ形の鍵が二つぶら下がっていた。
「廃工場の鍵。二度と使わないだろうけど、一応渡しておくよ。まあ、お守りみたいなもんだな」
 台座の内部から引っこ抜いた細いコードに通し、首から下げられるようにしてからジインがそれを差し出す。鉛色の鍵がピンク色の照明を鈍く弾く。
「なるべく別行動は避けるようにするけど、もしも突発的な事故か何かでお互いの居場所がわからなくなった時は、この廃工場で待ち合わせしよう。大体でいいから場所を覚えておいてくれ」
 大きく伸びをして、ジインが立ち上がる。
「さてと、おれもシャワー浴びてこようっと」
「ねえ、この赤い点はなに?」
 地図のいたるところで赤い印が点滅している。百個以上はあるだろうか。
 振り向いたジインが不敵に笑う。
「おれの手下だよ」
 冗談めかした声音でひらりと手を振ると、ジインは浴室に行ってしまった。
 ホログラフの前に座って、赤い点を眺める。それらは主に『彩色飴街』に集中していた。
 一体何の印なのだろう。ジインはあんな風に言っていたけれど、本当に手下がいるとは思えない。協力者の居場所だろうか。それにしては多すぎる。
 赤い点の正体も気になるけれど、とりあえず廃工場の場所と大まかな地形ぐらいは把握しておこう。
「ええと、ここが『彩色飴街』で、このへんが花街」
 ジインに教えてもらった地名を呟きながら、視線と視線で地図をなぞる。
「『裏』、『貧困街』……廃工場」
 廃工場。二人で暮らしていたところ。
 首から下げた鍵を握りしめる。
 もう二度と帰れないだろうと、ジインは言っていた。



「おれたちが追われる理由は二つ」
 言いながら、ジインが人差し指をぴんと立てる。
「その一。おれが魔法使いだから」
「魔法使い?」
「そう。手を触れずに物を動かし、炎を操る。そういう力を持つ人間を魔法使いと呼ぶんだ」
 言いながら、ジインが手をかざす。風のようで、風よりも確かな感触のなにかが、ソラの頬を撫でていった。
 目には見えない不思議な力。これが、魔法。
「どうして魔法使いだと追われなくちゃいけないの?」
「厳密に言うと、“魔法使いだから”じゃなくて、“魔法使いなのに魔法士として国に尽くすことを拒否したから”だな。本来魔法士は、国に従い国のために働かなくちゃいけないんだ。法律でそう決まっている。“魔法を行使できる程に発達した気術神経を持つ国民は、その能力を公共のものとし、公益および公の秩序のためにこれを使用しなければならない”」
「国に従い、国のために働く……拒否できないの?」
「できないな。“これに背反する者は、法に従って厳重に処罰される”。まあそもそも、背反する者自体が少ないんだけど」
「どうして?」
「今いる魔法使いのほとんどが、人工的に生み出された“作りもの”の魔法使いなんだ。閥族やら政治家やらが莫大な手術費用を払って、まだ母親のお腹にいる自分の子どもを“改造”する。赤ん坊が魔法使いとして生まれる確率は7.2%。何人もの“はずれ”を生み出した末に生まれた貴重な魔法使いは、魔法院で教育を受けて魔法士になる。魔法士は軍や政府、院の中枢と閥族を繋ぐ重要なコネクションなんだ。だから魔法使いとして生まれた人間で魔法士になりたくないなんて奴はまずいないし、許されない……というか、魔法使いとして生み出された時点ですでに魔法士になることが決まっているんだ」
「じゃあ、ジインは?」
「おれは平和な一般市民の家に生まれた、天然の魔法使いだから。軍にも国政にも興味がないし、閥族連中に義理もない。よく考えたら、両親が死んでからのうやむやで住民登録も消滅してるから、国民としての義務すらないな」
 つまらなそうに鼻で嗤い、ジインは話を続けた。
「家柄で多少の格差はあるにせよ、魔法士になれば最高水準の生活が保証される。でもそのかわり国に忠誠を誓わされて、徹底的に管理されるんだ。日々の生活はもちろん、思想や嗜好、服の趣味までな。あいつらに飼われるぐらいなら、一生逃げ回るほうがマシだよ。それに……」
 ジインの指先がソラの膝を示す。昼間に擦りむいた傷は、まだ半日も経っていないのにすでにかさぶたが取れかかり、その下に真新しい皮膚ができていた。
「おれたちが追われる理由その二が、おまえの特殊体質だ。どんなケガでもすぐに治る、驚異的な治癒力。成長速度と身体能力も普通の人間と比べ物にならない。おまえみたいな体質の人間は“ヒトガタ”と呼ばれて、捕まればモルモット同然の扱いを受けることになる。おれたちは二人ともが、それぞれ追われる理由を持っているんだ」
「ぼくらを追っているのは軍隊なの?」
「いや、国立魔法院だ。魔法士を管理育成統括する、公の機関……院の長老どもは国政の実権も握っているから、そのうち軍も動くだろうけど」
「……そんな人たちから逃げきれるの?」
「逃げきってみせるさ」
 ジインが不敵に笑った。
「そのために少しずつ準備してきたんだ……たとえ第一士団が来たとしても、うまく切り抜けてみせる」



 シャワーの音が聞こえてきた。
 なんとなく浴室のほうに目を向けて、思わずぎょっとする。半透明の壁の向こうに、人の形をした肌色がにじんでいた。
 どうやら浴室側では鏡になっていた壁が、部屋側から見ると透けているらしい。
 ということはもしかして、さっきの背伸びやらしかめっ面やらも透けて見えていたのだろうか。だとしたらマヌケすぎる。
「最っ低……」
 薄暗い部屋の中でスクリーンのように発光する浴室から目を逸らして、ソラはベッドに突っ伏した。
 ガラスの歪みは荒く、人の形はわかるけれどその表情までは窺えない。そもそも作業をしていたジインが浴室のほうに目を向けていた可能性は低いのだが、マヌケなポーズを見られたかもしれないと思うと、部屋中を転がり回りたいくらいの恥ずかしさが込み上げてくる。
 数分の間うんうんと唸った後、ソラはベッドの上のリモコンを手にとった。このままではいやらしい映像を観ているようで落ち着かない。もう少し部屋を明るくすれば、浴室もあまり目立たないだろう。
 そう思って、ソラは並んだボタンを適当に押してみた。
 照明が青に変わる。
「お……」 
 別のボタンを押してみる。キラキラとミラーボールが回り始めた。
「おお……!」
 別のボタンを押してみる。ベッドがゆっくり回転し始めた。
「おおお!!」
 おもしろい。この機能に何の意味があるのかわからないが。
 ベッドにあおむけに寝そべって、天井を眺める。小さな白い光の粒が、ソラを中心にしてくるくると回った。
 まるで星空の中にいるみたいだ。
 楽しくなってボタンを次々と押していく。赤、黄、紫と照明が変わり、フラッシュが点滅してスポットライトが当たり、ベッドが逆まわりになった。
 ぱっと浴室側が明るくなる。反射的にそちらへ顔を向けると、頭を洗うジインの鮮明な後ろ姿が目に飛び込んできた。
 驚いて跳ね起きる。壁がない。丸見えだ。
 波ガラスの歪みが、きれいさっぱり消えている。
 あわててリモコンを見る。どのボタンを押したのか、まったくわからない。
 変な汗をかきながら、ソラはとりあえず順番にボタンを押していった。照明が青になる。ピンクになる。チカチカする。ベッドが回転する。どれも違う。
 ふいにジインがこちらを振り返る。心の中でぎゃーと悲鳴を上げながら、ソラはベッドに突っ伏した。
 寝たふりのまま数十秒が経過する。
 恐る恐る顔を上げると、ジインはとくに慌てた様子もなく体を洗っている。
 もしかして、浴室側は鏡のままなのだろうか。
 ほう、と胸を撫で下ろす。いや、安心している場合ではない。ジインが浴室を出る前に、壁を元に戻さなくては。
 リモコンに視線を移そうとした瞬間、ソラはぎくりと動きを止めた。
 白い泡が洗い流されたジインの体。そこに現れた無数の傷あとに、視線が釘付けになる。
 斜めに裂かれたような傷。やけどらしき小さな点。すり傷。青あざ。時を経て肌になじんでいるものもあれば、まだ鮮血が滲んでいるものもある。そしてそれらの多くは、服の外からは見えないところに集中していた。
 臓腑の奥が熱くなる。
 これは事故や何かで偶然できたものではない。人の手で故意につけられたものだ。
 脇腹のひときわ大きな傷を、ジインの手のひらがそっと覆う。一番真新しい傷だ。ジインの視線が、鏡ごしに傷へと向けらた。表情は静かだ。
 その表情と相反するように、ソラの中に怒りが逆巻く。
 誰だ。誰にやられた?
 『貧困街』にいた頃には、こんな傷はなかった。記憶は未だ戻らないけれど、直感がそう告げている。
 この傷は、おそらく――
「……魔法院」
 きっと、やつらに違いない。
 今までソラは魔法院を、なにか得体の知れない、恐ろしい猛獣のように思っていた。巨大な力を持つ、国の最重要機関。ジインが一緒ならまだしも、何の力も持たない自分一人では立ち向かっても勝ち目はない。ひたすら逃げることしかできないと、そう思っていた。
 けれど今、その恐れは吹き飛んだ。
 魔法院は、敵だ。
 ジインを傷つけるなんて、絶対に許さない。
「ぶっ飛ばしてやる……!」
 ジインのような力がなくても、この拳で、必ずぶっ飛ばしてやる。
 そう心に誓い、ソラは拳を握り込んだ。
 シャワーの音が止まる。ソラははっと我に返った。
「まずい……!」
 手当り次第にボタンを押す。赤、青、ピンク、フラッシュ、ミラーボール、赤、スポットライト、フラッシュ。どれも違う。
 ジインが服を着終える。
「わーっ!」
 ジインの手がドアにかかったところで、ソラはリモコン側面のポタンに気がついた。“主”と書かれたそのボタンを押す。ジインが浴室を出ると同時にすべての照明が消え、部屋が真っ暗になった。
「なに遊んでるんだ」
 入口近くのスイッチで明りをつけたジインが、呆れ顔でソラを振り返る。照明は普通の白色になり、壁は元の波ガラスに変わっていた。
「いや、うん、ちょっとね」
 曖昧に笑って、ソラはそっとリモコンを置いた。
 危なかった。心臓がばくばくしている。
「荷物は枕元に置いとけよ。何かあったらすぐ逃げられるように」
 ホログラフの台座の裏からチップを取り出し、ジインがベッドへ腰かける。黒いシャツに、暗色で細身のジーンズ。その下に無数の傷が隠されているなど、立ち振る舞いからは微塵も感じられない。
「靴もすぐ履けるようにな」
「うん、わかった」
「ううー、疲れた。おれは寝るぞ」
 言いながら、ジインがさっさと毛布にくるまる。当たり前のように空けられたその左側におさまって、ソラはゆっくりと息を吐いた。
 しんと静まり返った室内に、隣の部屋の悩ましげな声がやけに大きく響く。見たところ壁は厚そうなのに、どうしてこうもよく聞こえるのか。頼みもしないのに、脳裏にホログラフの男女の姿が蘇る。それらを無理やり頭の外へ押しやって、ソラは耳まで毛布を被った。
 ふいに背中と背中が触れる。緊張してソラは身を硬くした。すでにうとうとしているらしいジインの眠りを妨げないよう身じろがず、呼吸も最低限に抑える。
 無理やりまぶたを閉じてみたが、意識は冴えて背中やら隣の部屋やらに向けられたままだ。
 こんな状態でちゃんと眠れるだろうか。
「記憶……」
「えっ?」
 掠れた声にどきりとする。ジインの声の振動が、触れ合う背中からかすかに伝わる。
「記憶、早く戻るといいな」
「……うん」
 揃いの鍵を握りしめる。背中がじんわりと温かい。すうっと胸の奥までしみるようなその熱に、ソラはゆっくりまぶたを閉じた。
 もしも脳みそがまだ凍っているのなら、この柔らかな熱がきっと溶かしてくれるだろう。
 背中に伝わる体温を心地よく感じながら、ソラはしばらくの間、穏やかなジインの寝息をぼんやりと聞いていた。

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