夜の桜に、御用心
「ねぇねぇ、知ってる?」
「どうかした? 何かあったの?」
「それがさぁ、今年も出たんだって、例のアパート」
「ウソ、それってかなりヤバくない?」
「そうだよね、だって毎年のように飛ぶんだもん。真夜中に、二回の廊下から……」
◆
『春眠、暁を覚えず』とは、よく言ったものだ。日はすでに高々と昇り、閉め切ったカーテンの隙間からさしこむ光は、もはや朝日と呼べるようなものではない。それにもかかわらず、羽篠紫は実に幸せそうに眠りこけていた。くしゃくしゃになった掛け布団をしっかと抱きかかえ、ベットの上で子猫のように丸くなり、つややかなダークブラウンのセミロングは、扇のようにきれいに広がっている。
ベットの足下には、サイドテーブルの上に置いてあったはずのピンク色の目覚まし時計が転がっていた。時計の針は、七時を指したまま止まっている。どうやら、紫が時計をはたき落としたときに電池が外れてしまったらしい。
「んんー……」
紫はかわいらしい声を上げ、日の光から逃げるかのように、ころりと寝返りをうった。
と、その時。突然けたたましい音を響かせて、部屋の扉が勢いよく開いた。
「紫っ! いい加減に起きろっ!」
「ぎにゃっ!」
いきなりの安眠妨害に紫はびくっと跳ね起き、寝ぼけた悲鳴を上げた。そのままぼんやりとやる視線の先には、腰に手を当てて扉の近くに仁王立ちし、紫をねめつけているショートカットの女の子の姿があった。
「お、おはよう、美月ちゃん。こんな朝早くに、どうかしたの?」
半目のまま、ふにゃふにゃと話す紫に、美月と呼ばれた女の子──岸田美月は、がっくりと肩を落とした。
「あんたねぇ、まだ春休みだからっていつまでぐーたらしてるのよ! 来週から、新学期も始まるのよ? いい加減に、しゃきっとしなさい!」
美月はつかつかと窓まで歩いていって、おもむろに真っ白なカーテンを開け放つ。紫の部屋の中を、お昼前の日の光が明るく照らし出す。いきなりのまぶしさに、紫は眠たげな目をいっそう細めた。
「だいたい、今日は私の頼みごとに付き合ってくれる約束だったじゃない。昼前に誘いに行くって言ったんだから、そのくらいの準備しておいてよ」
胸の前で腕を組んで、美月は愚痴った。タイトなジーンズに、淡いグリーンのティーシャツ。その上に羽織った白いヨットパーカが、活動的な印象を与える。
「そ、そう言えばそうだったかも……。ごめんね、美月ちゃん。いざ起きるとなると、眠くて眠くて……」
ごそごそとベットから抜け出した紫は、足元に転がっていた目覚まし時計の電池をはめ直し、そっとサイドテーブルの上に置いた。再び、秒針が時を刻み始める。
「まったくもう、しょうがないわね。じゃ、下で待ってるからね。また、寝ちゃったりしたらダメよ?」
「そ、そんなコトしないよっ」
「はいはい」
紫の抗議の言葉に頬をゆるませて、美月は手を振りながら階段を下っていった。
『相変わらず、騒々しい女だな、美月は』
部屋に一人残された紫の頭の中に、自分ではない別の人格の声が響いた。
「そんな言い方したらだめだよ、サクちゃん。美月ちゃんは、とってもいい子なんだから」
クローゼットの中から服を選びながら、紫は独り言のようにつぶやく。
──羽篠サク。紫の体に宿る、別人格だ。紫が物心ついた頃からすでに存在している。二人の関係は、さながら仲のよい双子の姉妹と言ったところか。今のように、紫が覚醒状態にある時でも意識下に出てこれるので、俗に言う裏と表のような関係ではない。また、紫が主人格であるということは認識しているので、普段は紫の心の底で眠っている状態にある。
『私は本当のことを言っているだけだよ。いくら言い方を変えたところで、美月が騒々しいのに変わりはない。まぁ、美月の心が澄んだ水のように奇麗なのは、私も認めるが。
しかし、本当に行くのか? 正直に言うと、私はあまり気が乗らないのだが。あのような場所に、何の力もない人間が行くのは、私としては……』
サクの意見に、紫は着替えの手を少し休める。
「うん、実は私もそう思うんだけど……。でも、きっと大丈夫だよ。どうせ何も見えないんだから、すぐに帰ることになるよ」
『そうだといいのだが……』
サクの物言いに、紫はくすりと笑みをもらした。
「ふふふ、サクちゃんは心配性だね」
『別にそのようなものではない。ただ、美月は私にとっても大切な友人なのでな。ま、何かあったらいつでも私を呼ぶといい。私はもう少し、眠っているから』
「うん、ありがと、サクちゃん」
紫はサクの優しさににっこりとほほ笑んだ。そして、鏡に向かって髪の毛をチェックすると、椅子にかけておいたポシェットをつかんで、部屋の外へと出て行った。
◆
美月は、太いしめ縄が巻いてある、大きな御神木の下に立っていた。風が吹けば葉がそよぎ、心安らぐかすかな音が頭上から響いてくる。上を向けば、木漏れ日がきらきらと美しく輝いているのが見える。
雑音の全く届かないここ水郡神社の境内は、まるで外界と区切られた別世界のようだ。目を閉じれば、自然と一体になったかのような錯覚を覚える。
言わずもがな、紫の家はこの神社の敷地内にある。彼女の家は、代々この神社の神主を務めている由緒正しい家系なのだ。
「あら、美月ちゃんじゃないの」
ぼんやりしていた美月の背後から、女性の呼びかける声がした。我に返って振り向くと、紫をそのまま大人にしたような女性が、神社の裏手からオートバイを押して歩いてくる。
「茜さん、こんにちは」
「どうしたの? 紫なら、まだ寝てるみたいだったけど、あたしが行って起こしてこようか?」
「いえ、大丈夫です。さっき、私が部屋まで行ってきましたから、もうすぐ降りてくると思います」
ちょうどその時、境内の奥まった所に建てられた家の方から音が聞こえ、紫が慌てた様子で飛び出してきた。スカイブルーのブラウスの上に、同色のカーディガンを羽織り、淡いピンク色のひざ下スカートに身を包んだ彼女は、清楚なお嬢様といったような印象を与える。左肩から、白い小さなポシェットがゆれていた。
「美月ちゃん、遅くなってごめんね。あれ? お姉ちゃん、どこ行くの? これからバイト?」
オートバイにまたがり、ヘルメットをかぶろうとしていた茜に、紫が声をかけた。
「そうよ。じゃ、行ってくるわね。帰りは夜になるけど、そんなに遅くはならないと思うからさ」
茜は左手を二人に向かって挙げ、そのままオートバイを発進させた。エンジン音が次第に遠ざかっていく。そんな様子を、美月は憧れのまなざしで見つめていた。
「いつ見ても、茜さんて素敵よねぇ。私たちも、大学生になったら、あんな感じになるのかな」
紫より三歳上の茜は、今年の四月から大学の二回生だ。彼女はその美しい外見と、さばさばした性格のおかげで、男女問わず人気がある。ただ整理整頓が大の苦手で、彼女の部屋はいつでも、さながらゴミ箱のようなのだ。そんな裏の一面を知っている紫は、美月の言葉にただただ苦笑を返すしかなかった。
「とりあえず美月ちゃん、これからどうするの?」
「そうねぇ、今からすぐに調べに行きたいのはやまやまだけど……」
顎に手を当てて、少しの間考え込む。
――くぅ。
その考えを、かわいらしい音が中断させた。見ると、紫が顔を真っ赤に染めて、おなかを両手で押さえている。
「あの、その、これは……。だってまだ、起きてから何も食べてないし……」
しどろもどろで言い訳する紫の肩を、美月がやさしくたたいた。
「ふふふ、じゃあ、最初の目的地は決定ね。例の『アパート』へは、腹ごしらえがすんだらにしましょ」
「そ、そうだね」
「ささ、そうと決まれば、張りきって行こーっ!」
美月は、そばに立ててあった自転車に鍵を差し込み、スタンドを勢いよく跳ね上げ、足を振り上げてサドルにまたがった。
「ちょ、ちょっと待ってよ、美月ちゃん!」
紫が慌てて自分の自転車を手に取り、美月の後を追う。
顔を上げれば、雲ひとつない青空が目前に広がる。三月も下旬のこの時期、今日は絶好のお出かけ日和だ。
◆
水郡神社の近所のバーガーショップに入った二人は、一通り食事も終わり、今はセットに付いていたジュースを片手におしゃべりしていた。
「それにしても、紫が協力してくれてホント助かるわ。なにしろ紫は、我が校きっての霊感少女なんだもんね」
「そ、そんな言い方しないでよ」
口ではそう言いながらも、紫もまんざらではなさそうだ。実際、紫の霊感には目を見張るものがある。金縛りなど物心つく前にすでに体験済み。見えない物や聞こえない声を感じ取るのも日常茶飯事。その力は、代々水郡神社の神主を務め、この地にすくう悪霊を祓い続けてきた羽篠一族の間でも屈指の霊力の高さなのである。それは、彼女の死んだ父親に由来するものだ。しかしながら、紫自身はその霊力をコントロールする事ができず、お祓いはもっぱらサクの仕事になっているのだが。
「でも、ホントに行くの?」
紫が不安そうにたずねる。先ほどはサクに楽観的な態度を示した紫ではあったが、時間が経つにつれ徐々に生来の気弱さが頭をもたげてきたのである。
「そんなの、行くに決まってるじゃない。紫だって、例のアパートで起きた事件は知ってるでしょ? 超常現象研究同好会会長の岸田美月としては、放っておくわけにはいかないの。……もしかして紫ってば、怖いの?」
美月の言葉に、紫は慌てて首をふる。
「そ、そんなんじゃないよっ。ただ……」
なおもうつむいて考え込んでいる紫に、美月が笑いかける。
「大丈夫よ、みんな色々言ってるけど、所詮はただの噂話。行ってもどうせ、何も出ないって」
「そりゃまぁそうだけど……」
紫は、美月の言い分に口ごもった。
ところで、美月の言う噂話とは何なのか。その発端となる事件が起こったのは五日前の夜、ちょうど桜の花が咲き始めた頃のことだった。とあるアパートの二階の廊下から、一人の男性が飛び降り自殺をはかったのだ。発見が早く、幸いにもその男性は一命をとりとめたのだが、頭を打った影響か、意識は依然として戻らないままだという。しかし、何があろうと所詮は飛び降り自殺未遂者。これだけなら、噂話になるほどの事件ではなかったのだが……。
後々の警察の調べで、そのアパートでは七年前から、毎年桜の咲くこの時期になると、二階からの飛び降り自殺者が出ているらしい、と言うことが判明した。もともと女子学生の間で『呪われたアパート』として噂になっていたのが、この件がきっかけとなって一気に広まった。入居者たちはみな、事件から三日と経たないうちにアパートから退去し、今ではそのアパートに住む者はいない。
『何を今さら迷っている。行けばいいじゃないか』
紫の頭の中に、サクの声が響いた。
『乗りかかった船だ。とりあえず、行って見てこればいい。万が一何かあったら、私がなんとかしてやるから』
心に優しく染み渡る、普段通りのサクの声。
ありがとう。紫は胸の中で、サクに向かってそっとつぶやく。紫の心は決まったようだ。
「そうだね、うじうじしてても仕方ないし、行ってみようか」
「そうこなくっちゃ」
二人は顔を見合わせて自然と笑みをこぼし、そのままテーブルを立った。
◆
二人は川沿いの道を、自転車を押しながら並んで歩いていた。美月の調べでは、例のアパートはこの近くにあるらしい。ただ、そのアパートはよほど注意していないと見落としてしまうくらい奥まった所に建っているらしく、二人はこうして自転車から降りて歩いているのだ。
さすがに二人とも緊張しているのか、先ほどから口もきかずに押し黙ったままだ。しかし二人の感じている緊張の出どころは、それぞれまったく違っている。美月の場合は、噂の場所を一目でいいから見てみたい、と言う好奇心からくるものだ。彼女にとって、何か神秘的なものを追い求めたいという欲求は、さながら本能であるのだ。だからこそ彼女は高校入学と同時に、超常現象研究同好会なるものを発足させたのである。
反対に紫の感じているのは、純粋な恐怖からくる緊張感であった。バーガーショップではああ言ったものの、やはり完全に恐怖心を捨て去ることはできない。生まれつき霊感が強く、常人とは違う数多くの体験をしてきた彼女なら、なおさらだ。
油断して、悪霊にのまれてしまった者を知っている。力及ばずして悪霊に消されてしまったものも、愛する者を守るために自らを犠牲にした者も……。だからこそ感じる恐怖心。紫はゴクリと生唾を飲み込んだ。
柔らかなそよ風が彼女達の髪を優しく揺らし、暖かな春の日差しが彼女達の体を優しく包み込む。いつの間にか辺りの音は消え、チェーンのたてる規則正しい金属音しか、二人の耳には入らなくなった。
古ぼけた工場を通り過ぎるといきなり、異質な風景が視界を埋め尽くした。
まず目に飛び込んできたのは、あたり一面に舞い散る桜の花びらだった。いく千ものそれらは、淡いピンク色の光を放ち、地面に落ちることもなくいつまでも舞い続けている。
突然吹き込んだ風に花びらが散らされ、一気に視界が開けた。そして、古ぼけた二階建てのアパートと、その前にそびえ立つ桜の巨木が目前に出現した。
花はまさに満開の時。二人はここに来た理由も忘れ、しばしの間ぼうぜんと立ち尽くしていた。幾重にも伸びた枝々はそろって天を目指す。その大きく太い幹はどっしりと大地に根をおろし、そのすべてを支えていた。
しかし、紫は何か奇妙な違和感を覚えた。何かが、おかしいのである。言葉では言い表せないような何かが、紫の第六感の警鐘を打ち鳴らしているのだ。
「すっごい綺麗……。満開だね」
そんな紫の考えを知る由もない美月は、恍惚とした表情で桜の木に歩み寄る。
「ねぇ、美月ちゃん。もう帰ろうよ、何か変だよ」
紫が弱々しく美月に声をかけた。美月はその声に歩みを止め、その場で振り返る。
「どうして? こんなに綺麗なのに。せっかく来たんだから、お花見でも……」
「ダメ! いいから、もう帰ろうよ」
普段とは明らかに違う、紫の強い口調。そんな彼女の態度に、美月は戸惑いを隠せない様子で頷いた。
「うん……。紫がそこまで言うなら、帰ろうか……」
二人はすぐに自転車に乗って、もと来た道を帰っていった。工場を通り過ぎる時、美月は名残惜しそうにもう一度、桜の木を振り返った。
◆
紫は家に帰り、楽なジャージに着替えて自室のベッドに腰掛けていた。大きな枕を胸に抱き抱え、非常に疲れた表情を浮かべている。
「はぁ、昼間のは一体何だったんだろ。サクちゃん、どう思う?」
『いや、あいにくだが私にもわからない。しかし、紫の選択が正しかったのだけは確かだ。あのままあの場所にいれば、何らかの危険が及んでいたに違いない』
「そっか。でも近い内に誰かがお祓いをしておかないとまずいよね」
『そうだな。誰かと言っても、お払いのできるのは私たちしかいないわけだが』
「そ、そうなんだよね……」
紫は抱いていた枕に顔をうずめた。
「紫ちゃーん、電話よーっ! 岸田さんのお母さんからよーっ!」
一階から、母親の呼び声が聞こえる。おかしいな、美月ちゃんならともかく、どうして美月ちゃんのお母さんから電話がかかってくるんだろう。紫は首をかしげながら、枕をベッドにおいて一階に下りた。
母親から受話器を受け取る。
「もしもし、紫です。お電話代わりました」
『紫ちゃん? そっちに、ウチの子いないかしら』
「美月ちゃんですか?」
美月の母親の声から、若干の焦りが感じられる。
「いえ、いませんけど……。今の時間なら、とっくに家に着いているはずなんですが……」
『そう、ありがとね。今日は紫ちゃんと遊ぶんだって言ってたものだから……。ごめんなさいね、こんな時間に電話して』
「いえ、大丈夫です。お休みなさい」
紫はゆっくりと受話器を戻した。その顔に、次第に困惑の色が見え始める。
ふと、脳裏に今日の昼間の光景が映し出された。恍惚とした表情で桜を見つめる美月。帰ろうといった時、明らかに不満そうだった美月。振り返って名残惜しそうに桜を見ていた美月。困惑の表情が、一気に恐怖に染まる!
「サクちゃん、お願い!」
『分かった、私が何とかしよう』
その瞬間、体の主導権が紫からサクへと移動する。目つきは鋭くなり、口元はきりりと引き締まる。まるで別人のようだ。そのまま風のように走り、玄関の方に向かう。
「ちょっと紫ちゃん、こんな時間にどこに行くの!?」
「母上、しばらくの間出かけてくる。明日の朝までには必ず戻る!」
「え? サクちゃんなの……? あ、ちょっと待ちなさい!」
途中ですれ違った母親に声をかける。そしてそのまま玄関から飛び出し、闇の中にその身を投げ出す。
「あら? 紫、こんな時間にそんなかっこでどうしたの?」
バイトから帰ってきた茜が、いきなり飛び出してきたサクに目を見張る。
「済まない姉上、少しの間バイクを借りるぞ!」
「え? あ、サク?」
茜が乗って帰ってきた、キーのささったままのバイクに飛び乗り、エンジンをふかせる。
「ちょ、サク、ちょっと待ちなさいってば!」
「行ってきます」
茜の制止を無視して、サクはアクセルを全開にし、バイクを一気に加速させる。赤いテールランプは、闇にのまれてあっという間に見えなくなった。
母はエプロン姿のままサンダルをつっかけ、玄関から出てきた。
「もう行っちゃったの?」
「うん。相変わらずね、サクも紫も」
茜の言葉に、母はゆっくりとうなずき返す。
「そうね。死んだお父さんの、若い頃にそっくりだわ。あの子たちの力は、お父さんから受け継いだ物だもの。今はとりあえず、サクちゃんを信じて待ちましょう」
二人はエンジン音が遠く聞こえなくなるまで、じっと見送っていた。
◆
ヘッドライトは闇を斬り裂き、逆巻く風が耳元でうなる。サクは一つの影と化し、人気のない住宅街を風のように疾駆する。目的地まではもうすぐだ。早くしないと、美月が危ない。
『ね、ねぇサクちゃん。もしも……、もしもだよ? もしも、私達が間に合わなかったら……?』
「まず間違いなく、美月の命はない」
『そんな……』
紫は思わず絶句する。サクはさらに続ける。
「紫も、そんな事は分かっているだろう? だから私達は、全速力で助けに向かっているのではないか。それよりも、問題はあちらだ」
『……確かにそうだね。あの短時間で、人ひとりを手駒にとるなんて』
「ああ、正体がなんであれ、かなり危険な邪霊であることは間違いない。長引けば、こちらが不利になる。一気に片を付けよう」
『うん』
薄明かりの下、水面がきらきらと輝くのがぼんやりと見えた。いつの間にか、川沿いの道を走っている。
『サクちゃん、あそこ。あの工場のとなりだよ!』
「承知!」
リアタイヤをロックさせ、そのままの状態でハンドルを切る。一呼吸おいて、さらにフロントタイヤもロックさせる。するとオートバイは、きれいな弧を描いてアパートの前に急停止した。
──サクは言うべき言葉を失った。
アパートの前に立つ一本桜が、街灯の明かりに照らされて──否、照らされているのはむしろ街灯の方だ。桜自体が白い光を発し、その光によって周辺はさながら昼間のように明るい。
いく千もの花びらが、ものすごい速さで渦を巻きながら、十重二十重に桜の木を取り囲んでいる。
サクは恍惚とした表情で、右足を一歩不用意に前に踏み出した。
『しっかりして、サクちゃん!』
「!?」
頭に響く紫の声に、サクは我をとり戻した。
「……助かった、恩に着るぞ」
『気をつけて、思ったより強い妖力だよ』
紫の忠告に、サクは重々しくうなずく。桜の木から発せられる妖力は限りなく膨大で、体をなめるように通り過ぎていくそれは、まるで皮膚を斬り裂いていくかのようだ。霊力の高いサクでさえ、気を抜けば意識を刈り取られてしまいそうになる。
「くそっ、昼間感じた違和感はこれかっ! 感じるべきものを、感じられなかったのだな」
昼間、桜の木の妖力は完全に隠されていた。しかしそれと同時に、本来あるべき濃度の妖力まで、一緒に隠されてしまっていたのである。通常どこの土地であっても、妖力というのは少なからず存在する。それを昼間は感じ取れなかった。その微妙な違和感が、紫の第六感に警戒を促したのである。
『落ち着いて、サクちゃん。先に美月ちゃんを探さないと』
「ああ、そうだな」
紫の声に、サクはゆっくりと頷いた。何が起きても対処できるよう身構えながら、サクはゆっくりとアパート前の広場を見回す。
「いた、あそこだ!」
サクの指差した先に、美月はいた。アパートの二階の廊下の手すりに腰をかけ、ぼんやりと桜の木を見つめている。が、もはやその瞳に精気は感じられない。
『た、大変だ。早くなんとかしないとっ』
「分かってる!」
サクは慌ててアパートの階段の入り口に向かって走り出した。そのいく手を、何百もの花びらが遮ろうとする。
「邪魔するなっ!」
一喝とともに、右手を振り切る。霊力の込められた一撃に、花びらの壁はもろくも崩れ、階段までの一本道が出来上がる。
サクはいそいで入り口まで駆けより、一段目に足をかけようとした。
『サクちゃん、ダメっ! 階段をのぼってたんじゃ、間に合わないっ!』
「なんだって?」
慌てて後ろを振り返るサク。その目に映ったのは、宙に身を投げ出した美月の姿だった。
スローモーションのように世界が動く。美月の体は頭を下にしてゆっくりと宙を舞い、その体はすぐさま引力にとらわれていく。
──間に合うかっ? いや、間に合わせるっ!
きびすを返し、風のような速さでサクは美月の体の下にもぐり込もうとする。
『とんでっ!』
紫の言葉と同時に、サクの足は地面をけった。
まさに間一髪。サクは美月の頭を抱え込むように体全体を受け止め、地面に転がり込んだ。
「よかった、間に合ったか」
『うん、大丈夫。怪我はないみたい』
落下の衝撃で自己防衛反応が働いたのか、美月の体からは妖力が感じられず、当の本人は静かに寝入ってしまっていた。
サクはほっと一息ついた。美月の無事を確認でき、まずは一安心だ。だが、仕事はまだ終わっていない。
──貴様、ナゼ我ノ邪魔ヲスル。
耳を通してでなく、頭の中に直接響く声。
後ろを振り返ると、桜の花びらが人の形を成してそこに立っていた。
──ナゼ、我ノ道ヅレヲ奪オウトスルノダ。ソレトモナンダ、貴様ガ我ノ道ヅレヲ買ッテ出ルトデモ言ウノカ。
サクは横たわったままの美月を背後に隠し、すっくと立ち上がる。
「どちらもごめんこうむるね。私はただ、お主を滅しに来ただけなのだから」
言うが早いが、サクは胸の前で印を結び、呪詛の言葉を投げつける。しかし人形は元の花びらに分裂したかと思うと、一転してサクに襲いかかってきた。
「うわぁっ!」
体中をびっしりと花びらに覆われ、サクは身動きがとれなくなった。そんな彼女の頭に、異質なイメージが流れ込んでくる。
──十八で親の反対も押し切り、都会に出てきた自分。
──思い通りに出世できず、上司にどやされる毎日。
──信じていた友人に裏切られ、多額の借金を肩代わりさせられる。
──激しい取り立てに耐えられず、妻子までもが家を出て行く。
──勤めていた会社は倒産し、酒におぼれ、自分を見失っていく。
──心に浮かぶのは憎悪、世の中すべてに対する嫌悪感のみ。
──目の前にあるのは、見事に咲き誇る一本桜。
──体が宙に浮く感覚。そして、
──孤独な死。
『サクちゃん!』
力強く響く、紫の声。普段は気弱な彼女だが、こういう時は誰よりも頼りになる。サクの瞳に、再び光が宿る。
「散れ!」
力強い発生とともに、サクの体中から霊力がほとばしり、彼女の体を覆い尽くしていた花びらが、一気にはじけ飛んだ。
「紫、ありがとう。助かった」
『そんな。だって私達はいつでも二人で戦ってるんだし、そんなの当たり前だよ』
紫の返答に、サクはふっと笑みをもらす。
──バカナ……。貴様、我ガ過去ヲ見テモ、心ガ砕ケナイノカ……!?
人形はうろたえた様子で後ずさる。サクはそれに向けて指を突き立て、言い放った。
「あれは私の記憶ではなく、お前だけのもの。同情はするが、共感はできぬ相談だな」
──クッ。所詮、我ガ心ノ苦悩ナド、他人ニハ分カラナイト言ウコトカ!
花びらは猛り狂ったようにサクを襲い、体中を締め上げていく。
「そうじゃない、お前は何も分かっちゃいない」
サクが発した言葉に、人形はピクリと反応した。
「お前が不運な人生の歩み手だった事には同情する。しかし、明日への希望を捨て死に逃げるなど、ただの臆病者のする事だ」
──ウルサイ!
花びらは、さらにキツくサクを締め上げる。しかしサクは、顔色一つ変えることはない。
「その上、今のお前はすでに死の世界の住人。現世に手を出すなど、ましてや自分と同じ世界に引きずり込もうなど、お門違いもはなはだしい」
──ダ、ダマレダマレダマレッ! 貴様ナンゾ、霊魂ノカケラモ残ラヌホドニ、ツブシテヤルワッ!
あたりに漂っていた全ての花びらが、一斉にサクに襲いかかった。さながら淡いピンクの団子のようになったそれの内部の状況など、外から見たのでは推し量ることすらできない。
──ククク、コレデ終ワリダ。
勝利を確信し、人形が満足げに声なき笑い声を上げた瞬間。
「散れ!」
力強い一喝とともに、再度花びらがはじけ飛んだ。中から出現したサクは、死ぬどころか傷一つ負っていない。
──ナゼダ、ナゼコノヨウナ小娘ニ、ココマデノ力ガ……。
「簡単だ、私はいつでも一人で戦っている訳ではないからな。あえてもう一度言おう。お前の不幸な境遇には同情する。しかし、やってしまったことを許すわけにはいかないっ!」
サクは再び胸の前で印を組む。それに呼応するかのように、人形のまわりに五本の光の柱が出現し、ずらりとそれを取り囲む。
──ウガアァッ!
人形は──もはやそう呼ぶことすらできないほど崩れてしまったそれは、最後の悪あがきとして、サクに向かって突っ込んでいった。しかしそれの先端が届くか届かないかの瞬間……。
「滅せよ!」
目もくらむような閃光が、アパート前の広場を貫いた。その光は天高く突き抜け、そして消えた。人形は声を上げる事もなく、完全に消滅した。
広場の街灯が、薄ぼんやりと桜の木を照らし出していた。あたりには、何事もなかったかのように、桜の花びらが静かに舞っていた。
サクの目つきが、ふっと優しげな、柔らかいものに変わった。
「お疲れ様、サクちゃん」
満天の星空が、とても美しい。一陣の風が、アパート前の広場を優しく通り過ぎていった。
◆
「ふうん、犯人は桜の木に取り憑いた男の悪霊だったのね」
頬杖をつきながら、茜がぼんやりと相づちを打つ。リビングルームのテーブルを挟んで、紫と茜は湯気のたつコーヒーを片手に、昨日の事について語り合っていた。
「でも、どうして被害者が出ていたのがこの時期だけだったんだろうね。サクを苦しめるほどの力があるのなら、年中被害者が出続けていてもおかしくないだろうに」
「それなんだけどね」
紫はミルクたっぷり、砂糖もたっぷりのコーヒーを一口すすってから、茜に説明を始めた。
「私達で考えてみたことなんだけど。ホラ、霊体っていうのは、人間の魂、つまり感情の集合体でしょ? その霊の想いの強さが、そのまま妖力の強さにつながるの。だからあの男の人の霊の場合、桜の花が咲くことが引き金になって感情が高ぶり、妖力が強くなったんじゃないかって思うんだ。あの人の最期に見た光景が、満開の桜の木だったから」
「ふーん、なるほどね。それでさすがのサクも、全力で戦わなきゃいけなかったのね。で、勢い余って私のバイクも壊したと」
意地悪く言う茜の言葉に、紫は飲んでいたコーヒーを噴き出しそうになった。
「ご、ごめんなさいっ。だって、あれは……。あんなにバイクが重いとは思わなかったんだもん」
昨夜、一仕事終えた紫は、サクと同様にバイクに乗って家に帰ろうと思った。しかし、肉体の疲労もあったのだろう、スタンドを外した瞬間バランスを崩してひっくり返ってしまったのだ。おかげでマフラーはひしゃげ、紫は泣く泣く気絶したままの美月をバイクに乗せ、家まで押しながら帰ってきたのである。
『本当にどんくさいヤツだな、紫は』
「あ〜、サクちゃんまでそんなコト言うの?」
『はははっ、本当のコトを言って、何が悪い』
「うぅーっ」
サクにまで笑われて、紫はむくれてそっぽを向いてしまった。
「はいはい、その辺で止めときなさいよ」
リビングルームに、暖かな笑みを浮かべて母親がふらりと入ってきた。
「それから紫ちゃん。表で美月ちゃんが待ってくれてるわよ。早く行ってあげなさいな」
「あ、はーい」
母親の言葉に、紫は残っていたコーヒーを飲み干して、慌ててリビングルームを飛び出して行った。
玄関から外に出ると昨日と同じ場所に、昨日と同じ表情で美月が立っているのが見えた。
『ふむ、昨日の出来事の影響はなさそうだな』
「うん、そうだね。安心したよ」
にっこりと微笑んで、紫は美月に近づいていく。
「おはよ、美月ちゃん」
「おはよう、紫。今日は早いね、珍しくさ」
「そ、そんなコト言わないでよ。そんな言い方じゃ、私が毎日寝坊してるように聞こえるよっ」
「えーっ? そうじゃなかったっけ?」
「もう、美月ちゃん! 私もいい加減に怒るよっ!?」
「あははは、ゴメンゴメン」
言葉では怒っているような言い方でも、顔はにこにこと笑っている。そんな仲の良い二人を包み込むように、春の暖かい風が吹き抜けていく。
「それにしても、昨日はホントにまいったよ。気がついたら、ココの神社の本堂の裏で寝てたんだもんね。家に帰ったら、大目玉食らったよ。こんな時間まで何してたのっ!? ってさ」
昨夜、気絶したまま帰ってきた美月は、事件のことは何一つ覚えていないようだった。そんな彼女に本当の事を教えるわけにもいかず、紫の母親が適当に言いつくろったのであった。
「そ、それは災難だったねー」
「ホントホント。あっ、そう言えば知ってる? 例のアパートの飛び降り自殺未遂者、今朝早くに意識が戻ったんだってさ」
「へぇー、そうなんだ」
得意気な顔で、美月は話を続ける。
「実は私、その人の入院先の病院の名前も知ってるの。で、今日はその人に会いに行こうかなって」
にやりと笑う美月に、紫は手をふりながら慌てて反発する。
「ちょ、ダメだよ、そんなの。それに、今日はお花見に行くんだって言ってたじゃない」
「ふふふ、冗談だって。それによく考えれば、病院知ってても簡単に会える訳ないじゃない」
「むぅ……」
美月の言葉を真に受けてしまった分、紫はよけいに頬を赤く染めた。
「ささ、そんなにむくれないで。今日のお昼は、私の手作りサンドイッチだから。もちろん二人分あるわよ。じゃ、今日も張りきって行こーっ!」
美月は、そばに立ててあった自転車に鍵を差し込み、スタンドを勢いよく跳ね上げ、右足を振り上げてサドルにまたがった。
「ちょ、ちょっと待ってよ美月ちゃん!」
紫が慌てて自分の自転車を手にとり、美月の後を追う。
顔を上げれば、雲ひとつない青空が目前に広がる。四月も始まろうかというこの時期、今日も絶好のお出かけ日和だ。
初めまして、針井龍郎と申します。今回は、この様な拙作にお目をお通しいただき、誠にありがとうございました。
さて、今回のこの作品は、次深先生(W8156B)が企画された、企画小説『羽篠紫』の参加作品です。この様な企画を設けて下さった次深先生に、簡単ではございますが、この場をお借りしまして厚く御礼申し上げます。
今回のこの作品、私にしては珍しく、登場人物が全員女性という構成になっております。なかなか難しく、思った通りに書けなかったという感じが、残っております。この思いを次回作にぶつけ、より良い作品づくりを目指していきたいと考えております。
機会がありましたら、またどこかでお会いしましょう。以上、針井龍郎でした!