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【改稿前】 願い ーわすれな草の海ー

作者: 吉岡果音

 天高く昇る朧月。雑踏の中、男はひとつの「輝き」を見つけた。

 他にもたくさんの輝く光がある。都会の街は深夜であっても明るい「輝き」に満ち溢れている。それぞれひとつひとつが違ったきらめきを放っている。ひとつとして同じものはない。男にはそれが見える。世界の美しさを、男は知っていた。

 しかし、あの「輝き」だけは、なにかが違う。男はその「輝き」から目が離せなかった。群を抜いて光が強いというわけではない。一番素晴らしい美しさというわけでもない。男は不思議に思う。

 ――なぜだろう。なぜ、こんなにも強烈に……。

 その特別な「輝き」の源を凝視する。さらに男は驚いた。

 ――なんということだ! よりによって……!

 男は迷わなかった。強い決意と強い意志でその特別な「輝き」に向かってまっすぐ歩き始めた。

 男にとって初めての行動だった。


 柔らかな日差しが差し込む部屋で、ユイは夢の世界から静かに帰還する。

 このところ、ひどい悪夢ばかりだった。内容は覚えていないが、暗い印象のとても恐ろしい夢。わずかに記憶に残るのは、おぞましい姿をした巨大な怪物が出てくる、ということだけ。眠ったはずなのに、疲れがまったくとれない、むしろ前日より疲労がひどくなっている気さえする、そんな毎日になっていた。

 その悪夢を見る度に、自分の中の大切ななにかが削られ、少しずつ失われていってしまっているのではないか……、どういうわけかそんなばかげた考えがまとわりつくようにユイの頭から離れない。ユイ自身も説明できない漠然とした得体の知れない不安が、心の奥深く澱のように沈んでいた――

 だが、今朝はなぜか違っていた。久しぶりの穏やかな眠り。昨晩は、会社の親しい仲間との飲み会だった。

 ――アルコールのおかげ、かな? 夢も……見たかどうか覚えてないや。今日は……ええと、日曜だ! よかった、今日は休みだ!

 ユイにとって楽しみのはずの休日だが、今日はなにも予定がない。いや、予定がないのではない、入れなかったのだ。なぜか予定を入れる気になれなかったのだった。

 友人にバーベキューに誘われていた。いつもなら、残業続きの日々であろうと体調が少しくらい悪かろうと、大喜びで参加しているところだった。なぜかどうしても行く気にはなれず、つい断ってしまった。昨晩の飲み会すら実は欠席したかった。前からの予定だったし、なんとか気持ちを上げるようにして参加した。実際、行ってみるといつもと変わらずとても楽しかった。なぜ、行きたくないなんて思ったんだろう――ユイは自分でも不思議に感じていた。

 ――今日はなにをして過ごそうかな。一日いいお天気になりそう。でも……。

 天気に恵まれた休日。ベッドの中にいても感じる、爽やかな空気。今までのユイなら、一人でも迷わず午前中からどこかへ出かけていただろう。しかしどういうわけか、ちょっと外出する気にさえなれなかった。

 ――きっと、疲れているんだ。そうだ。今日はのんびり家で好きなことをして過ごそう。

 とりあえず、録画して楽しみにしていたあの映画、「アリス」を観ようかな、とユイは考えた。ヒロイン役の女優も大好きだし、気軽に楽しめるような映画らしいので、気分的にちょうどいい気がした。映画を鑑賞してもまだまだ時間はたっぷりある。景気づけに久しぶりにチーズケーキでも作ろうかな、「景気」と「ケーキ」か、くだらないと思いつつなんとなくユイは笑ってしまった。

 ぼうっとした頭でとりとめもなく一日の過ごし方を考える。起床前の楽しいひととき。ゆっくりと移り変わる日々を、自分の好きなペースと自分らしい色合いで自由に彩っていきたい、一人暮らしも長くなってきたユイのささやかな願いだ。

 ユイは、「自分の信じる世界」、そして平凡だが穏やかな「自分の日常」は、ずっと変わらないものだと思っていた。というより、疑うことすら知らなかった。ベッドの脇にいる、ある存在に気がつくまでは……。

「えっ!?」

 夢の、続きだろうか。自分はまだ目覚めてはいないのだろうか。アルコールには強いほうだが、昨晩は少々飲みすぎた。ユイは自分の目を、映像を情報として捉える自分の脳を、一瞬疑った。しかし、夢や幻などではない、「現実」だった。現実に、いつもの日常とは違う光景がそこにあった。

 「見知らぬ男」が佇んでいた。

 ――なぜ、ここに、男が。

 いつも見慣れているはずの空間が、お気に入りの物たちで居心地よく飾られた自分の部屋が、男の存在でどこか大きく変わって見えた。それだけでなにか――空間自体が異なる命を得たかのようだった。

 男は、とても小柄で細身だった。しかし堂々とした存在感があり、その男の周辺だけ空気があきらかに違っていた。ただそこに立っているだけなのに、静かに燃え上がる青い炎のような気迫も感じられる。一見して、若い。強い光を宿す鋭い目つき、狐のようにつりあがった切れ長の目が印象的だ。端正に整った細面の顔立ちで、どこか気品がある。率直に美しい男性だ、と思った。あきらかに幽霊などではないと思うが、ひょっとしたら、天使とか悪魔とか精霊とか、人間ではないなにか別の次元の存在なのではないか――そんな幻想を抱かせるような謎めいた美貌だった。服装は黒っぽいシャツにダークな色調のジーンズ。ファッションには特に主張や個性は感じられないが、なぜか髪の色は深い青だった。そして瞳も同じ青い色をしていた。雄大な海のような神秘的な青……。髪は染めているか上質なウィッグなのだろう、変わった色だがなぜかさほど不自然な感じはない。瞳は――顔立ちや体格から日本人に見える――カラーコンタクトか、とユイは思った。

 ――バンドマンかコスプレってやつ?

 一瞬にして様々な情報を読み取ったユイだが、どうにも頭の回転は鈍く、ただただ目を見開いてベッドの上に上半身を起したまま固まってしまった。

 ――悲鳴を、あげるべきだ。侵入者を糾弾すべきだ。

 ユイの理性はそう訴える――でも、なにか違う気もする――ユイの体と心は命令に反応せず、どういうわけか訴えを保留にしていた。

 恐怖心はなかった。威圧するような強く鋭い存在感があるが、なぜだろう、嫌な感じがまったくしない。 でも、ここは私の家、私の部屋だ。許可なく勝手に存在していいわけがない。ここはやはり警察に――ユイはここまで考えてから、ふと思い立つ。果たして、この男は本当に「見知らぬ侵入者」なのだろうか。

 ――そういえば昨晩、なにかあった気がしてきた。自分はこの男性を知っているような気がする……。

 「誰!?」とユイが口を開くより一瞬先に、男が声を発した。

「おはようございます。朝になりました。私は眠ってもよいですか?」

 ユイは手元にあった携帯電話をつかみ、男めがけて投げつけた。


「つまり、昨晩のことはまったく覚えていないということですね……。それにしても、とてもおいしいです! ありがとうございます!」

 テーブルの上には二人分のあたたかい朝食。炊きたてのごはん、かぼちゃと大根の味噌汁、だし巻き卵、焼き鮭、ほうれん草の白和え。

 なぜ謎の男と朝食を共にしているのか。

 青い髪に青い瞳の男は、「見知らぬ侵入者」ではなかった。ユイの許可を得て、ここにいるのだという。そういえば、頭がはっきりしてくるとともに、なんとなくだが、昨晩は誰かと一緒に家に入ったような記憶がユイの脳裏に蘇ってきた――そのうえ、どういうわけか自分から家に来るよう誘ったような気さえする……。自分は知らない人間、ましてや知らない男性を家に招き入れるようなことなどするわけがないのだけれど――ユイはちょっと信じられない気持ちだった。

 男は一晩ずっと一緒にいたが、誓って妙なことは何もしていないという。その点は、顔を赤くして慌てながら必死で否定した。全力で、否定した。滑稽な程懸命に身の潔白を訴える男の不器用な様は、決して嘘をついているために動揺しているのではなく、単にシャイな人なんだなあと誰が見てもすぐにわかる様子だ。

 問答無用で追い出すこともできるだろうが、それよりも昨晩何があったのか、どういういきさつでこうなったのか、そもそも男が一体どんな人物なのか、ユイは知りたかった。

 ユイは、朝食を必ずとる派だ。なんだかよくわからないが、なにもなかったにせよ仮にも共に一夜を過ごした相手のわけだし、まあ朝ごはんくらいご馳走してあげてもいいだろうということにした。

 ――よかった。変な人、怖い人じゃないみたい。礼儀正しいし、なんだかかわいらしくて面白い人だな。

 でも変に意識すると話がややこしくなる――とりあえず「男女」としてではなく、ちょっとした知り合いのように接してみたらどうだろう――ユイは心の中で男との距離の取り方を考えていた。

 ――知り合い……、というのもなかなか微妙だなあ。やっぱり異性なわけだし……。そうだ。仮に、「泊まりに来た弟」、ということにしておこう。

 ユイは感情の、「ある大切な部分」に意識的に蓋をした。

「朝ごはん作るから、ちょっと待ってて」

「えっ!? そんないいですよ! いいです! 私のことならお気遣いなく!」

 ユイの申し出は、男にとってまったくの想定外なものだったらしい。

「もしかして帰るの?」

「いえ、あの……。帰るわけには……」

 ――帰るわけには? どういうことだろう。

「あ! そうだ! ごはんできるまで少し時間がかかるから、お風呂でも入っちゃったら?」

 お風呂、と聞いて男はさらに激しく動揺した。

「い、いえ! そんないいです! とんでもない! ほんとお構いなく! まったく、全然、ほんとに大丈夫です!」

 ――「まったく、全然、ほんとに大丈夫」ってなんなんだ?

 ユイは男の慌てぶりが可笑しくなった。

「ん? 遠慮してるの? 初対面の女性の家に泊まるなんて大胆なことしてるくせに、なにをいまさら……」

 ――あ。「弟設定」をつい自分から崩してしまった。

 同時に「蓋」も外れた。

「いえ、あの、そんな……、私は別に大胆なことをしているというわけでは……。ええと……。その……、申し訳ない、です……」

 男はいっそう頬を染めて、なんと返答したらよいか困ったのか視線を斜め下に落とし、うつむいてしまった。伏せられた切れ長の瞳は妙な色気があった。

 ――なんだコイツ! かわいいじゃん!

 ユイの周りにはまったくいないタイプだった。おそらく男は自分より二、三歳年下だろうと思った。ユイには二歳下の弟がいる。弟よりもさらに年下に見える。

 ――もしかしたらもっと若いのかも。下手をしたら未成年!? まさか私、家出少年を匿ってしまっているの?

 携帯電話を投げつけられる手痛い洗礼を受けた青の髪と瞳の男は、朝ごはんお風呂付の高待遇に昇格した。


 男の名は、狐ヶきつねがづきシュウ。

 昨晩――空には淡い光をまとった満月。

 飲み会の後、ユイは帰宅しようと一人歩いていた。だいぶ酔ってはいたが、パンツスーツで颯爽と歩く姿は傍目からそうとは感じられなかった。

 シュウは足早にユイに向かって歩いていく。

「すみません。ちょっとお話ししてもよろしいですか?」

「私?」

 ユイは絹のように滑らかな長い髪をなびかせ振り返る。後方から大きな歩幅で近づいてきた若く小柄な男性に突然声をかけられ、少々驚きながら。

 ユイはすらりとした長身の、快活な印象のする美人だ。大きな瞳は好奇心いっぱいといった感じで、常に光を湛えくるくるとよく表情が変わる。本人はまったく自覚していないが、ふっくらとした唇がどことなく憂いを帯びたように見え、とてもセクシーだ。しかしユイは自分の魅力をあまり理解していない。容姿を褒められることがあっても、愛の告白をされることがあっても、明るく元気な性格のためか、自然といつの間にか冗談や明るく楽しい雰囲気に変わってしまう。告白の場合は相手が勝手に「やっぱり自分には無理だ、高嶺の花だ」と諦め、すぐに冗談に切り替え急きょ無かったことしてしまう、ということも多々あった。しかしユイはまったく気付いていない。ユイの知らぬ間に始まり知らぬ間に終わっていた恋は山程あった。

 ユイはもちろん、深夜酔った女性が一人で歩いて帰るのは非常に危険なことだとわかっている。しかし自分に対しては周りがはらはらするくらい無防備だった。今夜の飲み会も、皆送っていくだの近くてもタクシーを使えだの散々提案したが、大丈夫、ありがとう、気を遣わないで、夜風が気持ちいいしちょっと歩きたいから、とあっさり却下してしまった。

 シュウはまず、自分が怪しい者ではないことを、決してナンパではないことを、不器用ながら真剣に丁寧に説明しようとした。しかし悲しいかな、シュウの地道な努力は実を結ばず、ユイは終始「勧誘」か「ナンパ」だと思っていた。

 ユイは気の合う仲間との宴の余韻が残っていてご機嫌だった。今ならなんでも楽しいと思える気がした。久しぶりの開放的な感覚――ずっと、もやもやした重くて暗いなにかに囚われている閉塞感があったから――アルコールと親しい人々の笑顔がそれを忘れさせてくれた。それに、彼氏ナシ、色恋沙汰とはすっかり縁遠い生活だったので、まあたまには話くらいならちょっと聞いてみるのも一興かな、もし危ない感じだったら蹴りの一つもお見舞いしてダッシュで逃走だ、自分は絶対大丈夫――そう軽く考えていた。

 シュウの話は実に荒唐無稽だった。自分はこの世界に潜む「魔獣」という怪物を退治することを生業にしている者だという。そういう家系に生まれ、特殊な能力を持っている、ユイに魔獣の影を感じたので声をかけたのだ、そうシュウは説明した。

「まじゅう?」

 酔った頭にいきなりの奇妙な話。突然すぎて笑い出すことすらできなかった。

「はい。単刀直入ですが、貴女は魔獣というものにとりつかれています」

 ――ええと。なんだそりゃ? この人は真顔でなにを――

「最近、悪夢を見続けているのではないですか?」

 いきなり言い当てられ、ユイは驚きを隠せなかった。

「その夢を見ることで、なぜか奇妙な喪失感を感じてはいませんか?」

 なぜ最近ずっと感じている私の不安を……。でもきっと偶然だ、適当に言ったのがたまたま当てはまってしまっただけだ、ストレスの多い現代、悪夢を毎日見るなんてきっとそんなに珍しいことじゃない、みんな常に大なり小なり不安や喪失感を抱えて生きている、とユイは思い直した。

 しかし、自分でそう考えたのだが一つの疑問に行きあたる。

 ――でも私、どうして悪夢を見るんだろう。一体なにが不安なんだろう。悩みもストレスも特にないと思うんだけどなあ。最近悲しかったようなこともないし。仕事上の問題もこれといってないし。疲れてはいるけど、体調だってそんなに悪くないと思う。家族や友人、周りの人間関係もありがたいことに良好。彼氏と別れて気がつけばもう二年。彼とのことは思い出すこともあるけれど、彼は彼でどこかで元気に暮らしていたらいい、ちょっと切なく懐かしく思うくらいだしなあ……。人生振り返っても過去のトラウマとかも特にないはずだし。そうすると、私の悪夢の原因、心にかかった黒いもやの正体は一体なんなのだろう――

「……もしかして、新手の宗教の、勧誘、とか?」

「違います」

 シュウはまっすぐな瞳でユイを見つめ、話を続ける。

「貴女に『ユメクイ』という魔獣がとりついています。このままでは危険です。貴女の生命を守るため、私の力を使わせてください。報酬は、お気持ちで結構です。たとえば一円でも。仕事としている以上、無償で、とは言えないのですが、貴女を助けたいのです」

 ――まさか。冗談? なにかのドッキリ? サプライズ?

 どこかに自分の友人が潜んでないか、念のため辺りを見回す。

 ――そんなわけないか。それにしても変な作り話。人を騙すなら、もっと現実味のある嘘を言えばいいのに。

 ユイが周囲を気にしているのを見て、シュウも周りに視線を配る。その視線はまるで武道家のように素早く鋭い。

「なにそのただ者じゃない感じ! もしかしてキミ、殺し屋とかスパイとか!?」

「えっ!?」

 思わず目を丸くするシュウ。シュウが面食らったのを見てユイは笑い出した。

「キミ、面白いねー! 魔獣とか特殊な力とか、ほんと変なこと言うー!」

 と、そこでユイはシュウの肩をばんばんと叩く。シュウはユイより三センチくらい背が低かった。

「……突然見知らぬ男がこんな奇妙な話をして、信じてほしいと言っても無理なのはわかっています。しかし、時間がないのです」

「時間がない? そうだね、終電はたぶんもう間に合わないよねー!」

「いやそういうことではなく……」

 深夜ではあったが、街の光はこうこうと輝き、人工的な明るさで辺りを満たしていた。行き交う人の数はまだまだ多い。空を見上げると柔らかな光の満月が見えるが、月を気にする人はいない。不思議な会話をしている、若く美しい男女のことを気に留める人もいなかった。

 ユイは改めてシュウの顔を見つめた。とても鋭い目をしているけど、まるで女の子みたいだな――と思った。ただ表面的に綺麗な顔立ち、というだけではない、内奥から匂い立つような、同性異性を問わず人を魅了するなにかを持っている。

 ――たぶん、お金をだまし取る目的で声をかけてきたんじゃない。このひとはそんなひとじゃない。少し話しただけだけど、話し方や表情やしぐさ、雰囲気から伝わってくるのはまっすぐな人柄だ。そして、私を見る真剣な眼差し、その奥には、熱いものが混じっている……、ような気がする。そうだ。話の内容はとっても変だけど、やっぱりこのひとは今、私を誘っているんだ。このひとは、きっと、私を異性として、「女」として見ている。だから声をかけてきたんだ……、自信はないけど、なんとなくそんな気がする。力強い光を放つ綺麗な瞳、なんだか吸い込まれそう……。

「家に、くる?」

 春の満月。月の神秘の力がそうさせたのか、それとも単に酒の力がそうさせたのか。はたまた、シュウが無意識に放つ、月光を浴びて妖しくきらめく日本刀のような神秘的なオーラに呑まれたのか、ユイの口から思わず、今まで自分から発したことのない言葉がこぼれ出していた。

「はい。ぜひとも貴女のお宅に伺いたいです」

 あれ? 即答? とユイは少し酔いが醒めた。もう少しそれなりのムードってものが……。酔いが醒めると同時に、ガラにもなくとんでもないことを口走ってしまった、という後悔の念もむくむくと湧いてきた。

 ――私、どうかしてる。私、そんなこと言う人じゃないのに……。

 ユイの心の変化などおかまいなしにシュウは話を続けた。

「貴女の中に潜んでいる魔獣『ユメクイ』は、夢に住み夢を喰らいます。ゆくゆくは精神を、心を喰われてしまいます。ユメクイを退治するには、夢の中に入って戦わなくてはなりません。そのために貴女が眠っている間、私を側にいさせてください」

 ――夢の中に入って戦う? そんなばかな!

「あなたは夢の中に入れるっていうの?」

 明るく笑うユイ。きっとそろそろ笑い返してくれるに違いない、おどけながら、だから君と一夜を過ごしたいんだ、一緒に素敵な夢を見よう、とかなんとかうまいこと言ってくるに違いない。まったく男ってヤツは、とユイは思った。しかしシュウは笑わなかった。

「はい。夢に入るとき、そして入っている間、貴女の手を握っていなくてはなりませんが」

「手を握る?」

「はい。直接精神世界に入るのに肉体的接触が必要なんです」

 ユイは改めてシュウの瞳を見た。澄んだ瞳。

「私が男だからご心配かもしれませんが、誓って変なことは一切致しません。しかし、現状を把握することや、貴女の夢に他者が介入するわけですから貴女の精神を安全に保つためにも、そして決戦前の下準備のためにも段階を踏むことが必要なので、今晩一晩ですぐ解決、というわけにはいかないです。少なくとも三晩はかかるかと思います。さらに、昼間も油断はできないので、日中もなるべく行動を共にさせてください」

「変なことはしない?」

「はい。やましいことは何も」

「行動を共にする?」

「はい。ユメクイの動向を感知するため、それから動きがあったときにすぐに対応できるようにするため、なるべく貴女の近くにいさせてください」

「一晩中手を握る?」

「はい」

「それも三晩?」

「はい」

「下心がないと?」

「はい」

「少しも?」

「……はい」

 正直に、返事に少し間が空いてしまった。男なのでまったくゼロか、と問われると少々辛い。

「ふーん?」

「……わかって、いただけましたか?」

 おそるおそる尋ねるシュウ。

「うん! やっとわかった! そっか! 近年話題のレンタル彼氏とか、男女の友達同士が添い寝をしても平気とか、そういったたぐいの話なんだ! もしかしてレンタル彼氏の営業さんとか?」

 先程の酒席でちょうどそんな話題がのぼっていた。お金を払って彼氏のようにお話したりデートしたりしてもらうサービスがあるという話や、異性の友達同士が添い寝をしても平気、友達としていられる、という若者達が増えているらしいというような話だった。ユイには信じられない世界だった。

「違います」

 どうしてそんな方向に話が……。肩を落とすシュウ。

「じゃあやっぱり下心があるんでしょ?」

「違います。魔獣という怪物が……」

 そんな不毛なやりとりを二人は十回程度繰り返した。シュウは常に冷静で、慎重で、粘り強かった。夜の闇はどんどん深く濃くなっていく。

 ユイはだんだん眠くなってきた。立ち話もなんだ、と思う。

「まあいっか。なんでもいいや。じゃあそろそろ家に行こっかー! とりあえず、ゴー!」

 ユイはもうこの奇妙な出会いが勧誘かナンパかどうかなどどうでもよくなっていた。

 ――とっても綺麗なまんまるお月様。酔った頬をなでる風も心地よい。なんだか変わっているけれど、美しく面白い男の子。こんなかわいい弟もいたらいいかもしれない。素直に、今日は楽しい日。心の中の濁った淀みも、このひととなら一緒に過ごすことで失くしてしまえるかもしれない……。

 そのときユイの中でシュウは、いつの間にか「見知らぬ男」ではなくなっていた。


 シュウはユイの作った朝食を綺麗に食べ終えていた。

「ご馳走様でした! 本当においしかったです! ありがとうございました!」

 手を合わせ、素早く深くお辞儀をする。体育会系か、ここは運動部の合宿所か、とユイは思わずツッコミたくなった。

「……コーヒー、好き?」

「え。はい、好きです」

「これ、とってもおいしいやつなんだ」

 ユイは食後のコーヒーを丁寧に淹れた。ちょっと値段の張る専門店のいいコーヒー。北欧風のイメージでまとめられたナチュラルで清潔感のある女性らしいユイの部屋は、たちまち安らぐ香りに満たされた。友達が遊びに来てくれたときや、自分が頑張ったときに自分へのご褒美として淹れる、とっておきのコーヒーだった。

「それで……、私の家にいるっていうわけ?」

 一通り昨晩のことを聞いたが、あまりに現実離れした話なので、まるごと受け入れるわけにはいかなかった。しかし、とユイは思った。凛とした佇まい、聞き手であるユイを気遣いながら話す一方的ではないシュウの穏やかな声、ときに強く真剣な光を瞳に宿すけれども柔らかな表情、それから綺麗な箸の運び方――気持ちいいくらい私の作ったごはんをどんどん食べてくれる! 

 それらを知るうちに、確実にわかったことがある。それは、彼の話は奇想天外なものではあるけれど、彼にとっては「真実」なのだということ――このひとに、他意はない。自分が信じることを、ただ真摯に話しているのだ――ユイはそう解釈した。

 でも、そうは思っても、その「仮説」もなんだか納得がいかなかった。

 ――このひとが「妄想」とか「思い込み」で生きているとも思えない……。今のこの状況を、目の前の不思議な魅力を持つこのひとを、一体どう判断したらよいのだろう。そして、私の不安との奇妙な符合は一体……。

 悪夢を見続けていることや漠然とした不安を抱えていることを言い当てたのはただの偶然、と思いつつ、無視できないなにかがあるとユイは感じていた。

 とりあえず、なにか訊いてみよう、ブラックコーヒーを一口飲んでから、ユイは口を開いた。

「ええと、それじゃ、キツネ……」

 ――なんて名前だっけ。

「狐ヶ月シュウです。シュウでいいです。ユイさん」

 自分の名を不意に呼ばれてユイはどきりとする。

「あ! 誤解のないように言っておきますが、昨晩ご自分から名字じゃなく名前で呼び合おうって……」

 慌ててシュウは弁解した。なんでも昨晩ユイは、「私のことはユイって呼んで! あなたのことはシュウって呼ぶ!」と十回くらい高らかに宣言していたという。

「十回……」

 下心うんぬんのやりとりも十回、名前の呼び方でも十回、つくづくめんどくさいやりとりだったろうなあと自分のことながらユイは内心頭を抱えた。

 ――あ……!

 唐突に、ユイは進行し続けていた異変に気付いた。

 ――まさか、そんな、どうして……!

 つい先程までなにかを訊こうと思っていた。しかしその前に、すでにユイはシュウの話を信じる気持ちになっていた。目の前に、はっきりとした奇跡が出現していたのだ。目の前に提示された小さな奇跡。今まで青だったシュウの髪や瞳が、ゆっくりと時間をかけて、静かに、密やかに、黒い色へと変貌を遂げていたのである。

 光の加減でそう見えるのかと思っていた。しかし話が進むにつれ、シュウの髪や瞳の色は、少しずつ、少しずつ、しかし確実に変わっていった。閉じていた花びらがほどけていくような自然な変化。気がつけば今でははっきりと、漆黒の髪、茶色がかった黒の瞳に変わっていた。

「そんな、不思議なことって……。本当に……? ということはもしかして……。もしかして、今までの話もすべて、本当……?」

「やっと、私の話を信じてくださるようですね。よかった……。私が力を使ったとき、そしてその後しばらくは、髪と瞳が青の色になっているんです。昨晩貴女にお会いしたときは普通の黒髪に黒い目でした。普通の日本人の髪と目、それが通常の私の姿です」

 いくら酔っていても、さすがに髪や瞳の色が青かったら少しは印象に残るだろう。昨晩はまったく普通の色だったから、今朝初めてシュウと出会った気がしていたのだ、ユイは合点がいった。

 シュウの美しい顔には疲労の影が色濃く見えた。

「ユメクイとの戦いはこれからです。それにしても、私の特殊な体質がたまには役に立つものですね。信じてもらえて本当に……、よかった……」

 安心したのか、おなかがいっぱいになったせいもあるからか、言い終えるか終えないうちに、シュウはばったりと倒れるようにその場で眠ってしまった。

「えーっ!? そこで寝るーっ!?」

 思わずツッコミを入れるユイだった。


 深い眠り。そっと薄い毛布をかけてあげながら、ユイはシュウの寝顔をまじまじと見つめた。綺麗な寝顔だな、と思った。艶やかで柔らかな黒髪。流れるような眉。長い睫毛。すっと通った鼻筋。ほのかに紅い薄い唇。長く繊細な指先……。眠っているとまるで人形のようだ。そこまで観察してから、ふと、自分も寝顔を見られたのだ、という事実に思い至る――果たして自分はどんな寝顔だったのだろうか――ユイは急に心もとなくなっていった。

 ――どうしよう、どう思われただろう。酔っ払って、しかもだらしない寝姿だったら……!

 ユイは軽い自己嫌悪に陥っていた。

 ふいに、「一晩中手を握る」と言っていたことを思い出した。

 ――この美しい男のひとと、私はずっと手を握っていたの!?

 瞬時に体中を電流が流れるような感覚が走った。熱い。ユイは自分でそれとわかる程顔が赤くなっていた。心臓が、どきどきする。

「どうしよう……」

 いや、いまさらどうしようもないのだけれど。

 静かに眠り続けるシュウの傍らで、どうにも落ち着かないユイだった。


 キッチンでちょっと遅めの昼食を作りながら、ユイは一人考える。

 ――魔獣「ユメクイ」というものが私の中にいる、そうシュウは言っていた。かすかに記憶に残る、異形の怪物……。もしかしてあれが……! 私は、あの恐ろしい怪物に少しずつ蝕まれているのだろうか……。

 突然、頭の中に映像が現れた。

 暗闇に、蠢く四つの目。

 ユイを見つめる恐ろしい大きななにか……。

「なに!? 今の……!」

 背中に氷をあてられたようだった。はっとし、思わず包丁を取り落とす。鈍い光を放ち足元を刃物がかすめた。

 ユイはかぶりを振った。考えるのはやめよう。だめだ。意識すればする程、底の知れない冷たい恐怖に支配されてしまいそうだ。足が震える。目の前が暗くなり、軽いめまいを覚えた。目に映る景色が歪む……。

 ――だめだ。意識してはいけない。もっと別のことを考えよう――

 こちらが相手を見ようとすれば、相手もこちらを見つめ返す、そんな気がした。

 シュウはまだ眠っているようだった。ユイは思う――シュウはよほど疲れてしまったのだろう。自分のために、一晩中……。今ならわかる。シュウの話は紛れもない真実なのだと。今朝自分が穏やかな気持ちで目覚めることができたのは、シュウのおかげだったのだ、と。

 ――あのひとが、シュウが、私を守っていてくれた――

 そう思うと、胸に熱いものがこみあげてきた。繰り返し、心の中でゆっくりと何度も反芻する。

 ――私を守ってくれたんだ――

 シュウはそのとき目を覚ましていた。ユメクイのわずかな動きを感知したのだ。しかし、それから変化は見られない。

 シュウは目を閉じた。それから、頭から天に向かって昇る長い管のようなものを、足からは大地に向かって伸びる管のようなものを、それぞれイメージした。それらの管状のものを通して天のエネルギー、大地のエネルギーを受け取る。高い波動のエネルギーを体の中でゆっくりと循環させる。建造物の中でもそれは可能だった――今のうちに、純度の高いエネルギーをしっかり蓄えておかなければ――「循環」を繰り返しながら、シュウは再び深い眠りについた。

 ユイは恐ろしい怪物から離れるために、意識的に楽しいこと、素敵なことを考えることにした。

 ――この前、輸入雑貨のお店で買ったデンマーク製のかわいいお皿、早速使ってみよう。

 普段使いに、と思って購入したが、一目惚れしたその皿を、自分ひとりで普通に使ってしまうのもなんだかもったいない気もして、初めて出すのはちょっと特別なときにしようと考えていた。

 白地にペールブルーの縁取り、中心にかわいらしい花模様が描かれたその皿は、食器棚の片隅で晴れの出番を待っていた。改めて手に取ってみると、その重み、質感もユイの好みにぴったりだった。きっと料理も素敵に引き立ててくれる。

 ――あのひとは――シュウは、お昼ごはんも喜んで食べてくれるかな。そういえば誰かのために食事を作るのって久しぶりだ。変なの。昨晩知り合ったばかりなのに、妙に嬉しい。自分の作った料理を見て驚く顔や、おいしいと喜んで箸を進める姿を想像するだけでなんだかわくわくする。彼は、どんな料理が好きなんだろう? とても痩せてるけど、スイーツとか好きそうだな。チーズケーキを焼くより、お気に入りのカフェにでも連れてってあげようかな。あそこのパンケーキは、ふわふわでフルーツも生クリームもたっぷりで、とっても素敵なんだ。

 シュウとなら、出かけるのもいいな、と思えてきた。でも、若い女の子で賑わうあのかわいいお店に行ったら、シュウは照れてしまいそうだなあ――そんな他愛もないことを考えていたら、体中にあたたかい力が戻ってきたような気がした。

「すみません。すっかり眠ってしまいました」

 おいしそうな香りに誘われたのか、シュウが起きてきた。先程よりずっと顔色はよいようだ。ユイはほっとした。

「ちょうどよかった。お昼、できたよ」

 つい姉のような口調になってしまう。なんだか彼女みたいな言い方だと思われるかな、なれなれしいとか思われないかな――今まですでに充分なれなれしかったと思うけど――、とユイは一瞬考え、変に思われないように急いで他の話題を探そうと思った。さりげなくしよう、意識してしまっているのがばれないようにしよう、そして――少しでも好感を持ってもらえるような楽しい話を探そう――、と心は焦る。

 しかし、そんなユイの心配は無用だった。

「うわあ! おいしそうです! 本当にありがとうございます!」

 やっぱり驚いてくれた――ユイは自然に笑顔になっていた。

「私のせいで徹夜になっちゃったんだもんね。色々ごめんなさい。本当にありがとう」

 シュウは少しなにかを考えていた。言葉を慎重に選んでいるようだった。

「……実は……。私の方こそ謝らなくてはならないのかもしれません。本当は、私の仕事は依頼が来て初めて成立するものなのです。昨晩のように私から声をかけるなんてことはありません。運悪く魔獣に関わってしまった人が、縁があって私のことを知り、それから相談されて初めて私が動く。あくまで自然な縁があることが前提、そして主体は相談者です。縁とは、既に私となんらかのつながりがあるか、もしくは自然な流れでできるものです。今回は何も知らない貴女に無理やり私が声をかけた。強引すぎるやり方です。ユイさんの運命に直接干渉してしまう形になってしまいました。もし私が貴女のような人を街で偶然見かけても、普通ならそのままなにもせず通り過ぎるだけです。その人の身にどんなに危険が迫っていることを感じても、です。それが本来の形なんです」

 ――シュウはなにを伝えようとしているのだろう。

「どうして私に声をかけてくれたの? そして謝る必要がどこにあるの?」

「貴女に声をかけたのは……。貴女の魂がとても……」

 そこでシュウは一旦息を深く吸い込んだ。またなにかを考えている。

「……謝るというのは、ユイさんの人生に勝手に土足で踏み込むような真似をしてしまったからです。それがたとえ、かけがえのない貴女の尊い命を助けるという究極の善行であったとしても、本来ならばしてはいけないこと――なのかもしれません」

 ユイにはよくわからなかった。縁とか運命とか魂とか人生とか……。シュウは自分などより遥かに深遠な世界で生きている。遥かに多くのことを学び、考え、そして経験している――、ユイはそう感じていた。

「……私の魂がとても?」

 ――とても、なんだと言いたかったのだろう。なぜ言いかけてやめたのだろう。私の魂について、シュウはなにを感じているのだろう。

「このピザも手作りなんですかっ? とってもおいしいですっ!」

 シュウは爽やかなペールブルーの縁取りの皿から熱々のピザを一切れ取り、大急ぎで頬張る。今までにない早口でもあった。

「よかった! ピザ、好きなの?」

 嬉しさで思わずユイの顔が明るく輝く。

「はいっ! それはもう、ほんと大好きです!」

 そんなに好きなんだ。ユイは素直にそう受け取った――作ってよかった。

「パン生地みたいなピザとクリスピー生地のピザと、どちらが好き?」

「ええと……、ユイさんの作ってくれたこのピザみたいなサクサクした方が好きですっ!」

「よかった! パン生地タイプもたまに食べたくなるけど、私もこういう方が好きなんだ」

「今まで食べたピザの中で一番おいしい! ユイさんはすごい料理上手ですね!」

「それほどでも……。作るのと食べるのがただ好きなだけだよ。ありがとう!」

 ユイは頬をかわいらしく染めた。シュウの賛辞が心底嬉しかった。

 シュウはあきらかに話を逸らした。料理の感想は、お世辞やごまかしなどではなく心からのものだったが、テンションは不自然に高かった。が、ユイは褒められたこと、シュウの好物がわかったこと――本当は好物という程特に好きというわけではなかったのだが――シュウがとても喜んでいるように見えることに気をとられ、なにも疑問に思わなかった。しかも、もう話の流れは完全にピザの方に行ってしまった。不器用なシュウの稚拙な話のすり替えだったが、奇跡的に成功を収めた。

「そういえば、シュウって何歳なの?」

 ――あ、つい呼び捨てにしてしまった。まあ昨夜も宣言してたらしいし、シュウもそれでいいって言ってくれたし、いいよね、それくらい。

「私は二十六歳です」

「えっ!? 二十六? 私より二歳上っ!?」

 意外だった。まさか年上とは、しかも二十六とは――

「……必ず驚かれます」

 ――「結構」、とか「よく」、とかではなく、「必ず」、なんだ。確かにシュウは誰が見ても二十六歳には見えないと思う。タメ口、しかも呼び捨て……。シュウは常に敬語で「ユイさん」と呼んでくれているのに……。でもいまさら改めるのも変な気がする。

「……で、今日はこれからどうすればいい? 私はなにも予定がないんだけど……。お天気もいいし、せっかくだからどこかお出かけでもしよっか?」

 ――ますます彼女みたいな物言いになってしまった。しかも命が危険に晒されているというのに脳天気すぎるかな? てゆーか年上相手にいいのかな、この態度。

「いえ。もしご予定がないのでしたら、なるべく体を休める方向で考えた方がいいです。たぶんユイさんが感じている以上に、現在のユイさんは体力も気力も消耗しているはずです。無理はなさらないでください。突然異常な眠気、意識を失うような状態になるかもしれません。家の中にいた方が安全です。それから、私に気を遣ってくださっているのなら、私のことは気になさらないでください。気になるとは思いますが、今は非常事態に備えてただ居るだけですので、単なる空気とか石とか植物とでも思ってください」

「空気とか石とか植物って……。でも私、パワーストーンや植物に普通に話しかけちゃうし、植物には結構お世話しちゃうかもよ?」

 ユイはいたずらっぽく笑った。シュウもつられて笑顔になった。少しはにかんだ笑顔。

 つりあがった切れ長の目といい、何気ない視線の運びの素早さや眼光の鋭さといい、どこか野生動物のような――接してみると誠実で温厚な人柄だとすぐわかるけれど、もしかしたら心のどこかに原始的な凶暴性を隠し持っているのではないか――そんな印象を与えるシュウだが、笑うとまるで人懐っこく無害な子狐のようだ。

「……ユイさんは私が怖くないですか?」

「怖い? どうして?」

「私が特殊な力を持っているせいか、私のことを怖がる人もいます」

 特に、勘の鋭い人は。と心の中でシュウは付け足した――露骨に避け、忌み嫌うような人さえいる。ユイは……、どうだろう。

「……シュウはもしかしてオオカミさんなの?」

 とたんにシュウは真っ赤になる。こういうところは本当にかわいいとユイは思う。

「怖くなんかないよ。シュウはとても優しい人だよ」

「……ありがとうございます」

 照れくさそうにシュウは笑う――よかった、ユイは特に怖がってはいないようだ。

 しかし、ユイも確かに感じていた。シュウの中には荒々しい強いなにかがある。小柄な身体の中に、紳士的な仮面の下に、威圧するような圧倒的ななにかがある。はじめ、シュウのことを周りにいないタイプ、と思ったが、タイプなどと分類することはできない、強烈なただひとつの個性、と思う。

 ――まるで、大きく深い海みたい。表面的な静けさの下にも常に力強いエネルギーを湛えている。優しい。怖い。わからない。だからきっと、惹かれるんだ――

 そこまで考え、ユイは戸惑う。

 ――惹かれる? あれ? 私、どうしてそんなこと……。

 心の奥の動揺を悟られないように、ユイは急いで他のことを考えた。

「あ! そうだ! 録画しておいた映画、今観てもいい?」

「もちろんです。体に負担がかからないことであれば、ユイさんの好きなようにしてお過ごしください」

 二人きりの部屋で映画を観る。ますます恋人同士みたいだ――どうしてもユイはそちらの方向に意識が向かってしまう。シュウが未成年とかだいぶ年下とかじゃなく年上だった、というのもなんだか嬉しかった――私にも少しは可能性、ありかな? なんてことまでうっかり考えてしまう。

 ユイは、そこでようやく気付く。

 ――あれ?

 私、もしかして、

 シュウのこと、好きになってる?

 好き……。

 ……そっか!

 私、シュウが好きなんだ!

 もう、シュウに恋をしちゃったんだ!

 一瞬、時が止まった。

 世界が、ユイの見ている世界のすべてが、急にカラフルに、鮮明に輝きだした。

 顔が赤くなってしまっているのがばれませんように、私のこの生まれたばかりの大切な気持ちが、まだシュウには気付かれませんように――ユイはそうこっそり願いながらリモコンをつけた。

 映画の始まりと共に、ユイの中で新しい物語が始まっていた。 


 その映画は、スパイであるヒロイン「アリス」が拳銃を片手に次々と悪を倒すというアクション物だった。スリルあり、笑いあり、ロマンスあり、泣ける要素あり、そして最後は感動のハッピーエンド、という王道の娯楽作。名の知れた監督の手腕と今が旬の主演女優、演技派の俳優陣のキャスティングのおかげで、よくある設定で単純なストーリーも魅力溢れた見応えのある仕上がりとなっていた。上映当時はなかなかのヒットを飛ばし、面白いと評判も上々だった。

 ユイは見事に映画の世界に引きこまれていた。はらはらしながら主人公のアリスを応援し、ときに涙し、ときに笑い、そして期待通りのアリスの恋の大団円、誰もが憧れるような大人の恋の結末に、おおいに胸をときめかせすっかり夢見る乙女となっていた。

「とっても面白かったね! ああ、本当にいい映画だったねえ! アリスが最高にかっこよかったー! ああー! あんな強くて聡明で勇敢な女性、憧れるなあー! ほんと素敵だよねえ!」

 ユイはシュウの方に向き直り、満面の笑顔で同意を求めた。シュウも同じ感想だろうと信じていた。

「そうですね」

 シュウは一言ぽつりと答えた。そしてなぜか眩しそうにユイを見つめている。

「……あれ? あんまり面白くなかった?」

 ――もしかして、私だけ楽しんで観てたのかな、男の人にとってはそんなに面白い映画ではなかったのかも……。それともシュウは、もっと高尚な映画の方が好きなのかな、こういうエンターテインメントの映画は嫌いなのかな……。

 ユイは急に自信がなくなった。

「ごめん。退屈だった?」

 思わず謝るユイ。

「そんなことないです! 面白かったですよ」

 シュウは穏やかな笑顔でユイを見つめる。それから、シュウは少し目線を外した。

 ――う。つまらなかっただろうに面白かったなんて感想、気を遣わせてしまったかな。

 ユイはそう誤解した。

 誤解。そう、それは誤解だった。

 シュウは急に真剣な顔になり、改めて燃えるような強い瞳でユイを見た。射るような、鋭い眼差し。ユイは思わずたじろぐ。

 ――え。どうして? 怒っているの?

「私は絶対に貴女を守ります! 貴女のその豊かな感情を、その純粋な心を、魔獣などに奪われてなるものか!」

 内に秘められた激しさが一気に爆発した。

 シュウは、映画ではなくユイを見ていた。

 光を集め反射するプリズムのように、映画のワンシーンごとに自由にきらきらと変化する表情、そして清らかで柔らかいその心を見ていた。

「……大丈夫です。安心してください。この件が解決したら、もう怖い夢も見なくなりますよ」

 優しく微笑む。今まで通りの、柔和なシュウに戻っていた。

 どん。

 ユイはハートのど真ん中に、重いパンチをまともにくらったような気がした。

 ――反則だ! 反則技だ! こんなのあり? これじゃまるで「白馬の王子サマ」、じゃない! 外見から年下に見えるから、つい弟のように気軽に話しかけてた。でもこのひとは、全然「かわいいおとうと」、なんかじゃない。このひとは、刃の鋭さと炎の激しさを併せ持つ「戦う男」、なのだ。

 くらくらする頭で、今、なにか言わなくちゃ、とユイは思った。

 ――『キミ、オトコマエすぎるよ!』と茶化して笑ってしまおうか――いやそんなもったいないこと、したくない。『ありがとう。あなたは頼もしいナイトね』、とお姫サマみたいに優雅に微笑み返そうか――私には絶対無理だ。

 大急ぎで色々考えを巡らしてみる。自分の中の引き出しをあれこれ引っ張り出してみて、「こんなときぴったりな言葉」を探してみる。

 ――でも、今まで「こんなとき」なんてあったかな。恋愛は一応経験してきたけど、「こんなとき」なんて、ない――

 そもそも恋のひとつひとつにまったく同じ展開、まったく同じ状況、そしてこれが正解、などあろうはずもない。二人の人間が紡ぎだす一瞬一瞬が、唯一無二、かけがえのない奇跡の時間となるのだ。

 結局出てきたのは、

「……よろしくお願いします」

 恋とはあまりに程遠い一言。しかもシュウの瞳を見つめるなんてことはとてもできなかった。

 ――ああ。我ながらなんて色気のない――

 ユイは再び頭を抱えた。


 うららかな陽光は次第に傾き、風もほんの少し冷たくなってきた。瑞々しい緑の木々が優しくそよぎ、本当に今日はこのまま過ぎていってもよいのですか? 外はとても気持ちがいいですよ、と誘っているようだ。

「お買い物、行ってもいい?」

 許可を必要とするわけでもないだろうが、一応シュウに確認してみる。

「私も同行します。もしお嫌でしたら、離れて歩きます」

「離れて歩くなんて、そんな! 普通に一緒に歩こうよ!」

 シュウだったら要望さえあれば、さながらベテラン刑事の尾行のように、見事一定の距離を保って歩いてしまえるだろう。

 日中の明るさの中で、並んで歩く二人は人ごみの中でも目立っていた。

 華のある二人、「陽」の明るさを放ち魅了するようなユイと「陰」の引力で人を惹きつけるシュウ。まるで太陽と月のようだった。

 しかも、男性の方が女性よりいくらか年若く見え、くわえて小柄で華奢な体つきの男性と長身でスタイルのよい女性との取り合わせ、というのも余計に珍しかったようだ。

 横を通り過ぎた女子高校生達が二人を振り返りながら、きゃあきゃあ騒ぐ。「あの人達、芸能人とかモデルとかかなあ? すごい綺麗で目立つよね! 雰囲気が普通の人じゃないって感じー!」「オーラ、ってやつ?」「オーラ、まずウチらにはないよねー!」「なくはないよ! ウチらだって生きてんだから!」明るい笑い声――シュウは彼女達の瑞々しいオーラが、力強く美しく輝いているのを眩しく感じていた。

 シュウもユイも自分達のことを言われているとはまったく気付いていない。シュウも、ユイ同様自分の魅力についてあまり把握していなかった。二人とも、どこに芸能人みたいな人達がいるんだろう、そうぼんやり考えながら歩いていた。

 ユイはまっすぐ、若い男性向けのカジュアルな洋服店に入っていく。ユイの弟がユイを頼ってこちらに遊びに来たとき、安いしサイズも豊富だしどれもかっこいい、と喜んでたくさん服を買いこんだ店、だった。

 シュウもユイの後に続いて店に入る――彼氏へのプレゼントでも探しているのだろうか、それにしては今日はなにも予定がないと言っていた、なぜ急に無理を押してまで買いに出ることにしたのだろう――と少し不思議に思いながら。

 シュウは、必ずしもユイに恋人がいないとは限らない、と思っていた。ユイはとても魅力的な女性だ。ナンパだと誤解したまま部屋にあげたようだが、それでもそれが「恋人がいない」という絶対的な証拠となるわけでもない、と考えていた。たとえば、恋人とけんか中だった、遠距離で寂しかった、恋人に浮気され、ついやけになって……、そういった事情は色々考えられる。また、なんの事情もなく、ただ衝動的に、ということでさえ、ありえないことではないとシュウは思う。

 ――人の心はどこまでも深く、そして常に揺れ動く。自分の心であっても、自分で理解できているのは表面的なごく一部だろう。そのときの体調や天候の状態など案外ささいな要因にも簡単に左右されてしまうし、運命的な力としか思えないタイミングや神秘的なものの影響を受けることさえある、ときに自分でも予想外のことを思い、想定外の行動をしてしまうものだ。そのうえユイはかなり酔っていた。理性のブレーキが弱まっていたのなら、なおさら不思議なことではない。しかし、ユイは映画を観る前、気を遣ってかどこかへ出かけようと誘ってくれた。メールや電話などを気にする気配もまったくない。もしかしたら本当に現在ユイには恋人がいないのかもしれない――

 そこで一瞬だけ、じゃあもしかして昨晩「そういった誘い」も可能だったのか、という考えがシュウの頭をよぎった。そんなよからぬ雑念は即座に打ち消した。一人で勝手に考え、勝手に頬を赤くした――危ない危ない。なにを考えているんだ。まだまだ自分は修行が足りない、とシュウは反省し密かに気を引き締めた。

「これなんか、いいよね」

 ユイは鮮やかな藤色のカットソーを手にし、シュウの体にあてて合わせてみる。

「どうして私に合わせるのですか?」

 シュウは疑問に思った

 ――自分は平均的な男性よりだいぶ身長が低い。正直、昔はそれがコンプレックスだった。しかし年齢を重ねた今は、まあそんなことはどうでもいいと思っている。それにしても、自分はどう考えても彼氏の代わりのマネキン役にはならないんじゃないか。それともユイの恋人は自分のような小柄な男なのだろうか。

「この調子じゃ、シュウはいったん自分の家に帰るとか、そういう気はないんでしょ?」

「え。確かにそうですが……。それがなにか……?」

「やっぱり着替えがなくちゃ! 報酬の一部前払いってことで、プレゼントさせて。それから疲れないようにルームウェアとかも……」

 まさか、自分のために! ――シュウは驚く。

「そんな! 大丈夫ですよ! 私は数日間くらい野宿だってよくあるし……!」

 と、言いかけてシュウは少し考えた。

 ――そうか、若い女性だから、やっぱり不潔な男が近くにいたら嫌だろう――

 しかし、ユイはまったくそんなことを考えてはいなかった。ただ、ユイはほんの少しでもシュウの疲労が軽く済むように、心身共に健やかに過ごせるように、ということだけを考えていた。

「わかりました。報酬の前払い、ということなら喜んで受け取らせていただきます」

「全額じゃないよ! 『一部前払い』だよ! なんたって私の命がかかってるんだから! 私の命だったらこんな安いもんじゃ絶対に済まないよ?」

 果たして店員が聞いたらなんと思うだろう。

「あ! これもシュウに似合うね。うん。いい感じ!」

 嬉々として次々選び出すユイ。呆然とするシュウ。ユイは誰かにプレゼントすることや、その人に本当に似合う物を探してあげることが大好きな性分だった。喜ぶ顔が嬉しいし、その人自身も気付かない新しい側面を見つけてあげるのが楽しかった。また、ユイのセンスは素晴らしかった。

「……てっきり、恋人への贈り物を探しに来たのかと思っていました」

「彼氏なんていないよう! いたら男の人を家に入れたりしないもん! ……自分から男の人を家にあげるなんて、初めてだったんだから……」

 ユイはちょっとふくれた顔をした――自分は恋人がいるのに他の異性と関係を持つような人間じゃないし、そもそも簡単に男性と一夜を過ごすような女性じゃない! ――と言いたかった。しかし、主張しているうちになんだか自分で恥ずかしくなり、後半部分は思わず口ごもってしまった。

 ――そうだ。初対面の男性を自分から家に招き入れたのは事実なのだ。

 恥じ入る気持ちをごまかすため――ごまかしたところで消えてなくなるわけではないのだけれども――あえて明るい声でユイは話す。

「でももし、私に彼氏がいたら、この状況はかなりややこしい話になりそうだね。十回くらい説明を繰り返す、だけでは済まなくなっちゃうよね」

 ユイはややこしい修羅場を想像して、なんとなく笑ってしまった。身に降りかからない想像だけならなかなか滑稽な場面だ。

 シュウはどこかほっとした顔になった。そして、笑顔になる。

「そうだったんですか。本当に恋人へのプレゼントとばかり……」

 あれ、シュウがなんだかやけに嬉しそうだ。「ややこしい話」、にはならないことがわかったからかな? と、ユイは思った。

「あ、そうだ」

 ユイは下着コーナーに向かって歩き出した。

「それは自分で買いますっ!」

 さすがにシュウが止めにかかった。


 空がゆっくり金色に染まっていく。様々な想いや願いを抱え懸命に生きる街の人すべてを、並んで歩く若い二人を、そっと祝福してくれているかのようだ。ユイはシュウがずっと歩調を合わせてくれているのを感じていた。静かな優しい時間が流れていく――なにかを話したい、歩調だけじゃない、もっと心で寄り添ってみたい――でもこの柔らかな空気を壊してしまうのも少しもったいない、ユイはそう感じていた。

 シュウは小さな古いレストランの前で足を止めた。昔から地元の人々に愛されているような、親しみやすい、そしてちょっと洒落た雰囲気のある店だった。

「ここで食事をしましょう。作っていただいたばかりでは申し訳ないですし、これから帰って支度をするのでは、ユイさんが疲れてしまいます。それに、洋服を選んでくださったお礼に、ご馳走させてください」

 そんな、別にワリカンでいいよ、と言おうとしたユイだったが、それではあまりに味気ないかな、と考え直し素直に甘えることにした。

「ありがとう。嬉しい」

 少しはにかんだユイの微笑みは、初々しく清らかな輝きを放っていた。

 高級というわけではないが、優美な装飾と確かな品質の品々でしつらえられた店内は、浪漫溢れる古きよき時代で時が止まっているかのようだった。キャンドルのような柔らかな照明、流れる音楽は耳に心地よい音量のクラシック、とても落ち着いた空間だった。

 席につくなり、ユイは突然異常な眠気に襲われた。急激に意識が遠ざかる。睡眠というより、気絶に近かった。

 ――ああ。暗闇に飲みこまれる……。

 深い、深い暗闇。

 冷たい空気の中に、生ぬるい、不気味な風。

 すぐ近くに獣の息遣いを感じる――

 シュウはすぐにユイの両手を握りしめた。

「シュウ!」

 驚いて目が覚める。

 ちょうどそこに水を持ったウェイトレスが来た。いかにも世話好きといった感じのふくよかな年配の女性。ずっとこの店で働いているのだろう、店主の奥様なのかもしれない。ウェイトレスは大胆にも着席早々手を握る男女の姿にちょっと驚く。が、そこはプロ、すぐさまいつも通りの上質な「お客様をおもてなしする笑顔」に戻り、

「いらっしゃいませ。ご注文がお決まりでしたらお呼びくださいませ」

 と流れるように述べた。

 自分のとりあえずの役割を果たした後――わかっていますよ、お若いんですものね。頑張って頂戴ね、この店でよいひとときを過ごせますよう私も協力しますとも――とでも言いたげな、意味深な笑顔を残しつつ、早々に立ち去った。

 ウェイトレスが背中を向け歩き出すやいなや、シュウの髪は逆立ち、全体に空気をはらんだようになった。その瞳は金色に輝く。そして一瞬にしてシュウの髪と瞳が、ユイの眼前で鮮やかな青に変化する。  

 ユイの体に、なにか熱いエネルギーが流れてくる感じがした――

 暗闇。

 暗く深い闇の底に落ちようとしていた。

 落ちていくユイの手をしっかりとつかむ者がいる。

 ――シュウだ。

 すんでのところをシュウに引き上げられた。

 ――明るい。そしてあたたかい。ああ。なんて心地よいんだろう――

 次の瞬間、閃光が走る。闇の底から、咆哮が聞こえた。

 ぬくもりと、光。

 恐ろしい獣のような「なにか」はもう感じられない。

 ふと足元を見ると、小さな青い花が咲いていた。可憐な青い花びら、そして中心部分はかわいらしい黄色。

 ――わすれな草、だ――

 辺りを見渡すと、一面のわすれな草……。

 ――こんなにたくさん、綺麗な青……。まるで海みたい――

 そこで唐突に映像が途絶え、美しいピアノの調べが聞こえてきた。ショパンの「ポロネーズ『英雄』」だ。目の前にはグラン・ブルーの髪と瞳のシュウ。

 ――ああ。ここはレストラン、だ。

「一時的に動きを封じました。これで数時間は大丈夫です」

 そっと手を離す。でも髪と瞳は青のまま。それでも薄暗い店内のおかげもあり、幸いにも異変に気付く者はいない。

「この髪と目にはいつも苦労させられます。私の一族でも珍しいみたいです。周りに驚かれないように、帽子をかぶったり髪を染めたり頭を剃ってみたり、目の方はサングラスをしてみたりと色々試してみたこともあるのですが、どれも私の力に直接影響が出るようで、パワーバランスを取るのが難しくなるので結局諦めました。今回は力を使った時間が短いので、すぐに元に戻ると思います」

 サングラスはともかく、お坊さんみたいな姿は似合うだろうな、ちょっと見てみたい、とユイは思う。

 気を遣って普段より長めの時間を置いてウェイトレスがこちらの様子を伺う頃には、シュウの髪と瞳は艶やかな黒に戻っていた。

「本当に、すごいね」

「おいしいですね」

 じっくり煮込んだビーフシチューは、店の歴史をそのまま物語るような深い豊かな味わいだった。

「いや、料理じゃなくて、シュウが、だよ。本当にシュウの力はすごいんだね」

「私の力は、先祖から代々受け継がれてきたもので、私個人が特にすごいというわけではありません。私自身はまだまだ未熟者です。もちろん、一族の力に誇りを持っていますし、請け負った仕事は必ず成功させます」

「……危険な目に……遭ったりしてるんだよね?」

 シュウの住む世界がどのようなものかはわからない。しかし魔獣という怪物と戦う、それはきっと常に「命」を意識するような過酷で熾烈な世界なのだろう――ユイの心に不安が広がる。

 ユイの不安を察して、シュウが口を開いた。人に説明したことのない話だった。ユイが少しでも安心できるように、その思いからだった。

「私と魔獣、お互い命がかかっていますからね。魔獣は普通に考えられる生命体、とは違いますが、広い意味ではやはり等しく魂を持つ者であると言えます。ユメクイのように現実世界に実体を持たない者もいれば、我々生物のように肉体を持って存在する者もいます。魔獣との戦いの中、もし、万一私になにかあったとしても、ご心配はいりません。私がどのような状態になっても、必ずユイさんの安全は守り抜きます。そして、私の親族や私の一族に協力してくださる方々が、完璧にフォローする体制も整っています。たとえ私が戦えなくなってしまったとしても必ずなんらかの策は施しますし、すぐに私の身内や協力者の助けが入ります。ユイさん自身が危険に晒されたり現実的な対応に困ってしまったりすることはありません。そして、私が外部の人から見て事件や事故に遭ったように思える状態に陥っていたとしても、それが表沙汰になることは決してありません。すべては水面下で行われ、秘密裏に解決します」

 シュウの説明を聞いて、逆にユイの不安はより大きくなってしまった。

「シュウの身になにかって……、事件や事故みたいにって……、そんな……」

 泣きそうだった。ユイの大きな瞳には涙が湛えられていた。自分のためにシュウが危険な目に遭うなんて、そんなのだめだ、絶対にだめだ――とユイは強く思った。

「大丈夫ですよ。私は簡単にやられたりしません。一応場数は踏んでいますし、様々な呪法も身につけています。それでももしなにかあったとしたら仕方ありません、そのときは私の定められた運命が来たということなのでしょう。ユイさんにはまったく関係ありません」

 真面目なシュウは、つい正直に話しすぎてしまう。大丈夫ですよ、その一言で後は余裕で微笑んでみせる、それだけでよかったのだ。

 ユイはもう、泣いてしまっていた――怖い。シュウが辛い目に遭ったら、苦しい目に遭ったら、そしてもしも、想像したくもないけれど、死んでしまったりなんてしたら……。とても怖い。そんなの嫌だ。そんなの絶対にだめだ。関係ないなんて言わないで――大粒の涙がはらはらと頬を伝う。

「そんな! 泣かないでください! まだなにも起こっていないじゃないですか!」

 ユイの涙に驚いたシュウは思わず声が大きくなってしまった。そこに間が悪く、ウェイトレスがデザートを運んできた。

 女性は泣いている。「起こっていない」、は確実に「怒っていない」と勘違いされた。

「本日のデザートのアーモンドミルクブラマンジェでございます。アーモンドは、古くからヨーロッパでは幸福や繁栄の象徴といわれ、とても縁起がよいのだそうですよ。アーモンドにお砂糖をコーティングしたドラジェというお菓子が、結婚式やお祝い事に配られたりするくらいですから。お客様方が本日ご来店されたのは、素敵な運命のお導きなのかもしれませんね」

 にっこり微笑み、泣かせちゃだめですよ、さあまずは甘い物を食べて気を取り直して、しかもちょうどアーモンドは素晴らしい意味があるというんですから、しっかりお二人の運命を信じてお幸せにね――と言わんばかりのウェイトレス。今度はシュウとユイになんともいえない微妙な空気を残して立ち去って行った。

 しばし、沈黙。

「……色々、勘違い、してるよね。絶対」

 思わずユイは笑い出した。

「ええ。してますよね。絶対」

 シュウも笑い出していた。

 思いがけずウェイトレスに救われた形となった。幸福のアーモンドの効果も、絶大だった。雨の後に現れた虹のように、ユイは笑っていた。

 先のことはわからない。なにが起きていてこれからどうなっていくのかユイには見当もつかない。

 ――でも、不安だらけだとしてもとりあえずは現在、私とシュウはこうして普通に生きている。今はこの現実、この瞬間を慈しもう――

 二人はアーモンドミルクブラマンジェの甘い安らぎに満たされていた。


 柔らかな月の光が降り注ぐ。

「大丈夫ですか? 疲れませんでしたか?」

「うん。大丈夫」

 本当は疲れていた。体力や気力が消耗している、というのは本当だった。しかし、シュウに余計な心配はかけたくなかった。

「シュウは大丈夫? 疲れてない? 昨夜全然寝てないし、力を使わせてしまったし……」

「大丈夫ですよ。まったく疲れていませんよ。ありがとうございます」

 シュウはずっと敬語だ。このひとの、心の奥深い部分にはどうやったら近づけるのだろう――ゆっくり歩きながら、ユイはそんなことを考えていた。

「今日は本当にありがとうございました。自分では選ばないような服だったので驚きました。私も鮮やかな色や凝ったデザインの服を着ても別にいいんだなあとちょっとびっくりしました。女性に服を選んでもらうなんて、初めてです」

「ほんとに? よかった!」

 ユイは内心ガッツポーズをとっていた。

 ――初めてだって! やった! なんでも初めてって快挙だ! ちょっと強引かな、とも思ったけど、いろんな意味で本当によかった! そういえば、シュウには今彼女とかいるのかな。服を選んでもらうのは初めてって言うからには、独身であることは間違いなさそうだけど……。

 暗がりの中、川のせせらぎが聞こえる。小さな橋を渡る。

「……シュウは、彼女、いるの?」

 勇気をふりしぼって、訊いた。変なタイミングじゃなかったか、自分が変な口調、変な声じゃなかったか、さりげなく訊いたつもりだったが、緊張は隠しきれなかった気がする。暗くて顔が赤いのがばれないのがせめてもの救いだ、心臓のどきどきが聞こえませんように――とユイは願う。

「いません。独身です」

「……そうなんだ」

 よし! 今度は実際に小さくガッツポーズをとった。シュウには見えない角度で。

 今ならたぶん、色々訊ける。そんな雰囲気だ、チャンスだ、とユイは思った。今度はなにを訊いてみよう。訊いたところで自分がそうなれるわけでもないが、好きな女性のタイプなど訊いてみよう。まずは好きな女性タレントは、とか。そういう話題は別に不自然じゃないはず――そんな小さな作戦を練っている最中、シュウが口を開いた。

「さっきは泣かせてしまって申し訳ありませんでした。安心してもらいたかったのですが、かえって怖がらせてしまいましたね。本当に、大丈夫ですから安心してください。それから、これは私の意思でしていることなので、ユイさんはどうかなにも気にしないでくださいね」

 シュウは、ユイが泣いた理由を魔獣に対する恐怖心と、自分のせいで恐ろしいことが起きるのかもしれないという罪悪感のためだと思っていた。なんとかそれらの追いつめるような苦しい思いから解放してあげたかった。ユイがどうやってシュウの恋愛事情や恋愛観を訊き出そうかと思案している間、シュウはずっとそんなことを考えていた。しかし、ユイが涙したのは、ただシュウの身を案じていたためだとは気付いていない。

「……本当に、ごめんなさい。私……」

 ふわふわした恋愛モードに浮かれていたユイだったが、また現実に引き戻されてしまった――そんな場合じゃなかった。今は深刻な状態なのに……。自分はなんてばかなんだろう――また泣きそうになっていた。

「あ! すみません! また……。ほんとに、大丈夫ですから! 心配しないでください! どうか、泣かないでください」

 今度はシュウが反省した。

 ――ああ、自分はどうしてこうも不器用で下手くそなんだ。ユイを笑顔にしてあげたい。逆に追いつめてどうするんだ。こんなとき、気のきいたことのひとつでも言えたなら……。

 遠くで猫の鳴き声がする。二人はお互いを気遣いながら、次の言葉を見つけられないでいた。足音だけがアスファルトに静かに残る。

 紫木蓮の咲いている家の角を曲がる。大きな紅紫色の花は夜の闇にぼんやり浮かび上がり、今が盛りと咲き誇っているのが見てとれた。

 両の掌を合わせ、膨らませたような形の花。まるで大切ななにかをそっと包み、優しく守っているかのようだ。

「私、この花好きなんだ」

 ユイが呟く。

「私も、好きですよ」

 二人はアパートの階段を昇った。


 家に帰ると、ちょっとした問題が待ち受けていた。お風呂と仮眠問題だ。……まったく些細な話だが、シャイなシュウにとっては少々ハードルが高かった。

「先にシュウがお風呂に入ったら? そのあと私がお風呂に入ったり髪を乾かしたりしている間に、シュウはベッドで仮眠をとっていたらいいと思うの」

 シュウは絶句した。お風呂、と聞くだけで色々考えて――そう。思わず色々、考えるのだ――、赤面してしまうというのに、先に入る――ただただ申し訳ない――、そのうえユイのベッドで――さらに色々考えてしまう。大丈夫か、理性――、仮眠――そんな状況で仮眠なんてできるのか?そしてやっぱり大丈夫か? 理性――、だと……!?

「そんな……! 申し訳ないですよ!」

 やっぱりシュウは遠慮しちゃうよね、と思いつつ、ここはシュウのためにこちらが強く出なきゃ、とユイは思った。

「家のお風呂は朝すでに入ったよね。床だったけど、仮眠もすでにとったよね。なにをいまさら……? 眠れなくたって、少しの時間でもちゃんとベッドで体を横にしていた方が絶対いいと思うよ」

 ユイだってどきどきする。意識し始めると際限なくどきどきする。しかし、健康にとって睡眠は非常に大事なことだし、短い時間でもちゃんとした寝具で眠ったほうがいいに決まっている。ここはユイの家だ。ユイが提案しないことには話が進まない。

「横になるのは、ベッドじゃなくて大丈夫です! 雨露しのげるだけでも本当にありがたい話なんです、だからほんと、大丈夫です!」

 うろたえるシュウ。

「私のベッドだから、嫌なの?」

 わざと意地悪く言ってみる。

「そんな訳ないじゃないですかっ!」

 本当に顔が真っ赤だ。

「じゃあ、めんどくさいからもういっそのこと、一緒にお風呂に入っちゃおうか? そうだ。一緒に入ろ?」

 もちろん、冗談である。

「……先にお風呂をお借りして、その後ベッドもお借りします!」

 ……いちいち「面倒くさい男」ではあるが、うまく誘導すれば「操縦しやすい男」、でもあった。

 ユイは湯船につかりながら、今日一日のことを振り返った。

 ――全然普通じゃない、ありえないことばかりの一日だった。ユメクイは、ゆくゆくは感情や心を奪う、とシュウは言っていたけど、どうだろう、この一日の感情の揺れ幅の大きさは! 恐怖と不安と幸せと楽しさと……。たった一日のことなのに、強烈な盛り沢山の感覚――

 おそらく、ユメクイという怪物に目をつけられてしまったのは、「運悪く」、それは「偶然」なのだろう、とユイは思った。

 ――シュウに出会ったのは、「運よく」、やっぱりおそらく「偶然」、なんだろうな。「運悪く」も「運よく」も、結局は等しく「偶然」、ということなのかな。……でも、「偶然は必然」ともよく言われる。起こる出来事には必ず意味がある、と。もしも本当にそうなのだとしたら「偶然」も「必然」も、結局は同じ「運命」ということなのかな。シュウは「運命に干渉した」と言っていた。自分が関わることで、勝手に私の人生を変えてしまった、と言いたかったんだろう。でも、ユメクイに出会ってしまった偶然、シュウに出会えた偶然、そしてその先には……「幸福のアーモンドミルクブラマンジェ」に出会えた偶然! シュウに出会わなければ、あの店には入らなかった。「本日のデザート」と言っていたから、今日でなければあの「アーモンドミルクブラマンジェ」を食べることはおそらくなかった。親切なウェイトレスさんに「素敵な運命のお導き」なんて言葉はかけられなかった……。ちゃんと、すべてつながっている気がする。すべてはちゃんと、初めから用意された私の運命なんだ! ……シュウはたぶん、それはこじつけです、そういうことではないんです、と反論しそうだけど……。

 レストランでの、絶望的な闇に足首をつかまれてしまったような恐怖は、一人になった今脳裏に鮮明に蘇ってくる。熱い湯船に入っていても、思わず身震いしてしまう。ユイの本能が悲鳴をあげようとしている。

 しかし、扉を隔ててシュウがいる。絶対に彼は私を助けてくれる。そう信じられる。最悪のことまで色々考えてしまったけれど、シュウと交わす他愛のない会話が重ねられていくにつれ、不思議な時間を日常のように過ごしていくにつれ、少しずつ、だが確実に希望というものが育ってきている、ユイはそう感じていた。

 大丈夫、ユイは鏡の中の自分に向かってなるべく明るい笑顔を作って言い聞かせた。当然のことながら、返事はなかった。鏡の中の女性は、確信と不安の間で揺れているようだった。


 シュウは大人しくユイのベッドで眠っていた。ドライヤーをかけるとき、起きてしまうだろうなと思ったが、深い眠りなのか起きる気配はまったくなかった。そういえば、今朝シュウが寝ているときもユイはシャワーを浴びてドライヤーもかけていたが、やはり深い眠りのままのようだった。もしかしたらどんな状況でも眠られるように体を習慣づけているのかもしれない、とユイは思った。

 髪を乾かし終わり、お風呂上がりのスキンケアも終了、今夜はこのまま眠らせておいてあげようか、とユイが考え始めた頃、シュウが目を覚ました。

「本当にありがとうございました。おかげ様ですっきりしました」

「朝まで寝ていてもよかったのに」

「それじゃなんのために私がいるのかわからないですよ」

 シュウが笑顔で答える。

 ――シュウの笑顔、ああ、なんてほっとする笑顔。好きなひとの笑顔ってこんなにもパワーをくれるんだ!

 いつもは大好きなバラエティ番組を観ている時間だが、シュウの強い勧めもあって、早めに就寝することにした。ユイはベッドに横になり、すぐ隣の床にシュウが座る。

「……とは言っても、なんだか緊張して眠れないかも……」

 側にシュウがいる、いまさらだけどそんな状況で眠れないよ、自分の寝顔を見られるのもやっぱり恥ずかしいし――ユイは緊張していた。

「大丈夫ですよ。体が睡眠を要求しているはずです。すぐに眠れますよ。もちろん、先程のようなユメクイによる恐ろしい眠りではありません。普通の睡眠です。怖くありませんからリラックスしていてくださいね。ユイさんが眠りにつく頃、手を握ります」

 いよいよこれから戦いが始まるのだろうか――不安がユイの胸をかすめる。

「……夢の中で戦うって、どうやって戦うの?」

「戦いの基本は精神力です。意志の力で戦います。武器も戦闘能力も、すべてイメージを強く持って具象化させていきます」

「精神力……」

「舞台は夢の中ですから、現実の身体能力は関係ありません。まあイメージしやすくするために、実際にも身体を鍛えておくことは大切ですけど……。様々な魔獣がいる中、術を持って主に精神力で戦う私にとっては、ユメクイはある意味好都合な相手といえます」

 好都合、といっても、そこに相手の個体の強さは加味していない、ということは言わないでおいた。もちろん、生死をかけた戦いに、絶対的なものはなにもない。

 それから、シュウは少し考え、言葉を選ぶようにして続けた。

「大丈夫だと思いますが、念のためお話しておきます。ユイさんがユメクイに関係する夢を見られないように術を施しておきました。そして、そういった夢にはユイさんが登場しないよう厳重にガードしてあります。しかし、もしかしたら夢の中の出来事を垣間見てしまうこともあるかもしれません。そのときは、本当にただの夢、単なる夢なんだと思って気にしないでくださいね。そして、夢で起こっていることに決して関心を持ったり感情移入をしたりしないようにしてください。あまり強い感情を抱くと、ユイさんも夢の中に入ってしまう可能性があるんです。……夢主の力はとても強力です。ユイさんの強い感情は、私の術を超えてしまうかもしれないんです」

 夢主の力はとても強力……。そうか、私の夢だからか、自分の夢だから自分が力を持っているのは当然のことなのだろう、とユイは理解した。

「夢に私が登場したら、どうなるの?」

「まず、私の場合について説明しますが、他者である私がユイさんの夢の中でユメクイに攻撃されてしまったら、現実の私の肉体にそのままダメージを受けます。夢主のユイさんが夢に現れてユメクイに攻撃された場合、肉体的なダメージはありませんが、精神面になんらかの悪影響を受ける可能性があります。やはり大変危険です」

 ユイにとって衝撃的な話だった。ユイが受けるかもしれないダメージについてではなく、シュウのことがただただ心配で、心が張り裂けそうだった。

「シュウは……本当に……、大丈夫なの?」

 絞り出すような声で尋ねるユイ。愛らしい唇がかすかに震えている。どうしてもつい悪い想像ばかり浮かんでしまう――また涙が溢れてくる。シュウの姿がかすむ。

「大丈夫ですよ。私を信じていてください」

 大丈夫、そんな言葉しかシュウには見つけられなかった。

 ――ユイが笑顔になるのなら、何度でも、そう何百回でも「大丈夫」、と言うつもりだ。でも自分は言葉でうまく伝えられない。ならばどうしたらユイを安心させることができるのだろう。恋人同士だったら、こんなとき抱きしめてあげればいいのだろうと思う。でも、自分がしてあげられることは……。

 シュウはそっとユイの頭を、しなやかな髪を撫でた。そして、溢れた涙を細い指で優しく拭ってあげた。

 思いがけない肌のぬくもりに、ユイは驚いた。驚きのあまり、涙はすぐに止まった。

「大丈夫ですから、もう泣かないでください。何度も泣かせてしまって……、すみません」

 お互い交わす視線がぎこちない。でも、少し遠慮がちにユイを見つめるシュウの瞳の奥には、揺るぎない強い光があった。

「……シュウが謝ることないのに……。ごめんなさい……」

 シュウは微笑みながら静かに頭を横にふった。

「ユイさんが謝ることはないですよ。ユイさんはなにも悪くない」

 ふだん話す口調とは違う、深みのあるささやくような声だった。ユイは波立つ心が不思議と凪いでいくのを感じていた。

 シュウの手が、ゆっくりユイの頬を撫でる。宝物に触れるような、とても優しい手。

「さあ。安心して眠ってください」

 そんなことされたら余計眠れなくなっちゃうよ、とユイは思った。

 ――あたたかいシュウの手。繊細な手だけど、なんだかお父さんみたい。ああ。そういえば、シュウは私より年上なんだっけ――

 シュウがユイの手を握る。

 ――シュウは、手を握るとき、どきどきしないのかな。私はとっても……。

 ぬくもりに包まれ、ユイはゆっくりと眠りに落ちていった。


 ドドドドド。

 大きな滝の音。うっそうとした深い緑に囲まれた中、川が流れている。

 ――ここは……? ああ。そうか。私は夢を見ているんだ。川のほとりにいるのは……、青い髪の……、シュウだ――

 シュウは、なにか呪文を唱えていた。その手は印を結び、空を切る。なにかの術を行っているのだろう。その動作は力強く、空手の形のような迫力と美しさがあった。

 ドドドドド。

 流れ落ちる滝の音……。

 続き、暗闇。

 テレビの電源を切ったように、その後しばらく夢のない眠りが訪れる。

 ドドドドド。

 ――また、滝だ。さっきとは少し場所が違う。広がる岩場。滝の上だ。

 巨大な岩の上に、不気味な怪物と一頭の獣がいる。

 怪物は、とても大きく嫌悪感をもたらす醜悪な姿をしていた。首と尻尾が異様に長く細く、実在するどの動物にも似ていない、異様なバランスの姿だった。首にも尻尾にも何か所か節がついていて、そのあたりだけ毛が無かった。そのうえ、首と尻尾の部分だけが妙にぶよぶよとしていて、そこだけ見るとまさに巨大な芋虫といった風情だ。胴の辺りは長い毛に覆われ、その毛色は灰色がベースで所々に毒々しい赤い斑模様がついている。耳は大きく尖っていて、頭には大きな角二本と小さい角が二本生えている。目はなぜか、人間の目のような形をしていた。それだけでも充分気味が悪いのに、ご丁寧に四つもついていた。瞼が下から上へ閉じるようになっていて、四つの目それぞれ違ったタイミングでまばたきをしている。まるで目だけが蠢いているようだ。鼻は先端が豚の鼻のように潰れていて、口は大きく裂け唇が醜くめくれあがり大きな牙が出ている。足は六本もあり、足先は猿の手のような黒く長い指になっていた。その爪は、鉤のようにとても鋭い。

 ――この恐ろしい巨大な怪物が、「ユメクイ」なのか……。こんな化け物と、シュウは戦うんだ……。

 ユイは今まで心の中に灯っていた希望の明かりを必死に守ろうと、「絶望」という言葉をなるべく心に思い浮かべないようにした。

 ――大丈夫、そうシュウは何度も言ってくれていたじゃない! 私が諦めてしまっては、絶対にだめだ……!

 獣の方は、美しく青い立派な毛並みの、青い目をした狐だった。

 ――青い狐……これは、きっと、シュウだ!

 二頭は睨みあったまま動かない。

 四ツ目の怪物が不気味な唸り声をあげる。

 青い狐は相手をまっすぐ睨みつけ、そのまま微動だにしなかった。

 ドドドドド。

 ――ああ! シュウ! どうか、無事でいて……!


 翌朝、ユイは会社を休むことにした。

 熱が出てしまったのだ。ひどく気分が悪く頭痛がする。体が戦っている相手は、ウイルスなどではないのはユイにもわかっていた。

「少し、夢を見たよ。私ユメクイを、見たよ」

 夢について訊こうとしたユイだが、シュウはそれを制した。

「本当に、夢で見たことは気にしないでくださいね。できれば忘れてください。それにしても……、やっぱり、夢を見てしまいましたか……」

「うん……。でも、あの、シュウ……」

 ユイはシュウが心配で仕方なかった。でも熱のせいか、うまく考えがまとまらない。

 とりあえず、シュウも私もなにか食べなきゃ。ユイはキッチンに立とうとした。足元がふらつく。

「もし、差支えなかったら、私がごはんを作りますよ。簡単なものしかできないですけど。どうか横になっていてください」

 大丈夫、私がごはんくらい作るよ、とユイは言いたかったが、体がどうにもいうことを聞かない。

 シュウは、朝にはおかゆ、昼には野菜炒めを作った。普段から料理を作っているのだろう、手慣れた感じだった。野菜はきちんと切り揃えられ火の通りも絶妙、丁寧に盛りつけられ、そしてもちろん味も非常においしかった。

 ユイの心と身体が必要としていた栄養分すべてがたっぷりと含まれているようだった。一口ごとに、ユイの体の奥深くまでゆっくり染みわたっていくようだ。

「とってもおいしい。本当にありがとう。元気になれる気がするよ」

「今日はゆっくり寝ていてくださいね」

 朝からずっと弱い雨が降っている。

 ユイは眠り続けた。音楽が聞こえてきた――ピアノだ。たぶん、夢なのだろう――とユイは思った。ショパンの「夜想曲第2番変ホ長調」だった。

 ユイの両親は、音楽が大好きだ。特に、父がクラシックをこよなく愛していた。ユイの実家では日常にクラシック音楽が流れている。ユイが母親のおなかの中にいたとき、胎教としてもよくショパンやモーツァルト、バッハなどを聴かせていた。

 ユイが幼い頃、両親はユイにピアノを習わせようと試みた。ユイは音楽を聴くのは大好きになったけれど、ピアノを弾くのは好きになれなかった。向いていない、というのもあったが、たまたま通っていたピアノ教室や先生の雰囲気がユイには合わなかった。雨の日、ピアノ教室に行くのが嫌で、ひどく泣いて嫌がったのをユイは覚えている。結局続かずすぐに辞めてしまった。両親は仕方ないね、と顔を見合わせて苦笑した。

 外の雨は少し強く降りだしていた。

 ユイは浅い眠りの中にいた。

 ――ピアノ教室を辞めちゃったけど、おとうさんは笑ってた。おとうさんは、ユイにはたまたまピアノを弾くのは合わなかったみたいだけど、もっと好きなこと、夢中になれることがこれからどんどん出てくるよ、楽しんで一緒に探そうね、と優しく頭を撫でてくれたっけ――

 雨の音が少し静かになった。いつのまにかまた弱い雨に変わっていた。

 夢と覚醒の狭間で、今度は高熱を出して学校を休んだ日のことが思い出された。あの日も一日雨が降っていた。

 ――パートに出ていたおかあさんが、仕事を休んでずっと側についていてくれた。自分ではもうすっかり「いいおねえちゃん」だったと思うけど、この日はおかあさんを堂々と一人占めできた。髪を優しく撫で、手を握っていてくれたっけ。おかあさんは、おやつにプリンを作ってくれた。いつも素敵なことはなんでも先におとうとに譲ってあげて、おとうとが一番優先だったけど、あの日は私が一番最初に食べるんだ! って嬉しかった。学校から帰ったおとうとは、雨でずぶ濡れだった。おねえちゃんが早く元気になるようにって、雨の中四つ葉のクローバーを探して持ってきてくれたんだ。すっごく嬉しかった。……その後、今度は弟が風邪をひいたってオチがついてしまったけど……。弟はおいしいって大喜びでおかあさんのプリンを食べてた。プリンを食べるの一番最初! って嬉しかったけど、やっぱりみんなで一緒に食べた方がいいなって思ったっけ。おかあさんのプリン。最高においしい。家族みんなが笑顔になるおかあさんのプリン。今でもときおり無性に食べたくなる。

 雨音がリズミカルに聞こえる。車の通りがいつもより少ない静かな午後。

 ――小さい頃、おとうととは手をつないでよく近所の小川のほとりや公園に遊びに行ったっけ。青い小さな花の「わすれな草」や、四つ葉のクローバー探しに私が夢中になっているとき、おとうとは小さな生き物をたくさん捕まえていた。優しくしてあげなきゃだめだよって何度も注意した。小雨が降ってきた。帰りも仲よく手をつないで帰った。……さっきカエルやミミズを思いっきりつかんでたよね……って思ったけど、私を信頼して握ってくる小さな手のひらのぬくもりが嬉しかった――

 雨は降り続ける。今も、誰かが側についていてくれている。手を握ってくれている。汗で額に張り付いた髪を指でそっと払い、髪を撫でてくれる優しい誰かがいる。

 ――おとうとでも、おかあさんでも、おとうさんでも、ない。

「シュウ、好きだよ」

 ユイはそれと知らず声に出していた。想いが現実に言葉として生み出されてしまったこと、シュウがその美しい言葉を聞いていることなどユイは知らないままだ。

 雨は優しく木や草花を潤し続ける。大地はこぼれ落ちる雫を静かに受け取り、深くゆっくり飲みこんでいった。


 夕方になると、雨は上がっていた。ツバメの賑やかなさえずりでユイは目覚めた。体はすっかり軽くなっていた。よく眠ったことと、シュウが密かに施しておいた「まじない」のおかげだった。

「夕ごはんは私が作るよ。ごめんね。ずっと寝てしまって。今度はシュウが休んでね」

 キッチンの窓から虹が見えた。濡れた木々の緑はいっそう鮮やかに、夕日に照らされきらきら輝いている。

 ――ちょっとお散歩したいって言ったら、シュウに怒られるだろうな。

 少し元気になるとすぐこれだ。我ながら子どもみたい、と呆れてしまう。シュウを休ませてあげなきゃ、自分も安静にしてなきゃ、外出なんてとんでもないこと! でも、シュウと一緒に虹を見ながら雨上がりの街を散策したいな、見慣れたはずの風景もきっと素敵な発見がある、と思う。ユイの想いとともに、スープがことこと煮えていく。

 メインのおかずは以前に作って冷凍にしておいたロールキャベツにした。

「いただきます!」

「ご馳走様でした!」

 シュウは食べ始めるや否や、ものすごいスピードで綺麗に食べ終えた。実は、ロールキャベツはシュウの大好物だった。

 ユイはもし過去に戻れるのなら、ロールキャベツを作っている自分に、もっときちんと丁寧に、そしてたくさん作っておいてね、後で絶対役に立つから、とアドバイスしておきたい、そんな気分になっていた。

 何気なくつけておいたテレビのバラエティ番組に、二人は明るい笑い声をあげた。

 お笑い芸人と「天然キャラ」の女性タレントが、オーロラを目指しカナダを旅するという特別番組だった。しかし旅番組というよりも、お笑いの要素が圧倒的に強かった。なんの予備知識もないまま出発したタレント達の旅は、普通では考えられないハプニングの連続、まさに珍道中だった。

 ありえない、こんな面白いことって現実に起きるんだ、とユイは少し呆れながらも笑ってしまった。

「すごいね! なんでこんな変なことになるんだろうね! この人達面白すぎる!」

 奇妙な言動をしながら右往左往する日本人を、カナダの人々は笑顔で助けてくれていた。

「きっと、好奇心旺盛で前向きだから困難を困難と思わせないところもあるんでしょうけれど、明るく素直になんでも楽しめる心が、自然と楽しい出来事や優しい人達を引き寄せているんでしょうね」

 自然に引き寄せる――今まで無邪気に笑っていたユイの心に、またたくまに不安の黒い雲が生まれ始めていた。

「……人でも物事でも、引き寄せるって、あるっていうよね……。もしかして、私の中に、どこか悪い部分、醜い部分があるからユメクイなんてものを引き寄せちゃったのかな……」

 ――自分ではよくわからない。でももしかしたら、こんなことになってしまったのは、私が悪いせいなのかもしれない……。私にどこか似た要素があるから、あんな恐ろしい化け物を心に住まわせてしまっているのかもしれない……。

「とんでもない! まったく逆です! ユイさんの豊かな心、純粋で綺麗な魂を狙って、ユメクイが近づいてきたんです。決してユイさんが引き寄せたんじゃありません!」

「ほんと……?」

「ええ。本当です。ユメクイとはそういうものです。狙われたら、普通の人間が逃れられるものではありません。そして、ユイさんが美しい心を持っているということ……、それはユイさんを知る人間だったら誰でも認めることだと思います」

「美しい心だなんて……。そんな……ありがとう」

 ユイははにかんだ笑顔になった。不安で翳ってしまったユイの心は、シュウの一言で日が差したようにたちまち明るくなった。

 ――美しい心……? 純粋で綺麗な魂……? 魂……。そうだ。シュウは私の魂について、なにか言おうとしてたんじゃなかったっけ……。

「そういえば、シュウ……、」

 テレビの画面は、またとんでもない面白い映像を映し出していた。ユイもシュウも思わず同時に吹き出した。

「なにこれー! なんでそうなっちゃうの!? ありえないよー! この人達、こんな調子で本当に目的地にたどり着けるのー!?」

 ユイはそれからしばらく笑いが止まらなくなった。タレント達のおかしな掛け合いも見事に笑いのツボにはまった。シュウも一緒に笑っている。

 ユイは気ままな一人暮らしを愛していた。しかし、楽しいときに楽しい気持ちを共有できる誰かが隣にいる、同じものを見て一緒に笑い合える誰かがすぐ側にいる、それってとても素敵なことだなと改めて感じていた。そのうえ、その側にいてくれる相手が、笑顔を交わし合える相手が、自分の大好きな人だなんて、なんと幸せなことなんだろう、ユイの心にまたひとつ、あたたかい灯がともる。

 ――笑顔、そうだ。笑顔だ。笑顔の力は無敵だ。笑顔になれたら、どんな難問も自分の中で消化し、乗り越えられるような気がする。強くなれる気がする……!

 なにか大事なことを訊こうとしていた。でも、力強く明るい気持ちにユイの心はすっかり満たされ、大切な問いかけは宙に浮いたままとなった。

 コマーシャルがあけ、今度は美しいオーロラがテレビの画面いっぱいに映し出された。テレビの中のタレント達も歓声をあげる。

 清浄な空気の中、たなびく天空のカーテン。赤、緑、青……。刻々とその姿と色合いを変化させる。

 ――すごい綺麗……。単なる自然現象とは思えない、そこになにか大きな意志のようなものが存在するような気がする……。なんて不思議で神々しい光景なんだろう――

「いつか、本物を見てみたいな」

 ユイは大いなる神秘の光景を、自分のこの目で見てみたい、体の奥、心の奥まで届くようなその美しい光を実際に全身で感じてみたい、そう思った。

「ユイさんがそう望むのであれば、いつかきっと叶いますよ」

 シュウは、ユイにはこの先にちゃんと希望に満ちた未来が待っていること、自由に思いのままに描ける未来があるということを伝えたかった。

 ――強く願えば、いつの日かきっと現実になる――

 ユイは思った。シュウと一緒にオーロラを見てみたい、そんな大きなことは望まない。ただ、シュウと過ごせる魔法のような時間が、オーロラのように様々な色彩に彩られたこの貴重な時間が、なるべく長く続きますように、そう願っていた――


 満月から少し欠けた立待月。黒い雲間からぼんやりと見え隠れしている。

「今夜で決着がつきます」

 シュウは真剣な面持ちでそう告げた。が、ユイがまた不安に思ったり緊張したりしてしまうのではないかと気付き、柔らかい笑顔、明るい声になるよう努めた。

「ユイさんが明日の朝目覚めるときには、すべて終わっていますよ」

 ――すべて終わる……。シュウの言うように、朝普通に目覚めたらすべて解決していた、そうなっていたらどんなにいいだろう。一晩なんて、眠ってしまえばあっという間だ。でも、シュウはその間ずっと一人で戦っているんだ……。もし、朝目覚めてシュウがいなくなっていたらどうしよう。ついそんな恐ろしい考えが浮かんでしまう。後日シュウの一族の誰かが突然訪ねてきて、シュウの安否も教えず一言「解決しました」とだけ告げ、それですべてが完了したことになるのだとしたら……。私は今まで通りの日常に戻り、もう二度とシュウに会えないのだとしたら……。今までのシュウとの時間が、全部無かったことになってしまうんじゃないか……。

 何も知らないまま平和に朝を迎えたい気持ちより、なにが起こっているのかすべてを知りたい気持ち――とても怖いけれど――の方がユイの中で大きくなっていた。

 ユイは一人ベッドに横たわり、ベッドの脇にシュウが控える。……傍から見たら、ちょっと奇妙な光景の三度目の夜。

「……シュウは怖くないの?」

 シュウが恐ろしい目に遭わないように、本当は眠らない方がいいのかもしれない。そんな考えがユイの中で生まれていた――私なんかのために、危険なことをする必要なんてない。

「……怖いですよ。もちろん。慣れているとはいえ、私も人間ですから」

 シュウは明るい声で続けた。

「でも、今は大丈夫です。最高においしいロールキャベツをご馳走になりましたし、面白いテレビで大笑いもしましたし。……それに、ユイさんの体調もよいようですしね。大丈夫って心から思えます」

「……シュウは強いんだね」

「強くはないですよ。人生って『今』の連続です。今が大丈夫って思えたら、大丈夫。その先も前も全部大丈夫なんだと思います。大丈夫じゃないときは大丈夫になるよう全力で努力し工夫します。そして、きっとどんなときも大丈夫な状態にできるって自分を信頼することにしています。……後は、ケセラセラ、なるようになる、天の采配に感謝し、身を委ねるだけです」

「シュウはえらいね。……とてもいい考え方だね」

「でも、現実はそんなにうまくいかないんですけどね。自分のできることは本当に少なくて、天や人に助けてもらってばかりです」

 ――綱渡りのような日常。それがシュウの日常なんだ。

「……やっぱり、やめよう?」

「なにを? ですか?」

「私のためにシュウが危険なことをする必要ないよ」

 ユイは体を起こした。

「シュウはもう、帰っていいよ」

 ユイは無理に笑顔を作る。平気なふりをする。

 ――本当は、とても怖い。精神を、魂を喰われる、と言っていた。死んでしまうか、そうでなかったらきっと抜け殻のような、生きているのに死んでいるような状態になってしまうんだろう。怖い。そんなの嫌だ。嫌だよ! ……でも、今がきっと後戻りする、最後のチャンス。……シュウのための。

「急にごめんね。色々ありがとう。でもやっぱりいいよ。やっぱりやめよう」

「……報酬の前払い、貰いましたよ」

「そんなの、関係ないよ!」

「私を信用してないんですか?」

「信じてるよ! シュウはすごいって! でも、でもやっぱりシュウが……」

 シュウは黙ってユイの細い肩をつかみ、なるべく優しくベッドに横たわらせた。

「もうお休みの時間ですよ」

「嫌だ。寝ないよ」

「いいえ。もう眠たいはずです」

「どうして、私なんかのために……!」

 ――どうして、もっと早く思いつかなかったのだろう。シュウを家に帰してあげればよかったんだ。魔獣だなんて、そんな話信じないって、ここから追い出せばよかったんだ。こんなに好きになる、その前に。

「……初めて、魔獣と戦った日、まだ私が幼い子どもの頃の話なんですけど……。あのときは父の手を借りました。父と二人で倒したんです。それでも、父は私を一人前として認めてくれました。子どもながら、お前の能力は素晴らしいと褒めてくれました。そのときの依頼者の方も、子どもの私に涙を流して心から感謝してくださいました。あの日のことは忘れません。この世に生まれいでたのが一度目の誕生日だとすれば、この日が私の二度目の誕生日だったんだと思います。この力は私にとって私が私である証明なんです。そしてこれは運命でありながらも自分で決断した、生涯をかけて追求すべき道なんです。途中で放り出すようなことは私の魂が許しません」

「でも……」

 言いかけたユイの弾力のある柔らかな唇に、シュウはそっと人差し指を押しあてた。

 ユイは次の言葉が出てこない。

 ――シュウを止めなければ。今なら間に合う。でも……。唇に感じる、シュウの指の感触……。心臓がどきどきして頭がうまく回らない――これは、魔法? シャイで不器用なんだか、女性の扱いがうまいのかわかんないよ、もしかして私のこと子ども扱いしてる?

 ユイはちょっぴり悔しくなる――もう、その指、食べちゃうぞ。

「私を信頼してください」

 強いまっすぐな、するどい眼差し。戦士の顔。

 ――強いひと――

 ユイは悟った――このひとを、このひとの意志を変えることはできない。

「私は、必ずユイさんを守ります」

 ――照れて動揺しているときと、まったく別人みたいだ。この美しいひとの内面には、一体いくつの顔が存在しているのだろう。

「さあ。心配しないでリラックスしてください。明日は会社に行くんですよね? 早く体を休めないと」

 会社――なんだか今は現実味を伴わず、どこか遠い世界の絵空事のようにユイには聞こえていた。

 シュウは微笑みを浮かべ、ユイの手をそっと握る。ユイの脳が、徐々に睡眠に移行するよう指令を出しているのを察した。

 ユイはまだ眠りたくなかった――なんだかシュウはずるいよ。なにがずるいかわかんないけど、こんなのずるいよ。

 シュウともっと話がしたかった。遠くでピアノが鳴った気がする。

「……シュウの指は細くて長くて綺麗だね。もしかして、ピアノとかやってた?」

 ――聞こえる。ピアノの鍵盤の、高い音。

「いえ。なにも。音楽を聴くのは好きですけれど」

 ピアノどころか、シュウは大半の子どもが普通に出会う様々なことをほとんど体験していない。魔獣に命を狙われたり、子どもながらに依頼を受けて魔獣と戦ったり、そうでないときは自らの能力を高めるために厳しい修行に励んでいたり……。学校は一応なんとか高校まで卒業したが、魔獣との攻防で受けた怪我や病気のせいで、出席日数はいつもギリギリだった。

 魔獣と遭遇する度、人間の負の感情や、心の闇にも直面した。魔獣ではなく、人間の恐ろしさに愕然とし震える夜を過ごしたことも一度や二度ではなかった。

 両親や親族、身近な大人達は優れた教師だった。友達と遊びに行くことはほとんどなかったが、とてもよい親友はできた。よい先生との出会いもあった。学校も勉強も運動も好きだった。特に美術や音楽、それから歴史や文化を知ることが好きだった。人間の創り出す魂の結晶のような作品や、人間の活動から生まれ受け継がれていく有形無形の財産は素晴らしいと思った。人間だけじゃない、植物も動物も、鉱物や自然の精霊達も友達だった。よい出会い、豊かな心の交流がシュウを正しい光へと常に導いてくれた。過酷な境遇の中でも人生を、人間を、この世界を嫌いになることは決してなかった。

 ――ピアノ曲が聞こえる――

 たぶん、現実ではなく私の頭の中の記憶、とユイはわかっていた。

「……私、小さい頃ピアノを習ってたんだ。でも嫌ですぐに辞めちゃった。今思えばもったいなかった気がする。好きな曲を思いのままに弾けたら楽しいだろうな」

「ユイさんはピアノが似合いますね」

「そんなこと言われるの初めて。スポーツをガンガンやってそう、とはよく言われる」

「繊細で優しくて美しい。ユイさんはピアノのイメージそのままですよ」

 ――聞こえているのはショパンの曲だ。私の最も好きな曲。「舟歌嬰ヘ長調」。とても優しくときに力強く、ドラマティックな綺麗なメロディ。

「あれ? 手が熱いし顔も赤いし目もなんだか潤んでいる。また熱でも出たんじゃ……」

 シュウはユイの額に手をあてた。

「よかった。熱はないようですね」

 ほっとするシュウ。

 ――熱なんかじゃないよ。もう。鈍感――

 ユイは、シュウがすでに自分の気持ちを知っていることに気付いていない。そのうえ、自分で知らずに告げてしまっていたなんて――

 まだ眠りたくないよ……、幼い子どものように眠いのを堪え頑張っていたが、ユイはもう睡眠に入っていた。

 輝く川面を小さな舟がゆっくりと滑るようにして進む。

 きらきら。

 きらきら。

 ピアノに合わせて水面に光が踊る。

 「舟歌」を奏でているのは、シュウ。

 ――ほうら。やっぱりシュウの方がピアノ、だんぜん素敵に似合ってる――

 穏やかな、無垢な寝顔。艶のある形のよい唇はかすかに微笑みを浮かべていた。シュウは安堵し、優しく微笑みを返す――ユイが見ているわけではないのだけれど。

 ユイが深い眠りについたのを確認して、シュウは一人呟く。

「……戦う相手がどんなものだろうと絶対に諦めたりはしない。だけど、いつも、つい自分の最期を意識してしまうんだ。ユイ……、君とはもっと早く、もっと違った形で出会いたかった……」

 ――もっと前に、自然に日常の中で出会い、ゆっくりと絆を深めていけたのだったら、どんなによかったことだろう――

 ふと、シュウが過去につき合った女性達の言葉がシュウの脳裏に蘇ってきた。

 ――ごめんなさい。私では無理。私はやっぱり「普通の人」がいい――

 シュウの能力や使命を知ると、そう言って皆シュウの前から去って行った。

 シュウは思う――「普通」とはなんだろう。自分は、自分しか知らない。複数の人間が言うのだから、間違いなく自分は「普通」じゃないんだろう。こんな普通じゃない人間をまるごと好きになってくれる人なんているんだろうか。もしかしたら、魔獣と戦っているうちに、自分でも知らないうちに怪物のようになってしまっているのかもしれない……。友達なら、たぶんこれからもできる。でも本当に愛し合える人なんているんだろうか。父や母、身近な大人達は家族を作ってきた。でも果たして自分は、共に歩めるような特別な人と出会うことができるのだろうか。

 ――そもそも、特殊な力以前に、なにか自分は人とは違う、もしかしたら欠けている所があるんじゃないのか――

 人として愛されないなにかがあるんじゃないのか。恋人との別れを特殊な能力や使命のせいにしていたけれど、本当はもっと違う理由で離れて行ったのではないか……。傷つくのが怖くなり、愛されることも愛することも、放棄していた。心に踏み込むようなこと、また踏み込まれるような状況は無意識に避けるようになっていた。いつのまにかシュウは自分の周りに薄い壁を作るようになった。ずっと、暗闇の中を歩いていた。

「シュウ、好きだよ」

 突然、ユイの言葉が、ユイの声が天啓のようにシュウの頭の中に響く。

 ――春の日差しのようなユイ。おいしい料理を沢山作ってくれたユイ。よく笑い、よく泣き、子どものように純粋なユイ。

「シュウは……本当に……、大丈夫なの?」

 ――ユイはそう言って泣いていた。

「シュウは大丈夫? 疲れてない? 昨夜全然寝てないし、力を使わせてしまったし……」

 ――ユイは特殊な力をなんでもできる便利な魔法とは思わずに、普通の人間に対するように、まるで普通に徹夜で働いた人間を気遣うように、対等な目線で心配し労わってくれた。

「……シュウは怖くないの?」

 ――怖くて仕方がないだろうに、ずっと気遣ってくれたユイ。

 ……そうか。

 今だから、この状況だから、ユイは自分を好きになってくれたんだ。

 普通とは違う特殊な力を持っているところも、髪と目の色が変わるという人間離れした異常なところも、すぐ動揺して真っ赤になってしまうという男としてなんだか情けないところも、すべてユイに見せてしまった。それでも好きだと言ってくれた。

 ユイだけがそのままの自分を、普通じゃない怪物のような自分を受け入れてくれた――

「私の特殊な体質がたまには役に立つものですね」

 ――これは、昨日自分で言った言葉だ――

 その瞬間、シュウは強い自己肯定の気持ちに包まれていた。自分が、自分でよかった、そう思った。能力に誇りを持ち、常に自分の生き方を肯定してきたけれど、生まれて初めて心の底からそう思った。強い能力者の自分と、弱く脆い一人の男としての自分、ばらばらだった自分が初めて一つに統合されたように思えた。

 ――お互いを深く知り合うようになれば、もしかしたらユイも離れて行ってしまうのかもしれない。でも、それでもいい。もっとユイのことを知りたい。そして自分のことも知ってもらいたい。身も心も、理解し合いたい。深く深く――

 恋って本当に不思議だ。傷つくことや失う怖さを超えて、いつの間にかまた一歩、踏み出す力が湧いてくる――

 シュウは物心つき自分の能力に気付き、そして両親から自らの使命を宣告されたときから、ずっと死を覚悟してきた。ずっと死が隣にいた。諦念のような心境で、常に一瞬一瞬だけを見て生きてきた。それは悟りの境地などではなく、不安や恐怖から心を守るため自然と身についた自己防衛の策だった。

 初めて、強く願った。

 ――生きたい。生きていたい。「今」だけじゃなく、自分にも「未来」が欲しい。自由に描ける、未来が……!

 今を生き、未来を望む――それは同時になにものにも代えがたい宝物のような時間、積み重ねられていく確かな「過去」というものを作っていきたいという渇望でもある。

 点であった時間軸が線になる。線だけじゃない、「過去」「現在」「未来」、それぞれが響き合いなめらかな形となり――美しい色彩を内包し立ち上る豊かな立体となる。そして輝きながら流れていく。

 ――それは、特別なただ一人に出会ってしまったから――

 こんなにもシンプルで、こんなにも力強い理由が他にあるだろうか。

 ――絶対にユイを守る。そして自分も無事に生き延びて見せる!

 炎のような激しい意志で、シュウは自らの髪と瞳を青に染めた。


 バキバキバキッ!

 木が倒れる轟音でユイは目覚めた――。いや。目覚めたのではない。その逆だった。

 ――私は夢を見ているんだ!

 無残に倒された木……。ユイの好きな紫木蓮の木、だった。美しい紅紫色の花びらが、六本の不気味な足で容赦なく蹂躙された。

 ――ユメクイが木々を倒し岩を蹴散らしながらなにかを追いかけている……。ユメクイの先にいるのは……、シュウだ!

 シュウは人間離れしたスピードと跳躍で疾走していた。腰には日本刀を携えている。木々の間を風のように走り抜け、岩の上を軽々と飛び越えていく。

 ドンッ!

 閃光と爆発音。

 ユメクイの足元でなにかが爆発した。

 シュウはただ走り回っているわけではなかった。所々に術を施しておいたのだ。

 緑の炎がまたたく間にユメクイの全身を包む。

 激しく燃え上がる炎。緑の光と熱が勢いよくユメクイの巨体を舐めつくす。

 ――やった! 怪物をやっつけたんだ……!

 しかし、ユイの喜びは空しく、緑の炎は徐々に消えていった。煙の中から現れたユメクイにダメージはまったくないようだった。胴の部分の長い毛も見た目は変わらず、炎に燃えた痕跡はどこにも見当たらない。ユメクイは唸り声をあげかぶりを振り、少し立ち止まっていたが、またすぐにシュウ目がけて走り出した。

 ――どうしよう。あんなに爆発したのに、あんなに炎に包まれていたのに、まったく平気みたいだ。またすごい速さで走り出している。あんな怪物にシュウは勝てるの!? どうしよう。シュウだってあんなに速く走っているのに、どんどん距離が縮まっていく……。

 実は、ちゃんと緑の炎には意味があった。それは、ユメクイの全身を覆う被膜のような目には見えない防御の壁を焼き尽くすためのものだった。確実に次からのシュウの攻撃は有効になる。計画通りだった。

 しかし、そんなことをユイがわかるはずもない。圧倒的な強さの怪物に、ただ逃げるだけが精一杯のシュウ、ユイの目にはそう映っていた。

 ――距離がみるみる縮まる……。

 ユイの心に、先程のあっけなく引き裂かれ、踏みしだかれた紫木蓮の姿が思い出された。

 ――シュウが八つ裂きにされる所なんか、見たくない!

 ユイは心の中で叫んでいた。

 ――シュウ……!

 シュウ! もういいよ! やめて!

 もう諦めて! 私のことはいいから、シュウはもう現実に帰ってきて! もうこんなこと、やめようよ!

 私のことなんて忘れていいよ!

 途中で放り出したことになんてならないよ! シュウはもう充分戦ってくれたよ!

 もうやめて!

 シュウ!!


 目の前に、シュウがいた。

「よかった!戻ってきたんだね!」

 シュウは驚いた顔でユイを見る。

 ――違う……! シュウが現実に戻ったんじゃない! 私が私の夢の中に入ったんだ!

「ユイ! どうして……!」

 シュウのすぐ背後にユメクイが迫っていた。

 ザッ!

 ユメクイの鋭い爪がシュウに襲いかかった。シュウはすぐさまそれをかわしたが、左腕上部に少し当たってしまった。傷は浅かったがシュウの腕からみるみる血が滲み出る。攻撃をかわすとほぼ同時にシュウは腰の刀を素早く抜き、ユメクイに向かって勢いよく踏み込んだ。刀は紫の炎のような光に包まれていた。

 ザシュッ!

 シュウの刀がユメクイの芋虫のような首の付け根を切り裂いた。

 ぎゃおおおおう!

 鋭い鳴き声をあげる。ユメクイの体から、まっ黒な血のような液体が溢れ出た。

 手ごたえはあった。でも致命傷ではない。

 さらに続く攻撃を、という所だが、シュウはすぐさま刀を納め後方に下がり、立ちつくすユイをその腕に抱え上げ、ユメクイとは反対方向に駆けだした。

 ユイの登場で、戦況はシュウにとって一気に不利となった。

 先程の攻撃は、選択肢のない危険な捨て身の攻撃だった。成功したのは運がよかったとしかいいようがなかった。まったくの自殺行為だった――下手をすれば、自分もユイもやられていた――シュウは走りながらも素早く思考を巡らせる。焦る気持ちをなだめ、なんとか平常心を保とうとした。

 ――勝敗は、おそらく一瞬。この戦いは一瞬の差で運命が決まる。またそうでなければ勝ち目はない!

 それにしても、とシュウは思う。術を超えて昨晩ユイは夢を見てしまった。そのため、改めてさらに術を強力にしたつもりだった。今ユイがユメクイのいる夢を見ること、ましてや夢に登場することなど不可能なはずだった。シュウは思いを巡らす。

 ――ユイの中によほど強いなにか――たとえば、強い想い――があったのか。やはり、人の心、人の力というものは、計り知ることなど到底できない……。

 ユイを抱えるシュウの腕から、鮮血がしたたり落ちる。足元に群生している、小さな青い花びらのわすれな草が点々と赤に染められていく。流れ出る血など構わずシュウはさらにスピードをあげ、草原の中を駆け抜ける。

 夢の中であっても、そこに存在すれば紛れもない現実、だった。

 シュウの息遣い、鼓動、体温、筋肉――一見細く華奢に見えるが、その肉体は鋼のように鍛え上げられていた――すべてが現実の感覚として感じられた。

「シュウ! ごめんなさい! 私、シュウが心配で……! 腕、大丈夫!? 血! 血が出てる! どうしよう! 早く、早く血を止めなきゃ!」

 悲鳴に近い叫び声。ユイはパニックに陥っていた。

「大丈夫です。かすり傷です。それから、ユイさんが謝ることではありません。こちらこそ本当にすみません。私の術がもっと強力だったら防げたことです。こんなことになってしまって本当に申し訳ありません」

 謝っている場合でも、謝っているような余裕も、本当はない状況だった。

 ――早く、次の手を考えねば。他にも何か所か術を仕掛けてあるが、どれもユイを抱えたままの状態では危険だ。どうすればユイを安全に守り抜くことができるだろうか。

 シュウはユイを抱えたまま、草原を吹き抜ける風のように駆けていく。夢の中だから、肉体の限界を超越する動きが可能なのだった。

 耳元に聞こえるシュウの冷静な声――正しくは冷静さを装った声――のおかげで、ユイは幾分落ち着きを取り戻した。と、同時に強い自責の念に囚われていた。

 ――あきらかに自分はシュウの足手まといだ。自分はなんて愚かで無力なんだろう……。

 ユイは思った。

 ――こんなとき、たとえば……。あの映画のヒロイン、アリスならどうするだろう――強くて賢くて勇敢な女性、アリス――彼女なら、どうするだろう。

 『精神力』

 シュウは夢の中では精神力で戦う、と言っていた。

 『夢主の力は強力』

 そうもシュウは言っていた。

 ……そうだ!

 ここは私の夢の中なんだ!

 夢なら、私なら、なんでもできるはず!

 ユイは、アリスを思い浮かべた。

 できるだけ、細かい部分まで正確に思い出そうとした。

 ――絶対できる。絶対できるはず!

 私にだって絶対、できるんだ!

 まったく、全然、ほんとに大丈夫、なんだから!

 走りながらふとユイを見て、シュウはぎょっとした。

 ユイの女性らしい可憐な白い手に、しっかりと拳銃が握られていたのである。さながら映画「アリス」のように――

「マジですかっ!?」

 思わず、二度見した。

 それは拳銃、というより、拳銃のようなもの、だった。できるだけ精巧に思い出そうとしたが、もともと拳銃などには興味がなかったユイの想像力には限界があった。その拳銃のようなものは、とてもざっくりとして、大雑把な作りだった。

 いつの間にか、背後に再びユメクイが迫っていた。

 ユイはシュウの肩越しからユメクイを狙う。

「ユイ! そんな、無理だ!」

「ここは私の夢の中なんだもん! 大丈夫!」

 ドドッドドッドドッ!

 土煙をあげ猛スピードで接近してくるユメクイ。胴体、足を黒い血で染め、蠢く四つの不気味な目は怒りに燃えている。

 ――うっ…。怖い……。嫌だ! 怖いよ!

 思わず拳銃を持つ手が震える。悲鳴が喉まで出かかった。シュウの胸に顔をうずめ、恐ろしい光景から目を背けたかった。

 ――でも、やる! やるしかないんだ!

 懸命に意識を集中しようとするユイ。効果的かつ外れないような面積の広い部分を的にしようと思った――やはり胴体部分が一番当たりそうだ。

 ユイはユメクイの首から下、血で染まった胴体辺りに照準をあて、引き金に指をかけた。

 ――お願い! アリス! 私に力を貸して!

 アリスは実在しない映画の主人公にすぎないのだが、この際なんでもよかった。

 ぼん。

 ぼこん。

 およそ銃とは思えない音。やはり拳銃の仕上がりのクオリティがそのまま性能に現れた。

 的も外れた。

 が、それが幸いした。胴を狙ったはずの弾丸は見事に大きく逸れ、なぜかユメクイの四つある目の内の一つ、左の上の目の端に命中していた。拳銃の威力と比べ物にならないくらい破壊力のないこの弾丸の場合、もっとも効果的といえる場所だった。

 ぎゃおおおおおおおおう!

 十秒程、隙ができた。

 十秒。

 それだけあれば、充分だった。

 青い疾風が走る。

 ザンッ!

 炎の刀が鮮やかに弧を描き、ユメクイの首を勢いよく跳ね飛ばした。

 ――あ。首、首が……! ということは……!

 ユメクイも、恐ろしい光景を目の当たりにしたユイも、叫び声をあげる間もなかった。

 あっけない終幕。

 すべては、ほんの一瞬のできごとだった。

 一瞬。でもユイにとって決して忘れえぬ強烈な一瞬だった。

 ――勝った……。

 へなへなと、わすれな草の青い海に座り込むユイ。

 ――わすれな草……。こんなに群生している光景は、たぶん世界中のどこにもない。私の、心の中だけの風景。

 澄みわたる空。風にそよぐ青の髪。そして広がる一面のわすれな草――

 不思議だった。自分だけの心の風景に、シュウと自分、二人がいる――とても不思議な、夢のような光景。

 ――ああ。そうか。これは夢なんだっけ……。

 主を失ったユメクイの体は、いつの間にか巨大な砂の塊のような物体となっていた。あたかも精巧な砂の像のようになったユメクイは、風に乗って少しずつ散っていこうとしていた。

 シュウは、静かに手を合わせていた。

「次に生れ来るときは、光ある地に住まう者として誕生する、そう祈っています」

 いつも、だった。いつも、いつだって戦いを終える度、シュウはそう願っていた。

 ――次は祝福される者として、生を受けて欲しい――

 遠くでツバメの鳴き声が聞こえる。現実の世界のものか、夢の世界のものかわからない。ただ、幸福の使いであることだけは間違いなさそうだった。


「なんとか……終わりましたね」

 朝日が差し込むユイの部屋。ユイに包帯を巻いてもらいながら、シュウは静かに微笑んだ。やはり、夢の中の怪我は現実の肉体にも同じ傷を負わせるのだ。

「痛いよね。ほんとに、ほんとにごめんね」

 ユイは涙ぐんでいた。申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

「そんな、謝らないでください! たいした怪我じゃないですよ。私の方こそすみません。綺麗な部屋を血で汚してしまって……」

 ベッドにもフローリングの床にも血が飛び散っていた。結構な出血量となっていた。

「そんなことよりシュウの傷だよ! 病院、行かなくて本当にいいの?」

「大丈夫です。それより、ユイさんは大丈夫ですか? 怖かったでしょう?」

 恐ろしい体験をさせてしまった、シュウはユイの心の傷が心配だった。

「平気だよ。ありがとう……」

 お互いがお互いを思いやる。異なる魂、異なる心で同じときに同じことを考えていた。

 ――私のことなんかより、自分自身のことを考えてあげればいいのに――

 シュウはユイの瞳をまっすぐ見る。ユイの心の状態をつぶさに捉えようとしていた――心配するような翳りはないようだ――包み込むような深い青で、ユイを見つめる。

「……それにしても、びっくりしました。素晴らしい銃の腕前ですね」

「……実はあのとき、胴体を狙ったんだけど」

「言わなきゃわかんないのに!」

 思わず笑い合う。ユイの顔に笑顔が戻ったのを見て、シュウは安堵した。

 一呼吸おいてシュウは言葉を続ける。

「ユイさんに助けられてしまいましたね。プロとして面目ないです。報酬は、おいしいごはんもたくさんご馳走になってしまいましたし、服までプレゼントしていただきましたし、もうしっかり充分すぎる程いただきました。それに、申し訳ないことに部屋まで汚してしまって……本当に、もう必要ないですよ」

 ――終わった、のか。……もうこれからシュウと私は会うことも話すこともなくなる、のかな……。

「充分すぎるなんて、そんなことないよ! こんな傷まで負わせてしまって……。私、もっとちゃんとお礼がしたいよ!」

 包帯の端を結び終えたが、ユイはそのままの至近距離でシュウの瞳を見つめる。

 ――やっぱり綺麗な青だな、でもシュウの茶色がかった、あたたかく優しい黒の瞳も好きだ。

「まだ給料日にならないし、お金はないんだけど……。その代わり……」

 ユイは迷う――今思っていることを言おうか言うまいか。

 ――でも今しかない。たぶん言えるのは。自分はこれから変なことをシュウに言おうとしてる。しかしここは勢いだ! 構うもんか! 言ってしまえ! 理性や常識が自分の心を支配するその前に。

「……その代わり……。その代わり、私、シュウの彼女になってあげるよ!」

 ほんとは丁寧に伝えたいとても大切な気持ちなんだけど――シュウの反応が怖くて、わざと明るく冗談とも取れる言い方をした――このままこのひととの縁が無くなってしまうのは、嫌だ。

 言葉にしてから、はたと気付く。

 ――あっ! 「自分がいい女だと思ってる発言」みたいに受け取られたらどうしよう!

 大慌てでユイは一言付け足そうとした。

「あのっ! 全然! 全っ然、私はいい女でもないし、大した者じゃないんだけど! でも、ええと、私、料理とかお菓子作りとか大好きだし……、あと、なにかと楽しいと思うんだ! うん! だからつまりその……、結構、お得だと思うよ! お得!」

 ――目茶苦茶だ。ただただ墓穴を掘っているような気がする――

 ふとユイは思った。「今度飲みに行こうよ」とか「連絡先を教えて」でもよかったのではないか――焦らなくても、とりあえず次につながればよかったのでは――後の祭りだった。

 おそるおそる、シュウの瞳をのぞきこむ。青の瞳は一層濃く深い色合いになっていた。

「……この仕事は、自分から声をかけたりしない、依頼によって請け負う仕事だとお話ししましたが……」

 話を逸らされた、とユイは思った――やっぱりだめだよね、そりゃそうか。

「……ユイさんに声をかけたのは、あのとき夜の街でユイさんを偶然見かけて、その魂の輝きに惹きつけられたからです。ユイさんの魂に、その美しい光に、強く強く惹きつけられたからです。時間が止まりました。……こんなことは、初めてです。それから、ユメクイの存在に気がつきました。貴女を助けたいと思いました。でもそれは、正義感や使命感などではなく、ごく個人的な感情、完全に私情です」

 ――え。それって、もしかして私のことを――

 シュウの言葉のひとつひとつが、あたたかい紅茶にゆっくりと溶けていく角砂糖のように、ユイの心の奥まで優しく染み込み広がっていく。

「……俺は、」

 ――へえ! そうなんだ! シュウは自分のことふだんは「俺」って言うんだ!

 ユイはなんだか新鮮な驚きを感じていた。

「俺は、見た目のせいかよく人から子どもみたいに見られるみたいだけど、女性に対してはきちんとリードをとりたいほうなんです」

 ――そうなの!? なんだか意外! いや意外性に驚いている場合じゃなく、ええと、今シュウが言おうとしていること、私がこの場面で理解すべきことは……、それはつまり……。

 ユイの胸が高鳴る。

「報酬の代わり、なんて言い方は嫌です。俺はユイが好きです。俺はユイが好きなんです。俺と、つき合ってください。俺の彼女になってください。これは、俺の思いであり、俺の願いです」

 カーテンから差し込む日差しがあたたかい――これからも、シュウは危険な目に遭いながら様々な魔獣を退治していくのだろう。ユメクイ退治の仕事も、もしかしたらあるのかもしれない。そして、もしその依頼者が女性だったら。やはりシュウは、幾晩もその女性の手を握るのだろうか――明るい朝日にきらきらと瞳を輝かせながら、それだけはカンベンしてほしい、そう密かに願うユイだった。


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[一言] 感想を送ったつもりが送信ミスでもしていたのか、全然上がっていなかったので、おぼろげな記憶をたどって上げ直すことにします。 何日か前、私のタブレットにインストールされているなろうオフラインリー…
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