紫の縁
ほんのりと朱く色付いた蕾。まるで今にも透き通って消えてしまいそうな白く淡い花弁が少しずつ顔を出そうとしている。少しずつ、春を告げようとしている。また、この花の咲く季節となってしまったのですね。
人の心ものどけからまし、と詠ったのは彼だけれども全くその通りであると思う。私の場合、理由は少し違っているのだけれど。
あの花を愛でる心が分からない。
あの花を称える気持ちがしれない。世の中にあれほど罪深き花はないというのに。ずっと渇望し続け、やっと咲き揃ったと思えば呆気なく、いとも簡単に散りさってしまう。まるで、この世の幸せを顕しているかのように。あの花が散りゆくとき、いつも哀しい想いに囚われる。それなら、最初から夢など見せてくれなければ良い。
母が亡くなったとき。仲の良かった友人が婚姻を理由に学校を辞めたとき。可愛がっていたシロと別れなければいけなくなったとき。それらはいつもこの花が散るのと時期を同じくする。もう、何も失いたくはないというのに。
そう考え事をしながらも手は止まらず、形式通りに淀みなく進められていく。ほぅっと息を着くと目の前には大小様々な色彩がちりばめられた花籠が出来上がっていた。
「流石は紫さん。冬を乗り越えた強さの中に春の息吹きを感じさせる作品、ですね。
吉野様もさぞお喜びになることでしょう。貴方の作品にあんなにお金をお出しになるという時には驚いたけれど、その甲斐はあったようね。」
「…ありがとうございます。」
「そんな、謙遜しなくて良いのよ。貴方の作品は本当に素晴らしいのだから。もっと誇ってちょうだい。
さて、今日は紫さんもお疲れでしょうし、ここまでにしましょうか。また、いつでもいらしてね。」
「ありがとうございます。では失礼します。」
どうにも、ここは何度足を向けても慣れることが出来ない。華やかに咲き乱れる花花。私に目を止めると一斉に頭を下げる使用人達。それは私が主の客であるからだ。どんなに主が気に入っていても、いくら娘のように接していようとも、私自身はあくまで落ちぶれた華族の末でしかない。お情けで通わせて頂いている女学校もあと1年で卒業となる。女が学なんてといわれる時代、これは稀有なのかもしれない。しかし、卒業したその時、私はどうすれば良いのだろう。自らのことでありながら見透すことの出来ない先に感じるのは不安だけだった。
「おかえりなさいませ、お嬢様。今日は先生のところでしたね。夕餉はお済みですか。」
「…ごめんなさい。今日は食べたくないの。」
「そんなことを仰らずに。お身体に悪うございますよ。」
「少々気分が優れなくて。申し訳ないけれど、早めに休ませて下さい。夕餉ならあちらで軽く頂きましたから。」
「そうですか。それなら良いのですが。
しかし、お嬢様。本日は旦那様からお話があるとか。先程から奥でお待ちになっておられますよ。出来ればお顔をお出しして下さいな。お湯と布団はこちらで用意致しますから。」
「お父様が?分かりました、ありがとう。」
「只今帰りました。」
座敷に入ると、いつもと違う芳しい薫りが鼻をついた。余程ご機嫌なことがあったらしい。お医者様に注意されているのだから、あまり深酒しないと良いのだけれど。
時既に遅く、目の前には飲み干されて転がった熱燗数本とすっかり出来上がった父。これは後でおミヨさんを呼ばなければいけないだろう。
「ああ紫、帰ったか。早速だが話とはな、お前に良い話が来てるのだよ。
相手は祖父の代で成り上がったらしいが将来性がある、人柄の良い青年でな。歳はお前より2つ上だったかな。
どうやら何処かでお前のことを見初めたというんだよ。どうだろう、悪い話じゃない筈だ。お前ももう家庭に入って良い歳だ、区切れも良いし、ここいらで学校を辞めて嫁いだらどうだ。」
ああ、やはり。いつかは来るであろう話であることは分かっていた。家のことを考えても父がこれを良い話だというのは分かる。私にとっても、政略結婚などではなく望まれての結婚ならば悪い話ではない。たとえそれが華族であるという銘が欲しいだけだとしても。けれど…私は。
そっと目を閉じると瞼の裏にあの花が溢れて。散ってゆく。際限もなく、まるで私の希望に駄目押しをするかのように。
ああ、諦めるしか、ないのでしょうね。
「分かりました、そのお話お受け致します。」
「おお、受けてくれるか。またとない良い話だしな。
支度についてはミヨに聞きなさい。あの娘ならきっとよくやってくれるだろう。母親替わりは一宮先生に頼んでみよう。きっと先生も喜んで引き受けて下さるだろう。」
「はい…
では、おやすみなさいませ。お父様。」
「ああ。顔色が優れないな。しっかり休みなさい。」
「はい、ありがとうございます。それでは、失礼致します。」
お父様をおミヨさんにまかせて部屋に戻ったところでやっと一息をついた。
また、私は自分に、お父様やおミヨさん、他の使用人の方々に対しても嘘を重ねてしまっている。けれども、この気持ちだけは、あの方のことだけはけして悟られてはならない。あの方に迷惑がかかってしまう、私がお慕い申し上げる方に。
“拝啓 若紫の君
寒い日が続きますね、最近お会い致しませんが如何お過ごしでしょうか。 トランプでお友達と遊んだという話、拝見しました。 大人しい貴女らしくもなく遊戯に
一喜一憂する姿が目に浮かび、思わず微笑んでしまいました。さぞ、楽しかったことでし
ょうね。
私の方は相変わらずです。前にもお話したかと思いますが、同級に、政府のあり方を正そ
うと躍起になっている男がいます。先日は、その集会に危うく連れて行かれそうになり、
すんでのところで逃げ延びることが出来ました。私には、その男のように世の中を正そう
という大それた望みを抱けないのです。貴女はそれを臆病だとお笑いになるやもしれませ
ん。しかし、私は今手が届く範囲での幸せの方が大事に思えるのですよ。それは貴女にあ
の時お会い出来たからかもしれません。
それでは、貴女は身体も弱いようですから、この季節特に気をつけてやって下さい。
この手紙を結んだ枝はネコヤナギの枝です。私の許にも早く春が訪れてくれれば良いので
すが。
敬具”
ランプに照らされた、愛しい文字。性格は朗らかでいらっしゃるのに文字はとても流麗な几帳面な文字をお書きになる。きっと、それは人格を表しているに違いない。その綺麗な文字の上に、重力に耐え切れなくなった雫が零れ落ちて染み込んでいった。
「貴方様にお逢い出来て、紫も嬉しゅうございます。けれど、我が身は貴方様のものにはなれませぬ。…どうか、お許し下さいませ。」
そう、彼と出逢ったのは寒さも厳しい朝のことだった。悴んだ手がとても冷たくて、おミヨさんに手袋を出して貰ったのを覚えている。そんな朝だったからこそ、彼にめぐり逢えたと言っても過言ではないだろう。
あの朝は何故かとても急いていた。何故だろう。ああ、呉野さんと図書室へ早く行って新しく理事長先生に贈って頂いた本を一番に見ましょうねとお約束をしていたからだった。結局遅れていって、拗ねた呉野さんに謝ることにはなってしまったのだけど。すぐに楽しそうに“嬉しそうよ、何かおありになったの?”だなんて言われて思わず固まってしまった。本当にあの人は勘が鋭くて困る。
そう、だからあんなに急いていて。髪紐を木の枝に引っ掛けるなんて、普段なら恐らくやらないであろうへまをしてしまったのだろう。 気ばかり急いて、枝に絡まってしまったそれを解くことが中々出来ない。あまりの間抜けさに思わず涙が溢れそうだった。
「大丈夫ですか?」
最初はよもや自分に声をかけているものだとは思わずぼんやりしていると再度同じ声がした。
「大丈夫…ではないですよね。すみません、少し我慢していて下さいね。」
涼やかな声が今度は耳許で聞こえたかと思うと、しなやかな指先が伸びてきた。
今まで強情に枝に恋慕していた髪紐は嘘のように彼にあっさりと身を委ね、私の身をもその場から解放したのだった。後々考えてみると、単に私よりも彼の方が手先が器用な上、絡まり具合をきちんと認識出来ていただけに過ぎなかっただろうけれど。
あまりに間抜けな自分の姿と咄嗟に助けて頂いた殿方の出現に自失状態になっていた私はお礼を申し上げることも忘れ、ただただ目の前のひとを見つめてしまっていた。
「あ、すみません…思わずお困りのご様子だったので勝手に手を出してしまいました。見ず知らずの男に触られるのはさぞお嫌だったでしょうに。謝って済むような話ではないでしょうが本当に申し訳ない。それでは、私はこれで。」
「あ、あの…
お待ち下さい。ありがとうございました。私自身ではどうにもならなくて。お気を遣わせてしまったようで申し訳ありません。」
「そう、それなら良かった。
では、また会えると良いですね、若紫の君。」
彼はほっとしたように破顔し、余程急いでいたのだろうか、すぐに足早に歩き去っていった。
数歩先に学生証を落として。
走り寄って拾い上げてみると、それはすぐ近くの大学のものだった。そういえば、その学校指定だという渋い紫紺の袴を穿いていた気がする。
慌てて追いかけようとしたけれど既に彼の姿はない。どうしようかと考え、何気なく時計を見たところでこちらも急いていたことを思い出した。
その大学は近いとはいえ、ここから1つ駅を行き、更に少し歩いたところにある。そして、今の時刻を鑑みて往復すると約束にも、朝の時間にも遅れてしまう。仕方ない、後で必ず届けますからと胸に誓って私はその場を後にするしかなかった。
「…あの、これをお探しなんじゃありませんか?」
次の日。小雨がしとしとと降り、更に冷え込んだ日。私は学生証を返すため昨日より少し早めの時間に、お気に入りの落ち着いた赤紫の傘を差し、はやる気持ちを抑えて学校への道を歩いていた。
ふと昨日と同じ辺りに差し掛かると、あのひとが何か探しているようだったので思わず声をかけてしまった。
学生帽を目深く被っていたためによく分からなかったけれど、振り返ったその顔にほんの少し安堵が浮かんだのが見てとれた。道着の背中も、学生帽もすっかり湿ってしまっている。このひとはいつからこうやって探していたのだろうか。
「ああ、貴女が持っていてくれたんですね。昨日気づいて探したのですが見当たらなくて。おかげで今朝の雨にも濡らさずに済みました。ありがとうございます。」
「もしよろしければお礼にカフェーでも、と言いたいところですが、平日ですし、こんな見知らぬ男とふたりきりはお嫌でしょう。」
「え、あの、その…」
「ですから、私のことを知って頂きたい。
私は毎朝この時間にこの樹の下でお待ちしています。そうして手紙をお渡ししましょう。勿論、貴女がいらっしゃらなくても結構です。どうでしょうか?」咄嗟に返事が出来なくて真っ赤な顔のまま、下を向いてただ小さく頷くことしか出来なかった私は、その時彼が口許を手で覆いながら顔が弛みそうになるのを必死堪えてることなど露ほども知らなかった。
“拝啓 紫紺の君
“貴方様からのお手紙、今までとても嬉しゅうございました。”
“けれども、一身上の都合により…”
こうではない。こんなことを書きたい訳ではないのに。
“もう、あの場所で花が咲く季節となってしまいましたね。
白く気高く、儚い花。それは私にとって、世の無常を思い知らされるのと同義でした。
しかし、あの樹の下で毎日のように待つ貴方様のおかげであの花の優しさを知ることが出来ました。いえ、貴方様の優しさが樹にも情を移らせたのでしょうか。今ならきっと、やっとあの花が咲き誇る様を眺められそうです。
しかし、もうこれ以上を望んでは罰が下るというものです。これ以上は貴方様にご迷惑がかかってしまう…それは私が嫌なのです。ですからもうお会いすることは出来ません。
どうか私の最期の我が儘だと思ってお聞き届け下さい。”
この手紙を渡すときがきっと貴方様に逢う、最期となる。あの花…桜舞う樹の下で。
“これからも辛いことはあるでしょう。朝に、夕に。泣いてしまうこともあるでしょう。
けれど、変わらないものもあるのだと、同じくらいに優しい刻もあるのだから。
何の悔いもなく、風に誘われるままに枝を離れることとなるよう、儚くとも毅然とした人生を送りとうございます。
それを見た貴方様に美しいと思って頂けるように。
敬具”
今回の企画内容を読ませて頂いた時、桜が咲き誇る様よりもまず真っ先に、桜が風に吹かれて散りゆく風景が脳裏に浮かびました。その中で哀しそうに佇むひと。これが私が描いた“紫”です。
この、春という季節は出逢いも別れもあります。けして明るく嬉しいことばかりではありません。けれど、その中でも何かを見出だせたらと思えるのです。
実はまだこの続きの構想も練ってあるので、いつの日にか外に出してあげれたらと思っています。
最後となってしまいましたが、素晴らしい企画に参加させて下さった次深様、ここまで読んで下さった方、本当にありがとうございました。
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