奥様、眠り薬をもる
ちょっとお下品かもしれません。ご了承ください。
「ここのところ、不眠症気味なのです」
夕食を食べながら言うと、リベラは心配そうに私の顔を覗き込みました。フォークを置いて、彼の手は向かいに座る私の頬に当てられます。
「それはいけない。貴女の体に何かあっては大変だ」
私の愛しい旦那様は気づいていないようです。私は彼に皮肉を言って、それとなく気づかせようとしていたのです。私が眠れないのは、貴方のせいですよ、と。
二年間もの間、私の愛しい旦那様は(ほぼ)禁欲なさっていたのです。それも私を想ってくださった故のこと。惚れ薬で愛情を錯覚した私に手は出すまいと彼は我慢してくれていました。数回ほど、手は出されましたが。
それが誤解とわかった今では、体力の底知れぬ夫は毎晩私を求めます。
けれど……自分で言うのもなんですが、私は華奢な体型なのです。彼とは違い体力にも限界があります。睡眠時間だってほとんど取れず、お昼寝を一時間ほどして保つ日々。
「ええ…そうですわね…」
心配そうにする夫はしかし、私の嫌みには気づいていない様子です。
「可哀想に、私のシャロン。とても心配だ。よければ今晩は貴女に寄り添っていたい」
添い寝をするということですね?けれど知っているのですよ。添い寝だけで我慢できるほど、貴方がこれまで溜めて来た欲は少なくないことを。
残念ながら私は夫が大好きなので、その申し出を拒否できません。ああ、なんと巧みな話術を使うのでしょう。私の夫はお仕事ではさぞ心強い人になるのでしょう。相手を丸め込むのがこんなにも上手なんですもの。
「嬉しいですわ、リベラ。ありがとうございます」
微塵も思っていないお礼を言います。
ずるいのです。私の夫は悪い人です。その笑顔で私に何も言わせてくれません。
ああ、今夜も眠れそうにありません。
***
「まあ!まあまあ!奥様!随分とお疲れのようで…」
侍女長が口元を覆って声をあげます。
リベラはもうお仕事へ向かいました。私は、まだ眠っていたいからと我儘を言ってベッドに残りました。
本当は朝食も食べたかったのです。だけど私の体は限界をとうに超えているのです。一人で立つには腰が痛くてかないません。
「申し訳ないのだけれど、貴女でも、新人の子でもいいから、マッサージをしていただけないかしら?」
「わたくしがいたします。うつぶせになってください」
自分よりもずっと年上の侍女長が私の腰をマッサージしてくれています。
私はまだ十九ですのに!なんて醜態でしょうか!
さすが侍女長。気持ち良すぎて涙が出てきました。
枕に顔を埋めながら、私は誓います。
私はあの底知れぬ体力の夫を必ずや疲れさせ、熟睡させようと。そして私の安眠を取り戻そうと。
***
「ただいま、私の奥さん」
「おかえりなさい、旦那様」
欠かさぬお帰りなさいのキスをしてから、私はリベラを抱きしめます。玄関先です。普段、場所をわきまえる私には珍しいと思ったのでしょう。リベラは一段と機嫌よくなりました。
今日は彼が早く帰ってくると知っていました。彼が今朝そう言ったからです。今は夕日が出てきてまだそう経っていません。
抱きしめ返してくれるリベラの腕の中で、私はにやりとほくそ笑みました。
ごめんなさい、優しいリベラ。
私は安眠と安息のために、ちょっぴり悪い女になります。
「リベラにお願いがありますの。……けど…」
私は知っています。私の夫が同じだけ愛してくれていること。私のお願いに弱いこと。私が言葉を濁せば、彼は優しく微笑んで続きを促します。
にやける顔を隠すように、私は更にぎゅうっとリベラを抱きしめました。
「貴方はお疲れでしょう?だから、お出かけしたいなんて我儘言えませんわ…」
「外出したいのか?私は構わない。貴女が喜んでくれるのなら私も幸せだよ、シャロン」
「まあ…なんて素敵な旦那様なのでしょう…」
計画通りです。ちくりと胸が痛みますが、なに事にも犠牲はつきものですから。今回の犠牲は私の良心とリベラの優しさです。
「実は、レイモンド子爵夫人から舞台のチケットをいただいたのです。ラブロマンスです。貴方と見に行けたらそれは素敵だと思ったのですが…」
「貴女は可愛らしいな。そうやってデートに誘ってくれるのか。選択も素晴らしい」
私の額にキスをしたリベラは、すぐに馬車を手配してくださいました。
おわかりになりますか?
リベラはお仕事で疲れているのです。そこに追い打ちをかけます。舞台観劇というのは、好きでない人には疲れるものなのです。第一に頭を使います。第二に座っているのが辛くなります。第三に相手に合わせて愛想よく楽しんでいるふりをしなければなりません。案外これが、運動よりも疲れるのです。
そこにかさなる長時間の馬車の移動!いくら馬車に慣れているリベラでも、精神的疲労を抱えたままの移動は辛いでしょう。
疲れ切ったリベラは今夜はぐっすり眠ります。私もぐっすり眠ります。万事解決です。おそらくこの作戦が成果を出すのは今夜一日となり、問題を先送りにしているだけの気もしますが……。今の私は目先の睡眠だけでいっぱいなのです。
「早くいらっしゃってリベラ!始まってしまいますわ」
睡眠を目前に控え高ぶる私は馬車を降りてリベラの腕を引きます。はいはい、とリベラは苦笑しながら、けれど私の後にしっかりついて来てくれます。
早くいらっしゃって!睡眠はすぐそこです。
「劇場は逃げたりしない」
「時間は待ってくれませんわ」
やれやれと首を横に振ったリベラは、私を追い越して、手を引かれる側から引く側に移動しました。
実は今回の舞台観劇は、私一人で来る予定でした。子爵夫人に頂いたのは嘘ではありません。舞台は好きですし、恋愛ものは特に好きです。旦那様と行っていらして、と言われましたが、忙しいリベラと来ることになるとは思ってもいませんでした。
デート事体にもそれなりに浮かれています。
いただいたチケットは特等席でした。席に座って、リベラの肩に頭を乗せます。これは牽制です。『私はうっとりと舞台を楽しんでいます。だから貴方も眠らないでくださいね』というメッセージ込みなのです。
もしここでリベラが眠ってしまったら、夜、彼が眠気を感じることはなくなるでしょう。
いざ舞台が始まると、私は実際にうっとりとしました。なんて素敵な物語。なんて運命的。悲劇的且つ喜劇的。
女性が好むようなお話です。
しめしめ、です。
男性が好むタイプのお話ではありません。リベラは退屈しているはず。
ちらとリベラの顔を見ます。
私は絶望しました。
「何を見ていらっしゃるのですか?」
「私の妻の顔だ」
悪びれもしないのはさすが伯爵様です。堂々としています。
「劇をご覧になって?ほら、物語の佳境ですわ」
「誘ってくれた貴女には申し訳ないのだが、私は舞台よりも舞台で表情の変わる貴女の方が面白いことに気づいてしまった」
私の夫は少々ズレています。そして少々失礼です。
「女性の顔をジロジロ見るのはマナー違反ですのよ」
「貴女は私の妻だ。どれだけ見ても咎められない」
それは開き直っていますね。
「親しき仲にも礼儀あり、ですわ」
「礼儀をわきまえない私に貴女は愛想をつかしてしまうだろうか」
騙されてはいけません。
ケロリとした顔で言っていますが計算です。私の夫は策士です。罪な人です。ええ、私は騙されません。
「だ…っ、大好きです…っ」
「よく知っている」
ああ…!その得意そうな笑顔!やはり確信犯です。私が拒否できないことを彼は知っているのです。
結局舞台が終わって疲れていたのはリベラよりも私でした。見られるのはなかなかのプレッシャーです。
しかもリベラと違い、私は馬車の移動に慣れません。所詮インドアの伯爵夫人です。奥様方との交流には気を使いますが、劇場ほど遠くへは滅多に出かけませんから。
帰宅してぐったりな私に対して、リベラは鼻歌交じりです。
「舞台はお気に召したんですね」
目的は果たせませんでしたが、彼が楽しめたなら結果オーライとしましょう。
「私はシャロンの笑った顔も好きだが、静かに泣くさまも同じくらい好きだな」
「……舞台はお気に召したんですね?」
「一応頷いておこう。貴女は怒ると私の母と同じくらい怖い」
いけません。
このところリベラは私を甘く見すぎです。なめています。妻として、あなどられるわけにはいけません。女が強くあれば家庭は円満、というのはお義母様の教えです。事実お義母様はお義父様と持ちつ持たれつ、二児の母をつとめました。目指すはお義母様です。
「ところで、今日はもうお疲れでしょう?お休みになりますか?」
お互い自室で休む方向へ持っていきます。
「ああ。軽食を用意させて部屋で食べよう。どうだろうシャロン。今日の舞台について部屋で話さないか?」
疑う視線を彼に向けます。
「あら。きちんと見ていらっしゃったのですか?」
「見ていなくても音は聞こえるからな」
それは、見ていないことを認めているんですね?騙されません。部屋に連れ込むか連れ込まれたらそこで試合終了、私の負けが確定です。
得意げな顔の夫は執事に言いつけて何かを持って来させました。
「これも一緒に読みたい」
つい先ほど見て来た舞台の原作本です。
「どうしたのですか!?」
「貴女が舞台女優に賛辞をやっている間に、劇場で売っていたので買ったんだ。欲しいか?」
こくこく首を縦に振ります。
少しだけお話した主演女優さんも、原作をお勧めしていました。舞台でピックアップされた以外の話もあるそうなのです。
後で買うつもりでいたのですが、目の前にあってはもう我慢できません。
ああ!また得意そうな笑顔を!
「私の部屋へ行こうか」
「はい」
***
「それでは行ってくる。今日はいつもより帰りが遅くなるかもしれない」
「ええ。いってらっしゃい」
ベッドから夫を見送って、ドアが完全に閉められたところで顔をベッドに埋めました。
「う…っ、うぅぅ…うぅーっ!!」
悶えているのではありません。つわりでもありません。号泣です。あの夫に敵う気がしません。
この腰痛はいつ改善されるのでしょう。私の安眠はいつ帰ってくるのでしょう。お昼寝だって満足できる時間は取れないのです。私だって毎日遊んでいるのではありません。
よその奥様との交流。それに伴いお茶会の企画を立てたり、お誘いの手紙のお返事を書いたり。リベラのご友人や上官の方にご挨拶の手紙を書いたり。
一般階級出身のために貴族に必要なマナーの勉強をしたり。
確保できるのは一時間前後ですのに!
「おはようござぅ奥様!?どうされたのです!?」
入ったばかりの若い侍女が呻く私に驚いています。顔をあげると余計驚かれました。号泣ですものね。旦那様と何かあったのかしらと思ったのでしょう。
ベテランの侍女なら察し、軽く流してマッサージに入るのですが、彼女はまだ新人です。わかれというのも無理でしょう。
「ま…サージを……」
ひとまず言うと、若い侍女は頷いて私の上に乗りマッサージを始めてくれました。
「あの、差支えなければお話していただけませんか?お二人には幸せでいていただきたいのです。お二人とも、お優しいから…」
若い侍女は私の妹と同い年くらいです。人懐っこい性格で、よく私の話し相手になってくれます。以前リベラが私とほぼ面会拒否になったときも私を慰めてくれました。
「ありがとうアリス。……実はこの頃不眠気味なの。リベラは寝る間も惜しんで私とお喋りしてくださるのだけど、私もたまにはゆっくり眠りたくて」
たしか彼女は今年で十四歳。まだ細かく言うのはよくないのでその辺りは濁します。
「眠いとイライラするでしょう?それで情緒不安定になって泣いてしまったの」
嘘です。
本当は悔しくて悔しくて泣いていました。あの夫は計算尽くしているに決まっていますもの!私は今のところあの夫に負け通しなのです。
アリスは口元を抑え、小さく溜息をつきました。
「そうでしたの…。仲がよろしい故でしたのね。でも奥様、言いたいことははっきり言わなければ、奥様が体を壊してしまいますよ」
そこが問題なのです。私はリベラに、はっきり拒否できません。
私自身が言いだしっぺなのですから。私に触れてほしい。リベラとの子が欲しい。言ってしまった手前これを簡単に取り消せません。
それに、少なからず罪悪感があるのです。元をただせば、惚れ薬をもろうとした彼が悪いのですが。それでも彼はこの二年、ずっと己の欲と戦っていました。私を傷つけまいと。これまで我慢させてしまった分、私は受け入れるべきなのです。
でも毎晩は体が持ちません。
「言えれば、苦労しないでしょうね…」
「そうですわねえ…。あ!では、薬などはいかがでしょうか?」
「薬……?」
なんだかとっても不穏な響きです。
「薬で眠気を誘えば、さすがの旦那様も一晩くらいは怪しまずにすぐお休みになるのでは?」
「夫に、睡眠薬をもるの?」
私は物語に出て来る悪女のようですね。そして眠っている夫を庭に埋める…と。いいえ、そんなことはしません。
しかし、薬……。
「そ、そうですわよね!冗談です!旦那様に薬をもるなんてそんなこと…」
「アリス、貴女は天才じゃないかしら」
「え?」
目に浮かぶようです。
ぐっすりと眠った後目覚めた夫の悔しがる顔。
今度こそ私の勝ちです。
***
「今日のお夕飯は貴方の好きなものばかりですよ」
「それは楽しみだ。仕事を頑張った甲斐があったな」
リベラの腕を引きながら、私は自分の意地悪い笑顔を見られまいと俯きます。
料理長にお願いして、今日は私が調理場に立ったのです。ひとえに、睡眠薬のためです。
ご安心ください。人体に影響の出ないよう、お医者様が成分から分量までご指導くださいました。お疲れの旦那様は食事を終えたらゆっくりと眠りに誘われていくでしょう。
今日こそ私の勝利です。
「お味はいかがですか?」
「ああ、おいしいよ。貴女はもうすませたのか?」
「え?いいえ……」
味見をしてからお薬を入れたので、マズいなんてないはずですが…。何かひっかかったのでしょうか。
私は、今日の夜はゆっくりできるでしょうからお夜食をいただくつもりです。
黙々と食事をする夫を眺め、食べ終えたリベラを見つめます。変化はいつ出るでしょう。
「ルークを呼べ」
しかしリベラはぱっちり目を開けたまま我が家のシェフを呼びました。
走って来たシェフは疑問顔です。
リベラは……怖い顔をしています。
「お前は、私の妻にこんな物を食べさせようとしたのか」
ルークはいつにないリベラの声音に震えあがっています。私も愕然とします。
こ…こんな物……。
そんなにまずかったでしょうか…。
私のような庶民舌で味見してもあまり意味はなかったということですか?そんなに怒るほどですか?
リベラは今にもシェフをクビにする勢いです。これはいけません!我が家のシェフの腕はたしかなのです!
「リベラ!」
私が掴みかかると、リベラもシェフも、部屋に控えていた侍従たちもぎょっとしています。
「ごめんなさい!今日の夕食は私が作ったのです!お口に合わなかったのも、私が至らなかったからで…。ルークは、私が調理場に立ちたいと我儘を言ったのを聞き入れてくれたのです!」
「貴女が…?」
リベラの眉間がぐっと寄せられます。
「私はいつから貴女に不満を抱かせてしまったのだろうな」
「え?不満、ですか?」
今、料理に不満を持っているのはリベラでは?
まあ私も不満があって睡眠薬などを入手したのですが……。寝不足は体調が悪くなる上美容の敵です。とうとうおでこにニキビができてしまったのですから。
「しかし、シャロンに殺されるのなら私も本望だ…」
「ころ……はい?」
何故私が愛する夫を殺すなんて突拍子もない話になるのでしょうか。眠らせるつもりはあっても永遠に眠らせるつもりはありません。
「悪いが私は幼少のころから馴らされている。貴女の思惑通りにはいかないだろう」
リベラが執事に言いつけ、布にくるまれた何かを私によこしました。
これはなんでしょう。すごく重くて硬いです。
一度床に置いて、布を取ります。
「ひゃ…!?」
なんてことでしょう!
銃です!拳銃です!夫は私に拳銃をよこしたのです。一般階級の、パン屋の娘は初めて見るものです。
リベラは優しく微笑みました。
「それで私を撃ってくれ。この距離なら外れない」
「な……」
銃で撃ったら人がどうなるかくらい、私だって知っています。
「何を馬鹿なことを言っているのですか!?なんて酷い人なんでしょう……私に貴方を殺させようとするなんて……」
何をお考えなのでしょう。
ボロボロ泣く私に、部屋の隅で見守っていたアリスが駆け寄ってきました。私の肩を抱き、リベラをキッと睨みます。
「奥様、どうか泣かないでくださいまし。…失礼ながら旦那様!貴方様は何度奥様を泣かせれば気が済むのですか!」
怒鳴られたリベラはぎょっとして私に駆け寄ってきます。自棄になっている夫に拳銃を近づけさせまいと遠くへ投げました。
「シャロン、どういうことだ?貴方は私に恨み事があるんだろう。だから毒をもったのではないのか?」
「え……毒…?」
目をごしごしこすりながら、口をぱくぱくさせました。
***
リベラは伯爵家の子として、幼いころから毒に馴らされ耐性がついているのだそうです。彼に薬は効かない、先に言ってほしい情報でした。
「おかげで毒の種類まではわからなくとも、異物が混じっていることはわかる体質になった」
リベラはちょっぴり自慢げに腕と足を組んで、ベッドに座っています。
私はといいますと、結婚して初めての体験です。彼に、床に正座するよう言いつけられました。
手を膝に置き、リベラを見上げる体勢です。
隣にはアリスもいます。同じく正座です。
「夫に睡眠薬をもるとはなにごとだ」
美しい笑みのリベラは、目が笑っていません。
「ごめんなさい…」
「シャロン、事情を話す気にはならないか」
「それは……」
私はちらっとアリスを見ます。夫婦間の人には聞かれたくない問題です。まして純粋なアリスに聞かせていいものでしょうか。
私に策を与え、共犯でもあるアリスは私のために動いてくれただけです。リベラも、彼女にはあまり怒っていません。
私の言いたいことがわかったのか、リベラはアリスを見ました。
「アリス。お前は下がりなさい。侍女長にお前の罰は言いつけておこう。皆庭掃除はあまり好きではないようだな。明日から一週間、庭掃除の担当はお前だ。それが罰でいいな?」
リベラが穏やかな声で言うので、アリスがぱあっと頬を緩ませます。しかしすぐに心配そうに私を見ました。優しい子です。
「心配はいらない。私は奥様を虐めて喜ぶ趣味はない。お前の敬愛する奥様を簡単に嫌いもしない」
彼の言葉に私が頷くとやっとアリスは安心した顔で部屋を後にしました。
「若い子にはお優しいのですね。嫉妬してしまいます。浮気は嫌ですよ」
「アリスは若いと言うよりまだ子供だろう。私からすれば貴女も十分若い。しかし話をすり替えようとしても無駄だ」
声が怖いです。
脚を組んだままの彼は、正座をしたままの私の頭を撫で、頬を撫でます。
「私の愛する妻は、夫に睡眠薬を飲ませたのだ。私が薬で眠っている間に、他の男の元へ行こうとしたのだろうか」
「そんな!私には貴方だけです!」
何故!
これでは浮気を咎められる不肖の男のようなセリフではありませんか!父が濡れ衣で浮気を疑われたとき、母にこう言ってすがっているところを目撃しました。結局何事もなく、最後は母が謝っていましたが。
情けない姿は鮮明に覚えています。
「信じてください…!」
「なら理由を聞かせてもらおう」
ええ。もうやむをえません。浮気を疑われているのですから。
一言言わせてもらうと、あれだけ毎晩傍にいるのに私に浮気をする時間なんてあるわけがないでしょう。昼間だって、そんなことをする暇があれば睡眠時間を確保します。
「だってリベラが…!リベラが私を寝かせてくれないんですもの!」
穴があったら入りたいとはこのことです。なんて恥ずかしいことを口に出しているのでしょうか。
「どうして貴方は眠らないで平気なのですか?私は毎朝腰痛に悩まされていますのに。まだ十代ですのよ?よその奥様と会う時もあくびを噛み殺していますのよ?毎日毎日、貴方の扇情的な眼差しを思い出してソワソワしますのよ?」
最後は失言でした。リベラが勝ち誇ったような笑みを浮かべました。
「そうか。貴女は日常的に私との情事を思い出しているのか」
「う…っ、うぅ…っ!」
ベッドから降りて私の前に片膝をついたリベラは、私の耳元で囁きます。
「私の妻は随分といやらしいな」
「う…っ、うぅ…っ、うぅぅぅぅ…っ!!」
こんな屈辱ってありません!不本意です!!
ほら!またその勝ち誇った顔!!
「しかしシャロン。貴女が私の食事に薬を仕込んだ事実は消えない」
「あら?何故貴方は私をベッドに寝かせるのですか?私は自室で眠ります」
「いいやシャロン。私はいけないことをした妻にお仕置きをしなくてはならない」
私の夫は理解がありません。
事情を話してもまだやるき満々。寝かせる気が一切なし。薬も効かない。果たして私はいつ穏やかな眠りにつけるのでしょう。
願わくば近々夫に出張の話が来ますように。