連れ合いアンブレラ
短編企画:しずくとつむぐ(そうじ たかひろ様 主催)参加作品 『高校二年生のある梅雨の日。放課後、図書室の日本文学の棚前に呼び出された僕は、名前も知らない女の子から告白された』というシチェーションの短編。
外は、相変わらずの雨だ。
梅雨らしく、ここ一週間は雨の日が続いている。
靴が濡れるのも制服のズボンの裾の泥はねも鬱陶しいし、傘で片手が塞がるのも煩わしいし、何より気分がいくらか滅入っていけない。
「たもっちゃん、まだ帰らんの?」
雨だろうが晴れだろうが変わらない能天気な声は、高校に入学してからの友達で一番よくつるむ田中 悟のものだ。
「ちょっと……調べもん。図書室寄ってくわ」
教室からここまで並んで歩いて来たが、ヤツは僕――瀬戸 保とは別に一緒に帰る相手がいるので、傘をぐるぐる振り回しながら「んじゃ、また明日な」と去っていく背中を見送った。
気象庁が梅雨入りを発表したのと同時期、悟は同級生の女子に告白して、見事彼女をゲットした。
それまで、好きな相手がいるような素振りも全く見せなかったくせに、いきなり「ちょっと、コクってくるわ」と宣言して行ったヤツには驚かされたが、その行動力は正直羨ましい。
悟の告白が上手くいったことを親友としては喜ぶべきだし、彼女が出来たからといって付き合いが悪くもならないヤツに、別段不満なんて感じていないはずなのに、連れ立って階段を下りて行く姿を遠目に溜め息が漏れた。
雨の日の図書室は人が多い。
僕はぐるりと部屋の中を見渡すと、とりあえず同じクラスの連中の姿が見当たらないことにほっとして、本棚の脇の案内表示を見ながら、ゆっくりと足を進めた。
目指した日本文学の棚は、一番人気の文庫小説コーナーから最も離れていて人影もまばらで、彼女が待っていた列には、他には誰もいなかった。
僕は今朝、名前も知らなかった同級生の女子から、放課後図書室の日本文学コーナーに来てくれと、メモを受け取ったのだ。
ちなみに、こっちは二年八組で理系、彼女は二年二組の文系だそうで、出身中学も違うし今まで接点のなかった相手。
親友の悟が彼女と同じ中学出身らしく、廊下なんかで軽く言葉を交わす所に自分も居合わせて、顔ぐらいなら見たことはあったが、まともに一対一で向かい合うのはこれが初めてだ。
「呼び出して、ごめんね。来てくれてありがとう……」
頬を赤らめて恥ずかしそうにしながら、それでもまずは礼を言ってくる彼女の印象は、悪くない。
僕もそう鈍いやつじゃないから、こういう場合の呼び出しの用件が何であるかは、うすうす気付いていた。
けれど、実は自分は今胸にちょっとした傷を抱えていて、彼女にいい返事を軽くできるような心境じゃない。
とりあえず、相手を傷付けないように丁重に断るには、どういった言葉が一番適切なのだろうと、顔の脇にあった『人間失格』の背表紙を眺めながら考えていた僕に、彼女の放った言葉は意外なものだった。
「ごめんなさい」
「……え?」
告白されると思っていたら、第一声がごめんなさいってどういうこと?
ぽかんとした僕の顔を見て、こっちが言いたい事に気付いたらしい彼女は、慌てて「違うのっ」と言った。
「私、さとちゃんと……田中君と同じ中学で、仲良かったんだ。たまたま、高校でも委員が一緒になって、委員会で話すことが多かったんだけど、瀬戸君のこといい子だっていっつも言ってて」
そういえば、悟の中学からの友達は、やつを“さとちゃん”と呼ぶな、と思った。
その流れで、彼は僕のことを“たもっちゃん”と呼ぶ。僕の本名は、保だが。
「すごく気になって……瀬戸君ってどんな子なのかなって。それで、その……いつの間にか目で追うようになってて」
彼女の頬は、分かり易く真っ赤だった。
「……いつの間にか、好きになってた」
おそらく僕の顔も真っ赤になっているだろう。真っ直ぐな告白って、される方も物凄く照れる。
「瀬戸君……最近失恋したの?」
「――っ……!?」
「ごめん、これもさとちゃんから聞いて。その……今なら、告白するチャンスだよって、言われて」
僕は、心の中で悟の首を力の限り締め上げた。
好きだったのは、彼が告白して付き合うようになった、女子だった。
けれど、悟のように告白してしまおうとまでは思っていなかったし、彼にも誰にも好きな相手の名前を打ち明けたこともなかった。
ただ、さすがに親友と好きな子が付き合い始めたのはショックで、傍目にも幾らか落ち込んでいるように見えたのだろう。
頻りに心配する悟にまさかお前が原因とも言えず、漠然と「失恋したみたい」と零した覚えはある。
「手紙……瀬戸君に渡してから、ちょっと冷静になって。そしたら、失恋の傷に付け入るなんて、すごくずるいなって、自分が恥ずかしくなって」
悟は、いいヤツだ。おもしろ半分で、彼女をけしかけたわけじゃないだろう。
僕がヤツの彼女を好きだったことなんて知らないのだから、親友の横恋慕を避ける為に適当な女を宛てがおうなんてつもりも、絶対にないだろう。
「だから、ごめんね……ほんとにごめん。今日呼び出したこと、忘れてくれていいから……」
けれど、何だかふつふつとこみ上げてくる思いは、紛れもない腹立ちだ。
「――ふざけんな……」
ぎょっとする彼女の顔を睨みつけて、イライラした声のまま腹の底に宿った不快感を吐き出した。
悟の勝手な気まわしも、彼女の気遣いも、降り続く雨も何もかもが気に入らなくて、頭に血が上っていたのだと思う。
「なんだよそれ、勝手に自己完結して。それこそずるいんじゃねえ? 告白して、こっちがそれをどう思うかなんて、分かんないだろ? 付き合ってみなきゃ、なんにも分かんないだろ?」
「瀬戸君……」
「付き合ってよ。お互いのこと、あんまり知らないんだから、とりあえず友達になろうよ」
「あ、あの……」
真っ赤な顔で目を泳がせる相手にはっと我に返ると、いつの間にか大きくなっていた僕の声に気付いて、図書室中の生徒が集まってきて、本棚の影からこちらを見つめていた。司書の先生までいる。
いつもは人が疎らな日本文学コーナーに、かつてない程の人間が集結していた。
いや、そんなことはどうでもいい。
ちょっとまて。直前の自分の言葉を思い返してみよう。
『付き合ってよ。お互いのこと、あんまり知らないんだから、とりあえず友達になろうよ』
……これでは、僕が彼女を呼び出して告白しているみたいじゃないか。しかも、かなり強引な感じで。
おそらくギャラリーにはそう認識されているだろう。
違うし。呼び出されて告白されたのはこっちだって! と思いながらも、わざわざ見知らぬ奴らに大声で弁解するのも馬鹿らしいし、もうとにかく恥ずかしくって足が竦んだ。
これで、彼女にもう一度「ごめんなさい」なんて言われたら、僕は図書室で大見栄切って大告白をして振られた、最高に可哀想なヤツになってしまうじゃないか。
けれど幸い、僕の心配は杞憂に終わった。
「あのっ、あの、よろしく。私っ……すごく嬉しいよ!」
彼女も恥ずかしさで首筋まで真っ赤になってプルプル震えながらも、けれどはっきりギャラリーに聞こえる声でそう述べた。
途端、集まった人々から惜しみない拍手が沸き起こる。
恥ずかしくて恥ずかしくて、僕は思わず彼女の手を引いて図書室から逃げ出した。
外ではもちろん、まだ雨が降り続いていて、辿り着いた開けっ放しの玄関ホールの空気はひやっとして、火照った僕らの頬には心地よかった。
人が疎らな玄関で並んで傘を開きながら、ここでようやく、僕は彼女の名前をまだちゃんと聞いていないことに気付く。
ごめん、と前置きして尋ねると、彼女はまだ少し頬を赤らめたままはにかんで答えてくれた。
「寺井……寺井 由美です」
「うん、あの、寺井さん……電車通学?」
「うん」
結局、僕らは最寄りの駅までぽつりぽつりと話をしながら一緒に歩き、その次の日も、そのまた次の日も、傘を並べて一緒に帰った。
件の告白の翌朝、挨拶代わりに全力で首を絞めた僕に、悟のヤツが「ユミちゃんいい子だよ~」とヘラヘラ笑うのが気に入らなかったが、今となっては少しばかり感謝もしている。
そして梅雨が明ける頃。
今度こそ僕の方からはっきりと、彼女に「付き合って」と告白した。




