ささやかな奇跡
そこは見渡す限り真っ白な雪だけの世界だった。
見上げれば濁りのない暗闇の中、やわらかくほのかな光が空から降るように広がり、目に映る領域だけを白く浮き上がらせる。
「おや、君は誰じゃ?」
いつの間にか目の前にサンタクロースがいた。
「あ! サンタクロース!」
「違う!」
赤い服と赤い帽子に白い髭の太った赤ら顔は、僕を見て露骨に顔をしかめた。
「サンタ違う! よく見てみい! 全く違う!」
「あ、よく見てみれば……」
全く同じだ。
「みんな、なんで間違えるかなあ!」
そりゃ、そのものだからだろう。て、本当に違うの?
「心外じゃ。誠に遺憾じゃ。どこから見てもわしは『初雪の妖精』なのに」
びっくりした。初雪の妖精? すごい妖精がいたものだ。メタボの妖精の間違いじゃないのか?
「メタボの妖精だとか思ってないじゃろうな」
「いえ、考えもしませんでした」
鋭いぞ、メタボの妖精。
「初雪の妖精、なんですか」
「そうじゃ」胸を張り、得意げにそり返る。「初雪の降ったその時に、ひらり華麗に舞い降り、迷える子羊の願いを一つだけかなえることができる奇跡の妖精とはわしのことじゃ。今回は彼女に『奇跡』を授けようと思って来たんじゃが、はてさて何故君がここに……」
わけもわからず呆気にとられていると、隣から女の人のかすれた声が聞こえてきた。
振り返れば、見覚えのある顔がそこにはあった。
「その人は私を助けようとしてくれたんです」
思い出した。そうだった。
いつも帰り道ですれ違う彼女。いつにも増して、空を見上げるそのはかなげな表情。何となく様子がおかしいと気になり、こっそり跡をつけてみればそこはビルの屋上。もしや、まさか、と躊躇したのが運のつき。声をかける間もなく、宙に舞った彼女の腕を思わずつかんでみたものの、ああ二人はまっ逆さま、まっ逆さま。はからずも初めて互いを見つめ合う二人の男女。しかしそこにロマンスなどというものは微塵もなく、その時の彼女の顔は、頭上の曇天のように僕への悲しみで満ちていた。
「……」
複雑な感情を処理しきれない僕を置き去りのまま、彼女が続ける。
「見ず知らずの私を助けようとして、巻き添えになって」
見ず知らず、なのかな。やっぱり。
「そうかい、それは困ったのお。あいにく『奇跡』は一つしか用意してないんじゃ」
背中の白い大袋を恨めしそうに眺めながら、初雪の妖精は眉間に皺を寄せた。
「その人を助けてあげてください。私なんかよりその人を……」
胸のあたりで祈るように手を組んで懸命に訴えかける。そのつぶらな瞳から涙がこぼれ落ちた。嗚咽が彼女から言葉を奪う。
「本当に彼に『奇跡』を譲ってもいいんじゃね」
こくりと彼女が頷く。
気の毒そうに目を細めて初雪の妖精が僕へ振り返った。
「一年前の今日と同じ日、彼女の父親が亡くなったのだそうじゃ。それから母親も病気になって寝込んでしまい、幼い弟と妹の面倒まで全部一人でみているらしいの。父親には借金がありいの、そいつを放棄した途端に一家は宿無しいのじゃ。彼女の給料では毎月の生活費さえもままならんで、かと言って他に頼るような身寄りもおらず、こつこつ貯めた蓄えも底をつき、ついにはお手軽無人金融『人で無し君』で借金生活、はいスタート。ああっ! と言う間の転落人生とな。額はたいしたことないんじゃが、給料だけでは利子さえも捻出できんで、バイトをしても現状キープがいっぱいいっぱい。愛を誓い合ったダーリンさえも猛ダッシュで逃げ出したのだっちゃ。まあもともと金目当てで結婚なんぞする気もなかったようなチャラ男じゃから、逆によかったのかもしれんがの。思い切って破産しちゃうという手もあるが、結局は同じことの繰り返し。幼い弟妹が『や~い、おまえの姉ちゃん消費者金融で借金したあげくに自己破産の婚約破棄~!』と友達から後ろ指さされるのもかわいそうで、途方に暮れて、生き続けることにも疲れ果てたとなれば、いっそわずかな生命保険ですべてを帳消しにしてやろうと、かねてから思いつめておったそうなのじゃ。かといって残される家族のことを思うとなかなか決心もつかず、父親の命日のこの日、もしも雪が降ったのならと、そう心に決めておったらしい」
プライバシーにずっぽり踏み込んだ説明ありがとうございました。
「本当に迷惑な話じゃ。本来ならばわしが蝶のように舞い降りるだけで、そのローマンチック加減のいいカンジぽさに、恋人達は瞳をうるうるめろめろ輝かせて喜び合うというに。わしがもたらす小粋なシチュエーションは、いつの時代もナウなヤングにバカうけじゃ」
納得した。
だからあんなに悲痛な表情で空を見上げていたんだな。
だとしたら僕にも責任の一端はある。彼女を引きとめられなかった無力さ。いや、おかしいと思った時点で一声かけてさえいたら、何かが変わったのかもしれないのに。
その勇気を持てなかった情けない自分に、彼女を責めることなんてできはしない。
「わかりました。でも何とか彼女も助けてあげて下さい」
がっくりうなだれていた彼女が静かに顔を上げる。その表情に希望は見られない。
初雪の妖精も同じ顔だった。
「駄目じゃ、それはできん。マジでの」
「そこを一つ、何とか、マジで」
サンタさんがグラサンを取り出してチッチッチと指を振った。
「わしの持つ『奇跡』は極めて小さなものじゃ。ここでの記憶をリセットしてから少しだけ時間を戻して、ほんのわずかな作用で運命をそらすだけのな。今日みたいなバッドエンディング系の場合は、『あれま、首吊りの紐が古くて切れちゃった、恥~ずかち~!』とか、『おいおい、飛び降りたら木の枝に引っかかっちゃったよ、ありえねえ~!』とか、『何とまあ、ガスボンベの中身がナッシングでしたか、そういや金払ってねーしな!』とか、『睡眠薬とサプリメント間違えるか、普通! なんかすんげえやる気出てきちゃったよ!』みたいな感じがポッピュラーなパターンで、そしてはっと我に返る、という程度なのじゃ。とても二人の人間の運命を変えるだけの力はないのお。ま、今回はどちらかの身体がクッションになって、『まあごめんなさい私だけ、いや僕だけ助かっちゃった、アンビリバボ!』というパターンで決まりじゃ」
決まりじゃ、って、そんな助かった方がバツが悪くなるような奇跡、かえって迷惑なだけだ。
「その他のパターンは?」
「指定はできる。じゃが、うまく使いこなせなければ、またもとのもくあみ、悲劇のやり直しじゃ。『奇跡』は二度は起きん。オンリー・ワンじゃ」
なんか違う……
「だったらお断りします。彼女も一緒でなければ助かったって意味がない」
「ほ!」初雪の妖精がすごい顔で僕を睨んだ。
「だってそうでしょう。今僕がここにいるのは彼女を助けようとしたからなのです。いわば僕の意志なのです。彼女には何の責任もナッシングですから」
「駄目です!」
すがるようなまなしを向け、彼女が僕に食い下がってきた。澄んだ瞳を潤ませる。いい娘だと思った。
「あなたは助からなければいけない! こんなところで死んではいけない人です! 駄目です! 駄目です!」
彼女が感情的なのは、まだ現世に未練があるからなのだろう。捨て切れない想いが強く残っているからなのだろう。
「いいえ、駄目です! 僕一人だけ助かるわけにはいきません!」
「そんなの駄目です! 駄目です!」
「こちらこそ駄目です! 駄目です!」
「駄目じゃ! 駄目じゃ! どっちかじゃないと駄目じゃ!」
初雪の妖精の首根っこをつかみ引き離す。
何だか妙な具合になってきた。
「私には生きる資格なんてない。関係のないあなたを巻き込むわけにはいきません」
「いけません! いけません! あなたには病気のお母さんがいる。幼い弟さんや妹さんがいる。ずっとあなたの帰りを待っている。何はなくとも、あなたが今日も無事に帰ることを待っている! あなたのことを心配している。あなたは彼らの笑顔に勇気づけられてきたはずだ。ずっと支えられてきたはずだ。彼らもそうだ。あなたの笑顔を必要としている。あなたの笑顔を心から待ち望んでいる。あなたが彼らにとっての希望だからです。だから彼らを悲しませてはいけない!」
「でも! でも!」
「僕には守るべきものなんて何もない。無理を言って家を飛び出し、親にも見放され、田舎にも帰れない。その成れの果てが、夢もチボーもない安月給のサラリーマンです。何もない。彼女もいない。そう、彼女がいないんですよ、この年になっても。ここのところ大事ですから、しっかり覚えておいて下さいね。でも貯金なら少しはあります。こう見えてもケチですから。それは置いといて、いや、やっぱり置いとかなくて、それをそのままあなたに貸すことが可能だったのなら、こんなことにはならなかったのかもしれなかったかもしれない、って話ですよ、実際! 僕にはそれが非常に口惜しい。もう、くう~、と身悶えるほどにです。くう~! でも待てよ。あなたにお金を貸したら、今度は僕が窮地に追い込まれてしまうじゃないですか! 食うに困ってにっちもさっちもいかなくなってしまう。や、そいつは困ったぞ! 仮にかなり困ったと仮定しましょうか。あ、今、仮と仮定が被ってましたね。よくやるんです。後から気づくと恥ずかしいですよね。あと僕的によくやるパターンですが、たとえば、終わりがないよな、って言う時にカッコつけて、『おいおい、それじゃエンドレスがないだろ』って吐き捨てて、三日後くらいに風呂の中で気がついちゃったこととかあります。ええい、シャワーよ、過去の恥をすべて垢とともに流してしまえ、ってなことをマッパで言っちゃったりね、もうね。話を戻しましょうか。要するに他人を気遣っている余裕なんてナッシングな状況でしたね。ついでに言うとまいっちんぐなんですよ、これが。その時きっと僕は己の心を殺して、あなたの家までおうかがいすることになるでしょう。トントン。どなたですか? あなたの困り果てた顔が目に浮かびます。その『こいつキモ!』っていう目だけはやめてください。マジでヘコみますから。しかし、それでもおかまいなしです。そして逃げる隙も与えず、こう言い放ってしまいましょう。『まことにすみませんが、そのおいしそうな御飯を一杯だけ御馳走してもらえませんでしょうか! いえ、そのしゃもじについたところだけでもいいのです! 助けてくださ~い!』あ、せっかちゅう観ました? 『せっかちな中二があいたたたー! とか叫ぶ』でしたっけ? 実は僕先週初めて観たんです。バカにしていたんですけど、泣いちゃいましたよ、いや~、お恥ずかしい。そうです、 こいつは非常にこっパズかしいことなのですよ。いや、想像しただけでかなりのこっパズかしさだ。予想の二割増しくらいですかね。バカうけです。でもいいんです。そんな恥ならいくらかいても。まあ、そう悲観なさらずに。きっと僕なんかに限らずとも、もっと親切でケチな人がいるはずです。世の中捨てたものじゃありませんよ。いやケチでなければなおいいのでしょうが、そこまで望むのはいかがなものでしょうかね」
不思議だった。男同士ならいざしらず、普段は女の子の前ではこんなに滑らかに舌は回らない。まあ内容は実にどうでもいいことばかりだったが。
「とにかく、そんなに素敵な人がいてくれるはずなのに、死んでしまってはなんにもならない。もったいないですよ! 誠に遺憾です。そういえばちゃんとお墓参りには行きましたか! よかったら今から御一緒しませんか! そうですね、ぜひ! いや、何だかデートに誘っているみたいですね。別に僕はそれでもかまわないんですけどね。今日のところはおごらせてください」
舞い上がってしまって、自分でも何を言っているのかよくわからない。
「いや、だから結局何が言いたかったのかっていうと、ええと、ええと……」
彼女が口もとを押さえる。泣き出してしまったのだ。
しまった。そんなつもりはなかったのに。ただ笑ってほしかっただけなのに。生きる勇気を持ってほしかっただけなのに。
きっと彼女の心はこれまで以上に沈んでいるに違いない。僕の必死の力説も彼女の目には滑稽に映るだけだろう。それは困り果てた初雪の妖精の顔を見ればわかる。
救おうとすればするほど、彼女は安易に死を選んだ自分を際限なく責め続けることになる。生きることにいまだ希望を見いだせる『僕』という存在に対し、後ろめたい気持ちになる。それを重ねるたびに、彼女は自分自身の居場所をどんどん狭めていくのだろう。僕よりも価値がないのだと思い込む。僕よりも……
僕よりも?
僕は何をしている。
彼女のために死のうと? いやいや。僕は彼女を助けたいだけだ。別に死にたいわけじゃない。
だがどちらか一人だけというのならば、彼女を助けるということは、すなわち僕は死ぬということで?
彼女が助かれば僕は彼女のために死ぬことになって……?
それは彼女の本意では決してないはず、……だよね?
できることなら僕だって死にたくはない。だけど、だけどどうしようもなくて……
仮に今ここにいる彼女の魂が助かったとしても、現実の彼女の心を救えなければ結局また同じことの繰り返しになるかもしれないから、それじゃ何にもならなくて、だったらかえって僕一人だけでも助かった方が結果的にはよくて、でもそういうことを考える僕自身が僕は嫌いだから、だから僕は!
だから僕は……
頬がくすぐったい。彼女の嗚咽につられて、こちらの涙腺も緩んできたようだ。
彼女に同情しての涙ではない。彼女の心を救えない自分自身の無力さが悔しかったからだ。
隠していたことがあった。
ずっと前から彼女に言いたかったこと。
その日、僕は心の中でこう決めていた。もし今日雪が降ったのなら、帰り道でいつもすれ違う彼女に自分の気持ちを打ち明けようと。
臆病な自分に嫌気がさして、勇気を振りしぼってそう心に決めたはずなのに。たとえ断られても、すでに恋人がいても、この気持ちだけは伝えようと。
ふんぎりをつけるためにわざわざ条件まで付けたり、また背中を押すようにそれがかなったというのに。
でも……
結局僕は臆病なままだった。
このまま僕一人だけが助かって、これからもずっとこんなことの繰り返しなのかもしれない。
彼女が何故いつもうつむいて歩いていたのかも知らずに。
何故あんなに悲しそうに空を見上げていたかさえ知らずに。
それでいいのか?
「だから、僕は……」
本当にそれで、いいのか!
「だから……」
どうすればいい。どうすれば、いい……
!
初雪の妖精へ振り返った。
「決めました! やっぱり僕に奇跡をください!」
その時のあきれたような彼の顔を、僕は二度と思い出すことはないのだろう。きっと……
*
「雪が降ってきましたね」
街の片隅でおそるおそる彼女が振り返る。
その驚きを隠せない顔が疲れ切っているようにも見えたのが少し気になった。
「はい……」
「こんな日に降るなんて、何だかロマンチックですね。……あ、ごめんなさい。別に変な意味はないんです。僕の田舎の方ではあまり雪が降らないから嬉しくなって、急に誰かに話しかけたくなっちゃって……」
「……時々、すれ違う方ですよね?」
「ええ、よくすれ違いますね」
「ごめんなさい。私いつも下を向いてばかりいるから……」
「大丈夫です。そう思って靴ならいつでもピカピカに磨いてありますから」
「は?」
よかった。うまく話しかけることができた。僕にしてみれば上出来な方だろう。と言うより、これ以上の成功はイメージすることすらできない。
シチュエーションのマジック。
いや、雪がもたらしたささやかなる奇跡とでも言うべきだろうか……
「積もるといいですね」
すると彼女が笑ってくれた。
それはまばゆいばかりの満面の笑みだった。
「メリー☆クリスマス」
何年も前に書いたものです。プロットは古く、手垢にまみれ、ほとんど原形をとどめないものとなりました。期間限定ものです。