009
あたたかい午後の陽射し、やわらかな風、虫たちの羽音、鳥たちのさえずり、あたりに色濃く立ち込めた緑の匂い。
アリシアは、五感でそれらを味わった。
森は自分を歓迎してくれている……彼女はそのように受け取った。
が、それは錯覚にすぎなかった。
森の奥に一歩一歩、馬のひづめを踏み入れさせるごとに、アリシアは当初のわくわくした心地を維持できなくなってきた。
高揚感が徐々に、そがれてくる。
一枚一枚、衣服を剥ぎ取られてゆくような、なんともいえぬ不安感が胸の内に広がる。
森は、城が見え隠れするあたりまでは、アリシアを優しく誘うかの如く、穏やかな様子を呈していた。
けれど、奥深く分け入るにつれ、森の空気はよそよそしくなってきた。
森全体がアリシアの頭上にのしかかってくるかのような胸苦しさ。
ここに棲むあらゆる動植物、精霊たちが『よそ者、よそ者』と、彼女を爪はじきしているふうだ。
この暗緑の世界に、ただ一人。
禁忌にふれた罪人の如く、うそ寒い孤独におののいて。
太古よりの悪夢が、自分を捕らえようとしている。
危険を回避する本能を、迂闊にも忘れた罰という口実をもって、彼らは復讐の機会を得た。
うかうかと彼らの領域に入り込んできた、このちっぽけな人類の一員を生贄に。
恐怖は妄想となってアリシアの脳に憑依し、その胸中をかき乱した。
「!」
真っ黒い大きなカラスが一羽、アリシアの鼻先をかすめ、だしぬけに近くの枝から飛び立った。
その羽ばたきと枝葉のざわめきが彼女を脅かした。
手綱をさばく手がとまったので、馬も停止した。
まだ揺れ続ける枝を眺めながら、彼女は自らの体毛が一本ずつ逆立ってゆくのを自覚した。
神経が、うぶ毛の末端にまでピンと張り詰める。
「王子さま、いずこにおられます?」
たまりかねてアリシアは呼ばわった。
弱々しく語尾が震えるガラス細工のような声は木々が吸い込んでいった。
こだまの精が意地悪をしているのだろうか、アリシアの声はあまりにも力なく、なんの反響も余韻も残さずに消えた。
「王子さま、イーダス王子さま!」
あははははははは……。
アリシアの耳に、女の笑い声が届いた。
森の奥深くから、いや、すぐ傍から?
それとも、頭の中からか。
長く尾を引く、狂気を帯びた高笑い。
悪意のこもった、冷たいトーン。
馬上にあることを失念し、思わず彼女は身をよじり、バランスを崩した。
手綱を持つ手に余計な力が入り、咄嗟にそれを引いてしまう。
栗毛馬はいなないて前足をあげた。
「きゃあっ!」
悲鳴とともにアリシアは馬の背から滑り落ちた。
彼女は馬の背の片側に両足を揃えて、横乗りをしていたため、両足で着地できたけれど、彼女のか弱い足首は、落馬の衝撃には耐えられず、ほっそりとしたその肢体を地面に打ちつけるのを防ぐことはできなかった。
「ま、待って……お願い」
息がつまった胸を片手でおさえ、もう一方の手を前にのばして、走り去る馬の後姿にアリシアは虚しく、つぶやいた。
馬はアリシアの懇願を無視した。
アリシアはのばした手を引っ込め、上体を曲げて咳き込んだ。
地面に横になったまま、呼吸と鼓動が落ち着くのを、しばらく待つ。
その後で、軽く身じろぎをしてみた。
「うっ!」
左足首が猛烈に痛む。
一旦苦痛を自覚した以上、気づかなかった時のように振舞うことは叶わない。
じんじんする足首を庇いながら、手近の木の根元まで這いずってゆき、その木に背中をもたせかけ、ようやく彼女は落ち着いて周囲を見渡す余裕を取り戻した。
……今の自分の、無様な格好。
だらしなく両足を投げ出して、サテンのドレスは埃だらけの土まみれ。
髪はぼさぼさで木にもたれかかり、足が痛くて立ち上がることも出来はしない。
……くす、と笑いがもれた。
あんまりみじめで、最悪すぎて、彼女は破れかぶれの失笑をもらしたのだ。
こうなると却って、度胸がすわってしまった。
くすくすくす。
肩をゆすって笑い出す。
身じろぎをすると左足首に響いた。
だから長いことそうしてはいられなかった。
「…………」
静かだ。
つい先刻までの、胸中をかき乱す恐怖感は消えていた。
森の空気はもう彼女を嘲ってはいないようだ。
ただ、もの珍しげな好奇のまなざしを向けられている最中の、むずむずする居心地の悪さは残っていたけれど、それとて大して不快には感じなかった。
葉陰で小人が、彼女の存在を怪しんででもいるのだろうか。
足首の痛みをまぎらわそうという思惑もあって、おもむろに彼女は歌い始めた。
『いつかきっと どこかで会ったことがあるわ
だってとても なつかしい瞳をしてる……』
透明で癖のない、洗練された叙情的ソプラノ。
正確な技巧、存外に豊かな歌唱力、この清らかな愛の再生を主題とした歌は、アリシアの繊細な声質によって、つかのまではあれど、総天然色の命を与えられた。
『夏の光 踊る水 秋の澄んだ空
凍てつく冬の星座 春の陽だまり
美しい四季のなか あなたが微笑む
暖かいまなざしを おぼえているの
突然に巻き起こる風 水面を乱して吹き抜けた
惑わされ 不意をつかれて 見失った幸せなとき
沈む夕日をとめられなくて 枯れる花をとめられなくて
欠ける月 砕け散る星 崩れてゆく幸せなとき
ひとりきり抱いているには あまりにも素晴らしすぎて
苦しくて やりきれなくて 手放した幸せなとき
いつかきっと どこかで会ったことがあるわ
だってとても なつかしい瞳をしてる
あなたはわたしの鳩 魂の鏡
銀の泉 金の麦 永遠の楽園
夏の光 踊る水 秋の澄んだ空
凍てつく冬の星座 春の陽だまり……』
歌詞の世界に陶酔していたアリシアを、ゆったりとした歩調のひづめの音が現世に引き戻した。
栗毛馬が引き返してきてくれたのだろうか?
親しい生き物が近づいてくる気配……その方向に、期待に満ちたまなざしを送る。
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