その婚約破棄、利用させて頂きます。
「ララティーナ、お前との婚約は破棄させて貰う!」
煌びやかなシャンデリア、意匠を凝らした彫刻が施された柱の並ぶ豪奢なホール。
ここは王立ヴェールズ学院の大広間。
王族・貴族の子息令嬢が多く通うこの学院ではこの日、卒業を祝うパーティーが催されていた。
楽団が奏でる妙なる調べを切り裂くように突然ホールに響き渡ったのは、良く通る若い男性の声。
誰もが驚愕の表情で声のした方を見れば、そこには一際豪奢な衣装を纏った、緋色の髪を丁寧に整えた美丈夫が、
隣に金髪の可憐な少女を伴い、厳しい表情で前方で完璧な淑女の礼を披露している少女を指さしている。
「お前がジゼルにして来た事、俺の耳に届いていないとでも思っているのか?
お前のような女が王族の婚約者などという肩書を持ち、好き勝手に振る舞えるのも今日までだ!」
朗々とした声が目の前の少女に突き刺さるように響き渡る。
銀髪の少女は、だがしかし、肩を震わすことすらなく、頭を下げたまま鈴の鳴るような声をホールに響かせた。
「……ギルヴェール殿下、ご拝謁を賜っても宜しいでしょうか?」
その少女の声に、目の前の男は「うむ、許す」と鷹揚に頷く。
一度礼を深めた後、静かに顔を上げる少女。
「お許し頂き、恐悦至極ですわ、殿下。詳しくお話を伺いたくても、礼をしたままでは少々不便でしたから……。
先ずはご卒業、誠におめでとうございます。臣下にある者として、心よりお喜び申し上げますわ」
顔を上げきった少女に、周囲の人々が思わずハッと息を飲んでその美しさに圧倒されてしまう。
美しい銀色の髪は絹糸のような光を放ち、一筋をその華奢な肩に残しながらサイドに綺麗に結い上げられている。
女神、と言っても信じてしまいそうな神々しささえ感じさせる美しいその顔の中で、
一際目立つのは深い海のような彩りのややつり目がちな大きな瞳。
スッと顔の中心を走る小振りな鼻、その下に鎮座する唇はシャンデリアの光を受けて今咲き誇らんとする大輪の薔薇のように赤く、その存在感を示している。
淡い水色に美しく銀糸で刺繍が施された清楚ながら華麗なドレスが色白な身体を包み、
とりわけ男性ならば華奢な体躯に似合わぬ、そのたわわに盛り上がった胸元から目を反らすことは難しいのではないか、と思わせる圧倒的な胸部を見せつけるかのように反らし、
自分に対し、威圧的な視線を向ける男性から目を反らすことなく見据え、微笑みすら浮かべている。
彼女の名はララティーナ・ド・ジーベルージュ。十二歳から六年間の教育が施されるこの学院の五年生。
容姿端麗、品行方正、頭脳明晰。
この学院に通う者のみならず、社交界でもその名を知らぬ者はいない程の貴族の中の貴族だ。
実際、彼女の父・ジーベルージュ公爵は国の宰相を務め、その治める領地は国内でも屈指の豊穣で平和な土地だと言われている。
彼女は、その明晰な頭脳と完璧な貴族としての矜持、他人を立てながらも会話を盛り立て、心を解す対話術やその美貌を幼い頃から認められ、
この国の第三王子──ギルヴェールの婚約者として、社交界で注目を集めていた。
だが今彼女は、その婚約者たるギルヴェールから険呑な視線を浴びせられ、周囲の注目をいつもとは違った意味で集めてしまっている。
「……ララティーナ様……」
彼女の従者が心配そうに寄り添っているが、そんな従者に「大丈夫よ、リオネル」と優しく諭すと、再び目の前の婚約者に視線を戻し、女神のように美しく微笑んだ。
「わたくしとの婚約を破棄すると……先程ギルヴェール殿下はそう仰いましたわね?
知らぬ間に粗相働き、殿下の御気分を害していたのなら誠に申し訳ございません。
……ですがそれは、このような衆目の集まる場ではなく、別の場所でお聞きしたかったですわ。
尚且つ婚約破棄とはまた物騒な……。
……わたくしにも、その理由をお聞きする権利くらいはございますわね?」
その美しい瞳を煌めかせ、王子すら圧倒する威厳を放つララティーナ。
そんな彼女の胸元を不躾に眺めながら、声を掛けられた緋色の髪の美丈夫──この国の第三王子、ギルヴェール・ド・カスティニエが面白くなさそうにフンっと鼻を鳴らす。
「……相も変わらず容姿だけは美しいな、ララティーナ。大人しくしていれば寵姫にくらいはしてやっても良かったが……
その心根を知ってしまった今では、お前に興味はない。
ジゼルにしたことを今この場で詫び、俺たちの前から立ち去れ、下衆が!」
そう言って傍らに伴っている金髪のクリクリとした瞳の少女を思いやるようにそっとその肩を抱く。
「見ろ、可哀想に……。ジゼルはお前の姿を目にするだけでこんなに震えて……。
謝罪以外の言葉はいらぬ。早くその額を床に額ずき謝罪をし、俺たちの前から立ち去るが良い!」
怒りも露にそう口にする王子に対し、ララティーナも一歩も引いていない。
つい、と首を上げると軽蔑したように自分の婚約者が肩を抱く少女に視線を向け、意地悪くその麗しい唇を片端だけ上げて言い放った。
「……あら、いらしたの、シゼル様。婚約者のいる殿方の隣に立つのはお止めなさいと、何度も忠告しましたのに……。
そのような事をして、評判を落とすのは貴女自身ですわ。分を弁えなさいとご注意を申し上げましたけれど、聞こえていなかったのかしら?
こんな大衆の面前でまたしても恥晒しな伝説を作ってしまえるなんて……つくづく面の皮の厚い方ですのね、羨ましいですわ」
持っていた扇子で口元を上品に隠し、ホホホ、といかにも楽しそうに笑うララティーナ。
慌てた様子の従者が「……ちょっ、ララ様……!」とに何やら慌てて止めているが、彼女は意に介した様子は全くない。
「それで? ギルヴェール殿下、まさか婚約破棄の理由が彼女だなんて、そんな世にも不思議な事を仰ったりはしませんわよねぇ?」
扇子で口元を隠したまま、いと楽しきと言った態で彼女が眼光に力を込めて婚約者を見据えている。
そんな彼女の迫力に、グッと一瞬息を詰まらせた第三王子だが、次の瞬間には激昂してララティーナを指差した。
「お前のその不遜な態度が気に食わないと言っているんだ、ララティーナ!
ジゼルから全て聞いているんだぞ! この場で糾弾されたいか!」
もはや周囲は息を飲み、二人のやり取りに聞き入っている。
そんな雰囲気に臆することもなく、ララティーナは扇子を畳み、パン、と音を立てて片手に打ち付けると
「……わたくしが彼女に何をしたと言うんですの? わたくしの方こそお聞きしたいですわ、殿下」
嘲笑とも取れる微笑みをその花の顔に浮かべ、怒りの籠った王子の視線を受け止め、更には返してみせる。
そんな二人のやり取りを一番近くで見ているだろう可憐な少女と従者は俯いて肩を震わすことしか出来ないようだった。
「……それを望むと言うなら聞かせてやろう。
ララティーナ、お前は王族の婚約者という立場を笠に着て、このジゼルに稚拙な嫌がらせを働いていたのだ!
時には脚を駆けて躓かせ、時にはドレスにワインを掛け、有ること無いこと言い触らし……
ついに先日、階段から突き落とそうとしたと言うではないか!
自分の心根の卑しさを顧みることなく、俺の心変わりを全てジゼルのせいにして……
ジゼルから涙ながらに告白された時の俺の気持ちが、お前に解るか!?
……長年、こんな女を婚約者として披露していた恥ずかしさ、愛する女性から告白されるまで気が付けなかった己の無力さ……!
もはやお前の顔など見たくない! 沙汰は追って下す故、ジゼルに謝罪し早々に立ち去れ!」
長台詞を言い終え、興奮も露に息を切らす第三王子。
ララティーナはだがしかし、本日一番面白そうにその様子を眺め、「まぁ!」と驚いたようにその美しい瞳を極限まで開いて王子と傍らの少女を見つめている。
「そんな稚拙な嫌がらせをなさる方が、未だこの世にいらっしゃるのですわね!
なんて……なんてお可愛らしい方でしょう! 是非わたくしもその方にお会いしたいですわ!」
そして広間に広がる高笑い。
声の発信源はもちろんララティーナだ。
彼女は今、悪役令嬢のお手本のように片手を口元に当て、見事な高笑いを披露している。
「何が可笑しい、ララティーナ! 鏡を見ればすぐに相まみえることが叶うぞ!
何なら今すぐ鏡を持って来させようか? お前のその邪悪な表情を今直ぐ見せてやろうか!」
腰に帯いた儀礼用の剣の柄に手すら掛け、ギルヴェールが怒気も露にララティーナに掴みかかろうというその瞬間。
「……殿下!」と、傍らの可憐な少女がその肩に小さな手を添え、ララティーナの従者もまた警戒心も露に主人の前に躍り出ようとする。
そんな従者を諌めたのは誰でもない、ララティーナ本人だ。
「……落ち着きなさい、リオネル。いくら殿下が木偶の坊でも、こんな公衆の面前で令嬢を斬り付けるなんて無体を働こう筈はありませんわ。
それにしても……ああ、愉快なお話を有り難うございます、ギルヴェール殿下。
とどのつまりは、貴方は婚約者のある身でありながらそこなジゼルに懸想をし、邪魔になったわたくしを証拠もなく糾弾しよう、と、そういう訳ですのね?」
ギラリ、と擬音すら聞こえて来そうな危険な光を帯びたその美しい瞳をギルヴェールに向けるララティーナ。
だが、未だ興奮状態の第三王子は剣から手こそ離したものの、野獣めいた瞳で彼女を見据えている。
「ジゼルは世界で一番心の清い女だ! その彼女の証言以上に信頼出来るものはない!
カスティニエ王国が第三王子、ギルヴェール・ド・カスティニエは今この場で、ララティーナ・ド・ジーベルージュとの婚約破棄し、
このジゼル・ブランドウィルとの婚約を宣言しよう!」
その声を聞き、ララティーナは視線を落とし、フッと溜め息を吐いた。
深い哀愁を纏うその雰囲気に、周囲にいた人々は心を切り裂かれるような痛みを覚える。
それほどまでに、ララティーナの落胆は明らかだったのだ。
「……そう、ですの……。やはり宣言してしまわれるのですわね……。
わたくしが彼女を陥れようとした証拠すらないままに。彼女の気持ちも聞く事もなく……。
残念ですわ、ギルヴェール殿下。
……これでもわたくし、幼い頃から貴方の妃となるべく教育を受け、努力して今のわたくしを造り上げましたのよ。
幼い頃から婚約者としてお側にいた殿下にも、それなりの情はありましたけれど……そう仰るなら仕方がありませんわね」
ホロリ、とその麗しの瞳から真珠のような涙が零れ落ちる。
「……婚約の破棄は、わたくしの一存で決められるものではありませんわ。
然るべき手続きの元、正式な書面を持って成立することでしょう。
……ですが、殿上人たるギルヴェール殿下のご意向とあれば、わたくしに否やのあろう筈がございません。
これ以降、殿下の更なるお幸せを願って止みません。今日まで、誠に有り難うございました」
そう言ってララティーナが再び完璧な淑女の礼を披露する。
涙を零し、頭を下げるその仕草に周囲の人々も思わず涙を誘われており、目元を手やハンカチーフで拭いながらその光景に見入っていた。
「……ララ様」
頭を下げたまま、肩を震わせる主人の肩に優しく手を置き、従者が立ち上がらせる。
「……参りましょう、ララ様。貴女の役目はここまでです」
そう言って主人の腰を抱き、退場せんとする従者を、ギルヴェールの背後から厳しい声が留めた。
「待たれよ、ララティーナ嬢! 未だ退席は許さぬ!」
いつの間にか彼らを囲んでいた人垣が割れ、進み出て来たのはギルヴェールの卒業を祝う為に参会していた彼の父と母──この国の国王と王妃、その人達であった。
ララティーナを始め、周囲の人々が慌てて頭を下げると、国王はカツカツと音を立て自分の息子に歩み寄り、
周囲が止める間もなくパンッと破裂音を響かせて息子の片頬を打つ。
「ギルヴェール、このうつけが! 幼稚な言動は昔からであったが、お前は……お前はなんと言う事を宣言してしまったのだ!」
大声でそう言いながら、もう片方の頬も打ち据える。
その気迫に周囲は気圧され──もとより国王に許可もなく進言したり触れたり出来る者は周囲にはおらず、
辺りは暫く頬を打つ音と国王の怒号と彼の息子の悲鳴と許しを請う声が響き渡っていた。
そうして落ち着いたのか、国王がふと、傅いたままのララティーナに目を留める。
頬を腫らし、口元から一筋の血すら流している自分に息子の様子など気にも留めぬと言った態だ。
「……顔を上げてくれぬか、ララティーナ嬢。不肖の息子が、誠に失礼なことをした」
そう言い、ララティーナのその小さな白魚のような手を取り立ち上がらせる。
瞳に涙すら浮かべながら彼女を見やった国王は、その手を握ったまま「……本当にすまない」と小さく呟いた。
「陛下、お心遣い痛み入ります。ですが、わたくしは陛下を敬愛する臣下の一人に過ぎませんわ。過分なご配慮を頂く資格などございません。
……無礼を承知で申し上げさせて頂けるのなら、いつか陛下を『お義父様』とお呼び出来るのを楽しみにしておりました。
先程の宣言でその夢は儚くも切なく消え去ってしまいましたけれど……。
一国民としての敬愛は嘘偽りのない真実としてお受け取り頂けるのでしたら、これに勝る幸福はございません」
そっと国王の手を外し、再び頭を下げるララティーナ。
そんな彼女の様子を、国王の後ろに寄り添うように控えている王妃も目尻にハンカチーフを当てながら見つめている。
周囲が全て、ララティーナのその痛々しい姿に胸を打たれ、黙り込んでいるその場において、一人だけ蚊帳の外にいたのは第三王子だ。
「父上! 私の話もお聞き下さい! そこなララティーナが地位と王族の婚約者たる立場の威光を笠に着ての悪行三昧は明白なのです!
そんな女を王家に入れるなど……それこそ王家の恥ではありませんか!
王家は全ての国民の父であり母であると、常々私に説いて下さった父上なら、こんな心の醜い女より、愛に溢れ、虚飾を嫌う清い女性の方が望ましいと解って頂けると……」
「まだ戯けた事を申すか!」
再び破裂音が響く。
ウグッと声を漏らした第三王子の口から、白い歯が一欠片、コロリと落ちた。
「それ程言うなら証拠はあるのだろうな? その稚拙で、幼稚な嫌がらせとやらを、この聡明なララティーナ嬢が確かに行ったという証拠が!」
鋭い眼光で見据えられ、グッと声を詰まらせる王子。
「どうした!? 証拠もなく勝手に婚約の破棄を宣言し、一人の令嬢の名誉を傷つけ、周囲を騒がせたとでも申すか!」
再び迫られ、ギルヴェールは自分の父から目を反らし「私が見たのはワインで汚されたドレスだけです……。後はジゼルの証言が……」と呟くように言ったその瞬間。
国王は掴んでいた襟首を突き放し、その勢いで王子は床に転がる羽目になった。
「それの何処が証拠か! ……情けないにも程があるぞ、ギルヴェール。呆れ果てるとはまさにこのこと……
……ギルヴェール、そなたの顔は二度と見たくない。本日を持って廃嫡とする!
最後の親心で住居だけは与えてやるゆえ、市井で生きていくが良い!」
突然告げられる廃嫡宣言。
その言葉の重みに、今まで静まり返っていた周囲もさすがにザワッと騒がしくなった。
だがその雰囲気は王子に対する同情的なものではなく、嘲笑や失笑めいた声すら聞こえて来る。
いつの時代、どんな場所でも人の不幸は蜜の味だ。特にギルヴェールは主に女性問題で周囲からの評判も悪かった。
理由もなく突然婚約を破棄されたララティーナに対し同情的な雰囲気だったのは、そんな側面もあったのだろう。
そしてそんな婚約者──今となっては『元』の冠が付くが──を健気にも諌めようとする姿を、社交界にある人間なら誰もが一度は見ている。
先程の、彼女には似つかわしくない悪役めいた言動もまた、自らを貶めることでギルヴェールを守ろうとしたに違いない。
──その悲しい決意は、実を結ぶことはなかったけれど。
「父上、そんな……!」
「衛兵、何をしている! この場に相応しくない者が紛れ込んでおるぞ。そこな婚約者とやらと一緒に摘み出さぬか!」
国王の号令に、警備を担当していた兵達がキビキビと動き出し、あっという間にギルヴェールは両手を拘束され、立ち上がらせられる。
そして彼らが引き続き、ギルヴェールの隣にいた金髪の少女に手を掛けようと動いたその時、少女の可憐な唇から思いも寄らぬ言葉が飛び出した。
「……婚約者ですって? どなたの事ですの? 私、お受けした覚えはございませんわ」
王子を心配するようにしゃがみ込んでいた姿勢から、ユラリと幽鬼のように立ち上がる金髪の少女──ジゼル。
その表情には何処か嘲りの色をもった微笑が浮かんでいた。
「……ジ、ジゼル……?」
衛兵に両手を掴まれたまま、茫然自失の態で少女の名を呟くギルヴェール。
ララティーナの隣で、何故だか彼女の従者が俯いて肩を震わせており、「こら、リオネル!」と小声でララティーナに窘められている。
だが、少女の突然の豹変に気を取られているらしい周囲の人々がそんなやり取りに気付くことはなかった。
「ジゼル? 誰の名をお呼びですか殿下? 精霊に捕われた哀れな少女の事ですか?」
それとも──と呟き、少女がおもむろにその美しい金髪に手をやると、次の瞬間、ズルリ、とその長い金髪が彼女の頭部から離れてその手に残る。
「……もしかしてオレの事を言ってるの?」
金髪の鬘を王子に向かって投げ付け、ニヤリと笑った一人の少年が──そこにはいた。
何処か野性味を帯びたエメラルドのようなその瞳が、凶暴な野獣のようにギラリと光る。
「なぁ、王子サマ、『ジゼル』は良い女だっただろう? そりゃそうだよ、男のオレが、言われて嬉しい言葉やグッとくる仕草で迫っていたんだから。
男のツボを完全に把握した上で清く美しく献身的な理想の女性像を演じてやったんだ、いくらアンタに節操がなくても落ちない筈がない。
……なぁ、嬉しかっただろ、言って欲しい言葉を常にくれる女が側にいて。それこそ、身体の関係なんか二の次だと思えるくらい……夢中になっただろ?」
まだ少し幼さの残る、けれども確かに少年の声で紡がれる、ギルヴェールにとっては残酷な現実。
周囲も突然の変身劇に呆気に取られ、声を出すことも忘れているようだ。
鬘を被っただけとは言え、元々の顔立ちはジゼル──少女そのものの顔をした少年が尚も現実を突きつける。
「ジゼルはオレの双子の姉だよ。アンタに恋をして捨てられて、あの日……」
そこで少年はギュッと眉を顰め、軽く俯いてギュッと両手の拳を握る。
その悲壮な表情から何かを察しただろう人々が、ハッと息を飲んだ。
「……なのにアンタは、オレが『ジゼル』として再び目の前に現れても、姉さんの事を欠片も覚えちゃいなかった。
それどころか男のオレに蕩けるような微笑みを浮かべて君に会えた奇跡に感謝を捧げようとかなんとかほざいていたよな!」
そして少年は、後ろ手に拘束されたままのギルヴェールについ、と顔を近付け、瞳に涙を浮かべたまま獰猛に微笑むという器用なことをやってのけ、
「……あんなに完璧な婚約者との未来が約束されていたのに、それを反故にしてまで選んだ女が……実は男だったなんてなぁ。
なぁ、今、どんな気持ち? 聞かせろよ、色男! 悔しいかよ、悲しいかよ!?
……少しは姉さんの気持ちも解ったか! ええっ!?」
激高した少年がギルヴェールの緋色の髪を掴み、俯きかけたその顔を再び自分に向かわせている。
あまりの衝撃に何も言えずにいる元王子の口元へ、少年はおもむろに胸元から取り出した白パンを捻じ込んだ。
「餞別だよ。アンタの大好きなママンのおっぱいだ。それでも咥えてろ、この色情狂!」
少年のその言葉を聞いたギルヴェールが悲鳴とも絶叫とも付かない声を上げるが、衛兵が今度こそ扉の外へ連行していった。
そうして残された少年の肩にポン、と優しく手を置き、
「……お疲れ様でしたわ、ジャン」
ララティーナが美しく微笑んでその苦労人の少年の功を労っていた。
***
その、悪い意味で伝説となってしまった卒業パーティーから半月後。
ララティーナの生家であるジーベルージュ家のサロンにて、関係者が集い、優雅にお茶を楽しんでいた。
集っているのはララティーナ、そのすぐ脇に控える彼女の従者、リオネル・コーラルト、
そして彼女の兄、クリストフ・ド・ジーベルージュと今回の功労者のジャン・ブランドウィル、
そして──
「はぁぁーー!! 本当にスカっとしましたわ! ララティーナ様、クリストフ様、ジャン、本当に有り難うございました!」
ニコニコと微笑んでそんな感想を漏らしているのはジゼル──ジゼル・ブランドウィル伯爵令嬢。
そう、彼女は失った恋を儚んでどうにかなど──なってはいない。
むしろその逆の行動を以て、今回の婚約破棄劇を演出した最大の要因と言えよう。
ことのあらましはこういう事だ。
ギルヴェールの美貌と、女性を虜にする言動にあっさりと陥落したジゼル。
未だ婚約者の決まっていない気軽さと、彼を一生に一度の相手だと信じ込んでしまったジゼルが、ギルヴェールと一夜の過ちを起こしてしまう。
だがしかし、翌朝の寝具にはギルヴェールはおらず、悲しみと混乱をもって彼を糾弾したジゼルに、元王子はこう言った。
「はぁ~、やはり女は胸だな。顔の造詣など、闇に閉ざされた閨では何の意味も持たぬ」
自分の婚約者は良いモノを持っているけれど、身持ちの固いあの女は結婚するまで指一本触れることなかれと言い渡されている為に捌け口にしたのだ、と
その初めてを捧げた子女に対し、もはや何の興味も持たない様子でそうとだけ告げ、取り巻きと共に彼女の前を去っていったのだ。
「あの時は本当に世界が闇に包まれた気持ちでしたけれど……
ジャンが言ってくれたのです、『そんな屑の為に悲しみに打ちひしがれるなんて、それこそ時間の無駄だ』……と」
彼女の双子の弟・ジャンは姉がそんな扱いをされた事に憤り、彼女のフリをして元王子の側に再び現れる事に成功する。
パーティーでの言葉通り、ギルヴェールはたった一夜の相手であるジゼルのことは全く覚えておらず、
彼は持てる知識を駆使してギルヴェールに対して理想の女性像を演じ、言われて嬉しい言葉を常に囁き、彼を籠絡して行ったのだ。
「オレにも好きな人がいるからさ、彼女がこんな言葉を言ってくれたら嬉しいな、とか、こんな仕草されたら堪んねぇなって態度を示していったら、
あの尻軽、見事に食いついてくれたんだよ」
女性の理想の男性像を熟知するのは女性であるように、男性の理想もまた、男性だからこそ体現出来たのだ。
「オレがちょっと目を潤ませて上目遣いで『殿下、初めては結婚式の夜まで楽しみに待っていたいのです』って言ったら、
あの軽薄野郎は真剣な瞳で『何と慎ましい女だ、お前は!』って感動してくれたよ。
姉さんとはヤッてるってのにな。何が慎ましいだよ、阿呆かアイツは」
プクク、と笑いながらその時の事を話すジャン。
「……ジャン、下品ですわよ。それに……貴方もリオネルも、卒業パーティーの間に笑いすぎですからね?
折角の作戦がバレてしまわないかと、わたくし、ハラハラしていたのですから……」
と、ララティーナが頬を染めて注意を促す。
あのパーティーの場で、事情を知るジャンやリオネルが度々肩を震わせて笑っていたのを根に持っているようだ。
どうやら色を示す直接的な言葉には免疫がないらしく、その白い頬をポッと薔薇色に染めて抗議を寄越すララティーナの表情に、
男性陣は思わず目を反らし、それぞれ己の煩悩と闘っているようだった。
そんなララティーナの非難の声をまぁまぁ、と押さえ、事のあらましについて次に語ってくれたのは彼女の兄・クリストフだ。
「第三王子ギルヴェールの悪行は、既に王宮にまで届いていた。
あの阿呆は本気で後宮を創設しようと動いていて、ヤツの兄達だけじゃなく、国王陛下からもどうにかせねばならぬと、我が家も相談を受けていたんだよ」
と、涼やかな顔で語るクリストフ。
ララティーナに良く似た銀髪の彼は、眼鏡をクイッと位置を正しながら、王宮での裏幕を話してくれた。
「王家に於いて、あの下半身王子の存在は異質だった。調査した所、陛下が信頼して側妃に招いた女性は奔放な過去があったようで、
その血を色濃く継いで生まれてしまったのがあの種馬王子だね……」
元、とは言え王子に対して辛辣なことである。
だが、卒業パーティーの場にこそ登場しなかったものの、彼の働きは目を見張るものがあった。
溺愛する妹・ララティーナの婚約者の実態を知るや否や、この件に関する実権の全てを父から譲り受け、
王宮での調査、その裏付け、国王への報告や、自身の父との連携を含め動いたの他ならぬ彼なのだ。
「私の可愛いララには必ず幸せになって貰うことに決めているからね。
何だったら、一生嫁になど行かなくても私が必ず幸せにするよ」
ララティーナに向け、妖艶な微笑みを送るクリストフ。
その表情には妹に向ける愛情以上の何かが滲んでいるようだ。
「クリストフ様、やはり女性の幸せとは、愛する者と結ばれて子を持ち、育んで行く事ではないですか!?」
そんな兄のオーラを打ち消すようにララティーナの前に立つのはジャン。
「姉さんの復讐もそうだけど、オレはあんな男にララをやるのは絶対に許せなかった。
気色悪い女装と尻軽王子に我慢して婚約破棄にまで持って行ったのはララの為なんだぜ!?
……市井に落ちたアイツが無事に過ごせる保障なんか一つもない。
市民は王家のスキャンダルが大好きだし、今回の件は派手に尾鰭を付けて拡散するよう、街の新聞記者達を煽っておいたからな。
同種とみなされた男達に襲われるか、義憤に燃えた女たちに大事な部分をもがれるかは知らないけど……
男色家のレッテルを貼られたあの色魔が、ろくに理解もしていない下町で無事に生活できる可能性は……ほぼゼロだ」
ジゼルを演じていた頃のいじらしさの欠片も見せず、黒い微笑みを浮かべてそう語るジャン。
「……なぁ、ララティーナ。国王様からララ自身が選んだ男と添い遂げるようにと言われているんだろ?
今回の謝罪として、結婚相手は王族の養子として迎え入れ、箔を付けた上でお前と結婚させるって」
そう、期待以上の──親子とも言える情愛を示した国王によって、ララティーナはそんな約束を取り付けてしまっている。
曰く、いずれ義理の娘となるだろう彼女を幼少期から見守る事で、親じみた愛情を彼女に感じてしまっているのだとか。
彼らとしても、養子として受け入れた子どもがララティーナと結ばれることで贖罪と親愛の情を示してくれているのだろう。
彼女の生家・ジーベルージュ公爵家との繋がりをより強固にしたいとの打算的な考えも少なからずあるかもしれないけれど。
「……わたくしは、暫く結婚は考えたくありませんわ……。正直、今は愛だの恋だのは虚飾としか思えませんし……」
真心を尽くして支えて来た元婚約者の醜態は、ララティーナにとってほろ苦いでは済まされない経験であったと見え、
フッと涙すら浮かべて溜め息を吐くララティーナ。
「そんなことはない、ララティーナ。生まれた時からお前を慈しんでいる私の愛は、きっとお前に届くはずだ!」
と、クリストフ。
「望まない女装までしてまで、お前からあの阿呆王子を遠ざけた俺の真心が理解できないとでも言うのか!?」
と、ジャン。
「……ララ様、焦ることなどありません。気が付けば一番の理解者は常に側にいた、と知る事が出来るのは遠い未来の事ではありませんよ」
と、リオネル。
──悲劇の女神、と称されたララティーナが国全体に祝福されて幸せな結婚をすることになったのは、もう少し、後のお話。
お読み頂き、有り難うございました!