太平洋戦争中期の一九四三年七月、日本軍は劣勢だった。
大戦初期は破竹の勢いで進撃を続け、最盛期は中部太平洋、北太平洋、南太平洋、南方資源地帯、中国戦線と広大な地域を席巻した日本軍だったが、一九四二年六月五日〜七日に行われたミッドウェー海戦で無敵を誇った日本海軍精鋭部隊である機動部隊が参加した全空母を撃沈されてから戦局は逆転し、米軍の反撃が始まった。
米軍の反撃はすさまじく、日本海軍が死に物狂いで守ろうとしていたソロモン諸島に攻め込み、これを占領してしまった。
ソロモン諸島の要であるガダルカナル島も米軍の手に落ち、日本海軍は島に残った兵達を駆逐艦で救出するという危険な作戦を行った。
当時ソロモン海の制海空権はすでに米軍に奪われ、ソロモン海は敵潜水艦が無数にうごめいていた。そんな中を駆逐艦大部隊で救助するというのはあまりにも危険な事だったが、それは見事に完遂された。
ソロモン諸島の陥落は南太平洋の陥落を意味し、米軍は続いて北太平洋の奪還を開始した。
北太平洋の日本軍の拠点はアラスカ半島からロシアに向けて伸びる長い列島――アリューシャン列島にあった。
ここは元々アメリカの領土だが、日本軍はこれを攻略して手に入れていた。
もっとも、ここはミッドウェー海戦の時の囮のような作戦で手に入れたので、大本の作戦が失敗した為戦略的にも意味を持たないが、一応アメリカ領土という事でアメリカを牽制していた。
当時アメリカも南太平洋で手一杯だったので先延ばしにしていたが、南太平洋を手に入れた事で余裕を持ち、自国領土奪還の名目でアリューシャン列島を新たな攻撃目標とした。
アリューシャン列島のうち日本軍の守備隊が存在したのはアッツ島とキスカ島の二つの島だった。
当時日本はそれほどこの二島を重要視しておらず、少数の守備隊と偵察機部隊しか配置されていなかった。だが、米軍が列島奪還を企てている事を察知すると増援部隊や物資を次々に送って防備強化を行ったが、すでに下準備を終えた米軍は列島東部に新設した飛行場や常備艦隊の攻撃で一部撃沈されるなどの被害が出た。
日本軍は個々の輸送を諦めて大輸送船団とそれを守る護衛艦隊を編成して出撃したが、米艦隊に遭遇して砲雷撃戦を繰り広げた。
戦力的には優勢だった日本艦隊だったが、逃げる敵艦隊を追う追撃戦となってしまい、たいした被害も与えられずに取り逃がしてしまった。
さらに大規模に高速移動した為に燃料不足となって護衛ができなくなり、結局引き上げる事になって失敗に終わった。
その後米軍は五月十二日、ついにアッツ島に上陸を開始した。だが、これは日本軍側にとっては予想外の事だった。
当初日本軍はアメリカ側に近いキスカに米軍が上陸してくると予想してそっちに軍備のほとんどを置いていた為、アッツ島に上陸されたのは完全に虚を突かれた形となり、キスカ島は退路を断たれてしまった。
アッツ島に上陸した米軍の一万一〇〇〇人に対し、日本守備隊はわずかに二六五〇人と少数だったが、守備隊はこれと激戦を繰り広げた。だが、圧倒的な兵力と火力を持つ米軍の前に守備隊は次々に壊滅されていった。
そして二九日、守備隊は残存全兵員三〇〇人をかき集めて司令官を先頭に最後の突撃を行い全滅――玉砕した。
アッツ島が陥落し、キスカ島と六〇〇〇人の守備隊は完全に孤立した。
日本軍はアリューシャン列島を放棄し、キスカ島の守備隊を撤退させる事を決定したが、すでに制海空権を失った北太平洋に艦艇を送る事はかなり難しく、最悪キスカ島守備隊を見捨てるという事も考えられていた。
陸軍がキスカ島守備隊撤退を海軍に要請するも、海軍はすでにガダルカナル島を巡るソロモン海の激戦で撤退作戦に絶対必須の駆逐艦を大量に失っており、これ以上失う事は絶対に避けたかった。
だが海軍も陸軍の強い要望に根負けし、潜水艦による撤退作戦を計画した。
六月上旬に潜水艦部隊で二度救出作戦を行い、戦傷者八〇〇人の救出と弾薬、糧食の補給を成功させたが、この作戦に参加した十五隻の潜水艦のうち三隻が敵の攻撃を受けて撃沈されてしまい、戦果に比べて損害の方が上回ってしまった。
海軍は潜水艦での救出作戦を断念し、ガダルカナル島の時と同じように駆逐艦での救出作戦を実行した。
北太平洋の海をキスカ島守備隊救出部隊が白波を立てて翔けていた。
叩き上げの水雷屋である木村昌福少将を指揮官に軽巡三隻、駆逐艦十一隻、補助艦艇二隻の艦隊は濃霧の中でさらに速力を上げた。
濃霧の中を進む救出部隊の命は、この艦隊に配置された新鋭駆逐艦『島風』に託されていた。
新鋭高速駆逐艦『島風』はつい二ヶ月前に竣工したばかりの新鋭艦であり、日本海軍駆逐艦の最高峰と言っても過言ではないものだった。
『島風』は他の駆逐艦よりも艦体が大きく、駆逐艦搭載魚雷装置としては最大最新鋭の魚雷発射管を装備し、さらには機関も強力なものを装備しており、世界初駆逐艦で四〇ノットを超える速力を発揮できる駆逐艦であった。
さらに『島風』は完成時にすでに電探と逆探(敵レーダー波を探知する機械)を装備しており、濃霧で目を塞がれた日本艦隊の《目》として配備されていた。
そんな『島風』の第一主砲塔の上に少女が座っていた。 身長一七五センチと長身な体に膝ほどまでに掛かりそうな長髪をした抜群にスタイルのいい少女は濃霧をじっと見詰めていた。
彼女はこの『島風』の艦魂だ。
艦魂とは艦に宿る魂の化身とも言うべきもので、大小どの艦艇にも宿る精霊のようなものであり、その姿を見る事ができる人間は稀にしかいない。
島風は風ではたはたと揺れる髪を押さえる事もせずに濃霧を見詰めていたが、突如小さなくしゃみを一発起こすと鼻を指で擦った。
「やっぱり北の海は寒いわね」
大きな体とは反対にかわいい声でそうつぶやくと、島風は何もない所から毛布を一枚取り出した。これも艦魂の力である。
毛布を肩に掛けると島風は再び濃霧を見詰める。
白い世界は全ての視界を塞ぎ、自らの進むべき道を隠す。
何も見えず、波音だけが響く白き世界は敵から己を守る蓑であると同時に自分達の視界を全て塞いでしまう目隠しでもある。
そんな世界の先には自分達の到着を待つ友軍がいる。
彼らを助け出す事こそが自分に与えられた使命であり責務だ。
島風はただひたすら自分達が進むべき道を見詰めていた。と、
「おい島風。そんな所にいると風邪引くぞ?」
その声に振り返ると、主砲横のハシゴを少年が上って来た。
「ここが一番眺めがいいのよ」
「眺めって・・・霧で何も見えないぞ」
「あんた本当に何もわかってないわね」
「何がだよ」
「別に。チビなあんたにはわからないわよ」
「チビ言うなッ!」
少年はハシゴを一気に駆け上がって島風の横に立つ。確かに長身な彼女に比べて少年は一五五センチとかなりの小柄。海軍入隊ギリギリの身長しか持っていない。
「あんたバカぁ? そんな身長でチビと違うと言う方がおかしいわよ」
島風は自分の長身を見せ付けるように立ち上がると、身長差二〇センチの男女反対な身長を持つ二人が並ぶ。
少年は勝ち誇った笑みで自分を見下ろす島風を憎たらしそうに睨む。
「普通女がそんなバカでかい身長を持つか?」
「うるさいわねぇ」
不機嫌そうに言う島風だが、少年も不機嫌だった。
「男が身長高いのは誇らしい事だけど、女だと引くぞ」
「勝手に言ってれば? 身長が高いのはいい事よ」
「それは俺に対する嫌がらせか?」
「そう思いたいなら勝手にすれば?」
島風はニヤニヤと笑いながら少年の頭を撫でる。
「バカッ! やめろっ!」
少年は顔を真っ赤にして本気で嫌がった。その姿を見て島風は嬉しそうに笑う。
「ごめんね。目の前に小さくてかわいい頭があったから、つい」
「もういいよっ!」
「ちょ、ちょっとっ!」
少年はほとんど泣きながら主砲塔から飛び降り、そのまま走り去ってしまった。
島風は小さくなって行く少年の背中を見詰めていたが、その背中が消えると不機嫌そうに座り込んで霧を見詰める。
「まったく、度胸がないんだから」
口を尖らせて不機嫌そうに霧を見詰めていたが、しばらくすると悲しげな瞳に変わっていた。
「またやっちゃったなぁ」
島風はため息をして元気なく霧を見詰める。
「何で九重を見るとああいう態度をしちゃうんだろう」
九重とはさっきの少年の名だ。正確に言うと九重薫砲術少尉。この駆逐艦『島風』の砲術士を務め、担当は第一砲塔射撃手だ。
島風は消えた九重が戻って来るのではないかと思って待っていたが、結局彼は戻っては来ず、がっかりした。
いつまでもここにいる必要はないと、島風は立ち上がる。だが、ふと自分の足元を見詰める。
確かに高い。
通常の女子の身長をはるかに超える高さだ。
仲間からも「高い」とか「大きい」と言われている。
だが、決して島風は身長が高い事を喜んではいない。むしろコンプレックスに思っている。
小柄な九重は長身の自分をうらやむが、そんな事彼女にとっては嬉しくも何ともない。むしろ嫌だ。
女の子としては身長の低い方がかわいいし、それに九重の身長は女子の平均身長くらいだから、むしろこっちの方がうらやましい。
お互いのほしい身長を逆に持っているから、二人の会話はいつも身長の話でケンカになり、そしていつもケンカ別れしてしまう。
それも習慣だと思っていたが、最近では九重はあまり島風に会いに来る回数が減っていた。
忙しいというのもあるが、会いづらいというのがほとんどだろう。
だから、さっき会いに来てくれたのはとても嬉しかった。だが、またいつものように身長の話でケンカしてしまった。
自分がほしいものを持っている彼に対し、どうしてもケンカ腰になってしまう。
彼が嫌がっている小さな身の丈をついからかってしまい、彼を怒らせる。
ついこの間までは彼も島風に対し「デカ女」とか「電柱」とか言って反撃していたのでおあいこだったが、ここ最近彼はあまり突っ掛かって来ない。これでは張り合いもなく、一方的に自分が悪くなってしまう。
島風はため息して光に包まれて消えた。
翌日、艦隊は思わぬ事故に見舞われた。
濃霧の中で艦隊がバラバラになり、その間に五隻の艦が接触事故を起こしてしまい、駆逐艦一隻が被害甚大で退避した。
電探で艦隊の位置を確認していた『島風』は被害を受けなかったが、艦隊はより慎重に航行するようになった。
敵にやられる前に衝突で艦隊が壊滅してしまっては元も子もない。
実はこの艦隊はこの作戦前に一度キスカ島に向かったが、途中霧が晴れてしまい一度退避した。
この作戦は敵機や敵艦隊に遭遇する危険が高い為、濃霧に隠れて進むしか成功の道はない。その為霧が晴れるのは艦隊の命にかかわるのだ。
艦隊は退避して再び霧が出るのを待って再出撃したが、これも途中で晴れてしまい、燃料不足となって艦隊は撤退したが、手ぶらで戻って来た艦隊は艦隊司令部や大本営からすさまじい非難を受けた。
早くしないと霧の季節が終わり、敵が大挙して上陸してくる可能性があり、そうすればもう出撃は不可能となる。さらにはこの地域に備蓄していた重油が尽き始め、あと一回の出撃できなくなってしまうまで減っていたのだ。
そんな状況の中での最後の出撃である今回は絶対に成功させなくてはならない。だからこそ起きた今回の衝突事故は追い詰められた艦隊をさらに追い詰める事となった。
艦隊は陣形を整えて再び濃霧の中を進む。
それから二日間は何も障害なく艦隊は順調に進み続けていた。
そんな中島風はまた第一主砲塔の上にいた。
基本的に彼女は暇な時はここに陣取っている。この真下には今も九重が仕事をしている。そんな彼の上にいるという安心感からか、彼女はいつもここにいるのだ。
ここに陣取ってから二時間後、日は没して辺りは月明かりもなく闇に包まれていた。
島風が眠そうに目を擦ると、主砲塔の扉が開いて九重が出て来た。
「あ、九重」
島風は彼が声を掛けてくれるのを待ったが、九重は一度も島風の方には向かずに艦内に消えてしまった。
「な、何で・・・」
島風はただただ呆然と彼の消えた艦内へ通じる扉を見詰めるしかできなかった。
一方、仕事を終えて自室に戻ると、そこには一緒に暮らしている青年士官の瀬川がベッドで本を読んでいた。
「お、九重。仕事終わったのか?」
「はい。今日はもうおしまいです」
「敵艦隊と遭遇しなければ、な?」
「不吉な事言わないでくださいよ」
瀬川は小さくと笑うと読んでいた本にしおりを入れて横に置く。
「それにしても今日も早いじゃないか」
「やっと仕事に慣れてきたのか仕事が早く終わるんですよ」
「そうじゃなくて。最近島風と会ってないんじゃないか?」
彼は九重と同じ艦魂が見える数少ない人間であった。
瀬川に言われ、明らかに九重は視線を逸らす。
「今日はたまたまですよ」
「そのたまたまがずいぶん続いているじゃないか」
「そ、それは・・・」
「お前は本当にウソがつけない奴だな」
瀬川は呆れ言葉を吐くが、その声はとても優しげなものだった。彼のそんな所を瀬川は気に入っているのだ。
「最近島風とうまくいってないんだろ?」
「そ、そんな事ないですよ。ただちょっとすれ違ってるだけです」
「それが世間一般ではうまくいっていないと言うんだ」
「むぐぐ・・・」
何も言い返せなくなった九重に対し瀬川は机の上に置いてあったウィスキービンを取って口に含む。
「長身の女なんてうらやましいじゃねぇか。俺好みだよ?」
「先輩には小柄の気持ちはわかりませんよ」
瀬川の身長は一八〇センチとかなりの長身。もし島風の横にいても違和感がないのだ。
「身長差二〇センチなんて奇跡の組み合わせだよな」
「人事だと思って」
「まあまあ、お互いの好みが逆なだけでそう悩むなって」
「別に僕は小柄が嫌ですけど、あいつは長身を嫌って言うくらい自慢して来るんですよ?」
「そうか? 男ならともかく女は長身が好きな奴はそういないと思うが」
「ならあいつは特別なんですよ」
「そっかな? まあいいや。今度ちゃんと話せよな?」
「・・・先輩がそう言うなら」
瀬川はどこか納得のいかない九重に微笑むと、再び本を読み始めた。そんな彼を一瞥し、九重は頭を掻いてめんどくさそうに部屋を出て行った。
甲板に出た九重が第一砲塔を見上げると、そこにはいつものように島風が座っていた。
「おーい島風」
「九重・・・?」
九重がハシゴを上って上に上がると、島風が待っていた。だが、その顔は一瞬優しげな笑みを浮かべたが、すぐに不機嫌に染まり口を尖らせる。
「今頃何よ」
「何って・・・」
「もうこんな時間だから、私帰る」
「お、おい待てよ」
島風は跳躍すると、颯爽と甲板に降り立ち歩き出す。そんな人間離れした動きを九重ができるはずもなく、九重は急いでハシゴを駆け降りる。
「ちょっと待ってよ」
九重が声掛けても島風は歩みを止めない。
「おい無視すんなよっ!」
九重は島風を止めようと彼女の腕を掴んだ。すると島風は手綱を引かれた馬のように静かに止まる。
「おいお前一体どういうつもりで――」
その先を言う前に、島風が動いた。
くるりと半回転して九重を向かい合う。
やっと自分の方を向いてくれたが、ここで一つ問題が起きた。
身長差二〇センチの二人の間にはどうしても高低差が生まれる。それが露骨に表れるのは視線の高さだ。
島風が普通に前を見ると九重の頭は見えず、逆に九重の高さからだと彼の視線はちょうど島風の胸の辺りにぶつかる。
つまり、今現在至近距離の二人が向かい合うと、九重の視線はかなり間近で彼女のふくよかな胸を凝視する訳で・・・
島風は硬直する九重を見た。その顔はありえないくら真っ赤に染まって何か一点を見詰めていた。その視線を追うと――自分の胸。
「え、エッチッ!」
「ごふっ!」
長身少女の渾身の膝蹴りを腹に受け、エロ少年(仮)はあっけなく吹っ飛ばされて甲板に倒れた。
元々艦魂はその気を出せば平均的な人間以上の力を発揮できる。さらに島風は何か修行をしている場合を除けば普通の艦魂よりも断然パワーが高い。大柄な体格のおかげだ。
一方逆に小柄の九重は平均的な男子よりも圧倒的にパワーも低けりゃ体力もない。しかも体重もすごく軽い方だ。
つまり、強力な島風の一撃を受けた弱小九重は、
「・・・っ・・・・っ!」
声にならない悲鳴を上げて九重は一撃必殺の技を受けた腹を抱えて悶絶して転がりまわっている。
そのあまりの悶絶ぶりにさすがの島風も罪悪感が湧き出る。
「ご、ごめん。そこまで強くするつもりじゃなかったんだけど・・・でもあんたも悪いんだからね! いきなり人の胸を見詰めるから・・・っ!」
「・・・っ!」
お前が勝手に目の前に出現させたんだろうが、とツッコミを入れたいが、激痛の為にできないでいる。
沈黙の悶絶をする九重を島風はあわあわと見届けるしかない。
ようやく痛みが引き始めて九重はゆっくりと立ち上がった。
「お、お前なぁ・・・」
「な、何よ。あんたが悪いんだからね」
「・・・もういいよ」
「え・・・?」
意外にもあっけなく引き下がる九重に島風は驚く。
視線を向けると、そこには力なくため息する九重がいた。
「・・・女に殴られて悶絶するようじゃ、おしまいだよな」
「あ、いや、その・・・」
珍しく落ち込む九重に島風は何と言葉をかけるべきか模索していた。
どんなに悪口を言われてもそれに耐えたり反論したりした九重だが、さすがに殴られたのはかなり堪えたのだろう。
「じゃあな・・・」
九重はそう言って反転してしまう。その予想外の行動に島風は目を見開く。
「ちょ、ちょっと待ってっ!」
島風は慌てて彼の手を掴む。そんな彼女の行動に九重は一瞬振り向くが、すぐに前を見つめ直す。
「離して。もう寝るから」
「ちょっと待ってってば! さっきのは本当に悪かったよ。ごめん」
いくら自分よりも小さい少年とは言え、九重は自分よりもずっと生きているし、彼なりのプライドなんかもある。そんなプライドを自分はどうやらズタボロに引き裂いてしまったらしい。
「ごめん。本当にごめん・・・」
「別にいいよ」
「いいならどうして離れるの!?」
「眠いから部屋に帰るだけだ」
「ほ、本当に? 気にしてない? 私のせいじゃない?」
その慌てる様子は彼女らしからぬほどかわいげで、島風が慌てる様子を見ているうちに、
「お前何してるんだ?」
おかしくなったのか、九重はクスクスと笑う。そんな彼の笑顔に島風は安心して笑顔になるが、すぐにその笑っている原因が自分だとわかり、恥ずかしさで顔を真っ赤にして激怒する。
「わ、笑うないでよッ!」
「お前、何純情娘ぶってんだよ」
「べ、別にそんなつもり・・・っ!」
「その身長で顔を真っ赤にされてもまったくかわいくないぞ?」
「う、うるさいわねっ!」
顔を真っ赤にしながら手をブンブンと振ってなんとも幼げに怒る島風を、九重はおもしろおかしそうに見詰める。
だが、その頬は少し赤みがかっていた。
口ではかわいくないと言ったが、普通に考えたら島風はスラッとした長身の美少女だ。行動が幼くてもその美貌がそれらを完全にカバーしてしまう。
あはははと笑う九重は一瞬島風から視線を外し、
「一瞬でもこいつにドキッとしちまった自分が恥ずかしい・・・」
「何か言った?」
驚いて振り向くと、そこには不思議そうに自分を見詰めている島風がいた。
「な、何でもねぇっ!」
「なら何でそんなに慌ててるのよ?」
「うるさいなっ! お前には関係ないだろ!」
「そんな言い方しなくてもいいじゃないっ!」
結局ケンカになってしまった二人だが、ケンカをしているというのに個々に分かれている時よりも生き生きしている。
決して嫌い合っている訳ではない。むしろ互いを好いているからこそケンカしていてもその言葉には憎しみなどは含まれていない。
――あるのは温かい互いを思う気持ちだけだった。
しばし言い合った二人だが、どちらからともなく笑いがこぼれ、それは二人を包む笑いとなった。
「こんなに言い合ったのは久しぶりよね」
「本当だな。お前も案外むきになるところがあるんだな」
「う、うるさいわね」
島風は顔を逸らす。明らかに照れ隠しだった。これには九重も気づき、
「お前照れてんのか?」
「誰が照れてるもんですか!」
またケンカになるかと思われた時、突如すさまじい汽笛音が響いた。それも一つや二つではない。
「な、何だ?」
戸惑う九重が島風に聞こうと彼女を見ると、そこには先ほどまでの人間らしい感情を全て捨てた侍の顔をした少女がいた。
「し、島風?」
「どうやら着いたようね」
「着いたって・・・」
九重が前方を見ると、そこには霧の中うっすらと水平線に横たわる大きな影が見えた。
「あれは・・・島か?」
「そう・・・あれが私達の目的地――キスカ島よ」
艦隊は敵海域だというのに敵と一度として接触する事なく無事に目的地であるキスカ島に到着した。
濃霧の中に浮かぶキスカ島はあまり大きな島ではなかった。あそこには自分達の助けを待つ約五〇〇〇人の兵達がいるのだ。
九重は急いで予定配置に向かった。
島風は再び第一主砲塔の上に乗る。すると横を走っていた旗艦・軽巡洋艦『阿武隈』の防空指揮所に一人の女性の姿を確認した。それは遠くからでもその存在感がわかるほどのオーラを放った凛々しい戦姫というべき腰元までかかるポニーテールをした島風と同じくらいの身長を持つ――『阿武隈』の艦魂だった。
体中からかっこいい女の輝きを放つ阿武隈は腰の軍刀をスラリと抜き、剣先をキスカ島に向けた。
それはまるで戦国時代の武将のような勇ましさだが、彼女から放たれる輝きはそれを清きものに変えてしまい、恐怖というものは感じられない。
艦隊の艦魂達が自分達の命を預ける彼女の命令を待つ。
そして、阿武隈の口がゆっくりと開く・・・
「野郎どもッ! 気張って行けやッ! 突っ込めえええぇぇぇっ!」
・・・阿武隈は結構キツイ性格をした艦魂だった。
「相変わらず阿武隈さんは気合の入った人よね」
島風は不敵に笑うと、迫るキスカ島を見詰める。
そろそろ島周囲に到着する時だった。急にまぶしい光が辺りを明るく照らし出した。霧が晴れたのだ。
これはかなりの幸運だった。島の周囲は岩礁などが多く、霧の中では接触事故が起きる可能性がある上、救助作業にも支障が出るからだ。だからこそ今この瞬間に霧が晴れたのは奇跡しか言いようのないものだった。
艦隊は島の沖に碇を下ろした。
すぐに救出作業が開始された。
大発(正式名称・大発動艇。大型の上陸用舟艇)が艦と陸を駆け巡り、ピストン輸送で兵達を次々に収容していった。
各艦の甲板には大勢の陸軍兵が溢れかえっていた。それは『島風』も同じで、甲板が見えなくなるくらいの兵達が互いの肩を寄り添って救助された事を喜んでいた。
島風が常にいる第一主砲塔は誰も人がいないので、島風はそこに依然立ち続けている。
甲板を走り回る海軍兵の中に九重の姿もあった。今この状況では兵も下士官も士官も関係なく必死に駆け回っている状況なのだ。何せいくら大型とはいえ艦種は駆逐艦。乗員の数はそんなに多くはないのだ。
走り回っている九重を一瞥すると、島風は天空を見上げた。
まぶしい太陽の光が地上に降り注ぐのは何かとても温かい感じがする。それはきっと太陽は全てを照らす光だからだろう。光の中で生きる自分達は闇に恐怖を感じる。だが、光の中で恐怖を感じる者などいないのだ。
まぶしい日の光をしばし見詰めていたが、再び九重が走っている姿を見つけるとそれを見詰めて静かに微笑んだ。
艦隊将兵が一丸となって救助に当たった為、陸軍兵の収容は急速に行われた。その結果艦隊は迅速に兵達の収容を終えた。
すぐさま敵地から退避する為艦隊は碇を上げて急いで撤退した。
出港直後すぐにまた深い霧に包まれ、艦隊はその薄暗い中を進んだ。
霧の中、艦隊将兵は少し気分が良かった。まさか本当に敵と一度として接触する事なく到着し、無事に収容を終えるとは思っていなかったからだ。
だが、まだ作戦は継続中だ。
無事に基地まで戻るのが自分達の任務だ。そこまでしてこそ本当の勝利と呼べる結果になる。
霧の中を進む艦隊の左側にいる『島風』は白波を立てて順調に進んでいた。
仕事が一旦終わった九重は第一主砲塔の上でぐったりと倒れていた。そんな彼の横には・・・
「情けないわね。ちょっと走り回ったくらいで」
疲れて浜に打ち上げられたくらげの如く倒れている九重をおもしろそうに笑う島風。
「お前なぁ、俺はこの『島風』一二〇メートルの中で何キロ走り回ったと思ってるんだ? 陸軍兵ならともかく海軍兵には辛すぎるだろうが」
「それは日頃から心身ともに鍛錬が足りないからよ」
「うるさいな。毎朝九時まで起きて来ないお前が言うセリフかよ」
「そ、それは関係ないでしょ!?」
「大ありだ。そんな時間に起きていつ朝の鍛錬をするんだよ」
「ゆ、夢の中で・・・?」
「アホかお前はッ! しかも何で最後が微妙に疑問系なんだよ!」
「私の勝手でしょ!? いちいち口出さないでよ!」
九重はもちろんだが島風自身も結構疲れている。なのに互いにケンカし合っている時はそんな疲れも吹き飛んでしまう。一体どんな現象なのだろうか。
だが互いの疲れはかなりのものであったようで、数分も言い合えば互いにくたくたになってしまっていた。
「もう今日はこの辺にしておきましょう・・・」
「あぁ、今日はもう休戦だ・・・」
互いに力ない声で休戦条約を結ぶと、ふと互いに笑いがこぼれた。
「今日は本当に疲れたわね」
「本当だよ。もうへとへとだよぉ」
「何言ってるのよ。軍人ならこれくらい当然よ」
「知ったふうな事言ってるけど、俺もお前も新米なんだからな」
「ま、まぁそれは置いといて」
明らかに視線を逸らしている島風に九重は苦笑する。
「かっこわりぃ」
「う、うるさいわね」
顔を赤くして不機嫌そうにそっぽ向く島風を見て、九重は嬉しそうに笑い続ける。
「何か、ここが敵地だなんて雰囲気じゃないよな」
「あんたがへらへらしてるからね」
島風も笑顔で返す。その返答に「かもな」と九重も笑いながら返す。
その後しばらく互いに沈黙し、波の音がザザーっと響く。
島風は目をつむって沈黙を続けていたが、ゆっくりと漆黒の瞳を開花する。
「九重。これからも傍にいてくれる?」
「何だよ急に」
「ううん。私はまだ生まれたばっかりだから、これから先も戦場を行き続けるでしょ? その時、隣にあんたがいてくれたら心強いと思ってさ」
島風は、至近距離から彼を見詰めていた。何かを期待するように、じっと目を輝かせている。
ドキリとして、九重は軽く身を引いた。
「な、何言ってんだ・・・お前にそんな乙女ちっくなセリフは似合わねぇぞ」
そう答えると、島風は眉をひそめ、口を尖らせた。無言のままに、九重の脇腹を肘で突く。
「あぐあッ」
不意打ちに、九重は思わず体を折った。すぐに島風に反撃しようとしたものの、島風は九重の手をすり抜けて、ひょいと離れてしまった。
「もう知らないッ! まったくもうッ!」
言葉面は彼を責めるものだったが、その口調は軽く、ほがらかだった。
そんな彼女を見てため息一つこぼし、九重はゆっくり立ち上がった。
その時、艦隊の上空の霧が一瞬だけ晴れ、金色の月の光が艦隊を照らし上げた――いや、一人の少女を輝かせていた。
島風は月の光の中、両手をめいっぱい広げながらくるりと一回転し、満面の笑みで彼を見詰めた。
その姿はまるで光り輝く天使のようで・・・かわいかった。
「九重! ずっと傍にいてよね!」
その言葉と笑顔に、九重は再びドキリとしてしまう。
彼女のかわいさに胸をときめかせるが、正直な性格ではない九重はわざとらしいため息をつき、
「お前自分の身長を考えてやれよ。似合ってねぇぞ」
「な、何よッ!」
月の下で顔を真っ赤にさせて怒る島風を一瞥し、九重は天空を見上げる。星空は今にも霧に隠れそうだった。
「ま、まぁ・・・お前が傍にいてほしいっていうなら――いてやるよ」
顔を赤らめながらぼそっと言う九重に、島風の顔から怒りが消え満面の笑みに変わる。
その正直じゃない姿がとてもかわいくて、島風は思わず彼を抱き締めてしまうが、その後九重が激昂したのは言うまでもない。
その後艦隊は無事に基地に到着し、任務を完遂させた。
キスカ島の無傷撤退は後に『奇跡の作戦』と呼ばれるほどのすばらしい戦果を残した作戦となった。
そして八月、米軍は誰もいないキスカ島に猛烈な艦砲射撃を行った後、兵力約三万四〇〇〇名を上陸する。だが、もはや存在しない日本軍兵士との戦闘に備えて極度に緊張した状態で進軍した為、各所で同士討ちが発生。死者約一〇〇名、負傷者数十名を出してキスカ島攻略を完了した。
その際日本軍はイタズラで『ペスト患者収容所』と書かれた立て看板を残していた(実は軍医某の策略だったりする)。これを見た米軍は一時パニック状態に陥り、緊急に本国に大量のワクチンを発注したという逸話もある。
キスカ島の奇跡は米軍を巻き込んでのすさまじい大勝利となった。
この作戦成功の要であった『島風』はその後船団護衛に従事するが、戦況が悪化した一九四四年にはマリアナ沖海戦とレイテ沖海戦の二つの大海戦に参加する。
だが、その年の十一月十一日、レイテ島西部のオルモック湾で米空母部隊の空襲を受けて沈没した。
戦後、『島風』の乗組員だったある青年士官がこう言っていたという。
――太平洋の海を翔け、激戦を戦い続けた武運の駆逐艦『島風』第一主砲塔には常に一人の長身の少女が立ち、風を体全体で感じていた。 そんな彼女の横にはいつも彼女とは反対に小柄な少年が立ち続け、いつも二人は話をしていた。
時にはケンカし、時には笑い合った。
そんな二人は最後の時も互いに手を握り合い、その手は決して離れる事はなかった。
そしてそのまま、少年と少女は『島風』と共に深い海の中に消えていった・・・と―― |