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断章
作:黒木露火


 まだ五年目とはいえこんな商売をやってると、初めて入ってきた客が上中下のどのランクなのかすぐにわかる。
 飲んでも誰にも迷惑かけることなく、いつもニコニコ現金払いの上客。
 中の客は、たまに暴れたり絡んだりツケを溜めたり、酒飲みだったら一度はやったことのある失敗をやらかすくらいで、たいした問題はない普通のヤツ。
 下は、それ以外の客のすべてだ。
 あかりをつけなくても新聞が読めるくらいに外はまだ明るい。店主の俺の他にだれもいない準備中のバーに入ってきた陰気な男が、下の客だということはすぐにピンときた。
 男は、汚れた昨夜のグラスを洗っている俺の前の席に座ると、硬貨を1枚ポケットの中から取り出してカウンターの上に置き、「コーラ」と言った。
 訂正だな。
 酔い覚ましならともかく、シラフのくせに酒場でコーラだけ頼むなんてのは、下の客じゃなくて、下の下の客だ。
 俺はビン入りのコーラを冷蔵庫から取り出してグラスに注ぎ、男の前に置いてせいぜい愛想よく笑ってみせたが、男は下を向いたままだった。
 こういう客もいる。いちいちムカついていたら身が保たない。俺は男を横目で見ながら、洗い上がったグラスを拭くことにした。
 俺の店はマルセイユでも観光客が気軽に来るにはあまり向かないところにある。安いことと、ビールの銘柄が揃っていること、英語が割と、スペイン語とポルトガル語がまあまあ通じることから、客は船乗りと兵隊が多い。近所のジジイやガキも来るには来るが。
 男は年のころ二十代後半といったところか。制服を着てないから兵隊じゃないことは確かだ。
 軽い上着に青いチェックのシャツにジーンズ。ありがちな服装だ。見ただけじゃ素性はわからない。ただ、この界隈では見かけないツラではある。
 男はコーラをちびちびと舐めるように飲んでいる。
 グラスを拭きおわったら、次は店内の掃除だ。五つあるテーブルに残っていたゴミを床に落とし、椅子をさかさまにしてテーブルに置き、床を軽く掃いたあと、モップをかける。やることはいくらでもある。
「そんなことまでやるんだな」
 男が小さな声で言った。フランス語ではなく東欧なまりのある英語だった。
 ひどく嫌な感じがした。
 この男とはしゃべりたくない。きっとなにかロクでもないことが起こる。
 だけど、それを悟られたらもっとロクでもないことになる気がした。こいつはそういうヤツだ。
「この店は俺ひとりでやってるんだよ。仕方ない」
 なんでもないふうに俺は肩をすくめてみせて、モップをまた動かし始めた。
「伝言がある」
 掃除に集中しようとしていたのに、なぜか聞き取れてしまう。
「彼からだ」
 もう床は拭きおわってしまった。小さな店だからな。
 椅子をテーブルから下ろす。荒っぽく、少しでも大きな音をたてて、男の言葉が聞き取れなければいいと思いながら。
「五年前あの事件の関係者を消してほしいそうだ」
 五年前――あの夜――ひどい雨。かみなり。赤いダイヤモンド。そして爆発。
 映画のようにフラッシュバックが頭の中をめぐる。気がつくと、俺は椅子に座り込んでいた。
「……そんなことか。もっとヤバイことかと思ったよ」
 なんとなくホッとした。
「大した仕事じゃないだろう?」
 男は吐き出す息に声を紛れ込ませるようにしてぼそりぼそりと話す。小さな声なので聞き取りにくいかといえば、そうでもない。
「俺は足を洗ったはずだぜ?」
「彼はあんたがそろそろ退屈し始めているはずだと言っていたよ」
「そんなこたねえけどなあ。結構、おもしろいもんだぜ、酒場のオヤジってのもよ」
 立ち上がり、店内を見回す。もうやるべきことは終わってしまった。
 ガラスのはまった木製のドアを固いもので叩く音がした。ドアの方を見ると、常連のジジイがドアの外に立っていて、急かすようにドアを杖で叩いていた。
「また来る」
 空耳のようにかすかな声を残すと、男は常連と入れ替わりに出ていった。
 いつものようになにかぶつぶつ言いながら入ってきたジジイは、戸口ですれ違っておいて挨拶のひとつもよこさない若造の後ろ姿に杖を振り上げ文句を垂れたあと、いつもの席に腰を下ろして、塩辛い声でリカールを注文した。

 目の前に道があるとする。
 途中、道が二股に別れていて、右に行けば目的地で、もう一つはどこに行くかわからない道だ。
 普通は目的地へまっすぐ行く道を選ぶのかもしれない。だけど、俺は昔からもう一つのどこに行くのかわからない方に行ってしまうタイプだった。
 学校の遠足でも、釣りをしてるどこかの年寄りに戦争の武勇伝を聞いたり、脇道の途中でウサギの親子が並んで鼻をぴくぴくさせているところを見たりしてるほうが好きだった。目的地に着いたころ、俺がいなくなったことに気づいた先生が探しに来たもんだった。
 親がわりの叔父さんや叔母さんや先生に何度怒られても、行く先の知れている道よりも、何があるかわからないわからない道の方にすごく面白いことがありそうな気がして、我慢ができなくなってしまう。俺はそんなこらえ性のない子どもで、それは大人になっても変わらなかった。
 かみさんと知り合って、子どもが生まれるまでは。
 少なくとも、そのつもりだったんだが。

「コーラ」
 男はまた開店前にやって来た。
「何度来ても無駄だよ」
 うんざりした表情を作りながら、栓を抜いたコーラをビンのまま男の前に置いた。
「俺は足を洗ったんだ」
「知ってるよ」
 昨日と変わりばえのしない服装と口調で男は言った。
 実は、俺は男が本当にまた来るとは思ってなかった。また来ると言っても来ないやつは多い。挨拶みたいなもんだ。
 だけど考えてみれば、やるかやらないかわからない相手への仕事の打診なら電話一本で済むことだ。あいつがわざわざ使いなんか寄こすはずがない。
「なんであいつはあんたを寄こしたんだ?」
 グラスを拭きながら尋ねてみた。
「知らない」
 男は表情も身体のどこも動かさず、ただ唇だけを動かしてぼそりと短く返事をした。
「なんで俺なんだ? 俺じゃなくても他にいるだろう? あいつのとこで仕事をやりたがるやつなんて、いくらでも」
「彼は、あんたにこの仕事をやって欲しいそうだ」
「うーん。よくわからんなあ。なんで俺なのかなあ?」
 俺なんてただの下っ端のちんぴらだ。かわりなんていくらでもいる。
「あんたが彼から信頼されてるからだよ」
 思わず手を止めて男を見た。顔はなんの変化もないように見えたが、声には何かが含まれていたような気がした。
「買いかぶられたもんだな」
 確かに俺はやつを裏切ったことはない。裏切ろうと思ったこともない。でも、それはただの偶然で、幸運だっただけだ。あいつが何を考えてるのかはわからないが、俺を復帰させたいのは本気らしい。
「あんた以外の残り四人が、今アムステルダムにいる」
「残り四人てえと、クリスとアディとあの色男……ええと、ブラッドだ。それとえらくいい女のドライバーがいたなあ」
「ブリジット」
 そういや、そういう名前だったな。あの女。
「なんだってあいつら四人揃って、アムスになんかいるんだい?」
「それはわからない。ただ、アールヴレズルがアムステルダムでオークションにかけられる。それを狙っているのかもしれないが、不明だ。受けるなら詳しい資料を渡す」
「なんだ? そのアー…ル……なんとかいうのは?」
「ダイヤだよ。赤い。あんたたちが五年前に盗み損ねたやつさ」
 そういえばそういう名前の石だったような気がする。
「ブリジットも殺すのかい?」
「そうだ」
「……俺が?」
「できれば」
 あんないい女を殺すのはジンルイノソンシツってやつだと思うがなあ。
「ブラッドとクリスも?」
「できれば」
「断ったら俺も殺されるのかい?」
「いや」
 男の返事は短かった。
 ブラッドとサシでやったら、殺されるのは俺の方だ。だからできればブラッドとやり合いたくはない。頭の切れるクリスも同様だ。正面切ってやりあうのは避けたい。
「……いいや。やっぱり断るよ。かわいい女房と子どもが家で待ってるんだ。まだ死にたくはないからな」
 ドアの方を見ると、昨日のジジイがドアの外に立っているのが見えた。
「だったらもうちょっとしたら家に帰ってみなよ。あんたも気が変わるはずだ……きっと、ね」
 男は立ち上がった。
「その気になったら連絡をくれ」
 言い残すと常連と入れ替わりに男は出ていった。携帯電話の番号が書きなぐられたメモがカウンターに残されていた。


すみません。この小説は未完です。
リレー小説の一部であり、その企画が途中で終了してしまったため、完成させる予定はありません。













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