ヘルペスに感染した。
それは性器に感染するタイプのヘルペスであった。初めは、亀頭と包皮の境に小さな傷が出来ただけだった。僕はマスターベーションを朝と晩の二度は最低でも欠かさない成人男子であったし、時間が余っている時は五回も六回も繰り返すので、この手の事はしょっちゅうあった。つまり、性器に負担をかける傾向にある人間だったという事だ。
放っておけば自然治癒すると思い、僕は放っておく事に決める。
しかし、いつまでたっても、その傷は癒える事なく、日に日に痛みを増していく。さらには、傷が増えていくのだ。包皮を中心に、水泡のような丸い傷が、赤い点となって、僕の性器を浸食していく。
僕は大学生だったので、その日は講義を受けていた。確か、社会福祉論という名のついた講義だったと思う。
バリアフリーについて、まだ若い三十代の講師が熱弁している時に、ついに僕の痛みは耐え難いものにまで発展した。
なかなかに大きな講堂であり、僕は中間くらいの列に座っていたのだが、出口まで歩く事が、その時の僕には、水分を失った状況で数百里先に見えるオアシスを目指して旅をするキャラバンと同じくらいの熾烈を極める。
ようやく扉を開けたところで、僕は廊下に倒れ込む。
股間を押さえ、悶え苦しんだ。金髪で濃い化粧の女子学生が、僕を怪訝そうに覗き込んでいる。僕は助けを求めようと思ったが、一体どのような救助支援が有効であるかが解らなかったし、そもそも女性に性器の激痛についての説明をする事に、この激痛に等しい恥辱を感じていたので、何も言わず、継続して悶え苦しむ事にした。
その女学生はしばらく僕を眺めたあとで、その場を去っていった。僕は彼女を特に恨む事はなかったが、出来れば男性か医務室の職員を呼んできて欲しいと願った。そして、何故それを彼女に要請しなかったのだという事に気付き、激しい後悔の念に駆られた。
僕は昔から、己の意思をはっきりと他人に伝える事が苦手な人間なのである。
その後、結局講義が終わるまで僕はその場で悶え苦しんでおり、講義の終了とともに講堂からゾロゾロと出てきた学生達の数名に助けられ、医務室へ運ばれる事になる。
そして結局、僕は医務室の職員に性器をさらけ出す屈辱に耐えねばいけなくなった。その職員は、白衣に身を包んだ三十代前半の女性である。
「あぁ、多分、ヘルペスね」
彼女は性感染症のへルペスについて語った。多々ある性感染症の中でも、自覚症状が最もストレートに伝わる種類のもので、痛みは放っておいてもひと月くらいすれば自然に消えるが、あたり前ながら泌尿器科に行ってキチンと治した方がいいという。
僕は礼を言って、ゆっくりとズボンを上げた。生地が僅かに触れただけで、それこそ失神しかねない痛みなのだ。
「ちゃんと避妊具使いなさいよ」
彼女は、僕にセックスのパートナーがいて、その人物から感染したと勘違いしていたが、面倒だったので、僕はその勘違いについて釈明はしなかった。
紹介された泌尿器科は全て診察時間を終えていた。つまり、僕は明日までこの激痛に耐えなければならないのだ。
フラフラになりながら、電車に乗った。手すりにしがみついていた。苛ついていた。電車が僅かでも振動すると、加速度的に股間の痛みが増していく。僕はその度、運転手を呪った。
恐らく、一週間前に行ったピンクサロンが原因だろう。僕には付き合っている異性がいないので、当然ながらセックスなど数年していない。
ピンクサロンは学割の効く風俗として、大学の友人達の間でも人気のスポットなのだ。
トランスミュージックが大音量でスピーカーから流されている薄暗い部屋の中で、客はいくつも設置してあるソファーのいずれかに案内される。そこへ座って待っていると、これはピンクサロンによってまちまちだが、大抵はセーラー服に身を包んだ女の子がやってくる。
申し訳程度の会話を楽しんだ後に、女の子は半裸、あるいは全裸になって、客の膝に跨って、キスをしたり、乳房を揉ませたりと、多種多様なサービスを行い、最後に口を使ったオーラルセックスをするというのがセオリーだ。これらは大体三十分の間に行われる。
その時、僕についたのは同年代の女の子だった。指名も可能だが、それには二千円の追加料金が必要なので、僕や友人のほとんどはフリーで通っていた。
薄暗いので、顔はよく見えなかったが、薄化粧の和製美人であったように思う。ピンクサロンで働いているにしては珍しい雰囲気だな、という印象があった。
そういえば、確かに彼女は辛そうに僕の性器をしゃぶっていた気がする。そうだ。あんまり体調が良くないの−ー。席に付くなり、彼女はそのような事を言っていた。
僕は家に帰ると、ベッドに倒れ込み、夕食も採らずに悶えていた。悶えながら、僕についたその女の子の事を思い出した。思い出せば、少しは気が紛れると思ったのだ。
名前は、ザクロ。そのピンクサロンは女の子に果物の名前を付ける事で知られている。
僕はザクロとした会話の記憶を断片的に蘇らせる。
「あんまり体調良くないの」
「そうなんだ。それじゃ無理しなくていいよ」
「ありがとう。優しいんだね」
「そんな事ない」
「優しいのはいいけど、心にも思ってない事ばっかり言ってると後悔するよ」
後悔していた。どうせなら、あらゆる無理難題をザクロに強制させるべきだった。それでもこの痛みに比べれば、まだまだ生温いはずだ。 「辛いの?」
「大丈夫。仕事だから」
そう。ザクロには接客力が欠如していた。恐らく、指名もあまり取れていないだろう。
僕は、ハズレを引いたと落胆していた。しかし、四千円も払っているのだ。射精にのみ神経を集中させる。
「お疲れ様」
僕の精液を口から辛そうにお絞りに吐き出すザクロに、僕は労いの言葉をかける。本来かけたい言葉は罵声であった。
「だから、心にも思ってない言葉ばかり言わないで」
つまらなそうに、ザクロはセーラー服を着て、僕の精液まみれのお絞りを抱えて下がる。
チェーン店のピンクサロンでは、終了時に女の子のメッセージが書かれたカードが渡される。
「心にもない事ばかり言わないで ザクロ」
ザクロはきっと何かに自棄になっていたのだろう。このカードを僕が店に提出したら、一発でクビだ。
冗談じゃない。僕はそんなふざけた接客を受けながら、このような痛みまで伝染されたというのか。僕はザクロを呪った。痛みが増せば増すほどに、呪いが比例して膨れあがった。
携帯が鳴る。大学の友人の一人の名前が液晶画面に表示されていた。僕はこの友人が苦手であった。何というか、物事を自分の意志の赴くまま、強引に進める傾向にある人間なのだ。
僕は、やはり彼のそういう強引さに、幾度も振り回されてきた。
「もしもし」
「お前、明日の合コン来れんだろ?八時に町田な」
「ごめん。体調崩しちゃって」
「あ?これねーの?」
「ごめん」
「はぁ?」
「マジごめん」
「てめぇが来れるっつったんだろ?責任とれよ」
苛つき−ー痛みが、普段よりもそれの増幅を助長させていく。
「だから、ごめん」
「マジありえねぇよ。頭数揃わなきゃ向こうのテンションさがんだろうが。てめぇがこれねーならキチンと代わり用意しろよ。てめぇと同じくらい数合わせに丁度いいやつ」
怒り−ー苛つきが初めて、それに昇華されていく。
「うるせぇよ」
沈黙。痛みが、瞬間、スッと引いた。
「あ?何だって?」
心臓の鼓動が猛スピードで速まっていく。不思議と心地良かった。
「うるせぇよ。
数合わせくらいてめぇで集めろ。その程度も出来ねぇで仕切りが文句言ってんじゃねぇ。俺が行けねぇのは不測の事態なんだよ。つーかてめぇにも責任あんだよ。グダグダ言ってねぇでさっさと集めろ。それから二度と俺に電話すんな。学校で会っても声かけんな。てめぇのツラ見んのはもうウンザリなんだよ」
先週、僕は自分の予定を反故にして、この友人に付き合い、ピンクサロンに行く事になったのだ。
「お前、次会ったら殺すぞ」
「殺せよボケ。何べんでも殺せ。それでてめぇとは終わりだ。せえせえするな。あぁ、そういやこないだてめぇが目ぇかけてたあの専門の女な、てめぇの事本気でキモいって言ってたぜ」
僕は通話を切った。痛みが戻ってきたが、先程に比べれば耐えられないという程でもない。
多分、僕は近い内にこの友人から暴行を受けるだろうが、特に恐怖は無くなっていた。そこで受ける痛みは、このヘルペスの足元にも及ばない程小さなものだろう。僕は携帯の電話を切って眠った。
次の日、泌尿器科で検診を受け、飲み薬と塗り薬をもらった。薬の効果は絶大で、僕の性器は一週間程で元に戻る。
そのさらに二日後、一日の全ての抗議が終了した講堂で、例の友人から様々な暴力を受けた。顔面を机に何度も叩きつけられ、顎に膝蹴りを食らい、腹を拳で殴られた。彼と僕とでは体格差がありすぎたので、僕は特に抵抗しなかった。
一通りの暴力を僕に加えると、満足したのか、彼は講堂を去っていった。僕は机にしばらく突っ伏した後、出口まで歩いたが、廊下に出た所で膝が折れ、仰向けに倒れた。
化粧の濃い金髪の女学生が、倒れた僕を上から眺めている。この前、ヘルペスに悶えていた時に、やはり僕を眺めていた女学生だ。
よく見れば、それはザクロだった。
化粧を施し、髪を金色に染め上げて、印象が大分変わっているが、確かにザクロだ。
大学生がピンクサロンで働くという事は、別に珍しい事ではない。
僕はザクロにどんな言葉をかけようか迷ったが、とりあえず、一番最初に思い付いた言葉を選ぶ事にした。
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