第七十七章 ひとつの恋の終わり
「じゃ、遠慮なく」
ペロッと殺したての獲物の生肉にしゃぶりつくトラのように、男は舌なめずりをしてリリアの胸元に手をかけた。そしてそのまま、一気に衣服を剥ぎ取ろうとした時だった――――
「あいだだだだ!」
突然、男の痛がるような声が夕焼け色に染まる空にこだました。
何が起きたのか一瞬のみこめなかったリリアだったが、今まさに自分を傷物にしようと雄の本性を剥きだしにさかっていた男が、何者かにより腕をひねられ掴み上げられているという状況が確認できたのである。
なんて情けないのか、男は苦痛に大声でわめいている。
「て、てめッ、どこの誰だか知らねーが、俺にんなことしてただで――」
「このまま腕を使いものにできなくされたいか? じゃなけりゃ、大人しく尻尾巻いて消えな」
「い、う……」
夕焼けが逆光になって、救世主の顔まではよくわからないけれど、その雰囲気が、そして何より胸躍る聴き慣れた声が、それが誰だかリリアに知らせてくれた。
「ちぃッ、くそ……」
勝てないと判断したようで、男はしぶしぶ引き下がることにしたらしい。それまでの何物も恐れないかのような威風堂々とした感じから一転、男はまるでいそいそと尻尾を巻いて逃げるハイエナのように、リリアにチラッと苛ついた視線を向けた後にどこかへ去っていった。
「立てるか?」
「……う、うん」
差しだされた、手。リリアはそれをきゅっと握りしめると、やさしく、そっと引かれて立ち上がった。
温かい、ぬくもりが心地よさを与えてくれる。繋がれた手と手が、安心感をもたらしてくれる。
やっと、恐怖から解放されたんだと実感した瞬間には、愛しさと安堵が一気に胸にこみあげてきて……
このやさしい温もりを持った手の持ち主に抱きつき、リリアはその頼りがいある胸に顔をうずめてわっと泣いた。
「怖かった、よな」
よしよし、と頭をなでられる。まるで、怖い夢を見て泣きじゃくる子どもを安心させるかのように。
「ぅ、……うんっ」
「俺がもっと早くにお前を見つけていれば、こんな怖い思いはしなくてすんだのに……ごめんな」
「……どうして、クロードが謝るの?」
勝手に宿から飛びだしたのは自分だし、どうかしてたとはいえ、あの男に好きにしていいと言ったのは他ならぬ自分なのだ。なのにどうして、助けてくれたクロードが、謝らなければならないの。
リリアは、まるで自分を責めているような複雑な表情のクロードに顔を向けると、ううん、と頭をゆっくり横に振った。
「クロードは、なにも悪くなんかない。悪いのは、私のほうだから」
「……リリア」
「勝手にジュリアさんに嫉妬して、あんな酷いこと言って、それから……気まずくて、逃げたくて、クロードを避けてきたもん」
「嫉、妬……?」
驚いたような、そんなクロードの瞳とぶつかって、リリアは思わず口をついてでてしまった本音に頬を染め、そしてふよふよと視線を泳がせた後にもう一度、クロードの胸へと顔をうずめた。
今度は安堵したからなんかじゃなくて、軽く告白じみたことを言ってしまった恥ずかしさからの行動である。
恋に鈍感なクロードも、さすがにこれには気づいただろう。そう思うと、よけいに羞恥心が膨れあがってしまう。
「あ、あのね……その、えっと……だからね」
頭が軽くパニックを起こしてしまい、今自分が何を言おうとしているのかさえだんだんわからなくなってきたリリアは、耳まで真っ赤にして小さなつぶやきをくり返す。
クロードは、そんな様子のリリアに首を傾げていた。
「わ、私……」
もう何が何だかわからなくて、リリアはクロードの胸から顔をあげると、ついに、今まで胸の中にしまいこんできた想いを声にだしてしまった。
「ク……クロードが好き!」
そう告白された時、果たして相手はどんな反応を見せるものなのか。とうとう愛の告白をしてしまったリリアは、もう戻れはしないのだからと腹をくくり、その時がくるのを待った。もちろん、その時とは相手のだす答えのことである。
ドキドキとありえないくらいに、心臓が早鐘を打ちながら脈動している。さらには変なところから汗がでてきて、顔全部が熱をもち始めた。
――ふるならふるで、早くふって。
じゃなければ、少しでも期待をもったりしてしまえば、未練たらたらでいつまでもキリがないから。だから、どうせふられるのなら、きっぱりとごめんと言われたい。
遅かれ早かれ、いつかはこんな日が来ることぐらい知っていた。そして、その結果も。……だから、きっと悲しくなんかない。覚悟は、もうできてるのだから。
案の定、クロードからだされた答えは、リリアの予想通りのものであった。
「……悪い」
と、一言だけの答え。だけどそれが、全てを物語ってくれた。
「うん、知ってる」
クロードにとっての一番は、大切な幼なじみのジュリア。愛しているのは、彼女なのだから。
彼女を救い出すために己の命も惜しまないクロードの想いの前に、リリアは今、完璧に失恋をしてしまったのだ。
「えへへ、きっぱりふってくれて……ありがとう」
だけど、ここで涙は流さない。
ふられてしまった心の痛手はずくんと疼くけど、熱くなった目頭に悲しさを含んだ涙は今にもあふれてしまいそうだけど、リリアは失恋の痛みを花のように可愛らしい微笑みにすりかえてはにかんだ。
まるで、それは太陽の下でにこにこと花ひらくひまわりのようで。とても美しく、儚げで……
「これで、すっきりしたから」
だからもう、大丈夫。
「ふふっ。これからはクロードの恋を応援するからね」
未練は、ない。あっては、いけないから。
「……私、先に宿に戻るね!」
精一杯の笑顔を見せると、リリアはクロードの胸から離れ、振り返りもせずに走っていった。
だんだんクロードとの距離が遠のいていく。視界の片隅を幻影のようにすぎていく広場の植木も、噴水から流れる水のせせらぎも、全部、遠のいていく。それは本当に、もうクロードが手の届かない人になってしまったことを改めてリリアに実感させているかのようで、熱く、そして切ない感情がリリアの胸を焦がすようにして生まれだし……。
「うっ……くっ、ひっく……うぅっ」
今日は、夕焼けがとても綺麗な空模様だった。その中で、頬を流れるキラキラときらめくしずくを拭いながら走る少女の後ろ姿が、とても色濃く映えていた。
その日、リリアは部屋にこもって一晩中泣き明かしたのであった。 |