第七十五章 クロエの秘密と心の痛み
――やっぱり、聞いちゃまずかったかしら……
今更後悔なんてしても後の祭りだけれど。とても気まずい沈黙に包み込まれてしまったこの空間は、自分の発した言葉により、まるで湯気が一気に冷却されてしまったみたいに寒くなった気がしてならない、と、ジュリアは密かに思った。
ここは暖かな浴室だというのに、癒やしの空間だというのに、急激に温度が下り空気が凍りついてしまったかのように、微妙な感覚にみまわれるのだ。
どうやら、コインの裏に刻まれていたあの名前は、クロエにとって禁句ワードのひとつだったようである。しかし、時既に遅し。言ってしまったのだから、もう後戻りすることも、なかったことにすることもできない。
――……はぁ、どうしようかしら。
というジュリアの心の嘆きも悲しく、クロエは押し黙ったまま一言も喋ろうとはせず、ジュリアもそれが気まずくて視線を鏡の中のライオンへとそらした。脳天気にぱっくり顎を広げてお湯を吐きだすだけのライオンは、本当にお気楽で羨ましい。
「「…………」」
今、大浴場内には湯気がたちこめ流水音だけが響き、なんとも言い難い雰囲気が充満してモヤモヤ漂っている。
「「…………」」
この沈黙が、痛い。
まるでなにか、見えない重圧にでも押しつぶされてしまいそうな感覚さえしてきたではないか。
悪いことをしでかしてしまった悪戯っ子のように、ジュリアは内心はらはらと焦りながら、この何とも言い難い雰囲気にじっと耐えていた。
やがて、気まずい沈黙を破るように、うつむき気味だったクロエが静かに言葉をつぶやいた。
「……コイン、見たんだね」
凛々しい瞳に埋め込まれた紫水晶が、今は弱々しい輝きを揺らめかせる。
「ええ、ごめんなさい……」
そんなつもりじゃなかった。なんて、そう言い訳しても意味なんてないことぐらいわかっていた。だから、無駄な言い訳はしなかった。というよりも、クロエの場合は言い訳したら後が怖いのだ。
――やはり、怒っているだろうか……
そう思うと、視線を合わせることがとても苦である。
「そう、か」
しかし返ってきたのは、怒っているというよりも、何か思い詰めているかのような少し物悲しさを含んだ返事であった。
こんなクロエを見るのは初めて。いつものどこかお姉さん風を吹かせた、まるで水のない砂漠に咲く孤高な一輪の花のように凛としたクロエはそこにいなくて。目の前でうつむく彼女は、ただ、視線をどこかに流したままそれきり口を堅く結んでいるだけだ。
これは、これは……
ジュリアは、クロエの横顔に不安の色を見てしまった。それは、いつも凛然としている彼女が、ふと見せた弱い姿であった。
「……ねぇ、クロエ」
――あなたはどうして、そうやって重荷をひとりで背負い込むの。
「胸の中に抱えている事、私に、話してちょうだい」
――きっと、力になってあげるから。
ときどき思うけれど、クロエは心配事をひとりだけで解決しようとする。誰にも頼らず、誰の助けもいらない。そうやって、心の弱い部分を他人には決して見せたがらない。
――そうして強がっていたって、悲しいだけなのに……
「私は、あなたの仲間よ。十数年連れ添ってきた、大切な大切な仲間よ。だから……あなたが背負っている痛みも、悲しみも、苦しみも……全部、分かち合っていきたいの。こんなのお節介かもしれないけれど、お願いよクロエ。私に隠し事なんてしないで」
ジュリアは真っ直ぐ、クロエを見つめてそう告げた。
少し前まで自分がそうだったように、きっと、クロエも誰にも言えない悩みを抱えて苦しんでいるのかもしれない。だから、それを分かってあげたかった。ずっとずっとクロエには助けられてきたから、今度は自分がクロエを助けてあげたかった。
「――“リオル・グランツェ・アース・フォルド・リガルド”……これは、あなたなの?」
――そしてあなたは、魔王に滅ぼされた王家の生き残り……?
すると、今の言葉に驚いたのか、クロエは大きく目を見開いた。心なしか、その華奢な肩はふるふると微動していて、一瞬だけ、ほんの少しだけ――泣きそうになって形相を崩したように見えた。
話して、くれる気になったのだろうか。しかし、そんな期待とは裏腹に、クロエは首を横に振る。
「……悪いけど、今はまだ、言えない」
でも、心配してくれてありがとう。と、クロエは小さく微笑をもらす。
その表情がどうしょうもなく切なくて、ジュリアは、ズキンと胸が苦しみ痛むのを感じていた。
「身体、冷えるよ」
そう言ってお湯に浸かりに歩いていくクロエの後姿に、さらに胸が締め付けられる思いになる。よけい心配がつのる。クロエが背中までお湯に入った後も、ジュリアはそんなクロエに視線を送り続けた。
サラサラゆれる短い黒髪の下、背中に刻まれた光の刻印。髪の毛先から背を伝う水のしずくは、まるで飛べない鳥の流した涙のようで。
翼を折られた鳥は、自由を求めて今日も空を見上げてもがく。いつの日かまた、自分の翼で優雅に大空を羽ばたける瞬間を夢見て。
所かわって、ここはブルーニという小さな町。古風な町並みのとてものどかな町である。ここから山一つ越えた先には雄大な平原が存在感抜群に広がり、そしてそこに王都がある。今や闇に荒らされ完全に死都と化した王都が近くに位置しているというのに、奇跡的にこの町にはまるで魔王の闇の影響がなかった。
初めは実に不思議だなと思っていたが、ようやく気が付いた。この町のすぐ傍には、神聖なる大森林があるのだということに。そう、おそらくこの町は、その森から何らかの加護を受けているのだろう。それを証明するかのように、先ほど立ち寄った中央広場には、聖なる森の守護神の像が堂々と奉られていたのだから。
クロードは“グリーンレイス”という古い造りのわりにはやけに豪華な宿屋の手配を済ませ、ゼルとリリアの待つ中央広場に向かって歩いていた。と、いうのも。買い物をしたいと言いだしたリリアにゼルが荷物持ちとしてついていくことになったため、クロードは先に宿を探しにいっていたのだ。
……それにしても。町中を歩いているだけなのに、やけに大量に飛んでくる桃色の視線が恐ろしい。
チラリと横目でその視線をたどれば、あちらこちらで女が輪を作って自分をちらちら見ながら何かはしゃいでいたり、すれ違う間際に頬をリンゴのように染めた女がうっとりとこっちを眺めていたりで、とにかくこれには正直鬱陶しいと思った。うっかり誰かと視線が合ったりしようものなら、そのままなし崩れに声を掛けられてしまいそうである。
仮にゼルならこの男としては嬉しすぎる状況に喜びまくるだろうが、クロードは全くと言っていいほど女に興味がない。
まあ、愛する女は別として。
それに今は、寄ってくる女達にかまっている暇も余裕もクロードにはなかった。
それというのも……いかんせん、足が重たい。
一歩一歩を踏み出すたびに、鉛でも括りつけているのかとつい突っ込みを入れたくなるくらい、この己の両足は広場……つまりはリリアのもとに行くのを躊躇っていた。
まあ、それもそうだろうが……。
リリアとジュリアの一触即発の事件があってからというもの、クロードはまともにリリアと口をきいていなかった。クロードの方はなんとか仲直りをしようと奮闘していたのだが、女を怒らせるとこれほど怖いのか、リリアは全くうんともすんとも言ってくれなかったのである。
あのやさしいリリアがこうなるのだから、余程ジュリアとのもめ事が後を引いているのだろうか。リリアの太陽の真下ではにかむひまわりのように可愛らしい笑顔も、ここ数日間は見ることさえなかった。
というか、そもそもリリアはなぜあそこまでジュリアに突っかかっていったのだろう。
「……わからん」
確かにリリアもジュリアに殺されかけたことには変わりないけれど、あの敵意の剥きだし具合は相当のものだったように思える。
女と女の睨み合いほど、末恐ろしいものはない。
「とにかく、リリアと仲直りしないと。……さすがに、このままじゃいられないよな」
クロードはそうこぼすと、今までため込んでいた息を吐いた。――リリアとは、ケンカしたまま別れたくなどない。
もうすぐミジェロ・アジェラの森に辿り着く。そこはリリアの目的地であり、おそらく故郷なのだろう。
初めて出逢った時にリリアと交わした約束は、リリアの持つ情報と引き換えに、リリアをこの森へと送り届けることだった。だから、森に着けばリリアとはそこでお別れかもしれない。むしろ、その方がいいとさえ思う。
自分はジュリアを闇から救うと心に誓ったから、魔王に戦いを挑まなければならない運命にある。でもリリアには、魔王と戦う理由はないし、それにそんな危ない真似はやめてほしい。命を落とさないとも限らないのだから。このまま無事に森に帰り、そして仲間達のもとで静かに幸せに暮らしてもらうのが一番いいだろう。
そうやって色々考えているうちに、クロードは少し前に仲間と一時解散した中央広場へと到着した。
キョロキョロ周辺を見てみるが、まだ二人は戻って来ていないようである。クロードは待ち合わせ場所の噴水前のベンチに腰掛け、ぼんやりと広場を駆け回る兄妹を眺めていた。もうそろそろ、二人も帰ってくる頃だろうと思いながら。
「待ってよぉ、お兄ちゃん!」
危なっかしい足取りで、真っ赤なワンピースを着たまだ幼い小さな女の子が、ひっしに帽子を被っている男の子を追いかけている。
兄らしき男の子は、今にもよろけそうな女の子に振り向くと、慌てたように横に手を振った。
「あ、クリスそんなに走ったら――」
「きゃあ!」
どてん。妹らしき女の子は、男の子を追い掛けて勢いがつきすぎてしまったらしく、少しでこぼこした石畳につまづき転んでしまった。そして、じわじわとくりくりの瞳に涙を浮かべだし、次の瞬間にはわんわん泣きわめく。
「大丈夫かクリス!? ほら、だから言わんこっちゃない」
男の子はクリスと呼ばれた女の子に駆け寄ると、腕をひいて立ち上がらせ、パタパタと砂埃を払ってあげる。
「さ、家に帰ってキズの手当てしようか」
「ずびっ……うん」
膝こぞを擦りむいた女の子は、泣きつつも鼻をすすり頷いた。擦りむけた膝は赤く血が滲んでいて、よく見れば手や顔にも小さな傷ができている。
仲良く手を繋いで歩いていく兄妹を見送りながら、クロードはささやかな兄妹愛にやさしく微笑んだ。
その背後では、噴水の中で悠然と翼を広げた大鷹の守護神像が、まるで今にも青空へと飛び立ちそうに羽ばたきながら太陽を見上げていた。
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