第七十一章 約束したから、さよならの言葉はいらない
冷たい夜風が頬をすり抜けて、風呂あがりの火照った身体を丁度良く冷ましてくれる。
クロードは部屋の窓から屋根の上にでていた。今部屋の中にはリリアとゼルがいるが、三人の間には言葉じゃとても表せないような微妙な雰囲気が流れていた。
このほぼ仲間割れ状態を作り出した、そもそもの原因を持ち込んだのは自分なのだけど、どうにも耐え切れなくなったクロードは屋根上に避難していたのだ。そこからはとても壮大で綺麗な夜の星屑の大海原が広がっていて、いつの間にか気持ちも落ち着きを取り戻し時間を忘れてそれに魅入っていた。
どれほどの時が経過したのだろうか。ふと気が付けば、背後に何者かの気配を感じた。足音はまったくせず、殺気も何もなく、ただ、静かな気配だけが感じられたのだ。
「……俺を殺しに来たのか?」
その背後にいるであろう人物に向かい、さらりとクロードは静かな口調で言った。すると――
「人聞きの悪いことを言うな。それに、残念だけど今はあんたを殺すつもりないよ」
夜に似合う凛とした声。まるで黒猫のような軽い身のこなしで現れたのはクロエだった。
「今がまさに絶好のチャンスだとは思う。でも、あたしは不本意ながらもあんたに助けられたんだ、今ここであんたを殺すような馬鹿な真似はあたしの騎士道に反する。だから今回は手を退いてやる。これで、貸し借りなしだよ」
「次ぎ会うときは覚悟しておけ――ってことか」
「そういうことさ」
クロエはそれだけ言い残すと、さっさとクロードの前から居なくなろうとした。
「あ、待ってくれ」
しかし、クロエの腕を掴みクロードがそれを阻止する。
「……なんだ」
掴まれた自分の左腕へと視線をすべらせ、機嫌悪そうな目つきでクロエはつぶやく。
「ジュリアは……その、彼女の背にはどんな刻印があるのかでいい、それだけ教えてくれ」
「それを知ってどうするつもりだ」
「ジュリアを救う」
今は休戦中にしろ、敵であるクロエにこんなことを喋ってしまっていいのか迷ったが、ジュリアに直接聞けなかったのでいたしかたあるまい。すると、クロエはクロードの手を振り払うようにして数歩距離を置くと、今度は逆にクロエの方から質問をよこしてきた。
「その前に、あたしからもひとつ聞かせてもらうよ」
「いいだろう」
「単刀直入に言う。あんたとジュリアの関係は?」
それは、大方予想の範囲内にあった質問だった。クロエだってずっと疑問を抱えていたはずである。ジュリアとクロードという敵同士の二人が、会った瞬間に二人だけの空気を取り巻いていたのだから。
ここは、包み隠さずに告げなければなるまい。
「俺とジュリアは幼馴染っていう間柄だ。でも十二年前、故郷に突如現れた黒い霧と暗黒騎士の集団によって村は滅ぼされ、俺たちは引き裂かれた。それから俺はジュリアが生きている事を信じて、こうして旅を続けていたんだ。そして……やっと再会できた」
「だけど、再会した幼馴染は敵だったってことだね。そりゃ、つくづく自分の運のなさを呪いな」
なんて冷たい物言い。とても興味はない様子で、クロエは口角を少し上げた。
「さ、俺はちゃんと答えたぞ。そっちも答えてもらおうか」
「そうあせるな」
クロエはあきれたようにため息混じりに肩を竦めると、静かな口調で真実を語りだした。
それはとても衝撃的で、残酷なジュリアの運命。
「ジュリアの背には闇の刻印ってものがあるのさ。それは暗黒騎士にされる者に必ず刻まれる、魔王に忠誠を誓う者の証。……ま、例外もあるけどね。それで、刻印を持つものはいかなる裏切りも許されない」
「……魔王を裏切ったら、どうなる?」
「そうだね――――“その身朽ち果て、永久の不死者と化す”」
「それはつまり…………不死騎士になるってことなのか……?」
不死騎士だなんて、そんな。自我を失い血肉を喰らうことしか頭にないようなあのグロテスクな化け物に、ジュリアがなってしまうというのか。そんな、そんな残酷すぎることがあっていいのだろうか。
クロエの口からその先の答えを聞くのが、もの凄く恐ろしかった。けれど、どうしても聞かずにはいられなかった。
「察しが、いいじゃないか」
やっぱり。決定的な言葉は言わなかったが、クロエの瞳はその現実をよく物語っていた。
しかし次の瞬間、深い色を奥に秘めた紫水晶に、光が灯る。
「でも、それはあたしがさせないよ」
「……あんた、一体」
何者なんだ。そう言葉にする前に、クロエは「もういいだろ」と背を向けると、ここは三階だというのに屋根から下へと飛び降りた。
なんて身が軽いのだろうか、なんて考えながら後を追うようにして下を覗いてみれば、そこには一頭の馬と馬車がいた。
それらはもうすぐにでも出発できそうな様子で、中にはクロエの姿が。
そしてもう一人…………
「ジュリア……」
クロードの唇から小さくもれた、最愛の人の名。しかしジュリアの名を持つ彼女にこの声は届くことなく、ゆったりとした足取りで馬が歩きだし馬車は動きだした。
やがて、遠ざかっていく馬車を見送りながら、クロードはいつまでも馬車の消えていった地平線を見つめていた。
「よかったのか?」
ガタガタと揺れる馬車の中、クロエがそう言ってこちらを見やる。
“よかったのか”――クロエの問いが何を意味してのことなのか、ジュリアにはすぐに理解できた。
「ええ、よかったのよ」
だから、そう答えた。
「ふうん、ならいいよ」
クロエはそれっきり、どこか遠くを眺めるような瞳で口を閉ざし、一言も喋ることはない。
きっと、クロエの指していたそれは、屋根の上からこっちに視線をよこしていたクロードのことだったのだろう。別れの挨拶をしなくてもよかったのか、と。
(少しさびしいけれど……これでいいのよ)
クロードに面と向かって別れなど告げてしまっては、それこそ余計にさびしさが膨らんでしまうから。それに、これは永遠の別れじゃないのだから。いつか、そう遠くない未来にまた会える。
クロードとかわした約束。必ず、助けに来てくれる。
だから待ってる。だから、悲しくなどない。
今宵は満月がとても綺麗な夜だった。全ての悪を洗い流し、清らかな神秘の淡い黄金で包み込んでくれるかのような、そんな風景だった。
この時、どれほど自分は幸せで浅はかだったのか。隣で月を見上げるクロエも、そして最愛の人との約束に希望を見ていた自分も。
これから待ち構えているであろう苦しく残酷な運命など、やさしい月に心満たされていたこの時は、まだ微塵も感じることなどなかった。 |