第七十章 リリアとゼル
「……ひっく……うっ……ぐすっ」
さっきから、こんなすすり泣く声が部屋中に響いている。
(お、起きれねー……)
廊下のあまりのうるささにすっかり目が覚めてしまったゼルは、ベッドの中でひとり嘆いていた。
――もの凄く、空気が重いんですけど。
それはもう、巨大な隕石に押しつぶされてしまいそうなほどに。そしてゼルはさしずめ蟻だ。そう、小心者の小さな小さな蟻んこだ。
「……うぅ、ぐすん……」
傷心して泣き止まないリリアを前に、片手をあげてよっお早う、なんてできるわけないし、したらしたで恐ろしい睨みを貰いそうである。なんて、タイミングの悪いときに目が覚めてしまったのか。
(……クロードのヤツめ)
それにしても、腹が立つのはクロードだ。何、敵の女と仲良くやっているんだか。そもそも、クロードだってジュリアとかいう女に殺されかけているわけなのに。
当然、普段はやさしいリリアがあそこまで感情を爆発させていたのも頷ける。
しかしこれは、ある意味チャンスではないだろうか。よーく考えてみると、もの凄い大チャンス到来のような気がする。だって何故なら、今リリアはクロードに振られたばかり……なのかどうかは曖昧なところだが、超強力すぎる恋敵に敗れて確実に心に傷を負っているわけなのだ。
そこへ、やさしい言葉のひとつでもかけてみろ。たとえたちどころに傷は癒えなくとも、リリアの中にある自分の位置が大きく一歩も二歩も前進することは間違いない。
――リリアを奪うなら、今しかないんだ。
言い方は悪いかもしれないが、この弱った隙にリリアの心をクロードから自分へと方向転換させることができれば、確実に手に入れることができるだろう。
あのむにっと弾力感抜群そうな胸の谷間に顔から突っ込めるのも、そしてぷくっとさくらんぼみたいに可愛らしい唇を余すことなく堪能できるのも、もうすぐそこというわけだ。
(だ――あ! ダメダメダメ! 何考えてんだ、オレ!)
ゼルは思考の中だけで、一瞬よぎった卑怯な考えを払いのけようと頭をぶんぶん横に振った。
とんでもない妄想。とんでもなく最低最悪。
そんな風に傷心した相手につけ入るなんて、何を馬鹿なことを考えてしまったのか。本当に最低だ。
ライオンが獲った獲物の肉をこそこそ横取りするハイエナよりも、卑怯で姑息。
(んなことしたら、それこそお頭にぶっ殺される……)
しかし、今目の前にはとても無防備すぎるリリアがいる。それも、少し引けばくらりとこっちになびきそうなくらいに傷心した様子で、しくしくと泣いているのだ。
悪魔が、意地悪な笑みを浮かべながら、力ずくでいいから今すぐ彼女を手に入れろよと誘惑する。
天使が、純白の羽をゆらして慈悲深い瞳を向けながら、それは男としていけないわと引きとどめる。
葛藤に頭を悩ませていたゼルは、ついに我慢できなくなって勢い良く起き上がった。
「かんっがえてらんね――――!」
バネのようにして跳ね上がりベッドから飛び降りると、ゼルはドアに寄りかかったままビクッと反応を示したリリアへと大股で近付いていった。
一歩一歩踏みしめるたびに床はギシギシと軋み、リリアは泣くことも忘れたようにゼルを凝視している。
ゼルはついにリリアとの距離をぎりぎりまで縮めると、そこに膝を折ってかがみこんだ。
「……ゼル、起き――」
起きてたの。そう言おうとしたリリアの腕を掴んで、その可愛らしく整った顔を自分の胸へと押しつけると、ゼルはリリアの頭に回した手をよしよしと動かして、いい子いい子と少々乱雑になでた。
「な、ななな――なあに? ゼル、どうしちゃったの」
いつものゼルとはかけ離れたこの行動に驚いたのだろうか、リリアは少し顔を赤く染めて、大きな瞳をぱちくりさせている。
「よーしよしよし」
「……はぁ?」
とか言いつつ素直になでられるあたり、なんともリリアらしい。
「ほら、リリアに涙なんか似合わないつーの。だからこうやって、オレがリリアが泣き止むまで頭なでなでしといてやるからさ」
にっと歯を見せ、ゼルはリリアに笑いかけた。
「それに、ひとりで泣くとさびしいだろ? やさしいゼル様が特別に胸を貸してやんよ」
このドキドキが、相手にバレないことを祈る。
「……ぷっ」
すると、得意げにするゼルを見てリリアが小さく吹きだした。
「なに、ゼルったら可笑しい」
「……人の好意を笑うな〜」
「うふふ、だってだって、ふふふ」
いつの間にか、リリアが楽しそうに笑ってくれていた。
――なんだ、ちゃんと笑えてんじゃん。
なんだろう、好きな子の笑い顔を見ていると、心が癒されるというか嬉しくなるというか。
不思議な温かい気持ちに満たされて、ゼルは幸せな気分になった。本当の本当に幸せだ。
そうやって笑い合っていると、突然ゼルの心臓が破裂するんじゃないかと思うくらいに跳ね上がった。原因は、リリアが笑うのをやめてじっとこっちを見つめてきたためである。
こんな至近距離で、過去これまで異性と瞳と瞳を交えたことなどもちろんない。ゼルの心拍数は一気に上昇をみせ、もうこれは左胸を突き破って心臓が飛び出してしまいそうだ。
「ありがと、ゼル」
危うくゼルの意識が恋の楽園に吹っ飛びかけた時、ふわりと微笑んでリリアがそうつぶやいた。
「い、いいってことよ」
照れ隠しにゼルはふいっと横に顔をそらすと、口笛を鳴らす。
しかしその口笛すらも、緊張のあまりヒューヒューとかすれた音しかでないという、なんとなく格好悪い有様。
(……もう、どーして俺っていつもこんなん……)
クロードみたいに、もっと格好よくありたい。顔はムリでも、せめて男らしさを半分わけてほしい。
しゅんとしおれたゼルだったが、次の瞬間、胸部になにやら大きくて温かくてやわらかい感触があたっていることに気がついた。
「――――!」
鼻血放出、出血大量。
むっちりむにっとしたその感触は、あの爆乳。まさに天から敬愛されし女にだけ授けされた、あの凶器だったのだ。それが、密着して押しつぶされていて、あられもない谷間をこれでもかというくらいに強調しているのだ。
「あ、ちょ、鼻血垂れ……って、やだ、しっかりしてよゼル!」
「むぅ……むにむにのぽよぽよ」
出血多量による貧血。なんて、格好悪いのだ、自分。でもこんなアホらしい最後なら、いや幸せな最後なら、とげてもいいかな〜なんて思ったゼルであった。
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