第六十三章 飛べない鳥
――油断、した……
クロエは瞬時にそう思った。
ジリジリと皮膚が焼けているかのような耐え難い苦痛、まるで内臓を溶かしていくかのようなそんな高熱が、身体中を支配して蝕んでいく。
――苦しい……熱い……嫌だ……熱い……
そうやって、もがいてもがいて、でもどうにもできなくて、ただ、胸を押さえてうめき続けることしかできなくて。
「ぅ……く……ハァ、ハァ」
これは、罪を犯してしまった自分への罰で、一生背負っていく事になった呪縛。
自分で決めたはずなのに、それなのに、いざとなったら、ものすごく死というものが怖い。
……いや、自分に生きるか死ぬという選択肢なんかないのだ。光を拒絶した瞬間から、自分にはもう永遠の時を生きるのか、それとも“消滅”という悲しい結末しか待ってはいないのだから。
死ねる人間はいい。たとえ死んでも、その時代を生きた証しが、存在していたという証しが、骨となって地中に埋められて残るのだから。でも自分は違う。骨も残らなければ、灰にもなれない。太陽にあたった瞬間にはもう、肉体が消滅して、存在が消える。そしてこの世に生きていた存在の証何一つ残らずに、魂だって共に消え去るのだ。
でも、そんな悲しい運命を選んだのは他ならぬ自分。あの時、王国が闇に染まると同時に己も闇に生きると決め、どんな罰でも受けると誓ったのだから。大切なお方の傍に使え、そして永遠に守り続けると願ったのは、自分なのだから。たとえ、この身に光の呪いを受けようとも、もう二度と太陽を浴びることは叶わなくなっても、あのお方に一生を捧げて守り抜くと決めたのだから。
だから、覚悟がなかったわけではない。ただ、ただまだ消滅なんてしてはいけない。ここで自分が消え去ってしまえば、誰があのお方のさびしさを分かってあげられるというのだ。
クロエは瞳を閉じ、忠誠を誓った主を瞼の裏に思い浮かべた。今でも鮮明によみがえる、あのやさしく屈託のない笑顔。それに、どれだけ救われたことか。
(あたしは、まだ消えちゃいけないんだ……)
生きたい。今、切にそう思う。
しかし残酷な事に太陽は、自分という忌まわしい存在をどこまでも嫌っているらしい。見事に、身体をいたぶってくれていた。せめてもの救いは、直接太陽の光を浴びてしまったわけではないということだろうか。じゃなければ今頃はとっくに消滅していただろう。
クロエは倒れこんだ木陰から、憎憎しげに空でさんさんと輝く太陽を睨みつけると、まるで弱って追い詰められた猫のような瞳を向けた。そしてそこから視線を少し離れた場所で倒れこんでいるゼルとリリアへと向けると、殺し損ねたことに苛立ち歯軋りをした。
――冗談じゃ……ないよ……こんなの
でも、今は殺すとかそれどころじゃない。命の危機に、こうして直面しているのだから。
クロエは徐々に弱っていく自分自身を感じながら、あまりにも不注意すぎた己を後悔していた。
そうやって、ほんの少し前まで好調だった記憶を辿りだした。
どこに、落ち度があったというのか。それはきっと、余裕で勝利を決め込んでいたから、それが少しの油断へとつながってしまったのだろう。
水の精霊ウンディーネの飛ばしてきた水球を全て破壊し、クロエの視界は白い霧で覆われていた。――この時、気が付くべきだったのだ。夜明けはもうすぐそこに迫っていたのだということに。
しかしそれに気が付かなかったクロエはここで一気にかたをつけようと、早まった。
「複数の水を凝縮させた球体を攻撃と見せかけ、それをまんまとあたしに切らせて霧で視界を遮るだなんてやるね。でも、あたしはこんなものじゃ動揺しないよ」
そう言って、クロエはピタリと動きを止めた。
濃い霧の中で、小さな水の粒子が肌に冷たい刺激を与える。その中で意識を聴覚だけに集中させながら、微かな音を探す。
すると、やっぱり聴き取れた。ウンディーネが、移動するときの僅かな音が。
それは初め少し離れた右奥からしていたが、やがて左へと移動し、そして後方へと遠退いていった。しかしすぐさまクロエの右横を通り過ぎ、また前方から左へと移動している。
どうやら、相手は自分の周りを取り囲むようにして徐々に近づいてきているらしい。
(……次は後ろだね)
そう推測し、クロエは炎を燃え上がらせた剣を弓矢のごとく投げ放った。
シュン――――と、一瞬ののち霧が晴れ、そして目の前には右胸と左胸の間に剣を突き刺されたウンディーネが出現した。
奇妙だが、どこか神秘的かつそれでいて美しい石像のようなその姿。まさに、どこぞの芸術品の出来上がり。胸に剣を突き刺した人魚は優雅に微笑をもらし、そして尾びれをゆらす。
思わず、感嘆のため息がもれた。
彼女は何も喋らず、ただ空宙でゆらめき、こちらを眺めていた。
まるで、苦しんでいる様子は見受けられない。剣にまとわりついていた炎も、ウンディーネの皮膚に触れたからか完全に消沈していた。
「簡単には、死なないよってわけだね」
明らかに、どうみても普通は即死だ。でも、さすがは精霊とでもいうべきだろうか。
『あたり前です。私は、こんな攻撃では滅びませんよ』
今度は精霊の反撃である。ウンディーネはやさしく慈愛に満ちた微笑を浮かべると、手のひらを天に向けてかざし、そして仰いだ。すると、たちまちの内に近くを流れていた谷川の水が終結しだし、空に膨大な量の水球を造りだしていった。その数、数千。
さすがにこれ全部を叩き切るわけにはいかないし、そんなことをしていては埒があかない。
「しょうがないね、それじゃ、もうケリを付けようか」
手元に剣がない今、闇魔法よりも炎魔法でウンディーネもろとも全ての水球を破壊するほうが手っ取り早い。クロエは紫水晶の瞳に殺戮者の本能を灯し、炎の大魔法の呪文を詠唱しはじめる。
それは現代語ではなく、解読不能な古代語。クロエ自身も意味の分からない部分が多いが、それでも口はしっかりと呪文を唱えていく。頭で考えているのではなく、本能的に口が、声がそれらを読み上げていくのだ。
やがて、次々に降り掛かってくる水球を軽いステップでかわしながら、呪文の詠唱を終えたクロエは、今までにないくらいの莫大な力のみなぎりに今だったら何でも出来るかのような気分になってきた。
「いくよ。最大級の炎をくれてやる」
胃が、ものすごい高温の熱気を生み出していく。一言喋るたびに、喉が焼けるように熱い。吐いた息は灼熱を帯ており、内から燃え上がる活力に身を振るわせた。
まだまだ水球の群れは空を占めている。それこそ、何千何万という無限大に今も増え続けているのだ。それらをウンディーネは意図も簡単に操り、次々と数百単位で差し向けてくる。
――もう、あんたは終わりだ。
その瞬間、勝利を確信した。フッと不敵な笑みを水の精霊に向け、そして腹の底から灼熱の火炎を吐いた。
まるでドラゴンの吐く火炎のように凄まじい威力。空に浮遊していた水球は一瞬のうちに地獄の業火に焼かれ、跡形もなく消滅した。離れた上空に浮いていた水球すらも蒸発させる威力だから、それを直撃で受けたウンディーネも無事ではないだろう。
今や水の精霊は灼熱の炎にその美しい身を焼かれ、もがき苦しんでいるはずだ。あとは、フラウのように消滅していくだけ。
炎を吐くのをやめたクロエは、豪快な炎の渦にまかれたウンディーネから視線をはずすと、いつの間にか地面に落ちていた自分の剣を拾った。
血は、一滴も付着してはいなかった。その代わり、銀の刀身にはきらきらとしたクリスタルのような薄い鱗の欠片が数枚付着していた。
それを一枚指で掴みあげると、はらりと地面へ落す。すると、水の鱗は地面に転がってあっというまに水滴へと早変わりしてしまった。
「さて、残ったのはあんたらだ」
そうつぶやき、クロエは鋭い視線をリリアに向けた。
風の精霊を召喚してゼルの傷を手当てしていたリリアだったが、いつの間に力尽きたのかくったりと横たわり、呼び出していたはずの風の精霊も姿を消していた。ゼルはどうにか命を取り留めているようだが、無駄な努力だったとあの世で嘆くといい。
この二人をわざわざ剣でやることはない。このまま、火炎で焼き払ってしまおうかと思い立ち、呼吸を大きく吸おうとした時だった。
「……そういえば忘れるところだった」
王都を離れる前にイリスから告げられていた事を思い出し、クロエはいったん攻撃を断念する。そして足音も立てずにリリアの傍へと歩み寄ると、少し腰をかがめ腕を伸ばしてグリーンの髪を掴みあげた。
「あんたはさ、生け捕りだったんだ。このまま半殺しにしてもいいけど、別にあんたに何の恨みがあるわけでもないからね」
「……う」
髪を掴まれたリリアは苦痛の表情を見せ、小さく、弱々しい声をもらした。
「でも、こっちの男は用無しだから死んでもらうよ。折角頑張って助けてたのに、残念だったね」
まるで、何の哀れみも情けもこもってはいない口調。実際、何の同情も感じてはいないのだから仕方ない。
そうして、クロエは剣先をゼルの心臓部分にあてがった。
本当は火炎で焼き殺そうかと考えていたけれど、どのみちここまで近くにいるのだし剣で心臓を一突きすればそれで終わるのだ。こんな男一人やるのに、わざわざ魔力を消費するのはもったいない。ジュリアのように、膨大な魔力を持っているわけじゃないのだから。
「……次ぎ生まれてくるときは、せめて平和な時代にしなよ」
今まで手にかけてきた者全てに言ってきた言葉を、口にする。こんな時代じゃなかったら、きっともっと別の人生が待っていただろうに。
そして、クロエはゼルの左胸に垂直に構えていた剣を突き刺すために下ろそうとした。
ところが、剣が肉を突き破って脈動する暖かな臓器を貫く事はなかった。
「――――!」
一筋の光が、山間から差し込んできたのだ。その瞬間にクロエはぱっと身を庇うようにして大きな木の木陰に飛び退き、次々と差し込んでくる朝の日差しから逃れようと必死に森の奥を目指した。
よろよろと木の幹を支えにして歩き、迫り来る太陽から身を隠す。でも、いくら息を吸っても苦しい。身体が熱い。
とうとう全身から力という力が奪い去られたかのように脱力し、クロエは木陰の草むらに倒れこんでしまった。
――そうして、今に至るというわけだ。
……太陽を裏切り飛ぶことを剥奪された鳥は、それ以上太陽に近付くことのないように翼を折られてしまった。
……背に刻まれた刻印が、ズキズキ痛む。
自分はもう、太陽を願ってはいけない。近付きたくて羽ばたこうとしても、羽ばたく為の羽がない。
闇の底からではなく、光差す地上から見る太陽の姿はどんな風に映っているのだろうか――……
手を伸ばしてみても、決して掴むことのできない光がもどかしい――
「……悲しいよ」
クロエはゆっくりと瞳をおろすと、苦しみと痛みに意識を手放した。 |