第五十章 ゆれるゆれるジュリアの想い
もう、戻れはしないのよ。楽しかった、あの頃になんて――――……
時は逆巻きになんか戻らない。どんなに戻りたいと願っても、帰りたいと叫んでも、歩いてきた道のりはもう戻ることなんてできない。たとえ過去を振り返ることはできても、懐かしむことは許されても、そこへ帰ることは決して許されない。
だったら、歩くしかない。自分を未来へと誘う道しるべに沿って。運命は、クロード・レインとジュリア・ライナス、自分達二人のこれから歩くべき道を、光の差す明るい道と闇の覆う暗い道へと別けた、というただそれだけのこと。
クロードはその明るい光の下で大切な仲間を見つけ、そして自分は魔王様に出会った。
明かりもない暗くて怖くて淋しい闇の道。挫けそうになっていたこの心に差し込んだ一筋の光は、魔王様の御心だけだった。縋った。縋りついた。だって、闇という孤独の中で、唯一自分の存在を必要としてくれたのだから。それが殺戮の人形だったとしてもいい、都合のいい手駒だったとしてもいい。ただ、必要としてくれるのなら、なんだってよかった。
でも、クロードに再会して、何かが変わった。それまであった何かが、亀裂が入り、音を立てて崩れようとしている。
もう、本当は自分でも分かっていたのかもしれない。クロードが、自分にとってどんな存在なのか。そして、自分はどうしたいのか。
でも、気付かないフリをしてきた。だって、それは魔王様を裏切る行為だから。
自分がこうなったのは、闇に染まってしまったのは、魔王様のせいだ。それは間違いなく。でも、今まで必死に縋りついてきた心の寄りどころを失うのは、たまらなく怖い。
勇気なんて、踏みだせない。また一人きりになるのは――……嫌。
だから、もういい。クロードを見て、見つめられて、こんなに不安になってしょうがないのなら、心が壊れてしまいそうなのなら、もういっそ終わらせてしまおう。
自分の中をかき乱すこの男の存在を、自分の中から、記憶の中から追放しよう。
その存在が、どうしようもなく膨れ上がってしまう前に。
「貴方は悪くないわ、クロード。ただ、生まれ持った運命が悪かっただけ。だからせめて、次に生まれる時は幸せになって」
それくらいは、願っても罰はあたらないでしょう?
普通の幸せな家庭に生まれて、育って、素敵な相手を見つけて、可愛い子どもを授かって、そうやって、一生を幸せに過ごして。
――私のことなんか、お願いだから忘れて。そうじゃなきゃ、私、私は…………
ジュリアは深呼吸をすると、放心したように立ち尽くしたままのクロードを見据えた。
視界に映る紅蓮の炎が、ゆらゆらと揺らめく。まるで空にひるがえるオーロラのように、暗い色合いの夜空に映えて美しい。
ジュリアはその手に力を込め、炎の刃に全魔力を注ぐ。そして、一気に地面に振り下ろした。すると、まるで炎獄の業火から生まれ出でたかのような炎の龍が、荒れ狂う炎の大波と共に大地を這い、牙を剥き、尾を打ち鳴らし、クロードを仲間もろとも焼き払おうと包みこんだ。
凄まじい熱風が吹き荒れ、顔全体が焼けるような熱さに思わず数歩後ずさる。少し離れた場所で拘束されて動けずに倒れていたクロエも、さすがにこれには耐え切れないといった感じである。
馬達は怯えきって、前足を振りあげ狂ったように嘶きながら、ばらばらに森の中へと走り去っていった。
傍の木々はあまりの高温に葉が焦げて灰となり、跡形もなく焼け去る。
これをくらっていては、人間など骨も灰も残さずに消滅するであろう。実際、ひとつの集落を焼き払った時はそうだった。後に残るのは、ただの焼け野原。
――終わった。もう、何もかもが終わった。
そう思った瞬間、身体中から力という力の全てが抜けてしまったみたいに、ジュリアはガクンと膝から崩れ落ちてしまった。
未だ燃え盛る炎の大渦をぼんやりと眺めながら、頬を一筋、何かが流れ落ちるのを感じた。でも、指で拭うこともできず、ただただ流れ落ちるままに瞳を閉じた。
――瞼の裏に映るのは、クロードのやさしい微笑み。耳に聞こえるのは、湖で初めて再会した時に言ってくれた、「戻れないのなら、これから共に歩んでいけばいい」という彼らしい言葉。
そうできるものなら、そうしたかった。でも、それは出来ない。光と闇はいつの時代も相反するもの。そう、決して共にあることなど出来ないから。
だからせめて、今だけ、今だけは。彼のことを想って涙を流す事を、どうかお許しください……
薄い雲が、弱い風に乗って漂う夜の空。いつの間にか月は雲の裏に姿を隠されていて、月明かりを失った夜の風景は、寂しくて、悲しげで。
ただ、彼岸花のように深紅に立ち昇る炎と火の粉だけが、なぜか印象強く、記憶に刻み込まれていきそうだった。
「……さ、帰ろうか」
光の束が解け、自由になっていたクロエが、ジュリアに言葉を投げかけた。クロエからしてみれば、自分と敵であるはずのクロードが知り合いだったのだから、たぶん言いたい事は山ほどあるはず。でも、今は静かに見守ってくれるだけだった。
「ええ……そうね。アイリーンも、スターシャも……逃げてしまったわ、ね」
探しに行かないと……。そう独り言みたく呟いて立ち上がろうとした時だった――――
炎が、それまで轟々と燃え盛っていた炎が、一気に水蒸気となって飛散したのである。
そして同時に、白い煙の中から現れたのは、白銀と水色のヴェールをその身に纏った人魚。まるで天から舞い降りてきた天女の衣のように、ひらひらと宙になびく尾鰭。また、太陽のように神々しい光を放ち、たちまちのうちに見る者を釘付けにするような黄金の波を連想させる髪。聖なる雰囲気を存分に放出しているこの人魚こそ……――水を司る精霊、ウンディーネ。
正直驚いたというよりも、戸惑った。甘く見ていたのだ。クロードのことも、そして精霊使いの少女のことも。
少女はいつの間に精霊の力を取り戻していたのというのだ。それも、召喚したのは上級精霊のうちの一体。くわえて、初級の風の精霊が一体。――二体同時召喚をやってのけたのだ。
さすが、聖王家の血筋とでもいうべきだろうか。これなら、魔王様が欲しがるわけもわかる。――目的は、別にあるのだけれど。
「クロードは……クロードは貴女なんかに殺させないんだから!」
少女――リリアが手をクロスさせたまま叫んだ。可愛らしい顔をしているのに、その口調は敵対心まるだしのどこか棘々しいものだ。蒸発で薄れてきた煙はもうずいぶんと晴れてきて、そこには、風の紋様が描かれた球体の半透明な膜に守られたクロードや仲間の姿があった。
――生きていた。
終わらせるつもりだったのに、忘れたかったのに。
――どうして……ねぇどうして、そうさせてくれないのよ。どうして……どうして…………私は安心しているの。
「ぃ……き……てた」
自然と、ジュリアの唇から小さな吐息が漏れた。
サッと即座に剣を構えるクロエが視界の端に映る。リリアがこちらを睨むように見つめているのがわかる。クロードが自分の名前を叫ぶのが聞こえる。ウンディーネが、水の精霊魔法を撃とうとしているのが、見える。
キラキラと水の粒子のようなものが輝きながら、七色の鮮やかな虹を奏でる。ウンディーネの手のひらへと集まってきた粒子は、長細い発光体を形成していき、やがて――――
「ぼんやりするなジュリア!」
「――ッ」
クロエの怒号に、ハッとした時にはもう遅かった。
ウンディーネの手から、すごく綺麗でそれでいて鋭い水の槍が放たれたのだ。
動けなかった。まるで、この世のものとは思えないほど美麗な女神に視線を奪われたかのように、ウンディーネから放たれるオーラに、息を呑む。
そして、水の槍がすぐ目前まで迫ってきた時、ジュリアは初めて全身でゾクリと身震いをした。
「こんなもの、相殺させてあげるわ」
「――ッ、やめろジュリア!」
クロードの声を無視し、ジュリアは水の槍に正面から立ち向かう。両手を大きく広げて魔力を高め、精神を集中させ、そして一気に両手を交差させた。すると、地面の砂や石粒を巻き上げながら、瞬間的に、凄まじく激しい烈風の竜巻が出現した。
竜巻は水の槍と衝突し合い、豪快な冷たい水飛沫が飛散し、まるで嵐の中心部にいるみたいに荒れた気流を生みだした。
まさかここまでになるとは考えてもいなかった。想像を絶する荒れ狂い模様に、クロエは剣を土に突き立てて踏ん張り、ジュリアも同じようにその場でなんとか耐えていた。
が、突然えぐれた地面が浮き上がり、フワッと心臓に悪い浮遊感がジュリアを支配しだす。
そのままなすすべなく上空へと体を煽られ、様々な物が巻き上げられている竜巻の中へ――――
このままでは、切り傷だらけになってしまう。それどころか、死ぬかもしれない。
その時、体がなにか温かでたくましい感触に包み込まれたかのような気がした…………
「大丈夫。お前は、俺が守るから」
なんて、幻聴かしら。と、ジュリアはぼんやりとした意識の中で思った。
こんな状況の中でも彼の声を、彼を求めているだなんて、どうかしている。
しだいに霞みゆく視界、意識。
きつく、守られるようにして抱きしめられているのは、きっと、気の、せい。
ジュリアは重たくなる瞼に逆らうこともせずに、なぜか安心する心地良い感触の中で、意識を失った。
クロードは、腕の中で眠るように気を失ったジュリアを、大切に大切に抱きしめた。
竜巻の中は本当に悲惨で、もう背中なんて切り傷だらけだろう。腕や足にも木の枝や石粒が飛来してきては刺さったり、傷を付けていく。
痛いとかもうそんなのはない。たぶん、麻痺してしまったのか。ここらへん妙に冷静になれる自分に、なんだか拍手を贈りたくなる。
ジュリアが竜巻に巻き込まれそうになった時、死ぬほど心臓が縮こまった。お願いだから行かないで、と泣きながら腕を放そうとしないリリアを悪いと思いながらも振り解き、クロードはジュリアの傍へ走り寄ると、体を引き寄せて抱きしめた。
嵐のような竜巻から、ジュリアを守るために。
そうこうしているうちにクロードとジュリアはぐんぐんと上空に巻き上げられ、身動きもできないままに、ふと体が軽くなった。
と思った次の刹那――――竜巻から放り出された二人は、抱き合ったまま暗い谷底へと落下していった。 |