第三十九章 揺らぐ心
「どうしてこうなるのかしら……」
背中にクリスの重みを感じながら、ジュリアは先程からもう何度目かもわからない溜め息を吐いた。
「お馬さん、早い早い〜」
「こら、落ちるから騒ぐなよな」
「む〜」
うるさい。正直鬱陶しい。
スターシャに跨るジュリアの後ろでは、バタバタと暴れているのか、兄妹の喧嘩口調の声がする。今更降りろと酷なことは言わないが、せめて静かにしていてくれないだろうか。――疲れる。
陽は既に西に沈みかけており、さっきまで青かった空も今では全体的にオレンジが霞んできていた。時どき頭上を巣に帰っているであろう黒い鳥がバサバサと羽ばたいては、アーアーと鳴きながら飛んでいく。もうじき夕刻も終わり、すぐに夜が訪れるだろう。
――本当に、どうしてこうなってしまったのだろうか。
今更嘆いたってもう遅いが、嘆きたくもなるというもの。ああ、クロエの怒った顔が薄っすらと夕焼け空に浮かぶようだ。後であやまらなければ。許してくれるか分からないが、とにかくちゃんとあやまろう。
そもそもどうしてこんな状況になっているのかというと。
あの後、追い払っても追い払ってもスターシャのお尻を追いかけてくるこの兄妹に、結局ジュリアは根負けしたのだった。いくら帰れと言ってもかたくなに頭を横に振り続けた子どもらに、ジュリアは何故帰りたくないのか理由を訊ねてみた。すると、グレンデルが白状した。なんでも、魔物が怖くて二人だけでは町に帰りたくないという。
呆れた、ならばどうしてここまで来たのだろうか。魔物が怖いのなら、最初から大人しく町にいればよかったのに。と、つくづくそう思った。
グレンデルは父親の仇討ちだとか言っていたが、とてもじゃない。山賊相手に子どもが向かっていっても、殺されるか奴隷商人に売りとばされるに決まっている。それに、山道でこの子らが一回も魔物に遭遇しなかったのさえ奇跡といえよう。
それにしても、相変わらず、背中越しに賑やかだ。
「暗くなると魔物が増えだすから、襲われたくなければ黙っていてくれないかしら」
ジュリアはうるさい子ども達に言った。静かにして欲しいという願いもあったが、これは本当のことである。魔物は多くが夜行性なのだから。
「「……はーい」」
今の忠告が効いたのか、騒がしかったクリスとグレンデルはそれから一言も喋らなくなった。ただ、ぎゅっとジュリアの腰を握るクリスの指には力がさらにこめられた。
クロエの待機していた場所に戻ってみると、案の定クロエの反応は予想通りのものだった。
子どもを見た瞬間、あからさまに嫌そうな表情になったクロエ。たぶん、これは子どもが嫌いだからという理由だけではないと思う。きっと、ジュリアのこの失態に関して少なからず怒っているのだろう。
言葉にして出さずとも、子ども二人を連れて帰ってきたジュリアに、どういうつもりだ、というクロエの鋭い視線が突き刺さる。
――やはり、怒っている。
とにかく、まずはこの二人を連れてくることになった経緯を話さなければ。
と、思っていた矢先、ジュリアよりも早くクリスが叫んでしまった。
「あー! ここにもお馬さんがいるー」
さらに追い討ちをかけるのは兄。
「ほんとだ。でもなんかコイツに比べたらえらく貧弱そうな馬だな」
そう言って、馬鹿にしたような笑みを浮かべてアイリーンを見るグレンデル。注目の的となったアイリーンは、心外だ、とばかりに鼻を鳴らした。ちなみにグレンデルの言ったコイツとは、雄々しいスターシャのことだ。
ジュリアが、お願いだからじっとしていてちょうだいなんて思っても、空気の読み取れない子ども達は興味津々にアイリーンに近づいていった。
「その子は私の愛馬よ。頼りなくて悪かったわね」
確かにスターシャと並んでしまえば貧弱に見えてしまうが、これでもアイリーンはれっきとした騎馬だ。他の馬に比べたら気品も品格もある。スターシャが逞しく野を踏み鳴らす馬ならば、アイリーンは優雅に駆け巡る馬、といった感じだ。
子ども相手に、疲れた、といった具合にため息を漏らせば、傍の木に寄りかかっていたクロエがこちらを見もせずに言った。
「そんなことはどうでもいい。それよりもジュリア、まさかあたし達の使命を忘れたわけじゃないだろうね」
声色は、何の感情も含んではいないように聞こえる。だが、クロエの場合それが逆に怖い。
「おかしなこと言わないで。……忘れてなんかいないわ」
そう、忘れるわけなんてない。でも、もし忘れてしまえたらどんなに楽だろう……
「ふーん。だったらいいさ」
クロエはそう呟くと、さっさとスターシャに歩み寄って鞍に跨った。そして、アイリーンを観察していたグレンデルへと視線を投げかけた。
「こっちは待ちくたびれたんだ、すぐ出発するぞ。おいそこの小僧、早く後ろに乗れ」
「う、うん」
慌てながらもクロエの元へ走っていく少年を眺めながら、ジュリアはクロエの意外な態度にぱちぱちと大きくまばたきをした。まさか、子どもを受け入れてくれるとは思っていなかったのだ。寄せ付けないことはあっても、自分から馬に乗せるなんて、正直驚いた。
でも、町に着くまでジュリア一人で二人の面倒を見るつもりでいたのだから、これでずいぶんと肩の荷が軽くなった。
「さ、クリスも早くいらっしゃい」
「はあい」
ジュリアはクリスを抱えてアイリーンの背中に乗せてあげると、自分もクリスを後ろから抱きかかえる形で腰をおろした。これで、馬を飛ばしてもクリスが落ちてしまうことはないだろう。
こちらの準備を待っていたのか、クロエが顔だけ振り向いていて、いいわよと頷いて合図をすると、勢い良くスターシャが駆けだした。遅れないように、アイリーンも後に続く。
空を見上げれば、そこは綺麗な星の海。夕方の名残はもう消えてなくなってしまっていて、紺のカーテンと光輝く月が夜空を静かに彩っていた。
耳に聞こえるのは、馬蹄の規則正しい駆け音だけ。振動でゆられるたびに、栗色の髪が風に掬われる。
「ねぇお姉ちゃん」
そんな中、ジュリアの胸に寄りかかるようにしていたクリスが小さくささやくかのように呟いた。
「お姉ちゃんは、騎士さんだよね」
騎士さん。それはきっと、ジュリアの剣と格好を見てから思ったのだろう。
「そうよ」
前方のクロエの姿を眺めながら、ジュリアは答えた。
「だったら、悪い人いっぱいやっつけるの?」
「…………」
「お姉ちゃん?」
見上げてくる純粋無垢なクリスの瞳。濁りの一切ないその水晶のような瞳。
悪気のないこの子どもの質問が、ジュリアの胸に深く突き刺さった。それはまるで、洗練された槍のように鋭く、天然氷みたいにひどく冷たく、容赦なく心に負った傷口を広げていく。
「…………私は」
返す言葉がでてこなかった。自分は、一体何なのだろう……
クリスの思っているような、悪党を成敗する正義の騎士などではない。自分は、魔王の命さえ下れば、たとえ何の罪もない人々をも殺める冷酷な存在。これまでだって、数え切れないくらいの命をこの手で奪ってきた。
それだけに、穢れを知らないクリスの瞳が、ジュリアにはまぶしすぎて耐えがたかった。自分が、とてつもなく穢れているかのような錯覚に陥ってしまいそうで、つい視線をそらす。
「ねぇ、クリスのお願い聞いてくれる?」
「……ええ、何?」
「あのね、お兄ちゃんやクリスの代わりにね、お父さんを殺した悪い奴をやっつけてくれる?」
にっこりと微笑むクリス。
「そうね、約束するわ」
「本当!? ぜったいだよ、約束」
そう言って嬉しそうに笑ったクリスに、自分は今ちゃんと微笑み返せているだろうか。
複雑な想いはかき消えることを知らずに、ジュリアの脆い心の片隅で、まるで渦を巻いて溶け込んでいくかのよう。
夜の冷たい風を頬に感じながら、胸にすやすやと寝息をたてはじめたクリスの体温を感じながら、ジュリアは星空にすべてをゆだねるように瞳を閉じた。 |