第三十八章 ジュリアと少年
「うぉりゃあ!」
「――!」
草藪からナイフ片手に突然飛びだしてきた子どもの姿に、ジュリアは一瞬目を見開いたが、すぐさまナイフを握った手ごと子どもを横に払った。一応手加減をして、怪我をしないように剣の平面でだ。すると、子どもは受け流された勢いでズシャアアと豪快に地面にダイブした。
「いってぇ……」
片手で起き上がりながらもう一方の手で頭を押さえる子ども――見た目12歳くらいの少年だ。なんとも、擦りむいた膝こぞが痛々しい。
それでもまだ懲りないのか、少年は立ち上がると再びナイフをこちらに向けて前に突きだしてきた。
でも、ナイフを持つその手は小さく震えていて、ものすごく頼りない。さすがに、こんな子ども相手に命を取ろうなんていう気はおこらなかった。
「…………」
こちらに危害を加えない限り、こちらもこれ以上は手を出さない。それに、少年の瞳には戸惑いや恐れの色が少なからず滲んでいるようだし、とてもこの子が本気で人を殺せるようには見えない。
ジュリアは剣を下ろすと、少年に冷ややかな流し目をした。そして、黙ってスターシャに跨ろうと少年に背を向けた。しかし――――
「……逃げるのか」
ジュリアの背中に、押し殺したような声色の少年の言葉が投げ掛けられた。
――逃げる? いいえ、違うわ。
ただ、こんな子ども相手にわざわざ剣を振る必要などないと判断しただけ。無駄な血は流さない方がお互いのためでもある。
少年の言葉を無視して、ジュリアはスターシャの鞍に手を掛けた。それに、こんな所で無駄な時間を潰している暇なんてないのである。
「おいこらッ」
――相変わらず、うるさい子どもね。そんなに命が要らないのかしら。
「うるさいわ」
あまりに相手がしつこいので、ジュリアは少年を振り向いて静かに言い放った。少し、怒りの感情を込めて。だが少年はひかない。汗ばんだ右手でナイフを握りしめたまま、下唇を噛み締めてこちらを睨んでいるのだ。
――これだから、子どもは苦手なのよ。
「うるさい山賊め! 父ちゃんの仇だ、ぶっ殺してやる!」
「……何か勘違いしているようね」
少年の口から飛びだしてきた山賊という言葉に、ジュリアは呆れたようにため息を吐いた。いや、実際呆れ果てていたのだから仕方ない。山賊だなんて、自分のどこをどう見たらそう見えるのだか。そもそも、あんな薄汚い連中と一緒にされたくはない。
話にならない、そう思ったジュリアは、今度こそスターシャに跨ろうとした。
が、とある異変に体の動きを止めた。何か、おかしい。
(何かしら……)
微かに風に混じって漂うのは血生臭い鉄の臭い。そして先程明らかに子どもに対して脅えていたとは考え難いスターシャの反応。実際今もスターシャは頻りに辺りを警戒している。
ジュリアは抜いたままだった剣をシャキッと煌めかせ構えた。
――何かが、近くに潜んでいるわね。
少年はジュリアの殺気を含んだ視線が自分に向けられているものだと勘違いしたのか、ぶるりと身震いしながら一歩後退した。
「や……やれるもんならやってみやがれ!」
叫ぶ少年。ジュリアは少年目掛けて間合いを詰めると、ひっと竦みあがった少年には目もくれずに後ろの草藪へと剣を横一線に切り払った。
「――え」
シュッという風を切り裂く音が耳に響く。その瞬間、真紅の血しぶきがまるで噴水のように宙に飛散した。返り血が、ジュリアの頬を残酷に赤く染める。
きょとんとした表情の少年は、今の一瞬で何が起こったのか理解できていないようで、目に薄っすらと涙の膜をはって固まっていた。
「ただの魔物ね」
ジュリアは血の滴る剣を一振りして、刃先につく血を払いながら薄く微笑んでみせた。
「え……って、うわぁ?!」
後ろにある首を切り落とされた魔物の死骸にようやく気が付いた少年は、驚きのあまり情けない声をあげてから腰を抜かす。ポスッとお尻から地べたに座り込むその姿は、やはりまだ幼い子どもというか。
「……立てるかしら?」
オロオロしている少年が少し可哀想になり、仕方がないので手を差し伸べてあげる。
すると、少年はこくこくと頷いたが、しかしまだ放心しているようで固まったままである。
「あ……姉ちゃん、山賊じゃ……」
「ないわよ」
ピシャリと否定して、まだ言うのねこの子どもは。と、短く息を吐いた。
と、その時茂みがまたゆさゆさと揺らめいた。よく見れば、そこからゆっくりと赤茶色が見え隠れしているではないか。
「……あら」
つぶらな瞳と目が合った。その怯えた瞳に涙をたくさん潤ませ、固く結んだへの字口。
「お兄ちゃん!」
そこに隠れていたのは、9歳ほどの小さな女の子だった。
「クリス」
頭の両端でくりんと結ばれたツインテールを跳ねながら、クリスと呼ばれた女の子は兄に抱きついた。
怖かったよおと泣きじゃくる妹を、兄はポンポンと頭を撫でて安心させている。この光景、見覚えがある。昔、ジュリアもクロエによくこうやってもらっていたのだから。
思わず頬が緩んだ。すると、今度は自分を見つめる少年の黒い瞳と目が合った。なぜか、少年は頬を赤く染めている。
「姉ちゃんってさ、よく見ればすんげー美人さんだな」
何を言い出すかと思えば、そんなことを少年は言った。
「あらありがとう。ジュリアよ」
美人だと言われて嫌なわけはないが、別に嬉しいわけでもない。美人、という単語は、幼い頃からもうずっと聞いてきた。おかしな話しだが他人の珍しい物を見るみたいな眼差しにももう慣れている。だから今更どうこうという感覚はない。こんな時は、ただありがとうと述べればいいだけなのだ。下手に謙虚な発言をしようものなら、憧れの眼差しは妬みに早変わりすることも承知している。
「へぇ、俺はグレンデル。で、こいつは妹のクリスティーナ。みんなはクリスって愛称で呼んでるよ」
何を慣れ合って自己紹介なんてしているのだろう。と、我に返ったジュリア。これ以上この子ども達に関わるのは避けたい。しかし、どうやらクリスはジュリアを帰してはくれないらしい。
「ジュリアお姉ちゃん、お兄ちゃん助けてくれた〜」
少しオレンジ色が混じったような茶色、同じ茶色でも自分とは違って温かみを感じるつぶらな瞳で、あろうことかクリスはジュリアの腰に抱きついてきたのだ。無意識にビクリと肩が跳ねた。小さい子にこうされたのは初めての体験で、ジュリアは正直戸惑ってしまったのである。突き放しても、いいのだろうか。それとも、どうしたらいいのか。
「こらクリス、姉ちゃん嫌がってるからやめろよ」
「え―」
困るジュリアに気が付いたのか、グレンデルがクリスを引き剥がしてくれた。
ほっと胸を撫でおろし、やっと変な緊張から解き放たれたジュリア。結局、その後しばらく妙に懐いてきたクリスによりジュリアは足止めされ、気が付けば太陽は既に真上よりもやや西よりの位置になっていた。
そろそろ本当に戻らなければ。夕刻過ぎには再びクロエとこの山を抜けなければならないのだ。
ジュリアは傍に待機させていたスターシャの背に乗り、そして兄妹を振り返った。
「それじゃ、私は行くから。あなた達も暗くならないうちに帰りなさい」
もういっちゃうの?というクリスの寂しげなつぶやきが聞こえたが、それは聞かないふりをしてスターシャの手綱を引く。
ザクッザクッとテンポの良いリズムを刻みながらゆっくりと歩きだしたスターシャ。スタスタと付いて来るややテンポの早い足音二つ。――まさか。
ジュリアの不安は的中していた。やはり、スターシャのお尻を追い掛けるようにして兄と妹が付いて来ているのだ。
「……まだ何か用なの?」
溜め息が自然にもれてしまった。 |