第三十三章 ゼルと銀の薔薇のピアス
「そういや、クロードは?」
ベッドから床に降りようとしながら、ゼルがリリアに尋ねた。すると、リリアはにこりと愛らしく微笑んで、窓の外を指差した。
「……外?」
ゼルは痛む傷にはかまわずに、床をギシギシいわせながら窓まで歩み寄ると、白いカーテンを開いて窓の外を眺めた。
第一に視界に飛び込んできたのは、青々とした空。ああ、そういやここは二階だった。と理解して下に視線を落とせば、そこにあるのは芝生の上で愛剣を磨くクロードの姿だった。ちなみに庭には綺麗な花壇や植木なんかがあり、テリーの几帳面な性格を良く表していた。
クロードは二階の窓から覗くゼルにはまだ気が付いていないようだ。その証拠に、背を向けたまま一心に剣を磨いているのだから。時折クロードがひらりと剣を回すので、小一時間ほど前にでたばかりの太陽の光が、それを浴びた剣先にキラリと反射してまぶしい。
ゼルはすぅぅとお腹に息を吸い込み、大声でクロードを呼ぼうとした。
だが、庭の隅にある姿を確認したゼルの大声は「クロード」と発せらることはなく、代わりに違う名前が発せられた。
「ガルベス!」
あまりの大声に、剣を磨いていたクロードと、庭の片隅に丸まっていた黒毛の塊が同時にびくっと反応した。それはそれは、もう面白いくらいに揃っていた。
「ガールーベースー」
もう一度、ゼルが庭隅の黒い塊にそう声をかけると、それはむくっと起き上がって元気良くこちらへ駆けてきた。馬の鬣みたくサラサラの黒い毛並みを風になびかせ、パタパタと尻尾を振りながらやって来たのは、テリーの飼う黒い狼のガルベスだ。
いきなり至近距離に現れたその狼に、地面に座っていたクロードはうっと身構えていた。それもそのはず、ガルベスは狼といってもただの狼ではないのだ。つまり、魔物なのだ。体躯は一般的な狼のそれとは比べようがないほど大きく、軽く子牛程度はある。おまけに、口からは二本の長く鋭い牙が顎まで突き出ているものだから、ガルベスに慣れない者だととても怖いはずだ。
「わはは、クロード怖がってやんの」
「べ、別に怖がってなんかないぞ!」
とか言いつつ、クロードは警戒したままやはりガルベスから目を離さない。心なしか、声が上擦っているような気もする。
ガルベスはそんなクロードには目もくれず、窓から身を乗り出すゼルに向かってガルルと嬉しそうに唸った。
「おーよしよし、元気だったかぁお前。なんか、体つき少し逞しくなったような気もすんな」
「ギャウ!」
ゼルに褒められたのが分かるのか、ガルベスは舌を出してハッハッとやりながら、青い空に向けて高らかと遠吠えた。
「きゃ、可愛い〜」
「だろだろ!」
多少の痛みはあるもののもうずいぶん動けるようになったゼルと、楽しそうにガルベスの毛並みを触るリリアの姿が、昼時になったテリーの家の庭にあった。よく手入れされた芝生の黄緑色に、これまたよくリリアの綺麗なグリーンの髪が似合っている。
「ふふ、くすぐったいよガルベス」
どうやらガルベスはリリアがお気に入りらしく、さっきからずっとペロペロと舐めている。手や頬やしまいにはマシュマロみたいに柔らかそうな胸まで。ゼルにはこの時ほどガルベスを羨ましいと思ったことはない。リリアも、くすぐったいとか言いながらされるがままに喜んでいるのだから。
――触りてえぇぇ……
そんな気持ちが、火山の噴火口でボコボコしているマグマのように、次から次へと沸き起こる。
あのたゆんたゆん揺れる胸の谷間に、一度でいいから顔を挟まれてみたい。たとえサンドイッチになって窒息して天に昇天しても、それは男の本望ってものだ。
だけど、そんなことをしたら谷間に顔を埋める前に、リリア本人からきつい一発をもらうことぐらいは予想がつく。きっと、しばらくは口もまともにきいてくれないだろう。いくら気持ちがマグマみたいに沸いても、結局は何にもできやしないのだ。ただ、熱が引いていくのをじっと待つだけ。
(ああ、情けねぇよな……オレって)
がっくしと、肩を落す。阿呆みたいに、ため息を吐く。しかしガルベスに夢中のリリアは、そんな様子のゼルになんて気付いてもくれない。
まあ、ガルベスはメスだから許してやろう。もしこれがオスならば、力ずくでもリリアから引き剥がしているところだ。
黄緑色の芝生の上で、ガルベスは寝転んでとうとうお腹までさらしだした。もうすっかり、ガルベスはリリアの虜になっているらしい。
「ようお二人さん。昼飯できてるぜ」
そこへ、テリーがやってきた。すると、それまで芝生に背中を擦りつけていたガルベスが元気に飛び跳ね、テテテとテリーの元へ駆けて行った。そしてクーンと鼻を鳴らし甘える仕草を見せる。
「さあ、中でゆっくりお前の話も聴かせてくれよ」
そう言って、テリーはゼルを見た。相変わらず、格好良く洒落た微笑をするもんだ。
「うっし、どうしてもってんならしょうがねぇ。オレの武勇伝、たっぷり聴かせてやんよ」
それよりまずは腹ごしらえだ。
「ね、ほら早くいこっ」
歩きだそうとしたゼルの腕を、リリアが軽く握った。ご飯冷めちゃう、なんて言葉を口にするその顔は、にこにこした太陽にも負けない笑顔。
こんな風に、なんの前触れもなしにときたま急接近してくるリリアに、ゼルの心臓はドキリと鼓動を速めるのだ。今だって、相手に聞こえてないか心配になるほどに胸がバクバク鳴っている。
「お、おう!」
ひっくり返りそうな声で、これを言うのがたぶん限界。せめて顔が赤面していないことを祈る。
それにしても、一応こっちはケガ人ということをリリアはちゃんと覚えているのだろうか。どうも、忘れられているような気がしてならない。
クイクイ引っ張られる形で、ゼルはついつい前のめりになってしまった。それでも小走りに、転ばないように頑張りながら家の中へと戻っていった。
薄く切りそろえられたハムを、これまたいい感じに切られたパンに挟む。そして、皿に盛られた他の卵や野菜といった他の具材を一緒に挟め、特製のソースをかけて口に運ぶ。
アルバロお手製の昼食をとりながら、ゼルはポケットからキラリと光る小さな装飾品を机の上に置いた。
「なに? それ」
その装飾品が机の上に置かれるまでの一部始終を見ていたリリアが、きょとんとした表情で言った。
「ん? ああ、ピアス」
「へぇ……綺麗」
リリアは興味深げにピアスを掴み取ると、左手の平に乗せて観察しだす。うわぁ、とか、はぁぁ、とかとにかく口からでるのは感嘆のため息だ。
それもそのはず。なぜならそのピアスは、とても美しい外観をしているのだ。曲線を描いて銀色に綺麗に光るピアスには、なんとも繊細な薔薇の彫刻が施してある。乙女の心を魅了するには、十分すぎるものである。
「おや……それは」
同じテーブルを囲ってコーヒーを口に含んでいたアルバロは、驚いたような、それでいて遠くを眺めるかのような複雑な表情で、リリアの左手の上にあるピアスを見つめた。
「あぁ…………そいつは姉貴の形見だ」
そこへ、いつからいたのかテリーが壁に背を預けたまま頷いた。
「形見……? じゃあ、テリーのお姉さんは……」
少し沈んだ雰囲気に、リリアもそっとピアスを机の上に戻した。しばらく、沈黙が流れた。
――テリーの姉貴…………エルダ。
ゼルはピアスを手に取ると、椅子から立ち上がり、俯き加減で壁に寄りかかったままのテリーに握らせた。
「……何のつもりだ」
訝しげに、テリーは顔を上げた。その眉間にはしわが寄っている。
「ずっと、これお前に渡さねぇとって思ってた。だけど別れ際……渡しそびれたからさ。ほら、受け取れよ」
「ふざけるな」
「……んなッ、テリー」
「それは姉貴がお前に託したものだ。お前がもっとけ」
テリーは握らされたピアスを、強引にゼルへと突き返す。しかし、ゼルはこのピアスを取らなかった。
「オレには……それを持つ資格なんかねぇ」
そして、未だテリーの手にあるピアスを悲しそうに見つめた。
「はは……オレは臆病者だから。戦場から逃げ出したオレに、それを持つ資格はねぇよ」
――お頭の大切な形見を、こんなオレなんかが持っていていいはずない。
相応しいのは、弟であり、そして副頭までつとめたテリーのはずだ。
――お頭……
(オレ、情けないよな。時々さ、本当にこうやって呑気に生きてていいのかも、もうわからなくなることがある)
――あの日あの時あの瞬間。
もし、お頭を引きとめていたら…………
――……オレは……――
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