第二十九章 兄と妹
暗雲渦巻く荒空の下で、リリアの口から飛びだしたのは思いもよらぬ言葉だった。
「兄様……?」
にわかに信じられなくて、クロードはもう一度小さくその言葉をつぶやいた。確かに、リリアの口からは“兄様”という言葉が紡がれたのである。兄様、それは、血縁関係上の兄を指すのだろうか。
「ほう。随分と見知った顔があると思っていたのだが。リリア、やはりお前だったか」
イリスはそう言って口許に薄い笑みを浮かべた。しかしそれは実にわざとらしいもので、到底己の妹に向けるようなものとは思えないほどである。
「兄様こそ。脱獄してどこへ行かれたのかと思えば……魔王に取り入っていたなんて」
(脱獄? 魔王に取り入る?)
もう、何がなんだかあまり状況が飲み込めない。リリアとイリスの間では話がきちんと成立しているのだろうが、明らかに外野であるクロードにはまったく話の内容が掴めなかった。それはたぶんゼルも同じで、ポカンと口を開けたまま二人を見ている。
「あなたって、本当に最低よ」
リリアがキリッとイリスを睨むと、睨まれたイリスは心外だ、という風に片眉をあげた。
「人聞きの悪い事を言うでない妹よ。私は魔王様(あのお方)の闇の心に惹かれたのだ。あの深き闇のお心は実に偉大だ」
それに……、とイリスは言葉を繋ぐ。
「私はお前達のように、光に使えることなど出来やしない。むしろこちらから願い下げだ。私が望むものは、闇の世界なのだからな!」
「なにが闇の世界よ! 魔王はただ、人々の希望も、喜びも、生きる気力さえ奪い去っているじゃない! 私にはどうしても兄様の望む世界が理解できないわ」
普段のやわらかな印象からは想像もつかないほどに、その声を荒げて叫ぶリリア。
そんなリリアから、どこか脆くて儚い悲しみが伝わってくるようで、知らぬ間に、クロードは固唾をのんでその光景に魅入ってしまっていた。
「理解など必要ない。その前に、貴様ら虫けらは全員死ぬのだ」
イリスは悠々と黒く濁った大空に両手を広げ、高らかと笑った。この大地に響くこの耳障りな笑い声が、どこまでもクロードには人を見下したものにしか聞こえなかった。そう、この男は、見下しているのだ。自分達という小さな存在をどこまでも。
――くやしい。
クロードは強く握りしめた拳をわなわなと震わせ、大空に浮かぶ異形の悪魔を見上げた。
未だにビリビリと震撼する大気。そして、オーロラのように紫と黒の光のカーテンがゆらゆらと波うつ魔方陣。あれから、なにか途轍もない嫌な感じを体中に流し込まれている気がしてならない。なにか、何かとんでもなく異様な気配が、まじまじとあふれているのである。
まだ身体はびくりともしない。指の一本さえも、大きすぎる恐怖に神経を押しつぶされて動かすことができない……
――あれは、本当に精霊という存在なのだろうか……? ノームやシルフィー、他の精霊とは比べ物にならないほど邪悪で、気色悪くて不気味だ……
半分潰れかけの赤くて鋭い小さな眼がギョロッと動き、そしてクロードの瞳とぶつかる。
大きく裂けたグロテスクな口から発せられる奇怪な鳴き声は、思わず鳥肌がたつほどにこの世のものとは思えぬほど恐ろしげで。
情けない。あんな化け物ごときに自由を封じられるなど、男の恥じ以外の何物でもないではないか。
しかし尋常ではありえないくらいに嫌な感じの汗が、至るところから吹き出しているのもまた事実なのである。
クロードのギリッと悔しげに歯を噛み締める音だけが、辺りに虚しく響いていった。
――絶対に許さない……
そんな憎しみとも怒りともつかぬ想いを胸に、リリアは首飾りを握りしめた。
「何をする気だ? まさか、この私をお前如きが本気で倒せるとでも思っているのか」
こんな自信に満ちた余裕綽々な態度さえ腹が立つ。
「そうよ。まだ、私が勝てないと決まったわけじゃないもの」
別に、強がりで言っているのではない。本当に、まだ勝負の行方は決まったわけなんかじゃないから。
リリアのすぐ足元には、後を追ってちょこちょこと駆けて来たシルフィーがおり、イリスに向けて勇敢にシャーッと威嚇しながら全身の羽毛を逆立てている。
リリアが頑張れるのは、こんなに小さな体をしていても少しも怯むことなく立ち向かいの姿勢を見せるシルフィーのおかげもあるかもしれない。少し、いやかなり心強いというものだから。
――ありがとシルフィー。私、頑張るからね。死んでいった里の仲間の為にも、ここで兄様を討つわ!
ふるふるとこの胸に込み上げてくるのは、揺らぐことのない決心。
思い起こされるのは、まだ自分が幼かった日におきた惨たらしい記憶。赤く血塗られたその中で、ひとり返り血に染まって狂気に顔を歪め狂ったように笑う兄――イリスの姿。
「力を貸してウンディーネ! イフリーティア!」
のどが枯れるんじゃないかと思うほどに精一杯の大声をはりあげ、これでもかというくらいに気持ちを込めて、リリアは詠唱歌を詠うために深く大きく息を吸い込んだ。
たとえここで命尽きてもかまわない。散っていった里の仲間の為、闇の精霊の殺気にあてられ動くことさえ叶わない仲間を守る為――――どうかあなた達上級精霊の力を私に貸し与えてちょうだい!
「――始まりは炎獄 駆け巡るは終告の荒神――」
どんなに大きな代価でも払う覚悟は決めている。上級精霊を二体いっぺんに呼びだして無事でいられるなんて甘い考えなどはもっていない。きっと、強大な精霊達の前では、膨大な聖力消費で力尽きる。
――それでも、いちかばちかでやらなくちゃ。ここで皆で死ぬわけにはいかないから。
「――生ける者には終焉を 在りし物には消滅を――」
さっきから叫んでばかりでバクバク暴れる心臓を無視して、まるで嵐の荒波のように詠われる炎の詠唱歌。イフリーティアの気性の荒さと共鳴するかのごとく、今まさにリリアの感情も沸騰して沸き立つ熱湯のように激しく、力強く。
「森羅万象――――」
しかし、その詠唱に突如として異変が起こった。
ぐらつく視界。全身に加わる急激な衝撃。そして、バチバチッと凄まじい火花を弾かせてリリアを拒絶した首飾りがこの目に入った。
今の一瞬でなにが起きたのか理解するまもなく、リリアは首飾りから生まれたかまいたちのようなその衝撃によって、遺跡の石柱に叩きつけられてしまった。
「――うっ」
リリアは身を庇うこともできずに、かはっと苦しげに咳き込み、そして祭壇へと続く階段の中腹あたりに力なく倒れてしまった。そのすぐ隣には、今まさにリリアがぶつかったことにより、窪んでパリパリと破片が崩れる石柱。その窪み具合から察して、今の衝撃がどれほど強いものであったかがよくわかった。
「ど……して」
全身を駆け巡る激痛に、身体を起こそうにも力が入らない。わずかに動く指さえ、ふるふると力なく震える程度。首に掛けていたため一緒についてきた首飾りは、無残にピシッと亀裂が入っていて。
――どうして……どうして……
こんな想いばかりが、あふれる。
――なんで……力を貸してくれないの――…………?
まるで、それまで仲間だと信じていたものから、あっさりと裏切られたようなこの感覚。
ぽっかりと、黒い穴が開いたような、それでいて寂しい気持ち。
何がいけなかったのだろう、何が足りなかったというのだろう……解らない。
(お願いよ……ウンディーネ……あなただけでいいから、もう一度、もう一度力を貸して……)
すがる思いで、震える手で、もう一度首飾りをきゅっと握った。しかし、首飾りからは何の光も呼びかけに対する返答もなく、なんとも無情な現実を突きつけるだけであった。
「フン。己の力量もわからずに愚かな真似などするからこうなるのだ。首飾りに頼ってしか精霊を召喚することのできないお前に、いつ何時も精霊(奴ら)が力を貸すという浅はかな考えは捨てろ」
どこまでも冷たく吐き捨てられたイリスの言葉が、真実味を帯びているからだろうか、よけいに心に突き刺さる。
――……わかってる……本当はそんなこと、自分でもわかってる……
所詮自分は、出来損ない、だってことぐらい。
悔しかった、悲しかった、辛かった。
「ぅ……うぅ……っく」
頬を伝い、とうとう悔し涙があふれだした。絶対、イリス(この人)の前では見せたくなかった涙が、止まらない……止まってくれない。
“あの時”も、殺されてゆく仲間を前に、こうして泣くことしかできなかった。
――くやしい……くやしい……
絶望が荒波のようにこの脆い心に押し寄せてきて、勇気も、威勢も、希望すらも梳ってさらっていくみたいに。
瞳からこぼれ落ちる大粒のしょっぱい雫は、悔しさの結晶。ふるふると噛み締めた唇を濡らしては、ぴちょんととても小さな音を奏でて地べたの石階段に吸収されていく。
(ごめんねみんな……もう……終わりかもしれない……)
そっと祭壇の上に視線を流せば、そこには同じように悔しさに涙をこらえるクロードとゼル。大切な仲間が、旅の途中で出会った、かけがえのない仲間がいた。
必死に金縛りにあう体を動かそうとしているのが、ここからでもわかった。その証拠に、二人の握り締められた拳からは、ポタポタと赤の雫が滴っていたから。
(ごめん……ごめんね)
――巻き込んでごめんね。自分と出会わなければ、きっとあの二人には違う人生が待っていたはず。申し訳ない気持ちでいっぱいで、何度も心の中でごめんねとつぶやいた。
ザクザクと足音が近づいて来るのが聞こえる。ドクドクと心臓が鼓動をうつのが聴こえる。
「もうそろそろ終わりにしよう」
階段を上がり、いつの間にかすぐ傍まで歩み寄ってきたイリスの声が、あの時と同じように繰り返される。
「安心しろ。妹であるお前に免じて、そこの腰抜け共も一瞬で葬り去ってやろうではないか」
「……ぅぐ」
首を片手で掴まれ、軽々と天に向かって持ち上げられた。きりきりと締め付けられる喉元に、呼吸を求めて喘ぐが、空気が肺に送られてくることはなかった。
――とうとう……殺されるんだわ
締め上げてくるイリスの腕を掴んで抵抗を試みてみたが、それは無意味だった。
苦しい。苦しい。苦しい。早く楽にさせて。
――お……願い……早く……殺して……よ
「ディアボロス様はお前を捕らえるようジュリアに命じていたようだが……そのような価値など皆目お前にはない。黒エルフ共は、私の手で地獄から引きずり出してやろう」
「あな……た……も……同じ…………じゃ……ない……っ」
黒エルフを自由にするなんて、女王様がお許しになるはずなどない。そしてイリス自ら黒エルフを解放しに向かうなど、それこそ自殺行為にしかならないでしょうに。
リリアの途切れ途切れに搾りだされた言葉に、イリスの表情が一変した。それまでの殺戮に快感を感じているようなものではなく、とても冷たく、それでいて見た者に心臓に突き刺さるような恐怖感を与えるものへと。
「……黙れ小娘」
「……っぁ……」
声の低さが、漂う怒気が、手に込められた力が、イリスの心情を物語っていた。キーキーと喚きながら小さな牙をたてて足に噛み付くシルフィーを、イリスは容赦なく蹴り飛ばし、そして空にいる闇の精霊へと余ったもう片方の手で合図をあげた。
喉が潰れそう。本当にもう終わりだ。闇の精霊の攻撃で跡形も残らずに消滅するのと、兄様の手で殺されるのは……どちらが先かしら。なんてことをふと思いながら、リリアは観念して静かに瞼をおろした。 |