第十七章 グーガル
――ステラが泣いていた。泣かせたのは、他ならぬ自分だ。
アーヴィンの声を跳ね除けるように、ステラは背を向けて出て行った。「さよなら」という一言を残して。
「あーらら。あの子、怒っていっちゃった。ざまぁないわぁ」
今の今までステラともめ、この場をめちゃくちゃに乱した張本人の女は、全く悪びれた様子もなしにクスクスと笑っている。
そして、おもむろにアーヴィンの身体に体重を掛けると、媚びるように寄りかかってきた。
蛇みたく腕を絡め、細長い指先を、アーヴィンの意外と筋肉質な胸元から股間あたりに滑らす。
「ねぇ……邪魔者もいなくなったことだしぃ、昨日の続きやりましょうよ。あなた、お上手なんですもの。あの快感、クセになっちゃう」
妖艶に撫で回しながら女は言葉を続ける。
「それにぃ、あなたと私、もの凄くセックスの相性がいいんですもの」
ご存知? とつぶやき、そして薄っすらと口角を上げると、挑発するかのような視線でアーヴィンを見つめた。
「離れてくれないか」
アーヴィンは、絡み付いていた女の手首を掴む。
「え……ちょっと、やっだぁ。そんなに恐い顔し――」
「離れろといっているのが、分からないのか」
アーヴィンは、女を冷めた目つきで睨むように一瞥した。
今までの甘くやさしげな印象からは想像もつかないほどに冷えきったその視線。トーンの下がった声色。
恐怖を感じたのか、女はビクリと肩を震わせ硬直する。
――昨日の続き? そんなもの、独りでやっていなよ。
アーヴィンは未だ絡みつく女の腕を解くと、女には目もくれずにカウンターへと向かった。
店のオーナーや周りの客の視線が、アーヴィンに合わせて動いていく。そんな視線などお構いなしに、アーヴィンは懐から金貨を数枚掴み取り、無造作にカウンターへと置いた。
「お釣りはいらないから」
――騒がせてしまったことだし。
オーナーは慌てて金貨をかき集めると、去っていくアーヴィンの背中と金貨をオロオロと交互に見やった。なぜなら、店で一番高額な品がゆうに五皿は食べれるほどの大金だったからだ。
「ま、またのお越しを〜」
最後の方は上擦ってひっくり返ったらしい。
「……ステラ」
切なく苦しげにつぶやくと、アーヴィンはやりきれずに壁を叩いた。胸を絞めつけるこの想いが、増幅する。
最初にステラが女に向かって手をあげたとはいえ、仕掛けたのは女の方だった。
女にぶたれたステラが爆発して、もう一度、今度は本気で女を殴ろうとしていたので、アーヴィンはついステラの頬を叩いてしまったのだ。いくら軽くだったとはいえ、ステラを叩いたことには変わりない。
きっとステラには軽蔑されただろう。傷つけただろう。本当なら、今すぐ追いかけて引き止めて、愛しているのはお前だけだと伝えたい。でも、それは出来ない。しては、ならない。
「“さよなら”なんて……言わないでおくれ」
“さよなら”というステラの口から紡ぎだされた言葉が、アーヴィンの胸に深く突き刺さる。
この身にどんな苦痛を受けるよりも、はるかにショックだった。
「なあステラ。僕はどうしたらいいかな……」
――わからない。もう、わからない。
ステラを永遠に自分の傍に置いておきたいという反面、ステラの為にもこのまま別々の道を歩んだ方がいいのか、そんな想いが入り乱れてごちゃごちゃになる。
自分という存在は、この先ステラにとってただの重荷にしかならないのだから。決して、男と女として交わることはないだろう。自分が普通の人間じゃない以上、それは出来ないのだ。本当に愛しているからこそ、ステラを穢すような行為はしてはならない。ずっと、そう自分に言い聞かせてきた。
「僕が“グーガル”じゃなかったなら、君をこんなにも傷つけたりはしないのに……ごめんよ」
ステラの自分に対する気持ちには、実はずっと前から気付いていた。でも、気付かないフリを貫き通してきたのだった。
ステラを手放したくはないが、人の一生というものは短い。ステラもいずれは、誰かと子孫を残さなければならない。しかし、それは自分じゃない。ステラは、他の誰か、自分以外の普通の人間と幸せになるべきなのだ。その方が、ステラの為でもある。
――グーガル。忌々しい血め。
“グーガル”という響きが、これでもかというくらいにアーヴィンを苦しめる。
魔物の子、グーガル。グーガルとは、半人半魔。つまり、人間と魔物の間に生まれた子供のことだ。
そのなりは多種多様。多くは人型か魔物型の一方に分かれるが、アーヴィンもまた前者の人型のなりをしている。というよりも、アーヴィンの場合は外見上どこからどう見ても人間のそれ。おまけに美形。だから半人半魔というほうが信じられないだろう。
しかし事実は事実。ただ、父親である魔物というのが、人型の、それも気性の穏やかな種族だったというだけ。
まあ、それでも自分のなかに魔物の血が流れていることには変わりない。
両親を魔物に殺されてしまったステラに、真実を伝える勇気など、アーヴィンにはなかった。
もし本当のことをステラに伝えてしまったら? 僕はグーガルなんだ、と明かしてしまったら?
ステラが自分の傍から離れていきそうで、嫌われてしまいそうで、ものすごく恐かったのだ。
だから、9年間一度も言い出せなかった。ひた隠しに、秘密にしてきたのだ。
しかし、さっきステラに“さよなら”と言われて、ひとつだけわかった事がある。それは――――
「それでも、僕は君を……失いたくない」
これは自分勝手な我が儘だとわかっている。けど、このままさよならなんて、できるはずがない。
ステラを探そう。嫌われてしまってもかまわない。真実を話すにしろなんにしろ、とにかく今ステラを失うことだけは嫌だ。
アーヴィンは急いで宿屋に引き返した。
途中、花屋の前で綺麗に咲き誇る花々が風に揺れていたが、目もくれずに走り過ぎた。
薄暗い裏路地がぽっかり口をあけていたが、気付くことなく通り過ぎた。
「ステラ!」
宿に戻り、ステラの部屋の扉を開くなり、アーヴィンは叫んだ。
しかし、そこにステラの姿はなく、代わりに整頓されたシーツや布団がベッドの上に置かれているだけだった。
「はあ…はあ…、いない」
ステラの荷物はある。どうやら、まだここには戻ってきていないようだ。
安堵のため息を吐き、アーヴィンは壁に寄りかかった。ひとまず、荷物がある以上、ステラがここに帰ってくる可能性は高いだろう。
その時、廊下で足音がした。音は、ここへ向かって来ているようだ。ステラだろうか。
しかし、アーヴィンの期待は大きくはずれることとなった。
「あれ? アーヴィン?」
「リリアちゃん」
部屋に入ってきたのは、リリアだったのだ。ということは、彼女が部屋を綺麗にしてくれたのか。
「ステラさんはどうしたの? 一緒に出かけたんじゃ――」
言いかけて、リリアは口をつぐんだ。
「まさか、また喧嘩?」
「うーん。そのまさかかな」
アーヴィンは困ったように笑ってみせると、呆れた表情のリリアにひとつ頼みごとをした。
「リリアちゃん、ひとつ頼まれてくれないかな?」
「え? えぇ、いいけど」
「それじゃあ、もしステラが帰ってきたら引き止めておいてくれ。僕が戻るまで、必ずだよ」
言うや否や、リリアの訝しげな視線を背に受けながら、アーヴィンは宿から飛びだし、元来た道を辿りだした。
もしかしたら、ステラをどこかで追い抜いてしまったのかもしれない。
そう思い、今度は注意深く確認しながら先程の飲食店まで戻ってみたものの、やはりそれらしき人物は見あたらなかった。
「まいったな。ステラはどこにいることやら」
頭を抱えて考え込む。そういえば、喧嘩した時によくステラが行くような場所の心当たりが、一カ所だけあった。
「――花」
花といえば、花屋だ。往復で二回は前を通ってきたが、念のためにもう一度探しに行こう。
――そこに居てくれ。
アーヴィンは祈る気持ちで花屋を目指した。
(…………)
ぼんやりと意識が戻り、はじめに視界に入ったのは、煤けて古びた天井だった。
(……ここ……どこだろ……?)
ステラは未だにおぼつかない意識の中で、考えた。でも、さっぱり心当たりがない。
横たわったままではあれだ。とにかく起き上がろう。と、力を入れてみるが、なぜだか動かない。いや、動けないのだ。
「ちょ……何これ」
手首に違和感を覚え、顔だけを上にそらすと、とんでもない光景が視界に映った。
自分の両手首が頭上でしっかりと、愛用の皮製ムチで拘束されているのだ。――痛い。
そして、体を捩るたびにギシギシ音を立てるそこは、たしかに白いベッドの上。すこし埃臭い。
ここでようやく、自分がアーヴィン似の男に拉致されたのだと悟った。
サァーーっと、血の気が引くのがわかった。――まさかまさかまさか。
慌てて頭を持ち上げ自分の身体を確認してみると、着衣の乱れは無く、そこはひとまずホッと安堵の息を吐く。よかった。まだ手はつけられていないようだ。
部屋は狭く古ぼけており、ここ数年間使用されていない感が否めない。天井や部屋の隅にいたっては、蜘蛛の巣がはられているし。
「おや。気が付いたみたいだね」
そこへ、木製のドアがギィ……と開き、続けてあの忌々しい男の声が降りかかった。
「――っ。あたしをどうする気だ」
犬が噛み付くような勢いでステラが男を睨むと、男は顔に歪んだ微笑みを浮かべ、ステラの耳元でささやいた。
「どうって。いいこと……だよ」
ゾクリ。――ヤバい。
嫌な汗がステラの背中を流れた。もの凄く身の危険を感じずにはいられない。――とにかく、どうにかしてこいつから逃げなくては。
しかし頭では理解できるものの、それを実行する身体が拘束された状況では、どうすることもできない。唯一自由なのは、両足。これでもかって程、蹴りを入れてやるが、その両足さえも軽々と掴まれた。
「ふふっ。いいねぇその顔……そそるよ」
「っふざけるな! あたしに指一本触れてみろ、そん時ゃお前の指ごと食い千切ってやる!」
「おぉ怖い怖い。でもね、その威勢がいったいどれくらい続くかなぁ? あぁ、楽しみ。君のその声が、熱を帯びて快楽に変わるのも、もうすぐそこだよ……」
「黙れ!」
「そして君は、必ず僕を求めるのさ」
――くやしい。どうしてこんな男に……。
ニヤつく男の顔を、こうして怒りの眼差しで睨むことしかできない。しかしそれさえ男を喜ばせる材料にしかならなくて。
(……ちくしょ)
――ギシッ。ベッドが軋む音と共に、男の身体がステラの華奢な身体に跨った。 |