第十六章 危機の予感
途中で人にぶつかろうが石段につま先を取られようが転ぼうが、ステラはあてもなく走り続けた。大声で泣こうがなんだろうが、もうどうでもよかった。
ようやく、ステラが足を止めたのは、小さな花屋の前だった。いつも、アーヴィンと喧嘩した時は、よく花を見て癒されていたものだ。
ステラは花屋の前の建物の壁にそっと体をあずけた。壁のひんやり冷たい感触が、肩で息する背中を撫でる。
はあはあと荒い呼吸を落ち着けながら、ステラは瞼を閉じた。
空はすっきりと澄んでいるのに、心の中は荒れ模様。
風は心地よいのに、今はそれさえ鬱陶しい。
子供達の声は楽しげなのに、今の自分は沈んでいる。
「これから……どうしよ」
ステラは、路地の壁に寄りかかったまま、大きくはあっと息を吐いた。
だんだんと冷静になってくると、自分がいかに馬鹿な真似をしたのかが痛感させられる。
(アーヴィン……困っただろうなぁ)
こんなつもりじゃなかったのに。本当なら、この後アーヴィンとゆっくり町を歩いて回ろうと思っていたのに。いっぱい、いろんな話しをして、クロード達とも旅の土産話をして、それからそれから――
いくら考えても、後の祭り。その場の勢いだったとしても、自分から「さよなら」を告げてきたではないか。
どうせなら、好きでしたの一言でも伝えて来れば良かったかもしれない。もう、どの道アーヴィンを困らせてしまったのだし、同じ困らせるでも、それならば、まだ気持ちを伝えた方がずいぶんとマシだったろう。
「こんな別れ方するなんて……あたしは本当に馬鹿だ」
ステラは弱々しく笑った。でも、いくら笑おうとしても涙は止まってはくれなかった。アーヴィンの顔を思い出したら、こらえていたはずの感情が、再びドッと押し寄せてきた。
「ふ……ぅ……うっ…ぅ…くっ……」
――もう、元には戻れない。
後悔だけが、ステラの心に大きな水溜りとして残っていった。
リリアには、『――たとえ女として見られてなくてもいいから、あたしはアーヴィンの一番近くに居たい』なんて言ったけど、でも。
「やっぱりそんなの……つらいよ……」
そう。胸が引き裂けてしまいそうなほど、辛くて悲しくて切なくて。
それでも、ステラの中に“アーヴィンの元に帰る”なんていう選択肢はなかった。「さよなら」を告げた以上、ちっぽけなプライドがそれを許さなかったのだ。ほんと、つくづく情けない。
アーヴィンと共に歩んで来た9年間。いつも穏やかでやさしかったアーヴィン。その甘い微笑に何度心ときめかせたことか。よく頭を撫でてくれたし、些細なことでしょっちゅう喧嘩もした。ほとんどアーヴィンが折れ、最終的には丸く収まったのだが。
そんな思い出ばかりが、走馬灯のように浮かんでは霧のように霞んでいった。
神様は、どうして自分をこんなのに造ったのだろう。もっと、大人っぽくて胸も大きくて、女らしく造ってくれなかったんだろう。どうして、こんなに素直じゃなくひん曲がった女にしたのだろう。もっと女らしかったら、そうしたら、隠すことなく自信をもってアーヴィンに気持ちを伝えられただろうか。幸せな日々が、まっていただろうか。
ステラはぼんやりとした様子で、目の前に並べられた色鮮やかな花を眺めた。ただ、何をするでもなく、懸命に咲く花々を見つめていた。
綺麗。いつもなら、きっとこんな感情がわき起こるだろう。だけれど、土砂降りの後のステラの心には、まるで意味を成さなかった。せめて、分厚い雲が晴れて虹がでてくれたら、どんなに楽だろうか。
「ほんと……可愛くないなぁ、あたし」
ポツリ。自嘲の意を込めてつぶやいた言葉。独り言のつもりだったのに、意外や意外。返答が返ってきた。
「そんなことないよ。君はこんなに可愛いのに。泣いちゃってどうしたの、僕がなぐさめてあげるよ。だから泣かないで。ね?」
ガラス細工を扱うみたいにやさしい声色。
声をかけてきたのは、人がとても良さそうな男だった。どことなく、目の垂れ下がり具合や茶色の髪が、アーヴィンに似ていた。
男はステラに歩み寄ると、穏やかに微笑みかけ、そして肩を抱いてきた。なんて馴れ馴れしい男。そう思いつつも、ステラは拒絶しなかった。男の穏やかな微笑みの中に、アーヴィンの面影を見ていたから。
「ねぇ、君を泣かせるような男はもうやめなよ。僕が、全部忘れさせてあげるから」
そうささやいて、男は肩を抱いたままステラを裏路地へと誘導した。薄暗い裏路地。ステラのこめかみを冷や汗が一筋流れる。
「僕なら、君を泣かせたりなんかしないよ」
耳元でくすぐる男の甘い声。吐息。甘い瞳。体躯の芯が、しびれる。
だが、その瞳には黒い何かが感じられた。危険な香りがする。――こいつは、危ない。
身の危険を悟ったステラは、この時はじめて身を捩って男の腕から逃れようと試みた。体中に、危険警戒信号が鳴り響いている。
「させないよ」
今までのやさしい微笑みはどこへ消え去ったのか。男は両腕で力強くステラを拘束すると、ざらついた舌で耳たぶを舐めた。
「――ひゃ、ん!」
あまりの気持ち悪さに、叫ぼうと声をふりしぼったステラだったが、声を出す前に白い布で口と鼻をいっぺんに塞がれてしまった。
(くるしい……!)
足で反撃しようにも、どうにもできない状況。男の力というものは恐ろしいもので、女の、それも体の小柄なステラが敵うはずもなかった。
最後の抵抗。ステラは腰に掛けていた愛用の皮製ムチに手をかけた。本来ムチは遠距離用のもの。でも、この際仕方ない。
「おっと、いけない子だねぇ。お仕置き」
ニヤリと口の端を吊り上げ、男はステラの細く白い首筋に歯を食い込ませた。
激痛が、ステラを襲う。暴れようにも、体が動かない。涙が、こぼれた。
なぜかしだいに意識が遠のいている感覚にみまわれ、激痛も鈍い痛みに変わりだす。
(助…けて……ア……ヴィ…ン)
ガクン。ステラの全身から力が抜け、やがて、そこで意識がプツンと途切れた。 |